2024年12月30日 (月)

人材不足-現場からの雑感

2024年も間もなく終わろうとしている。

私が開業する準備に取り掛かっていた2000年末、自分自身が飛躍することへのワクワク感はもちろんだが、開始して間もない介護保険制度に対する期待も少なからず抱いていた。

あれから24年。四半世紀に近付こうとしているいま、その期待はなく、この制度の現実に対する大きな不安が目の前に横たわっている。

11月の時点で、介護事業者の倒産が過去最多になったと、メディアでもしきりに報じられた。訪問介護では介護報酬引き下げを契機とした単体での営業継続困難があり、通所介護や短期入所生活介護などを含めると、競争で大手事業者に敗れた中小事業者の撤退などが、おもな理由とされている。他方で、業務の担い手の減少により、退職者が出ても新規職員を採用できず、廃業のやむなしに至った事例も報告されている。

現場ではより強く体感するのが、年々深刻になる業界全体の人材不足である。

私個人の実感としては、〔全国的にも同様だが、〕当地の業界で最も不足しているのがホームヘルパー(訪問介護員)、次いでケアマネジャー(介護支援専門員)であろう。

前者については、事業所によって温度差がある。零細でも堅実な組織経営を行い、職員が働きやすい職場は、複数の責任者級の職員が中心となって長く続いており、〔将来はともかく〕当面は安定感がある。そうとは言い難い事業所では人員不足が起き、「以前は週N回行けていたけれど、今後は一回減らしてください」などと要請してくるところもある(…だからと言って代わりの事業所を探すのにも苦労するので、利用者さん側に大きな不便がない限り、なるべく同じ事業所で続けてもらうように努めている)。

後者については、自分自身がケアマネジャーであるだけに、身をもって痛感している。

2024toshikoshi

この数年間を顧みると、他の居宅介護支援事業所で誰かが退職した場合、地域包括支援センターが後任を探すのが難しく、私に担当を依頼してきた事例が相当数存在するのだ。

居宅介護支援および介護予防支援の契約者の中で、2018年は14人中4人、2019年は5人中1人、2020-21年は6人中1人、2022年は19人中11人、2023年は9人中1人、2024年は7人中2人。実に7年間で60人中20人! 新規利用者さんの三分の一は、「後釜のケアマネジャーがいないので担当してくれ!」という状況で、直接もしくは地域包括支援センターの仲介により、仕事を譲ってもらった「引き継ぎケース」なのだ。

私のような六十代半ばの一人親方であっても頼りにしていただけること自体は、ありがたい話ではある。しかし、これは前任者の職場で、ケアマネジャー(有資格者)の人事異動や募集による新規採用が難しかったことを意味している。そう考えると、先行きが不安にならざるを得ない。

当然、私自身もいずれは引退するときが来る(後継者が見付かるかどうかはわからない)。そのときに、果たして自分の現利用者さんたちを引き受けてくれる居宅介護支援事業所があるのだろうか? 幸い、利用者さんの居住地域がかなり分散しているので、少人数ずつ振り分けて依頼すれば何とかなるだろうとは見込んでいるが。

多くの論者からは、処遇改善加算の欠如(今年の改定により介護報酬は少し上昇したが、物価高には全く追い付く金額ではない)、シャドウワーク(無報酬でやらざるを得ない業務)の増加、本来業務におけるルールの煩雑化、更新研修受講の負担(受講費用の金銭的負担、事例準備の労力負担、補講が無いことによる欠席の困難さ=「病気にもかかれない」、etc.)などが原因として挙げられている。これらが影響して、ケアマネジャーから離職する人数が新たに就任する人数を上回っていることが、人材不足を招いていると評されている。現場の人間としては、確かにその通りだと思う。

(なお、ケアマネジャーにとって更新研修そのものは必要だと私は理解している。ただし、上記のさまざまな負担や、一部の団体・企業・研究者の利権が絡む点については、是正しなければならないとの意見である。真にケアマネジャーのための更新研修になっていない面が大きい)

この状況を改善するには、国の抜本的な改革を待つしかないのだが、財務省や厚生労働省で開かれている審議会・委員会・検討会等の結果を見聞きする限り、的外れな意見の応酬ばかりで、現場から見るとほとんど期待できない。私も間もなく高齢者になるのだが、私の予防プランやケアプランを作成してくれるケアマネジャーは登場するのか?

