2023年9月22日 (金)

「忖度」の言葉を恣意的に歪めるな!

日本語に限らず、世界各地で話されている言葉(口語)は、時代によって移ろうものだ。それは筆者自身、百も承知しており、単語、熟語、成語などが、年数を経るにしたがって、本来の意味とは異なる用例を呈する場合が増えることは、十分に理解しているつもりである。

その変遷が、市民の自然な社会活動の中から起きるものであれば、何の問題もない。

しかし、メディアが恣意的に言葉の意味を捩じ曲げているとしたら、話は別だ。

「忖度(そんたく)」

本来の意味は、「おもんぱかる」「おしはかる」こと。古代中国の『詩経』小雅・巧言の中に、「他人有心、予忖度之」とあるのが出典。詳細は割愛するが、前後の文脈からおおむねこんな意味になる。「小人の輩が悪心を持っていようが、君子や聖人の正しい政治を支持する私からは、すぐに推量できるぞ」。

Kanwajiten

つまり「忖度」自体は善悪の評価を伴わない人間の行為であり、ネガティヴな意味は全く含まれていない。

だからこそ、私たち社会福祉士をはじめ、精神保健福祉士、ケアマネジャー、さらに弁護士や司法書士など成年後見に携わる人たちも、アドヴォカシー(代弁)の一環として「忖度」を駆使している。自分の意思を十分に表明できない、伝えられないクライアント(認知症の利用者、知的障害者、精神疾患の患者など)の考えを代位して、「この方の本当の思いや願いは、これまでの考え方や振る舞いに基づき、こうであろうと推量します」と主張して、クライアントの意思に沿った生活の実現のために最善の努力をする過程が、「忖度」の先に開けている。

まさに、「人の心に寄り添う」仕事の人間にとって、「忖度」は必要不可欠な援助技術の一つだと言うことができよう。

ところが、2017年に「森友学園」の事案が政治問題化したとき、財務省の官僚が当時の内閣総理大臣の妻の意思を「忖度」したと、当時の学園経営者が述べたことを契機に、反体制側のメディアはこぞって、「忖度」が許されざる行為であるかのように論った。「忖度」があたかも「悪事の隠蔽」「権力者への媚び諂(へつら)い」と同義の汚らわしい行為であるかのように乱用したのだ。

私自身、ことが発生した当初には、さほど事態を重く考えず、消化器系の薬の名称に引っ掛けて「ザンタックより効果あるのはソンタック?」など、ダジャレを言っていた。しかし、特定のメディアの論調により、次第に常軌を逸した強引な意味の置き換え(転義)が目立つようになっていく。

そして、乱用はメディアやジャーナリズムの枠にとどまらなくなった。現在に至るまで、言葉の本来の意味に疎い各業界の論者が、自説の中で「忖度」をネガティヴな意味で安易に使用する事態が続いている。そもそも正しい意味で使われていれば、このような現象自体が起きなかったはずである。意図的な歪曲を惹起したメディアの罪は大きい。

この問題については、すでに清湖口敏(せこぐち さとし)氏も論評している。「産経は右派メディアだから、左派メディアを攻撃したんでしょ?」と思われる読者があるかも知れないが、言葉の原義・転義の解釈に右も左も関係ない。左派だろうが右派だろうが、日本語の意味を無理矢理歪めてはならないことは当然だ。引用した論評で氏が指摘している内容は、大枠でその通りだと筆者も思う。

この歪曲は日常のコミュニケーションに重大な支障を来たすことにつながる。意思表明が難しいクライアントに「忖度」すると表現するだけで、あたかも支援者がその人の悪事・不正・愚行を容認するかのように受け取られることは、決してあってはならないのだ。専門的な援助技術に基づき、クライアントの幸せを希求するために必要な行為であることを、私たちは多くの市民に広く訴えていかなければならない。

権利擁護に係る職業をはじめ、広く対人サービスに携わるみなさん。いまこそ、ひるむことなく堂々と「忖度」の言葉を使い、誤解している人たちには粛々と正しい意味を説明して、理解を深めていこうではないか!

2023年8月19日 (土)

「席次」を軽視するなかれ!

