2024年5月12日 (日)

母の日に当たって

きょうは5月の第二日曜日なので、母の日に当たる。

私の母が91歳で帰天したのは2018年3月5日。先々月に6周年(仏教でいう七回忌)を迎えた。

自分自身がずっと未婚で生活してきたことから、「母」と言えば亡き母が唯一の存在になっている。帰天後6年経ってもその存在感は大きい。いまの自宅を手に入れることができたのも、母が懸命に節約して資金を貯めてくれたからこそであるし、何よりも私が出掛けている間、家の留守を預ってくれていたことが、安心して仕事ができる大きな支えであった。

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晩年には家事の多くを私が担うようになり、さらに要介護の状態にもなったので自分がケアプランを作成したが、実質的には画像の縫いぐるみのように、私が母の背中に乗っかって生きてきたんだなぁ、と強く実感する。

帰天した後も、母が遺してくれた年金を頼りに車を購入し、家の門扉も取り替えることができた。母がいなかったら現在の仕事も生活も維持していくのが困難だったことは確かである。

その意味で、改めて母には心からの感謝を捧げたい。

さて、自分自身は子育ても孫育てもしていないが、これから先の老後、誰かのお世話にならなければならないことは確かである。兄弟姉妹がおらず、いとこたちも他県に住んでいるから、何か起きたときに最低限の対応程度は頼めるとしても、全面的に後始末をしてもらうことが難しい。

そこで、自分がしてこなかったことへの一つの償いとして、地域の児童支援に協力できないか、検討してみたいと思う。そのような中で、家や土地の行く末を託すことができる人が現れるかも知れない。

父親にはなれなかったが、何か役に立つものを後世へ残したいものである。

2024年4月17日 (水)

少年少女をいじめてそんなに楽しいのか?

もう十年以上も前のこと。ネットで検索していたら、いくつかの自治体に「児童虐待マニュアル」なる文書が存在することが判明し、失笑したことがある。

もちろん、これらは「児童虐待防止マニュアル」を誤って省略してしまったものだろうから、当該自治体が「地元の憎たらしいガキをボコボコにしてやろう」と意図したものでは全くない。

しかし、複数の場で心ない大人たちが、ネットのコメント欄で十五歳ぐらいの児童を叩いているのを見ると、ホンモノの「児童虐待マニュアル」が存在するのだろうか? と疑いたくなる。

かつて「不登校ユーチューバー」として知られた「ゆたぼん」君が、先日、高校を受験して不合格だったことを公表した。

「ゆたぼん」君と言えば、不登校時代は父親の教育方針に合わせてパフォーマンスをしている感が強く、ユーチューブの動画に対してアンチは多かった。確かに、小学校の卒業証書を破り捨てる動画などは、私自身も好きではないが、父親と行動を共にすることが多かったので、その影響も強かったと推察される。その後、父親と距離を置くことを宣言して、Xなどで主体的な発信を始めたことにより、世間からの好感度が増した。今回の不合格について、当人は落胆するも次は高卒認定試験を目指すとしている。

ネットでの反応は、多くは好意的なコメントであり(父親に対してはみな批判的だが)、これを貴重な経験として成長してほしい、という方向性の意見が主流であったが、少数ながら彼を誹謗中傷するコメントがあった。特に私が記憶している、彼を世間の見せしめであるかのように評したコメント(例;「好き勝手なことをしていたから失敗する。みんなが反面教師にする好例だ」)などは常軌を逸している。彼は十五歳の少年であり、多感な年代だ。せっかく新たな気持ちで体勢を立て直そうとしている矢先に、攻撃的なコメント(彼の将来を思って冷静に評した厳しいコメントとは異なる)を投げ付ければ、再起を志す当人の心を傷付けるだけだ。「ゆたぼん」君が登場するだけで叩きたくてうずうずしている大人がいるとしたら、その人のほうがずっと幼稚であろう。

別の例も掲げる。

囲碁の小学生棋士としてデビューして、一躍令名を挙げた仲邑菫三段が、より囲碁に集中できる環境を求めて、日本棋界を離れ、韓国棋界に身を投じて棋戦に出場することになった。小学生時代に韓国へ行き来して囲碁を学んでいた時期があるとは言え、十五歳で外国のプロに交じって切磋琢磨するのは、たいへん重い決断であると言っていい。