それを心配してもしかたがないので(笑)、今夜はいただきもののワインで自作の夕食を賞味しながら、一年を振り返ることにしよう。

2024年11月30日 (土)

主役はあなたではない

先般実施された兵庫県知事選挙について、当選した知事の広報戦略全般を担ったと称するPR会社の社長が公開した内容が、物議を醸しており、公職選挙法に違反するのではないかとの疑惑も噴出している。

公選法云々はともかく、この社長はプロフェッショナルとして失格である。

その理由は、クライエント(ビジネスでは「クライアント」と表現することが多い)の内情を、かなり具体的な内容に至るまで開示してしまっているからだ。

記述の内容次第だが、守秘義務違反に当たる可能性もある。

私たちケアマネジャーの場合であれば、クライエントである利用者の尊厳を守り、より望ましい主体的な生活を実現させるため、地域資源を組み合わせて最善の支援体制を構築するのが仕事である。もし、ケアマネジャーが主役である利用者を差し置いて、「オレ(アタシ)が○○さんを支援したから、○○さんはこんなに活き活きと暮らせるようになったんだ!」と前面にしゃしゃり出たとしたら、これは側面的支援を職能とするプロのケアマネジャーとして失格である。加えて、個人情報の目的外使用にも当たるものであり、専門職として踏むべき規範を逸脱している。
(利用者や家族の同意を得て、匿名の状態にしてから研修の場などで発表する場合など、例外もある)

PR会社がどこまで有償で働き、どこからは無償で働いたかは、(公選法に抵触しない限り)大きな問題ではない。対価をもらった場合であれ、ボランティアとして働いた場合であれ、今回支持した候補(知事)の選挙戦略をめぐる情報は、いわば陣営の内部情報であり、個人や個別の会社の了見で開示して良いものではない。この記載内容ほどあからさまに経過を語れば、法的な問題がなくても、陣営の機密情報に触れる可能性が強いからだ。同社長が経過を開示した行為は、戦略担当としての本分にも背く行為であろう。

一言で表現すれば、本来は黒子に徹しなければならない人(企業)が、調子に乗って主役の位置にしゃしゃり出ようとした末路であろうか。主役はあなたではないと、誰かが忠告してあげられなかったのか?

私たちも、これを他山の石として学ぶべきだと考える。

2024年8月25日 (日)

開業23年で思うこと

この8月17日で、私がケアマネジャーとして開業してから23年となった。

つい先年、店開きしたかと思っていたのに、時が経つのは早いもので、間もなく「四半世紀」に近付こうとしている。

長続きできた最大の要因は、大病や大きな事故に遭わなかったことだろう。後者の「ヒヤリハット」はときどきあったものの、幸いに難を免れ、23年間おおむね健康で過ごすことができた。

また、多くの業界仲間に助けられたことも大きい。勤務先法人・組織の背景がない一人親方であっても、多くの業界人は私が仕事に向き合う姿勢を正当に評価してくれ、パートナーとして適切な応接をしてくれた。ケアマネジャーは一人で成り立たない仕事であり、利用者の活き活きとした生活のためには良きチームが不可欠だ。少なからぬ事業所が、私のケアマネジメントに協力して、利用者に良質なサービスを提供し、チーム内で連携してくれた。