かつて、筆者が自分の所属する職能団体の役員(代表者の次席。序列二位)をしていた時期、こんなハプニングがあった。

別の職能団体(創立百年と歴史が古く、政治力も大きい団体)からの提案で、両団体の役員が対面して協議をすることになり、当団体から四名(一名は非役員)が出向いた。会議室ではいわゆる対面式で、先に先方団体の役員五名が片側を占め、代表者が真ん中(奥から三番目)に座っていた。ところが、当団体があとから入って行ったとき、先頭を歩いていた代表者が、四席のいちばん奥に座ろうとした。私はすぐ気付いて、代表者に奥から二番目に座るように促し、私が一番奥に着席して事なきを得た。この場合、第一席の人同士が正面から向き合う形になるために、先方団体は奥から(4)(2)(1)(3)(5)、当団体は奥から(2)(1)(3)(4)が正しい座り方なのだ。やりとりの最中、先方の代表者が「団体として未熟だなぁ」と言わんばかりに笑みを浮かべていたのを覚えている(両代表はきわめて近しい協働関係にあったので、もちろんこの一件だけで信頼を損ねたことでは全くない。念のため)。

「席次」に関する最低限の知識を備えていないと、相手側の失笑を受けることになりかねない。

登壇して画像を撮ったりメディアに相対したりする場合、真ん中が第一席だが、和式と洋式(事実上の国際式)とでは、左右の上下が異なる。

日本の伝統である和式の席次は、最上位者の左(向かって右)が第二位、右(向かって左)が第三位、以下、左第四位、右第五位と続く。

一方、洋式の席次を踏まえた国際式の席次では、左右が逆になる。最上位者の右(向かって左)が第二位、左(向かって右)が第三位となる。

さて、しばらく前に日大で行われた、アメリカンフットボール部員の不祥事に関する会見で、「席次」が話題になっている。経済ジャーナリストの磯山友幸氏が、会見の席次を踏まえて、林真理子氏がお飾り理事長であると評したのだ。

この会見では、向かって右手から三人が登壇し、そのときには林理事長が先頭だった。ここまでは問題ない。ところが、林氏はそのまま奥(向かって左)に着席し、真ん中に酒井健夫学長、手前(向かって右)に澤田康広副学長が座った。あらかじめ職名と氏名が記載された紙が席に貼ってあったので、日大側が決めた席次であることは明らかだ。

メディアに向き合っていわば「ひな壇」に並ぶのであるから、ドメスティックな色彩が強い(あくまでも筆者の個人的な評価であるが...)日大であることを考えれば、磯山氏が理解している通り、和式の席次によって、序列が(1)酒井氏(2)澤田氏(3)林氏の順だと受け取られてもしかたがない。

磯山氏の指摘に対し、異論も唱えられている。学長は教学に最高責任を持つ立場であるから、実質的に理事長と同等であるので、今回は主として説明する立場である以上、真ん中に座るのは問題ないとの見解だ。

しかし、これはおかしい。それならば大学側がそのように説明すべきである。何の説明もないまま理事長が「向かって左端」に座っている場面を見せられれば、マナーを心得ている誰もが「学長が理事長より上座なのか?」との疑問を持つ。法人としての会見である以上、「法人の代表者」が最上席に座るのが社会通念である。たとえ会見の大部分で酒井氏が受け答えすることを想定していたとしても、あくまでも真ん中に着席するのは林氏であるべきだろう。もし「現実的な力関係」を反映した並びをあえて演出したとすれば、日大組織の実体を露呈してしまったことになる。

形式偏重の面倒な議論だと思う読者がおられるかも知れないが、「席次」はゆるがせにできない問題なのだ。上座・下座をめぐる手配が適切さを欠くと、亀裂や重大な誤解が生まれることも少なくない。

の事例に限らず、私たちはニュースで見聞きする事案などに敏感になり、他者から指弾を受けない整然とした組織活動を心掛けたいものである。

2023年8月12日 (土)

自作チャーハンの楽しみ

好きな料理は?と尋ねられたら、鶏肉(もも肉・むね肉)料理やエビ料理の一品になるだろうか。定休日である日曜日や水曜日のディナーとして、下ごしらえに時間を掛けながら調理する。食材の品目が多いと、準備にはもちろん、食後の食器洗いにも手間が掛かるので、面倒に思うこともあるが、それも計算に入れながら一連の工程をこなしている。

他方、ラーメン(昼食)やカレー(夕食)、またパスタソース(同)は、市販の品で済ませている。自作すると結構な質量の工夫が要るので、袋麺(乾・生)やレトルトのカレーのほうが手っ取り早い。