この決断に対して、コメントの大部分は仲邑三段を応援するものだったが、一部からケチが付いた。彼女を嘲笑したり揶揄したりするコメントが散見されたのだ。その多くは、国際的な囲碁棋界のことを知りもしないのに、特定の国が絡むだけで攻撃したくなる人ではないかと思われる。中には読むに堪えない表現のコメント(例;「韓国行って整形やってこい」)もあったと記憶している。その言葉を投げ付けられる相手が、十五歳の多感な少女であることを理解しているのだろうか?

二つの例を挙げたが、どちらも未成熟な児童に対する「いじめ」としか言いようがない。私自身は子育ても孫育てもした経験がないが、これらの「言葉の暴力」の横行を目にすると、自分の身内が攻撃されたかのように、とても悲しい。

これほど少子化が深刻になっているのにもかかわらず、醜い「児童虐待」がネット上で平然と行われる状態は、日本のネット社会の民度をそのまま表している。これから成長していく少年少女たちに対して、私たちは日頃から、〔節度を保った厳しさを交えつつ、〕温かい目で見守っていきたいものだ。

(※文中、私の記憶として述べたコメントの文章は大意であり、一言一句そのままだったかは確認していませんので、お断りしておきます)

2024年3月31日 (日)

人はリスクと隣り合わせで生きていく

先日来、三人の利用者さんが独居生活を始めた。一人は50代前半(複合障害)、一人は60代後半(慢性疾患)。一人は70代後半(アルコール依存症)。いずれも「一人暮らしをしたい」思いは強かったが、障害があるなどの理由で、現実には独居が難しいと見られていた。

このような利用者さんを支えるのがケアマネジャーの役目であるから、機会を逃さず在宅生活を始めることは大いに歓迎する。

ただ、残念なことに、三人とも計画を立ててから実際に独居生活を迎えるまで、かなりの時間が掛かった。それぞれ、家族や周囲の関係者(全部ではない)が「リスクが多く無理があるのでは」と「待った」を掛けたためだ。

特に二番目の60代後半の方。慢性疾患の病院に長期入院していたが、10月を最初として実に4回の試験外泊を繰り返して、2月末にようやく退院となった。それさえも私が段取りを整えて強く要請した結果である(しなければさらに先送りになっていた)。その間の四か月、病院側は収入が入るからいいが、ケアマネジャーには一円も入らない。タダ働きなのだ。

確かに、実際に退院してみると、訪問介護、訪問看護や通所リハビリの支援がなければ生活できない。また、途中で下肢の状態が悪化して不測の事態が生じるなど、相当なリスクを抱えながらの生活であることは間違いない。

しかし、もともと人間はリスクと隣り合わせで生きていくものである。それを回避したいあまり、「何かあったらどうするんだ」の思考に陥ってしまい、一歩を踏み出せないまま延引を続けるのは、私の方針に合わない。

もちろん、利用者さん自身が「石橋を叩いて渡る」ことは最大限尊重するべきであるし、また、ケアマネジャーの専門的な知見から明らかに「これは危険だ」と予測される方向へ舵を切るべきではない。だが、「何かあったら...」で止まっていると、何ごとも始められないことも確かである。

話は変わるが、大相撲春場所の事案。優勝争いでトップを走っていた尊富士関が、14日目の敗戦で右足首靱帯を損傷した。救急車で病院に運ばれ、翌日は休場かと言われ騒然となった。しかし同力士は負傷の状態で出場を敢行し、千秋楽で豪ノ山関を降して見事に110年ぶりの新入幕優勝を飾った。

いわば乾坤一擲の大勝負を賭けたのだが、これにも一部の論者からケチが付いた。「美談じゃないよ。強行出場してもし右足の負傷が悪化して、(横綱)照ノ富士みたいに(ケガばかりで土俵を務められなく)なったらどうするの?」などと。しかし、弟弟子(高校の後輩でもある)の尊富士関に「お前ならできる!」と背中を押したのは、当の横綱なのだ。本人が兄弟子や師匠とよくよく協議して決断したことには、心からの称賛あるのみ。批判は全くの筋違いだ。そして、この一番で日本中を沸かせた尊富士関が、春巡業はしっかり休場するとのこと。しっかり療養するためにこれも大切である。