それらの業界仲間には、深甚なる感謝の意を表したい。

さて、最近はケアマネジャー人口の減少と高齢化が課題になっている。理由はいろいろ考えられるが、一言でまとめると「労多くして功少なし」であろう。本来業務がどんどん煩雑になるのに介護報酬がわずかしか上がらない。シャドウワークが求められるのに、その対価が評価されない。

勤務ケアマネジャーにとっては、「稼げない」部署になっているから、法人の中で肩身の狭い思いをしなければならない。資格を更新するため、傷病や葬祭を措いても研修に出席しなければならない。独立型のケアマネジャーにとっては、がんばっても生活が好くならないどころか、物価高に見合って報酬が上昇していないから、かえってワーキングプアに陥ってしまう。

厚生労働省が有効な対策を採らなければ、ただでさえ人手不足の介護業界で、ケアマネジャーの減少には歯止めが掛からないことは一目瞭然だ。

このような状況下であるから、私自身はまだまだ仕事を続けていくつもりである。私も来年度には主任介護支援専門員の更新研修を受講しなければならないので、そこで更新してから(有効期間の)五年間、2030年の途中までは現役でありたいものだ。

そのために、今後は一層の健康管理に留意したいと思う。

2024年7月29日 (月)

ワーグナー楽劇の面白さ(12)

最近、歌劇や楽劇を劇場まで鑑賞に行くことがほぼなくなった。長時間の座位が厳しくなったことや、予算の不足がおもな原因である。

そのため、ワーグナーの楽劇もヴェルディの歌劇も、もっぱら自宅でDVDやBDを視聴している。

さて、ワーグナーは1843年の「さまよえるオランダ人」以降が一般的に上演されるが、それより前の歌劇がいわば「助走時代」の作品として注目されることが少なくない。

1836年初演の「恋はご法度(かつては「恋愛禁制」と訳されていた)」。16世紀のシチリアを舞台に、「男女の恋愛を禁じる」というトンデモ法令を発布したドイツ人の総督を、市民たちがカーニバルでコテンパンにやっつけるドタバタ喜劇。このあとワーグナーが「喜劇」を作ったのは「ニュルンベルクノマイスタージンガー」だけであるから、貴重な作品なのだ。画像のBDは2016年マドリード版で、舞台はすっかり現代のシチリアに移され、登場人物はみなスマホを駆使している。

Liebesverbot

また、1842年初演の「リエンツィ」は初期の大作だ。14世紀のローマに実在した執政官コーラ‐ディ‐リエンツォをモデルにした作品で、省略しなければ5時間に及ぶ長編歌劇。これまで失意の無名作曲家だったワーグナーが一世を風靡する契機になった出世作だが、人物の内面にあまり立ち入らない内容だったため、ワーグナー自身が後にこの作品を気に入らなくなってしまった。画像のDVDは2012年トゥールーズ版。登場人物がみな顔を白塗りにしている演出が面白い。

Rienzi

私はかつて、「恋はご法度」を東京グローブ座で、「リエンツィ」を藤沢市民オペラで鑑賞した。いずれも「本邦舞台初演」の価値ある上演である。前者はオーソドックスな演出だったが、コミカルな要素をふんだんに詰め込んだ名演。後者は市民オペラで歌唱も日本語だったが、ソリストはみなプロの声楽家であり、全体として精度の高い舞台であったと記憶している。

この二作品をじっくり味わってから、「オランダ人」以降の作品を順番に鑑賞し、ワーグナーの歩みを追ってみたい。

2024年6月23日 (日)

記憶/記銘力の自己診断(?)

