2018年4月22日 (日)

一品料理の悩み

先週で、母が帰天した後の事務的な諸手続きが一通り完了した。まずは一息。

いま、それと並行して納骨式の準備を進めている。カトリックでは仏教の「四十九日」のような法要の期日はないので、遺族の側が気持ちの整理をする時期を選び、教会と相談の上で日程を決めれば良い。自宅セキュリティの関係上公開はしないが、うちの場合は5月のしかるべき日に実施することになった。

さて、一人暮らしになってから最大の課題は、「何を食べるか?」である。

これまでも母が短期入所を利用して家に居ない日があったが、おおむね一か月のうち8~9日程度であり、それ以外の三分の二は「二人暮らし」だった。何かを多めに作ったり買ったりしても、二人でシェアできることが多かった。

いまは全くの一人暮らしであるため、スケールメリットが全くない状態になった。したがって、食材をどう組み合わせながら調理するか、かなり神経を遣う。社会的、道義的な責任から、食材を無駄にするなどの食物ロスをなるべく減らしたい思いも強い。

春から秋にかけて、朝食はパンと卵スープが定番。昼食はおおむね外食(たまに自宅でごはん、またはインスタントラーメン)。そして課題は夕食である。

冷凍食品や冷蔵食品などの既製品で間に合わせることも少なくないが、その場合にも、一人で食べ切れる組み合わせにするのはなかなか難しい。主食の量が日によってあまり差が生じるのも、個人的には好きではない。

料理は自分自身の趣味の一つでもあるため、週に3~4日は何がしかの一品料理を作っている。そのときには二人分のレシピで量を少なめに作って、何とか一回で食べ切ることが多い。

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上の画像は、和風サーディンとじゃがいもの蒸し焼き。三年ほど前からときどき作って母にも食べてもらった。いわし(サーディン)があまり好きではない母も、この料理なら食べられると言ってくれて好評だったのだ。オイルサーディンの場合もあり、そのときには味付けにみりんを加える。オリーブ油ににんにくを入れて熱し、玉ねぎと粉チーズを入れて焼いている。

下の画像は、牛肉と卵の中華風炒め。実は、むかし母がこれをときどき作って、若いころの私によく食べさせてくれた。ソースを試行錯誤してようやく母を超える味に到達したが、間に合わずに当人に味わってもらえなかったのが残念。オイスターソースと酒を大さじ1、しょうゆと砂糖を小さじ1の割合で、かたくり粉を混ぜてトロミのあんを作っておき、炒めながらかけて仕上げる形だ。

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このような具合に、ひとまず自己流で好きなものを食べることが多いのだが、長期的に考えると、栄養バランスにも留意しなければならないことは言うまでもない。「後悔先に立たず」の事態に至らないために、減塩、糖質抑制も必要であろう。従妹が企画・編集に携わったレシピ本や、知人の管理栄養士さんからの助言なども参考にしながら、より良い食生活のアレンジを模索している。

食べる楽しみと適正な栄養管理とは両立して当然。一人暮らしだと後者がおろそかになりがちだが、自分が健康で仕事を続け、趣味活動を長く楽しむためにも、今後は「上手に食べる」ことへ向けて、悩みながら頭を働かせていきたい。

2018年4月 5日 (木)

介護離職についての考察(7)

母が死去して一か月。各所への支払いがいったん終了し、相談した司法書士の指導を受けて、(たいした額ではないが)相続手続きのための書類を集めているところである。

他方、本業のほうはどうなっているかと言えば、昨年の春から夏にかけて、(推定)6人前後の利用者さんを確保し損なったため、冬に入ってからの逝去や施設入所やらで、利用者さんの数が大幅に落ち込んでしまった。

介護者としての拘束から解き放たれたので、失地回復に努めなければならないと思っている。私がもう少し若ければ、全く新しい仕事をベンチャー的に起こす可能性が開かれているかも知れないが、いまとなっては体力的な制約もあり、難しい。次世代の人たちには「こんな道もある」と背中を押してあげながらも、自分自身はおもに従来の業務の延長線上で仕事を続けることになろうかと思う。

さて、私は幸い自営業であったから、「介護離職しなくて済んだ」のである。

それでは、平均的な収入でつつましく生活していたところで「介護離職を余儀なくされた」中高年の独り者(性別にかかわらず)が、私同様、要介護3程度になった親を一年以上介護した場合はどうなるのだろうか。

まず、退職に際して雇用保険の失業給付は受けられる場合が多いが、当然のことながら職に就いていたときと同程度の収入は無くなる。加えて、介護サービスを導入しないと一人で介護を続けるのは厳しいので、サービスの種別にもよるが、これまでかかっていた衣食住の生活費に加えて、サービス事業者に支払うお金が必要になる。親が年金をもらっていても、そこから相当額の支払いが生じ、生計に影響するところが大きい。

そして、親の介護が終了した後は、よほど売り手市場になるような知見や技術を持っていない限り、すぐに再就職するのは難しい。年齢やキャリアの中断が障害になってしまうのである。介護が長引けば長引くほど、再就職は厳しさを増す。

これまでもいくつかのエントリーで述べてきたが、日本ではまだまだ、介護離職しないための仕組みが不十分である。それは企業側にも言えることであるし、介護サービス側にも言えることである。後者に関しては特にハコモノ作りが優先し、人の確保が追い付かないため、離職せずに「休業」や「業務縮小」に止めたい人たちのニーズに全て応えることができない。したがって、どうしても一定程度の介護離職者が発生せざるを得ない。

よほど余裕のある家庭ならともかく、多くはひとたび介護離職してしまうと親の年金に頼らざるを得ず、その親が死亡するとたちまち生計が苦しくなってしまうのだ。配偶者などの家族がいる場合と異なり、独りでは食費や光熱費のスケールメリットが無いことも、大きく影響する。

こう考えると、ときにメディアの紙面に登場する「年金詐取」も、それ自体は確かに犯罪に違いないが、理解できないわけではない。親の年金受給権者死亡届提出を意図的に怠り、不正に年金を受け続けてしまう独身の中高年がときどき問題になるのは、現実の生活苦が目の前に横たわっているからにほかならない。これまでともに生活していた親が「いない」という現実を受け止められない人さえいるのだ。私自身が体感して、その人たちの気持ちを痛いほどよく理解できた。

介護支援専門員や介護サービス職員などの従事者にとっても、決して無縁な話ではないのだから、重く受け止めてほしい。

すでに各方面でソーシャル‐アクションを始めている人たちはいるが、当事者の切実な声が政策に反映されるように、全国レベルでも地方レベルでも、業界仲間が力を合わせて地道に訴え続けていくことが求められるであろう。

2018年3月24日 (土)