さて、定休日にご飯を炊いて(一合半)、三日で食べ終えているが、最終日には所定の保温時間(30時間)を過ぎている(48時間)ので、中らないために「火を加えなければ」となる。

そこで、火曜日や金曜日の夕食は、チャーハンにすることが多い。

基本は中華調味料(「創味シャンタンDX」)に、自然塩少々、減塩の醤油をちょっとだけ加えて、合わせ調味料を作る。具材はミックスビーンズが多く、他に枝豆、マッシュルーム、キクラゲなど。ただし二種類同時に使用することはない。薬味に刻みネギ、香味代わりに炒りゴマを加えるのが習慣になった。

しかし、ときどきは変わった一品を作ってみたいこともある。

Takanachaahan

これは高菜チャーハン。パックの漬物を活用。オリーブオイルに自然塩のみ。赤唐辛子を入れると味が引き立つ。

Sakechaahan

こちらは鮭チャーハン。ビン詰めの「あらほぐし」だが減塩バージョンで。中華調味料を小さじ半量程度にして食塩相当量の合計を抑制した。

前述のように具材を次々と入れ替えれば、同じチャーハンは月に一回程度になるので、飽きることもない。

美味しく食べられる喜びを噛み締めながら、その日の一品を味わいたいものである。

2023年8月 5日 (土)

身の丈に合った運転を

現代社会に車は欠かせない。

いま、筆者がプライバシーでもビジネスでも使っている一台は、緑のデミオ(マツダ)だ(画像)。2014年に購入して9年。自分の愛車として四台目になる。

これまで、夜間でも視認してもらいやすいように、比較的明るい色の車を選んできた。

20140702demio

さて、この10月から新しい車に買い換える予定である。薄い灰色のアルト(スズキ)。いまの車ほど目立たないが、深夜の時間に走ることはほとんどなくなった。また筆者には家族もいないので、仕事で出向いた先で駐停車しやすいように、軽に乗り換えることにした。

自分の年齢から考えると、よほどの事態が起きない限り、この五台目が最後になるのではないか。やがて普及するであろう自動運転車も魅力的だが、オペレーションの全体像を呑み込むのも厳しくなるから、自分には縁がないかも知れない。むしろ次の一台で公私ともに身の丈に合った運転をしながら、70代後半まで安全に操作することができれば、それに越したことはない。仕事から引退したら距離はグンと減るので、長持ちさせられれば好いなぁ、と思う。

事故を起こさないこと、事故に巻き込まれないことを願いつつ、先の計画を立て始めている。

2023年7月22日 (土)

甚だしいメディアの劣化(2)

かつてアイドルだったタレントが何か事件を起こして、報道されるたびに思う。

知名度の高い人はいつまで、すでに脱退したグループや組織の名前で「元○○」と呼ばれなければならないのだろうか? 中には脱退して20年、30年になる人もいる。メディアの側は視聴者や読者の耳目を引き付けたいので、すぐに過去の肩書きや経歴を持ち出してくるのだが、何かあるたびに名称を出されるグループや組織の現在のメンバーにとっては、迷惑千万に違いない。

さて......、

20日、滋賀県大津市で、40歳の男性が離婚した元妻の自宅へ侵入し、元妻とその父親をクワで襲撃して負傷させ、殺人未遂の容疑で警察に逮捕された。

この容疑者が将棋の元プロ棋士(八段)であったことから、メディア(テレビ、雑誌など)は彼の棋士としての半生を延々と伝えている。もちろん、どんな事件であっても、それを引き起こした人物の経歴を報道することは常の話であり、それ自体には何の問題もない。

しかし、容疑者は2021年に棋士から引退したのみならず、2022年には日本将棋連盟から退会している。つまりプロの将棋界にとっては、いまや直接的な関わりは何もない一個人である。

にもかかわらず、少なからぬ報道の中で、容疑者と現在の将棋界とを結びつけるかのような論評が見受けられる。中には事件のタイトルに「将棋界に激震」「将棋界を揺るがす」などの表現を用いているものもある。容疑者がかつて対戦した相手として、羽生九段(永世七冠)や藤井竜王/名人の名前を出しており、あたかも将棋界の体質が影響しているかのように印象操作している(と筆者には受け取れる)社もある。