加齢とともに、ものごとを覚える力が弱くなっているのを実感する。

私は戦国期から江戸期の史書を長年読み慣れてきたので、元号(年号)と西暦との対照をどこまで諳(そら)んじられるか、ときどき実験している。確か5年前は宝暦まで、3年前は寛文まで、1年前は天文(てんぶん)まででストップした。それでも、だんだん古い時代へさかのぼっているのに気を良くして、四回目の挑戦(数か月前、眠れない夜に頭の中でたどってみて、「明徳」までおおむね正しく言えたことがある)。

令和元年が2019年、平成元年が1989年、昭和1926、大正1912、明治1868、慶応1865、元治1864、文久1861、万延1860、安政1854、嘉永1848、弘化1844、天保1830、文政1818、文化1804、享和1801。

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寛政1789、天明1781、安永1772、明和1764、宝暦1751、寛延1748、延享1744、寛保1741、元文1736、享保1716、正徳1711、宝永1704。

元禄1688、貞享1684、天和1681、延宝1673、寛文1661、万治1658、明暦1655、承応1652、慶安1648、正保1644、寛永1624、元和1615。

慶長1596、文禄1592、天正1573、元亀1570、永禄1558、弘治1555、天文1532、享禄1528、大永1521、永正1504、文亀1501。

明応1492、延徳1489、長享1487、文明1469、応仁1467、文正1466、寛正1460、長禄1457、康正1455、享徳1452、宝徳1449、文安1444、嘉吉1441、永享1429、正長1428。

そして応永1394、明徳1390。

昨夜のうちにここまで書き込み、一晩経って再度点検した結果、打ち間違いを二箇所ほど発見して訂正。

さて、ここで初めて辞典(画像)を開いて正誤を確認。

パーフェクトでした!!!\(^o^)/

ただし、「長禄」のところは「長徳(実は平安朝の年号)」だったかも?と迷ったので、「薄氷の勝利」かも知れない(^^; それでも、記憶力(かつて覚えたことを忘れない力。慶長とか元禄とか、頻繁に使っていた年号の場合)・記銘力(新たに覚えたことを忘れない力。今回の挑戦のために覚えた、なじみのなかった年号の場合)とも、まずまず合格点だと言えよう。

また、明徳の前は年号が南北朝の二つに分かれて、両方のルートをたどって覚えるのはたいへん面倒になるため、これ以上さかのぼる挑戦はしないつもりだ。今回のところで打ち止めとして、今後も忘れないようにすることが課題になる。

私と同年代(60代前半)の方には、ご自分が趣味にしている分野の事物を用いて、同様な「脳トレ」をやってみることをお勧めしたい。

2024年5月12日 (日)

母の日に当たって

きょうは5月の第二日曜日なので、母の日に当たる。

私の母が91歳で帰天したのは2018年3月5日。先々月に6周年(仏教でいう七回忌)を迎えた。

自分自身がずっと未婚で生活してきたことから、「母」と言えば亡き母が唯一の存在になっている。帰天後6年経ってもその存在感は大きい。いまの自宅を手に入れることができたのも、母が懸命に節約して資金を貯めてくれたからこそであるし、何よりも私が出掛けている間、家の留守を預ってくれていたことが、安心して仕事ができる大きな支えであった。

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晩年には家事の多くを私が担うようになり、さらに要介護の状態にもなったので自分がケアプランを作成したが、実質的には画像の縫いぐるみのように、私が母の背中に乗っかって生きてきたんだなぁ、と強く実感する。

帰天した後も、母が遺してくれた年金を頼りに車を購入し、家の門扉も取り替えることができた。母がいなかったら現在の仕事も生活も維持していくのが困難だったことは確かである。

その意味で、改めて母には心からの感謝を捧げたい。

さて、自分自身は子育ても孫育てもしていないが、これから先の老後、誰かのお世話にならなければならないことは確かである。兄弟姉妹がおらず、いとこたちも他県に住んでいるから、何か起きたときに最低限の対応程度は頼めるとしても、全面的に後始末をしてもらうことが難しい。

そこで、自分がしてこなかったことへの一つの償いとして、地域の児童支援に協力できないか、検討してみたいと思う。そのような中で、家や土地の行く末を託すことができる人が現れるかも知れない。

父親にはなれなかったが、何か役に立つものを後世へ残したいものである。

2024年4月17日 (水)

少年少女をいじめてそんなに楽しいのか?