人生の締め括りかた

いま、母が帰天したあとの事後整理を、必要なことから少しずつ進めている。昨日、年金受給権者死亡届を提出し、ひとまず第一段階が終わったところである。これから相続や預金の整理、また並行して会葬お礼や納骨の準備にかかることになる。

これまでの経過を振り返ると、母が前日に急変してから丸一日も経たないうちに死去していて、かつ、おおむね私一人で葬送の段取りをした割には、われながらスムーズに対応できた。

5日の朝、母の死亡診断がなされてから、すぐに教会の担当者Sさんと連絡を取り、氏の案内に従って教会が契約している葬儀社H社へ直接電話、まず病院から自宅への遺体搬送を依頼すると同時に、とりいそぎ8日の斎場の予約を取った。再度Sさんへ電話して神父様に問い合わせていただき、通夜と葬儀ミサ・告別式の開始時刻を決定、どの程度の人数に連絡するのかも(会場の割付に影響するので)おおむね内定させた。病棟で母のエンジェル‐ケアをしてもらい、H社の柩送の車が到着するまでの間に、母の実家(名古屋)の叔母夫妻、従妹(叔母の娘)への連絡、利用予定だった各介護サービス(5か所)へのキャンセルとお礼の電話もすべて完了した。

この間、一時間強。前日の母の様子から心の準備がある程度できていたとは言え、自分でも信じられないほど冷静で迅速な手順を踏んだと思う。

私自身が介護業界に居ることも、速やかに段取りできた要因ではあるが、何よりも、母自身が事前意思によって、連絡する範囲や葬儀のスタイルを決めてあったことが大きい。

16年前、父を葬送した際には、教会との連絡も、葬儀社の手配も、参列者への応接も、何かと後手後手に回って、弥縫的なフォローに追われ、手伝ってくれた親戚まで巻き込んで迷惑を掛けてしまった。そのことへの反省もあり、今回は可能なところから準備をしていたのは正解であった。昨年の1月、母の著しい体調不良で終末も予測されたとき、いくつかの点について本人の意思を確認しておいたことも幸いした。

母には、葬儀社は教会と連絡が取りやすいH社へ依頼することを、あらかじめ伝えてあった。また、母本人が近親者以外への連絡を望まなかったので、新聞掲載や自治会などへの通知はせず、親戚以外からのお花料やお供えも辞退して、簡素に執り行うことで合意していた。教会の信者の中では、聖歌隊などの典礼奉仕者の方々は別として、母と昵懇だった3名ほどの方(前のエントリーに登場したKさん・Sさん・Wさん)だけに声掛けすることについても、本人の了解を得ておいた。

事前に確認していなかったことだが、あえて母の気持ちを汲み取って、私の独断で行ったのは二点だけ。

一つは遺体の湯かんと化粧。母は2011年からベル麻痺を患い、顔面がやや歪んでしまったことを苦にしていた。息を引き取ってからは麻痺が消え、左右対称の端正な顔に戻ったので、最後は綺麗に化粧してもらって旅立たせようと思い、H社と契約している専門のメイクサービスを依頼した。質素な葬送の中、思いを込めてここだけはお金をかけている。私も所在を知らなかった母の着物と長襦袢とを、名古屋の叔母が箪笥の中から探し出してくれたので、化粧のときそれを着せてもらった。

もう一つは、葬送のあと、母が昨年まで食べ物などのやりとりをしていた数名の近所の方に電話して、弔問に来てもらったことである。母の口から名前が出なかったので葬儀の連絡はしなかったが、直後のお知らせだけはしておくのが、礼節を大切にした母の気持ちに沿うと判断したからだ。

このように、百点満点ではなかったかも知れないが、母の意思を全面的に尊重した葬送ができたので、ひとまず安堵している次第である。

一般的に「終活」と称されるが、「人生の締め括り方」は百人百様だ。個人差はあるものの、一定の年齢に達したら、自分の流儀を家族や親しい人に伝えておくことも大切であろう。不慮の事故や事件による死去の場合はともかく、通常の場合は事前に自らの意思を示しておくことで、葬送を執り行う遺族もあまり迷わずにいろいろな手配ができ、滞りなく厳粛に本人の旅立ちを送ることができるのだ。

生前の振る舞いや業績と、人生の締め括りの上手さとは、また別の話であろうと強く感じている。

2018年3月 9日 (金)

「行っていいよ」

私の母は1926(大正15)年8月7日、名古屋市中村区で、二男六女(夭折した者を含む)の三番目(二女)として出生した。高等女学校を卒業後、戦時中には軍需工場で働き、戦後は実家で病弱な父親と兄(私から見れば祖父と伯父)とを抱え、銀行などで働いて家計を支えた。

1953年、父と結婚して名古屋を離れ、磐田市中泉のアパートに居住。1960年に私が生まれたころには、仕事をやめて専業主婦になっていた。父は勤務先で大したポストに就けなかったのにもかかわらず、見栄を張って気前良く散財する性癖があったため、母は家計を緊縮して節約するのに苦労しながら、貯蓄にいそしみ、1970年にいまの自宅を手に入れ、家族で浜松市(現・西区)の家へ転居した。

私が大学へ入り、東京に出て生活したことで、母は自分の時間を十分に持てたはずなのだが、母が一人で他出するのを父が極端に嫌ったので、後味の悪い結果を避けたかった母は、旅行一つ行くことがままならず、不自由を余儀なくされた。そこで、その代償として、もともと編み物で師範の資格を持つほど器用であった母は、手芸を中心とした趣味活動に打ち込むようになった(なお、父の帰天後は、私が同伴して4回ほど旅行に出かけている)。

浄土真宗の家庭に生まれ、曹洞宗の家に嫁いだ母であったが、1965年に私を磐田聖マリア幼稚園へ入園させたことを機に、イエス‐キリストからのお招きをいただくことになる。浜松に転居してからは教会と疎遠であったが、磐田教会のインド国内ハルルへの対外支援活動「愛の泉」に参加、子どもの里親として学費支援に協力するようになってから、再び教会の活動に近づく機会を得た。父が2002年に帰天(臨終洗礼)した後、母も教会の洗礼を望むようになったので、2006年には私が所属するカトリック浜松教会の小林陽一神父様に数回ご来宅いただき、公教要理のいわばダイジェスト版によるご指導を受けた。2007年に浜松教会にて受洗(霊名マリア)。

高齢になってからも趣味活動を続け、地域でも豊かな人付き合いを続けていた母であったが、体力の限界もあり活動から一つずつ引退していった。2011年に顔面神経麻痺を患ったのを機に、少しずつ身体的な制約が加わり、これまで一人でこなしていた家事も、掃除→買い物→調理と、少しずつ私が手伝う部分が増えていった。それでも洗濯だけは私の衣類も含め、一人でがんばって続けていた。