「何かあったらどうする?」と偉そうに述べる論者は、人生を賭けた大きな選択などした経験もないのであろう。23年前に、破滅覚悟(笑)で当時は類例のない「ケアマネジャー単独開業」に踏み切った私から見れば、この類の議論には失笑しかない。

「事勿れ主義」が行き過ぎると、時として人権侵害にもつながる。いまだに新型コロナの蔓延を恐れて、利用者と家族との面会制限を延々と続けている介護福祉施設などが好例だ。私たちはこのような状況を改善すべく、働き掛けていかなければならない。他方、コロナ禍以前と同様に利用者と家族との自由往来を認め、何か起きたときには自分が責任を持つことを明言している施設長に対しては、心からの敬意を表したい。

最初の話題に戻って。独居を敢行する利用者さんを後押しするのは、支援者側にとって「何かあったら可能な限り私〔たち〕がサポートしますよ!」との意思表明でもある。当然ながら、後押しする行為に伴う責任も了解済みということだ。その覚悟を持たない専門職は、軽蔑にしか値しない。

人はリスクと隣り合わせで生きていく。私たちは「人生」の意味を今一度考え直そうではないか。

2024年2月18日 (日)

多様性を声高に唱える人ほど、多様性に不寛容ではないのか?

社会福祉士(一応...)の一人として思うこと。

社会にはさまざまな属性を持つ人々が共住している。私自身、個人としては「男性」「19XX年生まれ」「静岡県出身」「独身(結婚歴がない)」「カトリック教会の信徒」、また社会の中では「浜松市で仕事をしている人」「社会福祉士」「介護支援専門員」「中道右派(政治的に)」などの属性を持っている。

これらの属性が、他者を傷付けるものでない限り、他者から尊重されるのが、社会のあるべき姿である。すなわち「多様性を尊重する」ことだ。

たとえば、カトリック教会は本来、同性婚を「罪」と位置付けていた。いまもなお、教会の秘跡としての「婚姻」の対象とは認めていないが、シビル‐ユニオン(市民としての法律上の婚姻)は否定しない立場だ。すなわち、同性愛者である信徒がミサに参列して聖体拝領の秘跡に与ることは、全く問題はない。信徒が同性愛者であっても、個人としては他の信徒と同様、司祭から祝福を受けることができる。

もちろん、ジェンダー平等の理想から見ると、いまだ不十分な点は少なくない(女性司祭が認められていないなど)が、保守的なカトリック教会でさえ、時代の流れを踏まえ、段階的に多様性を尊重する方向へ動きつつあるのだ。

さて、日本社会を顧みると、必ずしも理想とする方向へ進んでいない。たとえば、これまで多様性の尊重を訴えてきた人たちが、その趣旨に沿っているとは言い難い言動をした事案も見受けられる。

「宇崎ちゃん騒動(2019)」「戸定梨香騒動(2021)」などはその好例であろう。女性の性的な部分の強調が不適切であると主張した人たち(おもに女性の個人や団体)は、その体型の女性(希少であるが、街でもときどき見掛ける。筆者の仕事の上でも、何十年の間に数名程度だが、同様に胸の部分が大きめの体型の女性に会ったことはある)を差別していることに気が付いていなかった。そのため、表現の自由への抑圧だと主張する人たちの反発に遭い、激しい議論を巻き起こしている。

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また昨年、埼玉県営プールでの水着撮影会が、特定政党の女性議員たちの要求を契機として(直接の因果関係はないとされているが...)中止された事案も、これを不当な介入だと考える人たち(当事者の女性たちを含む)からの強い反発により、大きな社会問題になった。

一部のフェミニストの人たち(...だけではないが...)が女性の「ジェンダー」を尊重するあまり、「自分たちにとって受け入れ難い」表現のすべてに「非を打つ」ことになっていないだろうか? 許容範囲をたいへん狭くしてしまい、その外側にあるものは、たとえ女性(たち)自身による自己実現行動の一環であっても、否定してしまうことになっていないだろうか?
(これらは一例として掲げたものであり、フェミニストの人たちをことさらに批判する意図はない。念のため)