もう十年以上も前のこと。ネットで検索していたら、いくつかの自治体に「児童虐待マニュアル」なる文書が存在することが判明し、失笑したことがある。

もちろん、これらは「児童虐待防止マニュアル」を誤って省略してしまったものだろうから、当該自治体が「地元の憎たらしいガキをボコボコにしてやろう」と意図したものでは全くない。

しかし、複数の場で心ない大人たちが、ネットのコメント欄で十五歳ぐらいの児童を叩いているのを見ると、ホンモノの「児童虐待マニュアル」が存在するのだろうか? と疑いたくなる。

かつて「不登校ユーチューバー」として知られた「ゆたぼん」君が、先日、高校を受験して不合格だったことを公表した。

「ゆたぼん」君と言えば、不登校時代は父親の教育方針に合わせてパフォーマンスをしている感が強く、ユーチューブの動画に対してアンチは多かった。確かに、小学校の卒業証書を破り捨てる動画などは、私自身も好きではないが、父親と行動を共にすることが多かったので、その影響も強かったと推察される。その後、父親と距離を置くことを宣言して、Xなどで主体的な発信を始めたことにより、世間からの好感度が増した。今回の不合格について、当人は落胆するも次は高卒認定試験を目指すとしている。

ネットでの反応は、多くは好意的なコメントであり(父親に対してはみな批判的だが)、これを貴重な経験として成長してほしい、という方向性の意見が主流であったが、少数ながら彼を誹謗中傷するコメントがあった。特に私が記憶している、彼を世間の見せしめであるかのように評したコメント(例;「好き勝手なことをしていたから失敗する。みんなが反面教師にする好例だ」)などは常軌を逸している。彼は十五歳の少年であり、多感な年代だ。せっかく新たな気持ちで体勢を立て直そうとしている矢先に、攻撃的なコメント(彼の将来を思って冷静に評した厳しいコメントとは異なる)を投げ付ければ、再起を志す当人の心を傷付けるだけだ。「ゆたぼん」君が登場するだけで叩きたくてうずうずしている大人がいるとしたら、その人のほうがずっと幼稚であろう。

別の例も掲げる。

囲碁の小学生棋士としてデビューして、一躍令名を挙げた仲邑菫三段が、より囲碁に集中できる環境を求めて、日本棋界を離れ、韓国棋界に身を投じて棋戦に出場することになった。小学生時代に韓国へ行き来して囲碁を学んでいた時期があるとは言え、十五歳で外国のプロに交じって切磋琢磨するのは、たいへん重い決断であると言っていい。

この決断に対して、コメントの大部分は仲邑三段を応援するものだったが、一部からケチが付いた。彼女を嘲笑したり揶揄したりするコメントが散見されたのだ。その多くは、国際的な囲碁棋界のことを知りもしないのに、特定の国が絡むだけで攻撃したくなる人ではないかと思われる。中には読むに堪えない表現のコメント(例;「韓国行って整形やってこい」)もあったと記憶している。その言葉を投げ付けられる相手が、十五歳の多感な少女であることを理解しているのだろうか?

二つの例を挙げたが、どちらも未成熟な児童に対する「いじめ」としか言いようがない。私自身は子育ても孫育てもした経験がないが、これらの「言葉の暴力」の横行を目にすると、自分の身内が攻撃されたかのように、とても悲しい。

これほど少子化が深刻になっているのにもかかわらず、醜い「児童虐待」がネット上で平然と行われる状態は、日本のネット社会の民度をそのまま表している。これから成長していく少年少女たちに対して、私たちは日頃から、〔節度を保った厳しさを交えつつ、〕温かい目で見守っていきたいものだ。

(※文中、私の記憶として述べたコメントの文章は大意であり、一言一句そのままだったかは確認していませんので、お断りしておきます)

2024年3月31日 (日)