教会へは私が同伴してときどき赴いていたが、次第にミサ参列が難しくなったので、自宅での短い祈りを日課にしていた。2016年に一度だけ、私と一緒に教会へ行き、山野内公司神父様から霊的指導をいただいている。そのときの神父様のご助言は、「死へ向かうことよりも、いま一日一日をどう生きるかを大切にしましょう」。

2017年1月19日から高熱が続き、薬の副作用か、一時は味覚異常で摂食できなくなり、慢性心不全を持っていたことから予後が危ぶまれたが、味覚が正常に戻るに連れ、本人の努力もあって食欲が回復した。要介護3の状態になり、ADLも低下したとは言え、自宅内ではときどき見守りがあれば身の周りのことがこなせるようになり、介護サービスを受けながら平穏な在宅生活を送っていた。私の手料理が美味しいと喜んで食べてくれることも多かった。「私は神様に生かされているんだね」と何度も話していた。

交替で来宅するホームヘルパーさんたちには、信頼してケアを任せていた。また、隔週で利用・滞在するショートステイの職員さんや他利用者さん、陽気で懇切丁寧な管理指導をしてくださる訪問歯科衛生士さんなどとも、意欲的にコミュニケーションを取り、春夏秋冬、楽しい日々を過ごしたことが多かった。昨年の誕生日には、「私、91かね。まだ若いな。もう少し生きなければ」と言っていたものだ。

2018年に入り、正月の餅も連日無事に食べ、気になっていた右上下の第三大臼歯(おやしらず)の抜歯を済ませて、復活祭が来たらこれまでと違う美味しいものでも食べようか、と話し、本人も楽しみにしていたのだが...

3月4日(日)の昼食(インスタントラーメン)を普通に摂り、私も休日だったので二階の部屋へ引き上げて仮眠。ところが15時に階下の母の居室へ行くと、「胸が痛い! さっきから呼んでいるのよ...」と言い、姿勢を転々と変えながら発汗、苦悶していた。すぐ訪問看護に緊急相談、無理せずに救急車を、との助言に従い、聖隷三方原病院へ救急搬送、16時過ぎに入院となった。循環器科の医師の診断によると、心筋梗塞で心臓が止まりそうな状態。カテーテル手術等の侵襲は年齢から難しいので、点滴と医療用麻薬(苦痛緩和)の処置になるが、一般的にきょう一日のうち、早ければ1~2時間とのこと。

急遽、母の大親友だったOさん(70代前半、女性)に病院まで来てもらった。二人で母と話しながら見守っているうちに、18時半ごろには応答がなく下顎呼吸になり、心電図モニターの表示が著しく不整、かつ弱くなったので、二人で手足を握ったりさすったりしながら看取りモードに入った。その後、ややモニターの表示が落ち着いたので、Oさんにお礼を言って帰宅してもらった。麻薬が奏効したのか、自分で枕の位置を直し、発汗のため上半身の布団を手で除けるなど、少し力を取り戻した感があった。

モニターは弱目ながら安定が続いたため、21時30分ごろにいったん帰宅しようと、母の手を握って、「一度、家へ帰るよ。明日必ず来るからね」などと言っていたら、母はかすれ声ながらはっきり、「行(い)っていいよ」と返してくれた。私が母から聞いた最後の言葉。これまでの母の姿勢から推し測れば、単純に帰宅して良いとの意味ではなく、私に「自分の道を進め」と、背中を強く押してくれたものだと思う。

翌5日(月)の朝、朝食・ゴミ出し・洗濯などを終えて、身支度が終わった直後、病院から「下顎呼吸が始まったので、すぐ来てください」との電話が入った。間髪を置かず車で出発して、雨の中、25分ほどで病院に到着。病棟に駆け付けたときは8時57分、母はすでに目を開けず、身体を動かす力も残っていなかった。

母の手を握り、「お母さん! 本当によくがんばったね。長い間本当にありがとう」と声を掛けると、それを聞いて安堵したのか、5分後の9時2分にモニターの数字がすべてゼロを示し、息を引き取った(医師による死亡確認は9時6分)。入院して18時間のがんばりを経ての収束。残念ながら自宅での「大往生」はかなわなかったが、推測する限り、ただ一人の家族である私に看取られて91年6か月の人生を終えた母は、まずは幸せだったと言えるのではないだろうか。

母から息子である私への最後の教訓は、一年以上前、すでに聞いてあった。「誰にでも心を開いて付き合いなさい」。母が日頃から実践してきたことだ。そのために地域から「人が好過ぎる」と言われたこともあったが、またそれゆえに多くの人から愛されてきた。

7日(水)にカトリック浜松教会で行われた通夜では、同じ町内で母と親しかったWさん(女性。教会の信者)が、母と交流した思い出を話してくださった。またショートステイ利用施設(地理的に教会から近い)の職員5人が、訃報を聞き駆け付けてくださった。

8日(木)、山野内神父様の司式により、教会で葬儀ミサから告別式。母本人の意思を尊重して、親族など母をよく知る限られた人たちだけに声を掛けて執り行ったので、「義理で弔問するその他大勢」もおらず、とても好いインティミットな別れの場になった。出棺の後、親族以外でも、Oさん夫妻、および、母の代母(受洗の母親代わりの役)の娘さんであるK教授(女性)と、前述の幼稚園で53~51年前、新任のとき私のクラスを担当したS園長(女性)とが、一緒に斎場まで行って拾骨までしてくださった。KさんもSさんも教会の信者で、晩年に受洗した母にとっては、教会共同体での数少ない友であったのだ。

強く、自分の信念を持って生き抜いた母の生活態度は、私にとってもこの上なく大きな学びであった。おそらく、これからも遺影(元写真の撮影者はOさんの旦那さん)を見るたびに、「行っていいよ」と励ます声を聞くことだろう。

ちょうど、5日も8日も雨になったことから、アイルランドの口碑(oral tradition)の中にあった言葉を思い起こす。

「一生を晴ればれと生きた善人ならば、帰天した日と葬儀の日は、浄罪(天国へ行く前に、生前の罪を償って清めること)の日なので雨が降る」

母の一生を振り返って、まさにこの言葉が当てはまるなあ、と勝手に解釈している。イエス‐キリストの足元に膝まづきながら、生前のいくつかの小罪を改悛し、それから神の国へ旅立ったのではないだろうか。

悲しさや寂しさは免れないが、家族としてもっとも身近にいた人の生きざまを範としながら、今後、私自身も強く生き抜いていけるよう、心を新たにしたい。

2018年2月17日 (土)

ヴェルディ歌劇の面白さ(12)

前回から続く)

(9)シモーネ‐ボッカネグラ(= Simone Boccanegra/?-1363)