これらの行動の根にあるのは、偏狭な視点に基づく「不寛容」である。多様性を声高に唱える人たちが、かえって自分たちの「間尺に合わない」多様な人たちを排除する、まことに皮肉な現象が起きている。

その結果、表現を抹殺する動きが、かえって「言葉狩りの弊害」で述べた、見当外れの反差別教育にも結び付く。事情を深読みしない人たちを中心に、水面下で歪な感情が広がり、互いの多様性を尊重する機運が遠のく。コロナ禍の最中に頻発した「マスク警察」「他県ナンバー警察」の類いの極端な行動に走る人たちも登場する。社会的に行き過ぎた規制が創出されれば、それに反対する市民たちが推進した人たちを「ノイジー‐マイノリティ」と攻撃する。「不寛容」が相手方の「不寛容」を増大させる事態になる。

筆者は、このような社会を決して良いものだとは思わない。

それぞれの主張をする市民たちが、互いに対立する側の見解にも耳を傾け、向き合ってコンセンサス(合意)とコンフロンテーション(対置)とを繰り返しつつ、議論を重ね熟成させた末に、合意に基づいて真に多様性を尊重する社会が形成されるのが、望ましい姿であろう。

日本社会がその方向へ進むことを、心から願っている。

2024年1月30日 (火)

職業倫理が崩壊する!

中国の古典『管子・牧民篇』に「倉廩満ちて則ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱を知る」との一文がある。

人は物質的な豊かさが満たされて、はじめて礼儀や名誉をわきまえることができる。これは古今東西を問わない共通原理だ。生きていくために必死であれば、礼儀や名誉などに構っている暇はない。

今年(2024年)4月からの介護報酬改定は、サービスの種別ごとに比率が異なるものの、全体として三年前から1.59%の微増となった。

しかし、三年間の消費者物価指数の上昇は6.8%であるから、ここに5.21%の落差が生じる。この間、2022年10月の臨時改定で、介護職員等ベースアップ等支援加算(約3%...だが、介護職員を対象として設定されたので、他職種にも配分すると1%強)が算定されているので、まるまる5%以上満たないわけてではない。とは言え、個別の介護職員に対する応急手当が行われる一方で、事業所に対する手当はお寒いままだ。

特に今回の改定では、訪問介護費の基本報酬(単価)が引き下げられる驚きの結果となった。介護職員の処遇改善の比率が上がっても、訪問介護事業所が業務に見合った収益を得られなければ、本末転倒である。2022年の経営実態調査で訪問介護の収支差率が大きかったことが原因だと言われるが、もともと裕福な業種ではなく、多くの零細な経営者は自分たちの身を削って収支差率を引き上げてきた。

その中での報酬引き下げは、事業を継続する体力に乏しくてもギリギリのところで踏ん張ってきた多くの訪問介護事業者が、もはや限界だと考え、撤退する事態が予想されるのだ。多くの心ある論者がこの点を指摘し、批判している。全国各地で、多くの高齢者の在宅生活を担ってきたのが訪問介護であるから、事業者の撤退は、地域包括ケアの挫折を招きかねない。

さらに、この状況から予測されるのは、職業倫理の崩壊である。

訪問介護事業者が希少価値を有することになれば、いわば「売り手市場」になる。すると、本来は「生活(家事)援助」でサービスを提供しなければならないケアに関して、単価が高い「身体介護」の内容をこじつけて算定するよう、ケアマネジャーに対して要求する事業者が登場するかも知れない。

ケアマネジャーにしてみれば、訪問介護事業者がサービスを提供してくれなければ、利用者の在宅生活を継続させることができない。そして代わり得る他の事業者も存在しない。そうなると、いわば「馴れ合い」の形で給付の不適正化が浸透する可能性がある。中山間地や離島などの過疎地では、訪問介護に限らず、通所系サービスなども選択肢が限られていることから、不正、不適正な行為があっても、ケアマネジャーがなかなか強く批判し辛い状況になっていく。