人はリスクと隣り合わせで生きていく

先日来、三人の利用者さんが独居生活を始めた。一人は50代前半(複合障害)、一人は60代後半(慢性疾患)。一人は70代後半(アルコール依存症)。いずれも「一人暮らしをしたい」思いは強かったが、障害があるなどの理由で、現実には独居が難しいと見られていた。

このような利用者さんを支えるのがケアマネジャーの役目であるから、機会を逃さず在宅生活を始めることは大いに歓迎する。

ただ、残念なことに、三人とも計画を立ててから実際に独居生活を迎えるまで、かなりの時間が掛かった。それぞれ、家族や周囲の関係者(全部ではない)が「リスクが多く無理があるのでは」と「待った」を掛けたためだ。

特に二番目の60代後半の方。慢性疾患の病院に長期入院していたが、10月を最初として実に4回の試験外泊を繰り返して、2月末にようやく退院となった。それさえも私が段取りを整えて強く要請した結果である(しなければさらに先送りになっていた)。その間の四か月、病院側は収入が入るからいいが、ケアマネジャーには一円も入らない。タダ働きなのだ。

確かに、実際に退院してみると、訪問介護、訪問看護や通所リハビリの支援がなければ生活できない。また、途中で下肢の状態が悪化して不測の事態が生じるなど、相当なリスクを抱えながらの生活であることは間違いない。

しかし、もともと人間はリスクと隣り合わせで生きていくものである。それを回避したいあまり、「何かあったらどうするんだ」の思考に陥ってしまい、一歩を踏み出せないまま延引を続けるのは、私の方針に合わない。

もちろん、利用者さん自身が「石橋を叩いて渡る」ことは最大限尊重するべきであるし、また、ケアマネジャーの専門的な知見から明らかに「これは危険だ」と予測される方向へ舵を切るべきではない。だが、「何かあったら...」で止まっていると、何ごとも始められないことも確かである。

話は変わるが、大相撲春場所の事案。優勝争いでトップを走っていた尊富士関が、14日目の敗戦で右足首靱帯を損傷した。救急車で病院に運ばれ、翌日は休場かと言われ騒然となった。しかし同力士は負傷の状態で出場を敢行し、千秋楽で豪ノ山関を降して見事に110年ぶりの新入幕優勝を飾った。

いわば乾坤一擲の大勝負を賭けたのだが、これにも一部の論者からケチが付いた。「美談じゃないよ。強行出場してもし右足の負傷が悪化して、(横綱)照ノ富士みたいに(ケガばかりで土俵を務められなく)なったらどうするの?」などと。しかし、弟弟子(高校の後輩でもある)の尊富士関に「お前ならできる!」と背中を押したのは、当の横綱なのだ。本人が兄弟子や師匠とよくよく協議して決断したことには、心からの称賛あるのみ。批判は全くの筋違いだ。そして、この一番で日本中を沸かせた尊富士関が、春巡業はしっかり休場するとのこと。しっかり療養するためにこれも大切である。

「何かあったらどうする?」と偉そうに述べる論者は、人生を賭けた大きな選択などした経験もないのであろう。23年前に、破滅覚悟(笑)で当時は類例のない「ケアマネジャー単独開業」に踏み切った私から見れば、この類の議論には失笑しかない。

「事勿れ主義」が行き過ぎると、時として人権侵害にもつながる。いまだに新型コロナの蔓延を恐れて、利用者と家族との面会制限を延々と続けている介護福祉施設などが好例だ。私たちはこのような状況を改善すべく、働き掛けていかなければならない。他方、コロナ禍以前と同様に利用者と家族との自由往来を認め、何か起きたときには自分が責任を持つことを明言している施設長に対しては、心からの敬意を表したい。

最初の話題に戻って。独居を敢行する利用者さんを後押しするのは、支援者側にとって「何かあったら可能な限り私〔たち〕がサポートしますよ!」との意思表明でもある。当然ながら、後押しする行為に伴う責任も了解済みということだ。その覚悟を持たない専門職は、軽蔑にしか値しない。

人はリスクと隣り合わせで生きていく。私たちは「人生」の意味を今一度考え直そうではないか。

2024年2月18日 (日)

多様性を声高に唱える人ほど、多様性に不寛容ではないのか?