ヴェルディ中期の歌劇『シモン‐ボッカネグラ』(1857初演)のタイトルロール(主人公)。
ジェノヴァ共和国の有力市民の家系に生まれ(父親は市長)、海上貿易の保安任務に携わっていた。1339年に平民勢力から推挙されて、初代ドージェ(国家元首)に選出され、平民と貴族との融和を図るべく尽力、国の内外を安定に導いた。しかし1344年、シモーネは貴族勢力の圧力により降板させられる。1356年に再選された後は、貴族側に強圧的な姿勢で臨んで恨みを買い、宴会の席上、ワインに毒を盛られて暗殺された。

ガブリエーレ‐アドルノ(= Gabriele Adorno/1320-83)はシモーネの没後、貴族勢力に推されてドージェに就任した。ただし、歌劇中のシモンの娘との恋愛や、そこに貴族フィエスコが絡む展開も虚構。他方、第二幕のシモンの語りの中に、人文主義者のペトラルカや、ローマのリエンツィの名前が登場するのは興味深い。

この台本はピアーヴェが書いたのだが、政治と家庭との狭間で悩み苦しむ父親の姿や、男と男の心理的な対決を活写しようとしたヴェルディの意図を十分反映できず、フェニーチェ劇場での初演は失敗に終わった。それから四半世紀近くの後、1881年、アッリーゴ‐ボーイトが手を加えた改訂版が大成功を収め、今日までヴェルディの傑作の一つとして、しばしば上演されている。

(10)グスタヴ3世(= Gustav Ⅲ/1746-92)

ヴェルディ中期の歌劇『仮面舞踏会』(1859初演)の主人公。
スウェーデンの王子で、1771年に父の後を継いで国王に即位。貴族層が支配していた身分制議会を廃止して、行政権や公職任免権を奪取、富裕な商人や農民層の支持を受け「啓蒙専制君主」として絶対王政を展開した。対外的にはロシアに譲歩せず、強国の地位を保ったが、そのために国家財政は危機に陥った。政策反対派の貴族たちは陰謀を企て、仮面舞踏会の最中、彼は反対派の一人アンカーストレーム(= Jacob Johan Anckarström/1762-92)により暗殺された。女性占い師ウルリカ‐アルヴィドソン(= Ulrica Alfvidsson/1734-1801)が数年前に暗殺を予言していたことが取り沙汰され、ウルリカは当局から調査を受けたが、事件と無関係なことが判明して放免されている。

アンカーストレームが自分の妻と国王との親密さに関する誤解から暗殺行為に走ったとの設定は創作である(真の理由は逆恨みだとも言われるが、未詳)。また臨死の国王が彼を赦免したのも劇中の作話であり、実在のアンカーストレームは反逆罪で処刑された。他方、ウルリカの予言は史実から脚色されながらも、歌劇第一幕の盛り上げどころに活用されている。

ヴェルディにとってこの歌劇は新たな境地に至る画期の作品だったが、当局の検閲によって舞台をボストンに変更することを余儀なくされ、グスタヴ3世は「ボストン総督リッカルド」、アンカーストレームは「秘書レナート」になった。今日ではこのボストン版が上演のスタンダードであるが、もとのグスターヴォ(グスタヴ)3世に戻したスウェーデン版もときに上演されている。

(11)ドン‐カルロス(= Don Carlos de Austria/1545-68)

ヴェルディ中期の歌劇『ドン‐カルロス』(1867初演)のタイトルロール(主人公)。
スペイン国王フェリーペ(フィリップ)2世(= Felipe Ⅱ/1527-98)の長男。王位継承を期待されていたが、身体が不自由で病弱でもあり、短絡的な思考が目立つ人であった。大審問官(カトリックの宗教裁判所長)を憎んで殺害を企てたことがあり、また、大貴族フェルナンド‐デ‐アルバ(ネーデルランドの弾圧者)もを嫌悪していたため、プロテスタント教徒たちに同情し、ネーデルランド行きを計画して失敗。怒った父王により幽閉され、ハンストにより23歳で死去した。

イサベル‐デ‐バロイス(エリザベート‐ド‐ヴァロワ= Isabel de Valois/1545-68)はフランス王アンリ2世の娘で、フェリーペ2世の王妃になったのは史実通りだが、フォンテーヌブローでの出会いから破局の場は創作である。ただ、カルロスが同い年の義母と親しかったのは事実で、イサベルはカルロスの死を悲しんで夭折したと言われている。カルロスの教育係ルイ‐ゴメス(= Ruy Goméz de Silva, Duque de Estremera/1516-73)は劇中のロドリーグのモデルで、カルロスにネーデルランド統治への関心を持たせた人物。その妻であったエボリ公夫人アナ‐デ‐メンドーサ(= Ana de Mendoza, Princesa de Éboli/1540-92)は夫の没後、フェリーペ2世の宮廷で活躍するが、後には謀略に加担した罪で失脚している。

シラーはこのカルロスの生涯をスケールの大きな戯曲『スペイン王太子ドン‐カルロス』に描いており、これをヴェルディが素材に選んでパリ‐オペラ座のためにフランス語版の歌劇を作り上げた。台本はジョゼフ‐メリが手掛け、その没後にカミーユ‐デュ‐ロクルが継承して完成。
カルロス、フィリップ、イサベル、ロドリーグ、エボリ、大審問官らは史実といささか異なるにせよ、劇中ではそれぞれの個性を十分に発揮している。また、結末をカルロスの逮捕で終わらせず、祖父カルロス5世の再来を思わせる修道士がカルロスを保護して修道院の中へ連れ去る、超自然的な収束にしたことも、一つの大きな工夫であろう。保守と自由、政治と恋愛、カトリックとプロテスタント、現実と理想など、さまざまな対立をはらんだ構図のもとに、この作品は人間の心の奥深くを見つめた傑作となった。

(12)あの「世界中がダジャレだ!」の太ったノーフォークの老騎士、『ファルスタッフ』(1893初演)のモデルは誰だったのだろうか?