全容が明らかになっていると言えない面もあるが、この事件の輪郭は以下の通りだ。

「30代(当時)の男性の妻が、子どもを連れて家を出て行き、一方的に離婚した。男性は子どもに面会できない状態が続いていることに激怒し、元妻を相手取って子どもの親権の回復を主張していたが、結果的に敗訴した。納得できない男性は元妻を誹謗中傷し、刑事責任を問われて執行猶予付きの有罪判決を受けた。ところが、さらに精神的に追い詰められた男性は、元妻の家に侵入して凶行に及んだ

つまり、これは子どもの親権をめぐる社会問題なのである。

すでに一昨日の事件については、共同親権の是非をめぐって、「子どもに会えない側の親が苦痛を味わうのが理不尽なので、共同親権を認めるべき(推進派)」「暴力的な親に親権を認める危険は大きく、単独親権が望ましい(反対派)」など、ネットでもさまざまな見解が飛び交っている。

日本将棋連盟は何のコメントも出していないし、出す必要もない。そもそも「将棋をめぐる事件」では全くない。

メディアが容疑者の属性として「元棋士」を強調することは、この問題の本質をきちんと報じないのに等しい。前述したネット上の意見は、これまで親権問題に取り組んでいた人たちを中心に、関心のある人たちに限られている感がある。いま、離婚や再婚、ステップファミリー、同性婚など、家族のありかたはどんどん多様化している。その中では、一人ひとりの子どもにとってどうすることが最善なのか? 筆者のような子育て経験のない人も含め、多くの市民が議論に加わるのが、日本社会の行く末のために望ましいはずだ。それこそ多様な意見を調整する役割を持つ「こども家庭庁」の出番でもある。

表題を「元棋士が...」とすれば、ミスリードになる危険性が大きい。才能あふれた高段者だったはずの元棋士の変転を嘆く人たちの気持ちは理解できるが、多くの視聴者・読者の関心が「将棋界」へ向いてしまうと、本質とは関係ない部分が大きな比重を占めてしまう。議論喚起のためにはマイナスでしかない。

ここにもメディアの劣化が窺えるのは、残念なことだと言えよう。

2023年6月21日 (水)

名古屋城復元に関する大きな誤解

先に6月3日、名古屋城天守の木造復元に関する市民討論会が開催されたが、その際に「車いすの人たちが最上階まで観覧できる」エレベーター等の設置をめぐり、議論が白熱した。途中で、設置反対派の「健常者」から、障害者を非難する言葉や差別用語が飛び交うなど、常軌を逸した発言が続き、混沌とした討論会になったと伝えられている。

見聞きした範囲での話だが、筆者の正直な感想を一言で言えば、「この討論会は不要だった」。

多くの市民の間には、どうも大きな誤解があると思う。

障害者差別解消法の第五条(2016施行)によれば、「行政機関等及び事業者は、社会的障壁の除去の実施についての必要かつ合理的な配慮を的確に行うため、自ら設置する施設の構造の改善及び設備の整備、関係職員に対する研修その他の必要な環境の整備に努めなければならない」。また同法第七条の二によれば、「行政機関等は、その事務又は事業を行うに当たり、障害者から現に社会的障壁の除去を必要としている旨の意思の表明があった場合において、その実施に伴う負担が過重でないときは、障害者の権利利益を侵害することとならないよう、当該障害者の性別、年齢及び障害の状態に応じて、社会的障壁の除去の実施について必要かつ合理的な配慮をしなければならない 」となっている。

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それでは、「負担が過重でないとき」とはどのような意味なのか? 当然だが事例ごとに千差万別であるから、同法の施行令などに具体的な基準が示されているわけではない。

同法の基本方針によると、(1)事務・事業への影響の程度(事務・事業の目的・内容・機能を損なうか否か)、(2)実現可能性の程度(物理的・技術的制約、人的・体制上の制約)、(3)費用・負担の程度、(4)事務・事業規模、(5)財政・財務状況、これらの5項目に関して、過重にならないことが掲げられている。筆者はこの5項目に加えて、(6)他者の健康や安全に不利益や脅威を与えないことも、当然加えられるべきだと考える。

基本方針によれば、これらの諸点については、行政機関等及び事業者と障害者の双方が、お互いに相手の立場を尊重しながら、建設的対話を通じて相互理解を図り、代替措置の選択も含めた対応を柔軟に検討することが求められる、とされている。したがって、河村たかし市長が、復元天守の二階まで行くことができれば合理的配慮だと言えると解釈していること自体が誤っている。合理的配慮の度合いは、行政機関の首長の主観をもとに決められるものではないからだ。