もちろん、大部分の事業者は国の運営基準に則り、適正な事業運営を行っていると信じたい。しかし、国が介護サービス事業者に対する「やりがい搾取」を続けるのであれば、先立つものがない事業者側は、職業倫理よりも生き残りを選択せざるを得ないことも現実なのだ。それによって置き去りにされかねないのは、当事者である利用者や介護者であろう。

多くの市民が住み慣れた家での在宅生活を続けていくために、地域資源である事業者が、次のステップへ向かう力を蓄えつつ、余裕を持って仕事を続けられる環境が整うことを、切に願っている。

2024年1月 8日 (月)

抗えない自然の力

元日の夕方に発生した能登半島地震は、文字通り日本中を震撼させる災害となった。

何しろ当地・浜松でもグラッと揺れて(震度3)、一瞬「屋外へ逃げるべきか?」と迷ったぐらいだから、現地の当事者である石川県周辺の方々の驚愕と混乱は、たいへんなものであっただろう。

この地震で多くの家屋が倒壊したことなどにより、多数の死傷者が出た。特に、正月休みで実家に帰省していていて(中には例年は帰らないのに、十数年ぶりに帰っていた人もある)、不運にもこの震災に巻き込まれた人が少なくない。まだまだ充実した社会生活を送ることができたはずの若い人たちが、人生半ばで終幕を強いられてしまった。亡くなった人たちの無念の思いも、遺された家族の悲嘆も、言葉では言い表せない大きなものがあろう。

また、避難所に身を寄せている人たちの多くが、物資が充足されていない中で、当面の健康・衛生管理や今後の生活に大きな不安を抱えて、気持ちが安まる暇(いとま)もないと察する。

人智を尽くしても、自然の力には抗えない。日常から備えることによりある程度の減災はできても、完全に被害を無くすことは将来にわたっておそらく不可能である。

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かつてシー‐シェパードの代表、ポール‐ワトソン(Paul F. D. Watson)は、2011年の東日本大震災の直後に、"Tsunami"のタイトルで、このような詩を公開した。

Neptune’s voice rolled like thunder thru the sky (海神の声は空をつんざく雷鳴のように巻き起こり)
Angrily he smote the deep seabed floor     (彼は怒って深い海底を打った)
From the shore echoed mankind’s mournful cry (岸から人々の悲鳴がこだまする中で)
…The sea rose up  and struck fast for the shore (...その海は盛り上がり、岸を目がけて襲い掛かった)

From out of the East with the rising sun    (東の果てから昇る太陽とともに現れる)
The seas fearful wrath burst upon the land   (海の恐るべき憤怒は陸地を引き裂く)
With little time to prepare or to run      (備えたり逃げたりする余裕もなく)
Against a power no human can stand     (自然の力の前には誰も立っていることができない)

(筆者訳)

ワトソンは環境テロリストとも称されており、私が嫌いな活動家ではあるが、この詩は脚韻もしっかり踏んでおり、読み手にも趣旨が明確に理解できる良作だと思う(当時、英語力の乏しい一部のネット民から、あたかも彼が大震災を「天罰」だと言っているかのように非難されたが、もちろん誤解だ)。

今回の能登半島地震についても、「ああしておけば」「こうしておけば」と悔やむ人たちも多いだろうが、たとえ備えがあっても、それを超える大きな力が加われば、被災を免れないのが現実である。すでに起きたことを振り返りながら、私たちは一歩一歩前へ進んでいくしかない。私自身は直接支援活動に参加できる立場ではないので、事態が流動しているいまの時点で、何かを提案したり論評したり、また政府や自治体の対応を批判することは控えたい。

ただただ、被災された方々の心の平安をお祈りする。

四つのプレートの境目にある日本。来るべき東南海(南海トラフ)地震へ向けて、少しでも被害を減らすために、私たちは何をすれば良いのか? これから市民レベルで、そして全国民レベルで、議論を深めていこう。

2023年12月30日 (土)

十九年ぶりの引っ越し(2)

前回より続く)