シェイクスピアが中世の騎士ジョン‐オウルドカースル(= Sir John Oldcastle/1378-1417)をモデルにして、戯曲の原稿を作成していたところ、実在のオウルドカースルからかけ離れた人物像になっていたため、子孫から抗議を受けた。そのため同時代のジョン‐ファストルフ(= Sir John Fastolf/1378-1459)の名前に変更し、戯曲の設定も一部は後者の人生を反映させる形に直したため、二人を重ねた主人公フォールスタッフが、原作の戯曲『ウィンザーの陽気な女房たち』に登場することになってしまった。

オウルドカースルは王太子時代のヘンリ5世と親しかったのだが、異端とされたロラード派の指導者となって失脚し、逃亡して反乱を企てるも失敗、捕えられて処刑された。他方、ファストルフはまさに「ノーフォークの老騎士」には違いなかったのだが、放蕩者ではなく武将として活躍、また文書収集や学校建設の企画などに力を注入した人なのである。シェイクスピアはこの二人を合成しつつ、どちらの人物像とも異なる新たなキャラ「サー‐ジョン‐フォールスタッフ」を創作したのだ。

ヴェルディは最後の歌劇の素材にこのフォールスタッフを選び、ボーイトが台本を書いた。すでに高齢になったヴェルディ自身、疲れから作曲が停滞することもあったが、一人ひとりの台詞に独唱や重唱を絡ませながら丁寧に曲を付けており、すべての登場人物への愛情が感じられる。ミラーノ‐スカラ座での初演は大成功で、拍手が鳴りやまなかった。

以上、ワーグナーとヴェルディの作品に登場する実在人物を紹介してきた。両者の素材選びは、全く傾向が異なるものもあり、逆に同時代の人物をそれぞれの視点から作品化したものもあり、対照してみるとなかなか面白い。また、人物を大枠で史実に沿って登場させたものや、虚構を積み重ねて史実とは似ても似つかぬ人物像になったものもあるので、歴史ドラマ同様に、「本当はこんな人だった」という実像と比較しながら、楽劇や歌劇を味わってみるのも一興であろう。

2018年2月14日 (水)

ヴェルディ歌劇の面白さ(11)

前回から続く)

(5)マクベス(= Macbeth/1005頃-57)

ヴェルディ前期の歌劇『マクベス』(1847初演)のタイトルロール。
中世前期のスコットランドでは、王位をめぐる抗争が絶えず、王族マクベスは嫡流の王位継承権を持つ寡婦グロッホと結婚、1040年に無能な国王ダンカンを殺害して力で王位を獲得し、1043年には政敵バンクォウ(= Banquo)も殺害した。他方で彼は信仰心に篤く(在位中にローマ巡礼をしている)、武勇すぐれた国王であったが、晩年には貴族たちの離反を招き、1057年に至ってダンカンの息子マルコム3世(= Malcolm Ⅲ Canmore/1031-93)により攻め滅ぼされた。

シェイクスピアが宮廷作家として戯曲『マクベス』を書いたのは、ダンカンとバンクォウとの共通の子孫に当たるジェイムズ1世が、スコットランドから入ってイングランド王を兼位した時期である。そのため彼は、王の先祖二人を殺したマクベス・グロッホ夫妻を悪人に貶めることで、新王の治世を寿(ことほ)いだのである。かくして「民心を失って滅びた暴君」マクベスと、「稀代の悪女」マクベス夫人との、虚構カップルができ上がった。

歌劇もシェイクスピアが描いたこのマクベス夫妻の姿を継承している。ヴェルディ自ら本腰を入れて精力的に創作を進めたので、台本を担当したピアーヴェの仕事に不満を持ち、アンドレア‐マッフェーイが筆を加えた。初演は成功したものの、この歌劇は登場人物の内面に踏み込んでいるため、数十年の間は評価が定まらなかったが、いまではヴェルディ前期の歌劇の中で、比較的上演が多い作品となっている。

(6)トリブレ(= Triboulet /1479-1536)

ヴェルディ中期の歌劇『リゴレット』(1851初演)のタイトルロールのモデルになった人物。
脊椎側弯症だったが、技芸を積んで宮廷道化師となり、フランスのルイ12世、ついでフランソワ1世(= François Ⅰ/1494-1547。フランス‐ルネサンスを代表する君主)に仕えて高名になった。フランソワ王に同伴してイタリアにも来訪している。後代、宮廷の禁令に違反して王の怒りを買い、危うく処刑を免れたが、宮廷から追放されてしまった。

この人物を題材に、ユゴーが戯曲『王様はお愉しみ』を執筆。放蕩貴公子のフランソワ王(実像とは異なる)がトリブレの娘を弄び、怒ったトリブレの復讐が娘の死を招く悲劇である。ヴェルディはヴェネツィアのフェニーチェ座公開予定の歌劇にこの題材を選び、ピアーヴェに台本を書いてもらったが、当局による検閲のため、主人公をリゴレット、フランソワ王をマントヴァ公に書き改め、ようやく上演に漕ぎつけた。

ヴェルディがこの素材から人間の愛憎を主題に選んだことは確かであるが、サブテーマはやはり、悲劇に襲われる社会的被差別者に対する共感である。この流れはリゴレット(障害者)に始まり、『トロヴァトーレ』のアズチェーナ(非定住民)、『椿姫』のヴィオレッタ(娼婦)と続き、少し間を置いて『運命の力』のドン‐アルヴァーロ(南米先住民)で頂点に達する。史実からかけ離れたとは言え、「社会派」作曲家のヴェルディが本領を発揮する入口になった傑作と言えよう。

(7)マリ‐デュプレシ(= Alphonsine PlessisまたはMarie Duplessis/1824-47)

ヴェルディ中期の歌劇『椿姫』(1853初演)の主人公のモデルになった人物。
ノルマンディ出身。パリに出て仕立屋奉公をしていたが、ある料理店オーナーの愛人になったのを皮切りに、その美貌から次々とパトロンを獲得、彼らの支援を受けて教養を付けた。詩や音楽に堪能で、椿の花を愛好し、影の社交界でドゥミ‐モンド(=高級娼婦)として一世を風靡する。アレクサンドル‐デュマ‐フィスと恋愛関係にあったが、彼と別れた二年後、肺結核のために新たな恋人とも破局を迎え、孤独のうちに23歳で死去した。

デュマ‐フィスはマリとの体験を基にして小説『椿姫』を執筆、主人公の名を「マルグリート‐ゴティエ」に変え、相方を「アルマン‐デュヴァル」とした。さらにヴェルディがこの小説をフェニーチェ劇場(ヴェネツィア)から依頼された新作歌劇の題材に採用、主人公と相方とは再度名前が変わり「ヴィオレッタ‐ヴァレリー」「アルフレード‐ジェルモン」になった。台本はピアーヴェが作成。

歌劇は「社会派」のヴェルディらしく、若い二人の純愛とそれを阻むもの、との図式。ヴィオレッタと独善的なジョルジョ‐ジェルモン(アルフレードの父)との「対決」にドラマの中核を据える、ヴィオレッタがアルフレードと再会した後に息を引き取る設定にする、などの見せ場作りが奏功して、この歌劇は世界的に愛され、上演回数の多い作品となった。薄幸だったマリ‐デュプレシも、もって瞑すべし、と言うべきか。

(8)ギー‐ド‐モンフォール(= Guy de Monfort/1244-91)