社会福祉士(一応...)の一人として思うこと。

社会にはさまざまな属性を持つ人々が共住している。私自身、個人としては「男性」「19XX年生まれ」「静岡県出身」「独身(結婚歴がない)」「カトリック教会の信徒」、また社会の中では「浜松市で仕事をしている人」「社会福祉士」「介護支援専門員」「中道右派(政治的に)」などの属性を持っている。

これらの属性が、他者を傷付けるものでない限り、他者から尊重されるのが、社会のあるべき姿である。すなわち「多様性を尊重する」ことだ。

たとえば、カトリック教会は本来、同性婚を「罪」と位置付けていた。いまもなお、教会の秘跡としての「婚姻」の対象とは認めていないが、シビル‐ユニオン(市民としての法律上の婚姻)は否定しない立場だ。すなわち、同性愛者である信徒がミサに参列して聖体拝領の秘跡に与ることは、全く問題はない。信徒が同性愛者であっても、個人としては他の信徒と同様、司祭から祝福を受けることができる。

もちろん、ジェンダー平等の理想から見ると、いまだ不十分な点は少なくない(女性司祭が認められていないなど)が、保守的なカトリック教会でさえ、時代の流れを踏まえ、段階的に多様性を尊重する方向へ動きつつあるのだ。

さて、日本社会を顧みると、必ずしも理想とする方向へ進んでいない。たとえば、これまで多様性の尊重を訴えてきた人たちが、その趣旨に沿っているとは言い難い言動をした事案も見受けられる。

「宇崎ちゃん騒動(2019)」「戸定梨香騒動(2021)」などはその好例であろう。女性の性的な部分の強調が不適切であると主張した人たち(おもに女性の個人や団体)は、その体型の女性(希少であるが、街でもときどき見掛ける。筆者の仕事の上でも、何十年の間に数名程度だが、同様に胸の部分が大きめの体型の女性に会ったことはある)を差別していることに気が付いていなかった。そのため、表現の自由への抑圧だと主張する人たちの反発に遭い、激しい議論を巻き起こしている。

Tayousei

また昨年、埼玉県営プールでの水着撮影会が、特定政党の女性議員たちの要求を契機として(直接の因果関係はないとされているが...)中止された事案も、これを不当な介入だと考える人たち(当事者の女性たちを含む)からの強い反発により、大きな社会問題になった。

一部のフェミニストの人たち(...だけではないが...)が女性の「ジェンダー」を尊重するあまり、「自分たちにとって受け入れ難い」表現のすべてに「非を打つ」ことになっていないだろうか? 許容範囲をたいへん狭くしてしまい、その外側にあるものは、たとえ女性(たち)自身による自己実現行動の一環であっても、否定してしまうことになっていないだろうか?
(これらは一例として掲げたものであり、フェミニストの人たちをことさらに批判する意図はない。念のため)

これらの行動の根にあるのは、偏狭な視点に基づく「不寛容」である。多様性を声高に唱える人たちが、かえって自分たちの「間尺に合わない」多様な人たちを排除する、まことに皮肉な現象が起きている。

その結果、表現を抹殺する動きが、かえって「言葉狩りの弊害」で述べた、見当外れの反差別教育にも結び付く。事情を深読みしない人たちを中心に、水面下で歪な感情が広がり、互いの多様性を尊重する機運が遠のく。コロナ禍の最中に頻発した「マスク警察」「他県ナンバー警察」の類いの極端な行動に走る人たちも登場する。社会的に行き過ぎた規制が創出されれば、それに反対する市民たちが推進した人たちを「ノイジー‐マイノリティ」と攻撃する。「不寛容」が相手方の「不寛容」を増大させる事態になる。