去る12月28日、これまでの事務所からすべての物品を搬出して、無事に退去することができた。

古い机やテーブルなど、もはや使用に耐えない品を廃棄する一方、スチール書庫は自宅の新事務所でもそのまま活用するため、知人の業者に搬送を依頼した。

引っ越し作業から退去に至るまで、一連の作業に伴う経費は、たまたま買い替えた車やシュレッダーなどを別にすれば、関係者のご協力のおかげで最小限に食い止めることができた。搬送業者さんや家主さんのご厚意を身に沁みてありがたく感じている。

開業四年目から入居した旧事務所はJR浜松駅から徒歩10分、バスや電車を利用するに当たって交通至便の場所にあり、地域資源も豊富で、不便さを感じることがなかった。ここを拠点にして十九年の間、多くの利用者さんに本業であるケアマネジメントを提供するとともに、役職や研修講師などを仰せつかって県内各地や日本全国各地を駆け回り、社会に役立つ充実した職業人生を送ることができたと自負している。

去って行く当日、長い十九年を振り返って、過ぎ去った多くのことを思い起こし、まさに感無量であった。

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さて、こちらは自宅の書斎を改装した新事務所(浜松市中央区湖東町)の画像である。左が南、右が北。手前に相談机がある東側から撮影したものだ(ど真ん中に殺虫剤が写っている。田舎には必需品(^^;)。

いまだ物品の搬入直後で雑然としており、これから日数を掛けて、「○○はどの箱に入れたっけ?」などと混乱しながら、少しずつ整理していくことになるだろう。

これからは「自宅開業」になるから、公私の線引きをこれまで以上にしっかりとする必要がある。営業曜日や時間はこれまでと変わりないので、同じペースで仕事をしていくつもりではあるが...

しばらく経過してから、移転後に変化した業務展開の長所や短所をまとめてみたい。

2023年12月 9日 (土)

言葉狩りの弊害

12月9日は「障害者の日」である。

社会福祉士である筆者にとって、この日の意義付けは先刻承知のことであるが、別の視点から振り返ってみたい。

それは「差別用語」の事案である。

時代劇をほとんど見ない筆者にはよくわからないが、たとえば最近の「座頭市」では、悪役は座頭市に対して何と呼び掛けて罵倒するのだろうか? 「やい! この、たいへん目が不自由なヤツ!」とでも言っているのか?

さすがにこの表現は「ちょっと違うだろ?」と思うのだが、もし差別用語の排除を徹底すれば、こんな表現になってしまう。

私がドラマのプロデューサーや脚本家ならば、役者には当時使われていたであろう罵声のまま、「やい、このド○○○!」と言わせる。その上で「「○○○ら」とは人権意識の低い時代に使われていた差別用語であり、いまは視覚障害者に対して言ってはならない言葉です」とテロップを付ける。

他の障害を持つ人に対する差別用語も同様だ。たとえば「か□□(肢体不自由者に対し)」「き△△△(精神障害者に対し)」などは、私が生まれた時代にはまだ普通に使用されていた。それが人権意識の高まりとともに、不適切な表現にされるに至ったが、過去に使用されていた事実を消して良いものではない。

つまり、「かつてはこのような差別が行われていた」事実を明示した上で、それが対象者を侮辱し傷付けるものであるから、実社会では使用してはならないことをしっかりと教える。

これが本当の「反差別教育」であろう。障害者差別に限らず、民族差別など他の枠組みにも通じるものだ。

いま社会で行われていることは、言葉狩りの先行である。そのため、若者たちは「なぜその言葉を使ってはいけないのか?」をしっかり教えられる機会を持たない。だから何かの機会にそれらの言葉を掘り起こして、罪悪感もなく口にしたり書き込んだりしてしまうのだ。さらに、障害者の活動を特権とか利権とか批判している連中は、当事者たちを攻撃する言葉として、差別用語を平然と使う。

もちろん、反差別教育が徹底して行われたとして、このテの人間を減らせるにせよ、根絶させることは難しい。しかし、多くの市民が正しい理解をすることができれば、不適切な差別用語を繰り返す輩が排除される機運を醸成し、少数派の人たちが平穏に活き活きと過ごしていく社会を創り出すことができるのではないか。

介護業界における国語の指導を副業とする者として、この課題をみなさんとご一緒に考えてみたい。

2023年11月29日 (水)