他方で、障害者側(個人・団体)からの要求に対して、何が何でも100%の実現を目指すのが同法の趣旨ではない。だからこそ「お互いに相手の立場を尊重しながら、建設的対話を通じて相互理解を図る」必要がある。その建設的対話の当事者は「行政機関等及び事業者」と「障害者」である。この中に、合理的配慮自体を否定する(昇降設備自体に反対する、ましてや障害者を差別視する)一般市民を交えること自体が間違いだ。だから筆者は市民討論会自体が不要であると断言したのだ。

エレベーターが良いのか? 電動かごが良いのか? 他の方法があるのか? また、車いす利用者が最上階まで行くことは、上記(1)~(6)に抵触しないのか? 議論を尽くした上で協調点を見出し、その結果として、ほとんどの障害者が最上階まで観覧できる方法について双方了解したのであれば、市当局が「○○年までに史実通り復元する。他方で△△年までに昇降装置を設置する」と発表して踏み切れば良い。

あるいは河村市長や市当局が、内外の景観も含めた「史実に忠実な復元」を目指すのであれば、市長の主張にのっとった説明を丁寧に行い、障害者団体の理解を求めることも一つの考え方であろう。たとえば「(1)事業目的を尊重するのならば、景観を損なわないために、天守から離れた位置に外付けの昇降装置を備え、支援が必要な人が来場した際に装置を城へ近接させて利用する。ただし、それを設置すれば(3)(5)著しい建設費用と維持費用が掛かり、バリアフリー復元の見本として来場者数が増えることを見込んでも、他部門の無駄な経費を削減しても、市の財政逼迫は免れない(→(6)それによって配慮が必要な属性を持つ他の人たちへの福祉施策が後退する、または一回ごとに装置を移動させるため他の来場者に脅威や著しい不便をもたらす)」など、具体的な数字の試算やオペレーションの想定により、明らかな「過重」であることを丁寧に説明して、納得してもらうことも必要だ。

「やらずもがな」の市民討論会のため、心を大きく傷付けられた障害者の人たちの思い、察するに余りある。

河村市長には旧態依然たるポピュリズムのパフォーマンスを事とするのではなく、さまざまな属性を持つ一人ひとりの名古屋市民に寄り添った市政を展開してほしいと、(母の実家が名古屋市にある)筆者は願っている。

(※画像=城のイメージは(株)メディアヴィジョン(いまは社名変更?、または解消?)発行の、使用権フリーのものを借用しました)

2023年6月 6日 (火)

G7広島サミット雑感(2)

前回から続く)

 広島サミットについて思ったこと第二弾。

(5)習近平政権に譲歩は不要
 このサミットの共同声明の中には、中国に関する言及が随所に見られた。参加首脳の中には、フランスのマクロン大統領のように、中国との適切な距離感をめぐって日本や米国と一線を画する姿勢を取った人もいる。共同声明では中国にこれまでと同様の対応を求めながら、新たに「外交団への干渉をやめよ」と要求する一方、「建設的かつ安定的な関係を構築する用意がある」と追加している。
 これは習近平政権に十分配慮した内容であり、マクロン政権が(上記の基本姿勢とは裏腹に)ヌヴェル‐カレドニ(=ニューカレドニア)の独立問題をめぐり習政権と水面下で対立していることなども計算に入れると、G7としてはかなり抑制した表現を選択したと言える。したがって、中国の孫衛東外務次官から呼び出されて抗議を受けた垂秀夫大使が、毅然とした態度で反論し、中国側を批判したのは当然だ。日本の対中外交は「譲歩すれば争いを避けられる」の姿勢が目立つが、国際的にはむしろ垂氏の対応がスタンダードであろう。