ヴェルディ中期の歌劇『シチリアの晩鐘』(1855初演)の重要登場人物。
イングランドの出身。英国議会の元祖と称されるシモン‐ド‐モンフォールの四男。シチリアを征服して王位に即いたフランス王弟シャルル‐ダンジューの重臣になるが、イタリアに滞在していた仇敵ヘンリ‐オヴ‐アルメインを教会内で暗殺してしまったため、逮捕されて破門の憂き目に遭う。後にシャルルのシチリア王国へ戻ったものの、1287年にアラゴン王国との海戦に敗れて捕虜となり、解放されないまま没した。

歌劇のタイトルにもなっている、1282年に起こったシチリア住民のフランス支配への反乱「シチリアの晩鐘」事件には、ギーは直接関係していないが、この反乱の指導者として登場する医師ジョヴァンニ‐ダ‐プローチダ(= Giovanni da Procida/1210-98)は、事件を主導した実在の人物である。

破門歴などから、ギーには悪い印象が定着していたようだ。歌劇では前国王の処刑や島民への暴政など、主君シャルルが行った負の行動がすべてギーの所業にされ、反乱で殺される悪代官の役回りにされてしまったのは、気の毒な話。他方、プローチダは劇中、強固な意思で国の独立へ突進する役を担い、巻き込まれる人たちの悲劇を織り成している。

ウジェヌ‐スクリーブが作った台本の筋立てそのものをヴェルディは嫌っており、パリ進出のため不承不承受け入れて作曲するに至った。しかしながら、この歌劇は後の『ドン‐カルロス』や『アイーダ』へ発展するグランド‐オペラの形式に挑戦したヴェルディ過渡期の作品として、評価されるべきであろう。

次回へ続く)

2018年2月11日 (日)

ヴェルディ歌劇の面白さ(10)

歌劇に登場する主人公や重要登場人物のうち、歴史上実在した人について、現実の人物像を紹介するエントリー。

今回からはG.ヴェルディの作品である。

(1)ネブカドネザル2世(Nabû-kudurri-uṣur Ⅱ/紀元前634頃~前562)

ヴェルディ初期の歌劇『ナブッコ』(1842初演)のタイトルロール(主人公)。
バビロニア王国・カルデア王朝二代目の国王。父王ナボポラッサルを補佐して対外戦争を指揮、カルケミシュの戦(前605)でエジプト軍を撃破し、翌年には父の後を継いでバビロニア王となり、エジプトと交戦を繰り返した。前587年にはエルサレムを包囲してユダ王国を滅ぼし、多くのユダヤ人をバビロンに連行して強制移住させたが、これが「バビロン捕囚」である。領土拡大により通商の拠点を押さえ、首都バビロンでは土木事業を興してイシュタル門などを建設した。

歌劇の台本は旧約聖書『ダニエル書』の記述、ネブカドネザルがエルサレム征服後に(ユダヤ教の)神を信じたという伝承(おそらく虚構)を踏まえ、テミストークレ‐ソレーラが創作したものである。妻子を失った直後、最悪の精神状態だったヴェルディだが、支配人から押し付けられた台本を読んで次第に興味を示し、作曲を完成、成功を収めた。

自ら台本を書いたワーグナーと違い、ヴェルディはもっぱら作曲する人だったので、初期や前期の台本はヴェルディの意図をあまり反映していない。しかし、この歌劇は「偉大な神のはからいへの賛美と回心」を契機に、どん底にあったヴェルディが立ち直ることができた貴重な作品である。史実のネブカドネザルはユダヤ教の信仰とは無縁の、きわめてドライな政治家だったから、皮肉な話であるが...

(2)フランチェスコ‐フォスカリ(= Francesco Foscari/1373-1457)

ヴェルディ前期の歌劇『二人のフォスカリ』(1844初演)の主人公。
中世ヴェネツィア共和国の有力な家系に生まれ、1423年にドージェ(国家元首)に選出。34年もの長い間ヴェネツィアを統治し、その間、スフォルツァ家のミラーノ公国との戦争で大きな功績を上げた。しかし、晩年に息子のヤコポが汚職と対敵通謀のかどで十人委員会(もともと元首の独裁を阻むために創設された評議機関であるが、このころには委員会自体が強大な権力に変貌していた)から有罪とされ、クレタ島に配流、客死する。フランチェスコはその後もドージェの地位に留まったが、息子の罪を理由に十人委員会から廃位され、翌日に死去した。

フランシスコ‐マリア‐ピアーヴェの台本は、史実を反映させたバイロンの叙事詩に基づいたもので、かなり荒削りで評価はあまり高くないのだが、それにもかかわらず、ヴェルディの音楽は中・後期の作曲につながる独創的な構成により、フランチェスコとヤコポ夫妻との家族愛や苦悩を活写する作品に仕上げている。

(3)ジャンヌ‐ダルク(= Jeanne d’Arc/1412頃-31)

ヴェルディ前期の歌劇『ジョヴァンナ‐ダルコ』(1845初演)のタイトルロール。
日本ではジャンヌの名前を知らない人のほうが珍しいので、略歴は割愛する(^^;

歌劇の台本はシラーの原作を基にソレーラが書いたのだが、史実から大きく改変されてしまった。ジョヴァンナ(ジャンヌ)が悪魔の誘惑によってフランス王シャルル7世と恋に陥りそうになり、怒った父親ジャコモの差し金で敵の捕虜となるも、恋愛感情を克服したジョヴァンナの本心を知ったジャコモによって解放され、戦場に赴いて戦死する話。当然のように、上演の結果は多くの観客が納得するものではなく、不評であった。ヴェルディが一応売れっ子の作曲家になったとは言え、いまだ与えられた台本に依拠して作曲せざるを得なかった時期の、不運な作品の一つと言えよう。

(4)アッティラ(= Attila/406頃-453)

ヴェルディ前期の歌劇『アッティラ』(1846初演)のタイトルロール。
434年、伯父の後を継いでフン族の王になった(445年頃までは兄ブレダと共同統治)。437年にはヴォルムスを攻撃してグンダハール(「ワーグナー楽劇の面白さ(11)」参照)のブルグント王国を滅ぼし、ライン川からカスピ海に至る大帝国を建設、ヨーロッパ一帯で「神の鞭」と言われて恐れられた。しかし、451年にはカタラウヌムの戦でローマの将軍アエティウスと西ゴートの連合軍に敗れ、452年にはローマ侵攻へ向かう途中、軍団に疫病が発生したらしく、ローマ教皇レオ1世との会見を機に撤退している。不本意な膠着状況の中、453年に急死。子どもたちの後継者争いから、大帝国はまもなく瓦解した。

ローマの将軍アエティウス(= Flavius Aetius/391-454。劇中ではイタリア語読みのエツィオで登場)も、ローマ教皇レオ1世(= Leo Ⅰ/400-461。劇中では老人レオーネとして登場)も、アッティラに対峙した代表的な人物である。
歌劇の台本はヴェルディ自身の提案を受け、ソレーラが書き始めたが、彼が途中で仕事を投げ出したため、ピアーヴェが引き継いだ「つぎはぎ」の台本になってしまい、公演を重ねて成功を収めるまでに時間がかかった。
劇中でアッティラは北欧の神々の信者になっているが、これは虚構で、フン族の宗教についてはよくわかっていない。また、アッティラが家来に裏切られ、妃(劇中ではオダベッラ)に殺されるのは、俗説を受けたもので、史実では飲酒の後、鼻から大量出血したことにより死亡している。
しかし、ローマの将軍やローマ教皇が登場してアッティラを破滅に導く筋立ては、イタリアの愛国者たちから喝采を受けた。ヴェルディ自身も、中期の傑作へ結び付く管弦楽の手法をこの作品で披露し、先への見通しを開いたのである。

次回へ続く)

2018年1月30日 (火)

永遠のローマ?