許されざる行為

当県の社会福祉法人を舞台に、お金をめぐる大きな事件が起きた。

静岡市清水区で特別養護老人ホーム(介護福祉施設)B施設を経営する社会福祉法人の前理事長Sが、自分の部下ということになっている高校の先輩Kが経営する企業の口座に、法人の資金を還流させて横領したとされるものである。

このKが大物タレントM氏の夫(事件発覚後に離婚)であったことも、大きな話題となっている。

Sは元警察官だと報じられた。いかなる事情で社会福祉法人の理事長に選任されたかわからないが、他県も含め複数の法人で経営者を歴任している。Kは清水区の社会福祉法人で「会長」を自称し、後輩であるSを支配下に置いて、法人の資金を私的に流用していたと考えられる。

私たちの常識によると、B施設を含めた特別養護老人ホーム(介護福祉施設)では、その大部分が限られた介護報酬の中で、工夫に工夫を重ねながら財政をやり繰りしている。決して豊かな内部留保があるわけではなく、繰越金を確保していくことにより、次年度以降の経営ができるように努めている。よほどの金満家(個人・企業)でもバックについていない限り、現在提供しているサービスの水準を維持するのに四苦八苦しているのだ。零細なコミュニティビジネス(筆者など)に比べればかなり水準は高いものの、職員の給与は他業種から見れば平均値を下回ることが多い(今回はその給与さえ適切に支給されなかったことから、事件が発覚した)。

しかし、事情を知らない一般市民が、この記事を見聞きしてどう思うだろうか?

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「介護事業って、お金のあるところにはあるんだろ? もうかる人がいるのなら報酬を増やさなくても良い。私たちの介護保険料や税金だって、そのために上げてほしくないよね!」

こんな印象を持つ人たちが少なくないのではないか。

最近、介護従事者が利用者を殺傷、虐待して逮捕される事案が増えているから、市民たちは「不良介護職員」への憤りを強めているであろうが、まだこれらは「個」の職員による行為であるから、私たちは「介護に不向きな人が起こした事案であり、大部分の職員は適切なケアのため勤しんでいる」と弁明することができる。しかし今回の事件のように、組織を舞台にした事案は、市民感情を直撃することになる。

KとSの愚行が、介護現場で働く人たちに対する世論を歪めることになったとしたら、こんな理不尽はない。まさに許されざる行為であろう。

一度失われた業界の信用を取り戻すために、どれほどの時間が必要になるだろうか。

2023年11月25日 (土)

しょーもないケアマネをグループワークでどう料理するの?

いささか物騒な題名であるが、これは2009年、静岡県介護支援専門員協会のとある研究会に参加した際に、「困ったケアマネジャーさんって結構いるよね」みたいな話になったので、筆者がトリセツ(?)を作ってメンバーに示したものだ。

14年前の発題だが、いまでも十分通用すると思ったので、若干の校正を加えて再現したものである。

もとは表形式になっているが、ブログのエントリーにアップしにくいので、枠を取り払って箇条書きにしてみた。いささか長くなるが、ご笑覧いただきたい。

◆「確信犯的」囲い込みケアマネ
 ・定義:悪意で囲い込みをやるのではなく、逆に本人は善意のかたまりで、自分の所属先のサービスが至上であると信じている。そのため他法人のサービスは安心して位置付けられないから、紹介しない。
 ・処方箋:自法人を客観視できるためのトレーニングが必要。たとえば地域の各デイサービスに対して、機能訓練とか入浴介助とか、それぞれの部門について地域のケアマネジャーから匿名で点数を付けてもらい、皆で比較してみる。自法人の事業所だけが至上ではなく、利用者のニーズに適するサービス調整が大切であることを、参加者が共有できる場を作る。

◆コピペ‐ケアマネ
 ・定義:サービスがいつもワンパターン。課題分析は一応やるものの、視野が狭いのでそこから複数の解決手段を選択する段取りができない。「二言目にはリハビリ」「詰まるところはデイサービス」の人たち。
 ・処方箋:当人が初級者であることをズバリ指摘する。より具体的には、ケアプラン作成演習などの場で、課題分析からサービス提供に至る一連の流れを振り返る作業を何度もやってもらうしかない。ただ、一人だけ凹むと雰囲気が悪くなるので、グループで課題を共有する流れを作るのが好い。利用者の一つの課題に対する解決の選択肢が多岐にわたることを、メンバーが常に確認し合うように、意図的に仕向けていく。