(6)ウクライナ侵攻に相当するのは「台湾有事」ではない
 とは言え、台湾をめぐって中国が事態を緊迫化させている現実がある。この「台湾有事」に関しては、国民の大部分が大きな誤解をしている。「ロシアによるウクライナ侵攻」は、ロシア側から見れば「一応国境線が引かれていたけれど、〔自国系=ロシア系住民の割合が多いので〕本当はウチの領土」である地域に攻め入ったものだ。中国から見た台湾はこれに該当しない。台湾は「もともと。ウチの一地方」なのだから。
 そして、中国側にとっての「再議すべき領土」は、沖縄県や鹿児島県奄美群島を指す(先方が「むかしは中国系の住民」だと主張する市民の人口が本当はどの程度なのかは、ひとまず措くとして)。鄧小平政権時代から、中国の公的機関が発行した地図には、奄美群島までの離島が中国の色で囲まれている。すなわちロシアによるウクライナ侵攻に該当するのは、「台湾有事」ではなく、将来想定され得る「沖縄・奄美有事」なのだ。日本国民はこれに対して真剣に備えなければならない時代に差し掛かっている。

(7)食糧を確保するためには国民的な努力が必要
 このウクライナ侵攻に伴う穀物や燃料などの国際的な不足を契機に、サミットの中で国際的な食糧安全保障について協議されたことは一つの前進である。とは言え、それは日本国民が食糧を確保できることを意味しない。私たち日本国民が現在のように、食べ物を粗末に扱う姿勢を続けていると、声明で食糧安全保障を唱えても、多くの国の市民たちには響かない。
 まだまだと思っていても、世界規模の飢餓がいつの間にか日本にも忍び寄っている。これを回避するためには、国民レベルで前述のような不遜な考え方を改めていくことも大切だが、他方で国として「取引材料」を持つことも求められる。たとえば、資源貧困国だとばかり思われていた日本でも、近年は南鳥島のレアアースや種子島のメタンハイドレート、さらに伊豆青ヶ島の金などの産出が期待されている。
現場に人材を集め(○○年までに資格を取れば高給で優遇するなど、若者たちを勧誘しても良い)、最新の技術を駆使して、一日も早く採掘にこぎ着けることも必要であろう。それらを一定程度の強制力を持たせた国の統制下に置き、「日本から△△を提供するので、食糧を分けてください」と要請する展開が望ましい。

(8)結局、みな自国が大事
 壊されている世界平和を再構築するために、国際協調は大きな意義を持つものであり、そのために今回のG7広島サミットのような機会が重要であることは間違いない。しかし他方で、参加国それぞれ自国が大事であることも冷厳な現実だ。縮小開催された形になったクアッドにしても、日・米・豪・印それぞれの思惑がある。中国と国境紛争を繰り返しているインドは、水面下では中国との間で「落としどころ」を探っているのが正直なところであり、かなりの場面で日本とは「同床異夢」である可能性が強い。
 あくまでも今回のサミットは一つの通過点であり、今後の各国の駆け引きが、どの分野でそれぞれの勢力圏を維持・拡大するかを左右する。日本国民の一人として、これから各国が展開する権謀術策の渦中で、日本が取り残されないことを祈りたい。

 以上、思いつくままに列挙してみた。ご笑覧ください。

2023年5月25日 (木)

G7広島サミット雑感(1)

先日、広島で開催されたG7サミット。1975年の当初はG6(カナダは翌年から参加)で始まり、また途中の一時期、G8(ロシアが1998-2013参加)になったこともあったが、紆余曲折を経て第49回を数える。

今回はさまざまな意味で、世界の注目を集めた会議となった。その成果について、絶賛するものから酷評するものまで、百花繚乱と表現すべき、さまざまな見解の論評が行き交っている。

筆者は政治評論家でもなければ、政界や財界の人たちとお付き合いがあるわけではない。とは言え、自国が主催国となって開催された会議であるから、当然のことながら高い関心を持って眺めていた。閉幕したいま、この会議を眺めた自分の所感を、箇条書きに整理して述べてみたい。

(1)課題は多く残ったが、一定以上の「成功」であった
 総合的にはこの会議の成果を評価したい。「自由・民主主義」「法の支配」「市場経済」など共通の価値観を持つ(七か国ごとの政権によってかなりの温度差があるものの、いまのところ基盤の部分は何とか共有している)各国首脳が一堂に会して、国際社会に対し、とにもかくにも同じ方向性のヴィジョンをう打ち出すことができた意義は大きい。