筆者は、このような社会を決して良いものだとは思わない。

それぞれの主張をする市民たちが、互いに対立する側の見解にも耳を傾け、向き合ってコンセンサス(合意)とコンフロンテーション(対置)とを繰り返しつつ、議論を重ね熟成させた末に、合意に基づいて真に多様性を尊重する社会が形成されるのが、望ましい姿であろう。

日本社会がその方向へ進むことを、心から願っている。

2024年1月30日 (火)

職業倫理が崩壊する!

中国の古典『管子・牧民篇』に「倉廩満ちて則ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱を知る」との一文がある。

人は物質的な豊かさが満たされて、はじめて礼儀や名誉をわきまえることができる。これは古今東西を問わない共通原理だ。生きていくために必死であれば、礼儀や名誉などに構っている暇はない。

今年(2024年)4月からの介護報酬改定は、サービスの種別ごとに比率が異なるものの、全体として三年前から1.59%の微増となった。

しかし、三年間の消費者物価指数の上昇は6.8%であるから、ここに5.21%の落差が生じる。この間、2022年10月の臨時改定で、介護職員等ベースアップ等支援加算(約3%...だが、介護職員を対象として設定されたので、他職種にも配分すると1%強)が算定されているので、まるまる5%以上満たないわけてではない。とは言え、個別の介護職員に対する応急手当が行われる一方で、事業所に対する手当はお寒いままだ。

特に今回の改定では、訪問介護費の基本報酬(単価)が引き下げられる驚きの結果となった。介護職員の処遇改善の比率が上がっても、訪問介護事業所が業務に見合った収益を得られなければ、本末転倒である。2022年の経営実態調査で訪問介護の収支差率が大きかったことが原因だと言われるが、もともと裕福な業種ではなく、多くの零細な経営者は自分たちの身を削って収支差率を引き上げてきた。

その中での報酬引き下げは、事業を継続する体力に乏しくてもギリギリのところで踏ん張ってきた多くの訪問介護事業者が、もはや限界だと考え、撤退する事態が予想されるのだ。多くの心ある論者がこの点を指摘し、批判している。全国各地で、多くの高齢者の在宅生活を担ってきたのが訪問介護であるから、事業者の撤退は、地域包括ケアの挫折を招きかねない。

さらに、この状況から予測されるのは、職業倫理の崩壊である。

訪問介護事業者が希少価値を有することになれば、いわば「売り手市場」になる。すると、本来は「生活(家事)援助」でサービスを提供しなければならないケアに関して、単価が高い「身体介護」の内容をこじつけて算定するよう、ケアマネジャーに対して要求する事業者が登場するかも知れない。

ケアマネジャーにしてみれば、訪問介護事業者がサービスを提供してくれなければ、利用者の在宅生活を継続させることができない。そして代わり得る他の事業者も存在しない。そうなると、いわば「馴れ合い」の形で給付の不適正化が浸透する可能性がある。中山間地や離島などの過疎地では、訪問介護に限らず、通所系サービスなども選択肢が限られていることから、不正、不適正な行為があっても、ケアマネジャーがなかなか強く批判し辛い状況になっていく。

もちろん、大部分の事業者は国の運営基準に則り、適正な事業運営を行っていると信じたい。しかし、国が介護サービス事業者に対する「やりがい搾取」を続けるのであれば、先立つものがない事業者側は、職業倫理よりも生き残りを選択せざるを得ないことも現実なのだ。それによって置き去りにされかねないのは、当事者である利用者や介護者であろう。

多くの市民が住み慣れた家での在宅生活を続けていくために、地域資源である事業者が、次のステップへ向かう力を蓄えつつ、余裕を持って仕事を続けられる環境が整うことを、切に願っている。

«抗えない自然の力

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