家の中を整理していると、思いがけないものを発見することがある。

昨年末、冬になったので防寒具を出そうと、あまり出し入れしなかった引き出しを開けてみたところ、奥のほうにしまい込んであったものを見つけた。

それは、画像のマフラーである。

Muffler

17年前、ローマへ巡礼したとき、西欧は4月下旬にもかかわらず、季節外れの寒波に見舞われていた。到着して早々、マフラーを持って来れば良かった! と後悔した私は、取り急ぎ、カゼをひかないうちに調達しようと、衣類を扱っている店に立ち寄ったのだが、店の人からは、もう時期的にマフラーを置いていないと言われ、

「サッカーの店へ行きなさいよ!」

と告げられた。そもそもサッカーに縁のなく、サポーターのグッズについて無知だった私は、聞き間違いかな?と思いながら、半信半疑でサッカー用品を扱う店を訪れ、マフラーがあるか尋ねたら、店の人がこれを出してきたのだ。

「ここはローマだから、ローマ(=ASローマ。セリエAのクラブチーム)のマフラーを買ってくれ!」

こう言われたので、とにかく何か襟巻の類さえあれば良かった私は、一も二もなくこれを購入した。

さて、このマフラーを首に巻き付けてローマ市内を観光していると、現地の若い人たちがこれに注目したらしく、近くに寄ってきた。

「あなたは日本から来たの?」

「そうだよ」

「なら、ナカタの応援に来たんだな。きのうナカタが一点入れたぞ!...」

早い話が、当時ASローマで活躍していた中田英寿選手を応援するためにイタリアまで来たものと、勘違いされてしまったのだ! 「いやいや、私はただの観光客なので...」とその場を逃れたのだが...(^^;

イタリアではサポーターたちの地元クラブチームへの思い入れは、相当熱が入っているようだ。ま、「永遠のローマ」の象徴であるオオカミのシンボルを用いているこのチームは、日本のJリーグのチームよりもずっと歴史が古いのだから、当然かも知れないが...

そんな面白いエピソードを持つ一品だが、帰国後、大切にしまい込んで、使わないままになっていた。先の12月になって、偶然これを発見したので、寒波が厳しいこの冬の防寒具として重宝している。

さすがに日本では、サッカーのサポーターおじさんと間違われることはないだろうが、私がこれを着用して道を歩く姿は、若い人たちの眼には結構アンバランスに映っているかも知れない。

当分、冬の間は「永遠のローマ」仕様で行こうかと思っている(^^)v

2018年1月20日 (土)

ところ変われば...

去る13日(土)、島根県の安来地域介護支援専門員協会からご依頼をいただき、同会の研修会における文章作成講座の講義のために、安来市まで出向いてきた。

安来市と言えば「どじょう」の街。「うなぎ」の街である浜松からお邪魔することになったのも、何かのご縁であろう。

今回お招きいただいたきっかけは、同団体の会長を務めておられる宇山広さん(お仕事は小規模多機能型居宅介護の所長。以前は島根県介護支援専門員協会の副会長もされていた)とFacebookでのつながりができ、宇山さんが私のしょうもない駄文に目を留めてくださったことだ。事情はともかく、私のようにマイナーな講師から見れば、わざわざ遠方から出講のご依頼をいただくのは、ありがたいことである。

早朝に家を出て、新幹線で西へ向かい、岡山駅で伯備線の特急「やくも」に乗り換える。今回は残念ながら素通りであったが、岡山の方から教えていただいた三好野の「祭り寿司」を駅で購入。「極(きわみ)」と称する1,480円のお弁当はなかなか豪華。こんなときでなければ味わえない一品だ。

20180113matsurizushi

乗り継ぎを含めると、電車に乗ること約6時間。安来は島根県の東の入口であるにもかかわらず、浜松からはたっぷりと距離がある。

安来駅に到着すると、宇山さんご自身がお迎えに来てくださった。本当は握手をしたかったのだが、私の両手は皮脂欠乏症に加えて「遠州のからっ風」の影響もあり、「あかぎれ」がひどかったので、ご迷惑になってはと思い断念。雪道の中、宇山さんのお車で広瀬町の会場まで向かう。15時から講義開始。

20180113bunshousakusei

演習を含めて三時間。おそらく安来地域のケアマネジャーさんたちの大部分は、社会人になってから「国語の授業」を受けることになるとは想像されていなかったのではないか。文章の出来次第で意図が伝わらないことも起こり得ることを例示しながら、簡単な国文法に踏み込んで、助動詞や助詞「てにをは」の使い方について解説。終盤では、単なる文章作成技術の向上で終わるのではなく、それを私たちの仕事の評価につなげていくことが大切であることを説いた。

研修会が終了したあと、駅近くで宇山さんと一杯。途中からは、遠路、大田市から駆け付けてくださった野際智紀さん(宇山さんの友人、同じく小規模多機能の管理者)が合流。野際さんともFacebookでつながっており、先年は東京で昼食をご一緒する計画もあったが、氏の予定変更により、お会いするのを逸したことがある。そのこともあり、三人で鍋を囲んだのは嬉しいひとときであった。

島根県は「アローチャート」の先進地域でもあるので、お二人はこの分野への造詣も深い。とは言え、それをどう使いこなすのか、考え方には人それぞれに差異も大きいようだ。お二人からは、学会などにおける研究成果積み上げとは別に、現場のアセスメントで誰もが使いやすいものをどう普及させるかの課題についても、検討が求められていることへの言及があった。「陸の孤島」である浜松のアローチャート自主勉強会「矢万図浜松」としても、大いに参考になるお話が聴けたと思う。

一夜が明けて、朝、ホテルの外へ出ると、昨夜から降り続いた雪景色。雪道用のブーツを履いてきたのは正解であった。

20180114yukigeshiki

チェックアウトした後、お二人のご案内で西へ。日曜日であったが、途中で宇山さんのもとに事業所のスタッフから相談の電話が入る。小規模多機能は臨機応変に対応できるメリットがある一方、包括報酬であるためどうしてもオーバーワークになりやすい。現実にはどの事業所も、運営にかなり厳しい面が出ているとのことで、安来市のような人口密度が少ない地域であればなおさら、遠隔地の利用者のためにどこまで対応するのか、悩ましいところであろう。