 そして各論。

(2)プーチン政権への非難は当然である
 大きな主題の一つに、ロシアによるウクライナ侵攻への対処がある。この点についての答えは明確だ。
 たとえ「過去にスターリンが線引きしたもの」であろうが、すでに両国間の合意により画定された国境を越えて、武力による侵攻を行ったのはロシアのプーチン政権側であり、この事実には一点の疑義もない。百歩を譲って、ミンスク議定書の破綻の原因が主としてウクライナのゼレンスキー政権側にあり、ウクライナ領内のロシア民族や親ロシア勢力の人たちが、ウクライナの極右勢力に殺害されたり権利を侵害されたりする事実があったにせよ、それは侵攻を正当化する理由にはならない。ましてやミンスク合意の時点ですでにロシアが実効支配していたクリミアをはじめ、占領した土地を「住民投票の結果」と称して一方的に自国の領土に併合する行為は、国際法違反以外の何ものでもない。
 この戦争を終結させるためには、何年かかろうが、ロシアが「2014年以降の占領地域」から全面撤退して、そこから両国国境の帰属に関する事案を仕切り直すことが唯一の選択肢だ(少なくとも当分の間、プーチン政権側は絶対に承知しないとは思うが...)。
 G7および同盟諸国がプーチン政権を非難することは理にかなっている。日本はNATOに加盟していなくても、米国と「同盟関係」にある以上、協調路線(もちろん米国の言いなりになるのではなく、日本側の提案や意見をしっかり主張しなければならないが...)を取らなければ「背盟」となる。極端な話、日米安保を廃棄されても文句は言えない。独力でロシアや中国と戦える軍事的な準備をしていない以上、これが既定路線であろう。

(3)ゼレンスキー政権を正義の味方と位置付けるのは不適切だ
 しかし、ウクライナ側に問題がないわけではない。上記ミンスク議定書の破綻も含め、ゼレンスキー政権側の民族主義的な立場からの策動(ロシア系住民への権利侵害を含む)があり、ロシア側を挑発したことは明らかだ。
 また、G7サミットでゼレンスキー大統領は真っ先に(?)イタリアのメローニ首相と喜色満面でハグする姿が放映され、しばらく前に自ら西欧を訪問した際にも、最初にイタリアへ飛んでメローニ氏と懇談して支援を要請しているが、同氏はムッソリーニ礼賛者の極右政治家として知られており(首相就任後はその色をやや薄めている)、ゼレンスキー氏がメローニ氏との親近感を見せ付けることにより、プーチン政権側が非難する通りの「ネオナチ」だと評されてもしかたがない。
 さらに、米国のバイデン政権は、ゼレンスキー政権側を一時期批判していたが、侵攻後は軍産複合体の利益を反映させ、武器供与を通してウクライナ民族主義勢力とうまく結び付いた(ユダヤ系ネットワークを介して手を結んだものと推測する)と言えよう。
 独裁的な政治手法(ある種のポピュリズム)や個人的な蓄財などの問題も軽視できない。
 日本政府の外交当局は氏の政権が抱える実態を正確に把握した上で国際政局に臨まないと、痛い目を見ることになる。「ゼレンスキー氏が正しいから支援する」のではなく、「ウクライナの現状を憂慮して人道的な見地から支援をする」姿勢を取ることが求められる。

(4)核兵器がなくなっても国際平和は来ない
 広島サミットの一つの大きな主題が「核なき世界」の実現へ向けてのメッセージであった。全参加国の首脳が原爆資料館を見学し、慰霊碑に献花したことは、たとえ一つの出発点に過ぎないとは言え、大きな意義を有するものであろう。
 しかし現実には、米国はもちろん、英国・フランス・インドも核兵器を手放す方向性は全くない。またドイツ・イタリア・カナダはNATOを通じて、日本・韓国・オーストラリアは米国との軍事同盟を通して、それぞれ「核の傘」のもとにあるため、核廃絶運動との関わりは限定的なものとならざるを得ない。
 他方でロシア・中国・北朝鮮が国際的な非難を回避するために、EMP攻撃(人間の殺戮よりも都市機能の破壊を目的とした特殊な核攻撃)も含めた戦略を練っているとしたら、国際的な折衝はさらに難航するであろう(筆者はその専門家ではないので詳細な分析はしない)。
 加えて述べると、将来本当に「核廃絶」が実現したとしても、戦争したい国や政治家は通常兵器の性能向上を目指すことになるので、局地的な戦争が発生すると殺傷行為が残虐化して、惨禍はより大きくなる可能性があることも、頭に置いておくべきだ。「核廃絶」を目指して今回のサミットに不満を表明する人たちは、この点について理解しているのだろうか?