◆一品料理ケアマネ
 ・定義:利用者や家族から希望されない限り、一品サービスだけ利用に結び付けて、それで責任が果たせたと思っている。給付管理が成立してしまえばお金になるので、ニーズの掘り起こしが面倒になり積極的に行わない。
 ・処方箋:たとえば、ケアマネジャーや介護サービス職員がニーズの確認を怠ったために、刑事事件で警察の事情聴取を受けたり刑事責任を問われ(疑われ)たりした事例を研修で取り上げ、「かえってお金も名誉も失うかも...」と、リスクマネジメントの見地から危機感を持ってもらうのも一策である。

◆なんちゃってケアマネ
 ・定義:「一応」ケアマネジャーになってはいるが、片手間仕事の意識が強く、自分がケアマネジャーだというアイデンティティを持ち得ない。
 ・処方箋:現場で実務に就く以上、責任感を持って仕事をすることの大切さを認識させる。グループスーパービジョンのロールプレイで、「この種のケアマネにケアプランを立ててもらう立場の利用者」の役をやってもらうのも一案である。

◆「オレオレ症候群」ケアマネ
 ・定義:利用者の課題を解決しようという思いが強過ぎると、自分が、自分が、と、どんどん前に出てしまい、利用者のほうが引いてしまう。
 ・処方箋:ベテランの社会福祉士(威厳のある人!)を指導者として登場させる。バイステックの7原則のうち、「統制された情緒的関与」「意図的な感情表出」の二点をテーマにソーシャルワークの演習を行い、自己覚知を試みる。

◆昔の名前で出ています♪ ケアマネ
 ・定義:かつては地域のケアマネジメントを担う指導的立場にあったが、いまは主流から外れているのにもかかわらず、いまだに業界の指導者だと自任している。
 ・処方箋:気持ち好く振る舞ってもらえば良い。かつて地域で功績があったことは事実。指導者のほうが後輩の立場なのだから、相手を先輩として敬い、自尊心をくすぐった上で、得意部門を生かしてもらうべくポジティブに誘導していく(ただしホントに重要な役には就けずにホしておく!)のも、人材活用のポイント。

◆放浪ケアマネ
 ・定義:転職を繰り返すタイプ。ただし建設的な転職もあるので、決して転職を重ねること自体がマイナスではない。ここに掲げるのは、自分の労働環境への不満ばかり口にして、利用者に対しての責任感が希薄な人のことである。
 ・処方箋:グループワークの場で、各メンバーが自事業所の労働環境について語る場を指導者が設け、「あらゆる面で理想的な職場」など存在しないのだと理解させる。たとえば指導者から、「次に転職するときには、利用者ごと転職したらどうですか?」と勧めてみる。利用者側にとって、頻繁にケアマネジャーが変わることは迷惑にほかならないことを認識してもらう。

◆「オヨヨ」ケアマネ
 ・定義:身の丈に合わない自称やハッタリで注目されても、現実には中身がない。人前では自分が知っている著名な業界人の名前を並べ立てるが、実際に役立つネットワーキングができておらず、コーディネート能力も欠如している。
 ・処方箋:はっきり言えば業界から消えて欲しいタイプである。それでも仕事を続けるのなら、会合や研修の場で偉そうなことを述べ立てても、指導者やメンバーが相手にせず受け流し、徹底して無視するのが良い。当人が空虚な引き出ししか持ち合わせない、いかに哀れな小物であるかを自ら痛感させる。それでも悟らなければ手の打ちようがない。

以上。いかがだろうか?

筆者自身も、気付かないうちにこれらの類型のどれかに当てはまっていないか、日頃から振り返っている。

地域のケアマネジャー仲間にこのテの人たちがいると結構扱いにくい。とは言え、日本全国でケアマネジャーの人材不足が取り沙汰される昨今、路線から大きく外れる人を出さない工夫も大切だ。地域のケアマネジャー連絡組織の指導者さんをはじめとする主任介護支援専門員さんたちには、多少なりとも参考にしていただければ幸いである。

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