(5)~(8)その他の諸点
 以上、重要なポイントを掲げたが、他にも言及しておきたいことがいくつか散見された。長くなるので、後日、稿を改めて述べてみたいと思う。

次回へ続く)

2023年4月28日 (金)

コンフロンテーション

不慣れな概念にも一度接したら、それを吸収し、やがては自家薬籠中のものとしていきたい。そんな姿勢で38年間、仕事や社会活動を続けてきた。

私たち介護支援専門員や社会福祉士は、コンセンサス(一致、合意)を大切にする。クライアント(利用者)の意向を尊重し、アドヴォカシー(代弁)機能を働かせ、本人に寄り添った支援計画を立て、協働するチームを構成する機関・事業所などの人たちと課題を共有しながら、支援方針についての合意を形成する。介護・福祉の現場で調整役を担う専門職として、望ましい姿には違いない。

ところが、この原則に忠実過ぎることが、かえってクライアントにとって最善の支援にならない場合があるのだ。たとえば過剰なサービス利用が心身の機能低下を来たし、クライアントの自立を妨げる場合など。

そのような場合にはコンセンサスの前に「コンフロンテーション」の技法を駆使しなければならない。辞書を引くと「対立」とあるが、支援過程の議論の中で用いるのであれば、「対置すること」「直面させること」と理解するのが適切と思われる。クライアント側の意向とは異なる自分の見解をテーブルの上に持ち出して、クライアント側と向き合うことを意味する。

この場合、支援者は支援計画を法制度の枠にはめ込む役割を演じるわけではないので、対置する見解はノーマティヴ(規範にのっとった)である必要はない。むしろ規範から外れた柔軟な発想を持たないと、コンフロンテーションはうまく機能しない。クライアント側が「杓子定規」「がんじがらめ」と認識してしまうと、直面すること自体に不快感を覚えることになるからだ。

また、コンフロンテーションの過程で大切なのは、「両者の真ん中辺りで妥協すること」ではない。期日を決めて支援計画を仕上げなければならないのならば、どこかで「落とし所」を探る努力はしなければならないが、それは「中間点」とは限らない。「クライアントにとって最善の着地点」を見付けなければならない。

そう考えると、コンフロンテーションの技法を使いこなすには結構な力量を要する。私自身、日頃からこの技法を活用しているが、最終的に好結果を招いた事例ばかりではない。クライアント側の不満を招き、解約に至ったことも複数回経験している。

とは言え、利用者の要望を無批判でケアプランにしてしまい、厚労省や学識経験者たちから「御用聞きケアマネ」「言いなりケアマネ」と貶められる三流(?)の介護支援専門員たちが、コンフロンテーションの術(すべ)を弁えていないことは明らかだ。

私の周囲を見回しても、介護支援専門員や社会福祉士の中に、この概念を知らない人が多過ぎる。専門職能教育の場で、コンセンサスとコンフロンテーションとをしっかり学ぶ機会に乏しいのは、嘆かわしいことであろう。

2023年3月31日 (金)

間もなく四半世紀

私が介護支援専門員実務研修受講資格試験(いわゆるケアマネ試験)に合格したのは、介護保険制度開始前の1998(平成10)年。誇り高い第一期生の一人だ。それから間もなく四半世紀を迎える。

当時、介護支援専門員はこの制度の弁護士のような存在になると期待されていた。現実にはその観測通りに経過したとは言い難い。

先に制度があって、それを踏まえて国によって作られた資格であることが大きな制約となり、介護支援専門員は政策の変転に振り回されてきた現実がある。他方で、少なからぬ介護支援専門員が資質の向上に熱心ではなく、組織の一員として仕事をすれば良しとしていることも、地位が向上しない原因であろう。

そして、いまや適切なケアマネジメント手法、ケアプランデータ連携システム、AIの導入やICTの活用などが主題となり、一つ間違えれば、介護支援専門員が展開する居宅介護支援・予防支援は、本来あるべきケアマネジメントとは別の方向へ舵を取ってしまうことにもなりかねない。

そのように危惧する背景や要因については、稿を改めて論じてみたい。

確か、介護保険制度が始まった2000(平成12)年、今年と同じく4月1日が土曜日だったと記憶している。当時の業界では、「走りながら考える」と称されていたこの制度の幕開け自体が、エイプリルフールではないかとも言われたものだ。

そんなことを思い起こしながら、来年度以降の介護保険制度、介護支援専門員の行く末について、ぼんやりと考えている。

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