午前中に松江まで出向き、松江城近傍を見学。天守閣には昔登ったことがあるので、今回は時間の制約から割愛し、周辺の建物や武家屋敷を散策した。

この辺りの名所は江戸時代の遺構だけではない。城の近くには旧日銀松江支店の建物を活用した「カラコロ工房」なる場所もある。伝統と前衛とが交錯したユニークな空間だ。ファッションを軸に、グルメや体験コーナーもあり、地元の人も旅行者も楽しめる店がいくつも共存している。

昼食後、地元のキャンペーンをしている「お侍さん」たちにお願いして、記念写真を撮ってもらった。私の向かって左が宇山さん、右が野際さん。散策終了後、野際さんは好きなお酒を求めて別方向へ。

20180114bukeyashiki

安来へ戻る車中で、宇山さんが島根県の介護業界の現状をお話しくださった。他県同様に人材不足であるが、ケアマネジャーの研修指導陣にしても、いま中核になっておられる宇山さんや野際さんの世代である40代の方々が、その次の世代の人材を発掘するのが難しく、苦労されているとのこと。当・静岡県の状況に比較すると、かなり深刻かと受け止めた。この現状を国の政策担当者はどこまで実感し把握しているのだろうか。

いろいろな思いを巡らしながら、安来駅で宇山さんと別れ、帰路は再び「やくも」に乗り、岡山経由で新幹線に乗り換え、浜松へ戻った。

ところ変われば事情も変わる。静岡県や浜松市でも業界の課題は少なくないが、他の地域と比較参照することにより、別の視点からの知見が加わる。今回の目的は出講であったが、自分自身の学びの機会を持つこともできた、たいへん有意義な二日間であった。

2018年1月 8日 (月)

ワーグナー楽劇の面白さ(11)

前回から続く)

(4)ハンス‐ザックス(= Hans Sachs/1494-1576)

ワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(1868初演)の主人公。
ニュルンベルクに生まれ、靴屋の修行を終えて各地を遍歴、帰郷してから靴屋の親方として独立する傍ら、詩や論文を次々と発表した。宗教改革ではルター(ルーテル)派を支持したため、カトリック側の市当局から作品の出版禁止処分を受けるが、のちに解禁されて創作活動を再開。作品は実に多様で、歌曲、詩作、劇作、散文など数千にのぼる。家庭的には不幸で、子どもたちや妻に先立たれ、晩年に若い寡婦と再婚、その後はおもに叙情詩を書いた。劇中第三幕で群衆が合唱する「ヴィッテンベルクの鶯」の詩は、ザックス自身の作品にほかならない。

劇中に登場するマイスターたちも実在の人物である。ハンス‐フォルツ(= Hans Folz/?-1513)は外科医・理髪師であり、マイスターの組合規則を一新させ、ザックスの先駆的人物となった。劇中ではコケ役にされているジクストゥス‐ベックメッサー(= Sixtus Beckmesser)は年代記に名前だけ登場するが、活躍した時期や事績は知られておらず、他のマイスターたちも多くは無名である。
現実にはニュルンベルク市当局の統制下の一組合に過ぎなかったマイスタージンガーたちだが、ワーグナーは彼らを市全体の仕切り役として誇大に位置付け、ドイツ芸術を賛美するとともに、国家の統一を後押しする作品に仕上げた。
ナショナリズムの色彩が強い楽劇であるだけに、後世に及ぼした功罪が取り沙汰されるが、ザックスをはじめとするマイスターたちは、いまでも古きヨーロッパに対する私たちのノスタルジーを湧き立てる存在だと言えよう。

(5)ブルンヒルド(= BrunichildまたはBrunhilda/543頃-613)

ワーグナーの楽劇『ワルキューレ』(1870初演)の主人公で、『ニーベルングの指環』全編を通しての重要登場人物。
この人が実在の人物だと聞いて驚く読者があるかも。「エッ? ブリュンヒルデって北欧神話のワルキューレじゃなかったの?」 実は話が逆で、12世紀頃のアイスランドにおいて『古エッダ』『ヴォルスンガ‐サガ』などの神話・伝説が文章化された時期、虚構のワルキューレの中へ、現実の王妃の姿が投影されたと考えるのが正しいようだ。
西ゴート(スペイン)の王女として生まれ、フランク王国の分邦であったアウストラシア国王ジギベルト1世に嫁いだが、実姉や夫を殺害した仇敵であるネウストリア王妃フレーデグンデや、その息子クロタール2世と抗争を繰り返した。実質的なアウストラシア女王として権力を掌握、政略再婚も辞さない強力な権謀術策を駆使し、自ら甲冑を着け馬にまたがり、武器を携えて戦場へ赴いている。義兄のブルグント王グントラムと結び、その没後は両国を事実上支配下に置き、ヴォルムスを都としたが、クロタール2世の偽計にかかって捕えられ、家族もろとも惨殺された。

ゲルマン民族の「戦う女性」の代表だったブルンヒルドは、北欧神話の世界アイスランドから、13世紀に成立した叙事詩『ニーベルンゲンの歌』によって、ブルグントへいわば里帰りを果たした。
ワーグナーはおもに『ヴォルスンガ‐サガ』を題材に『指環』を構成しているが、「権力の争奪」が主題の劇中で、ブリュンヒルデは強い良心や信念に基づいて行動する女性として登場する。史実では権力に執着した彼女が、『指環』では逆に権力争奪の混乱を終結させる役割を担うのも、皮肉な話である。

(6)グンダハール(= GundaharまたはGundikar/?-437)

ワーグナーの楽劇『神々のたそがれ』(1876初演)の重要登場人物。
劇中のグンターとは異なる勇猛果敢な君主であった。はじめはローマ帝国の同盟部族長としてガリア東部(いまの仏・独・スイスにまたがる地域)を統治していたが、413年頃にヴォルムスを都として、ライン川沿岸にブルグント族の独立国家を形成する。野心家のグンダハールはさらに勢力拡大を目指して北の低地地方へ攻め入ったため、危機を感じたローマの将軍アエティウスはフン族の王アッティラに救援を求めた。アッティラの騎馬軍団は大挙してヴォルムスを攻撃、グンダハールはおもな部下たちとともに戦死し、ブルグント王国は滅亡した(数年後に再建)。

史実では彼の6代後の子孫に当たるグントラム(独立ブルグント最後の王)の義妹・ブルンヒルドとは時代が違うから、二人が夫婦になる設定は全くの虚構なのだ。
とは言え、このグンダハールもブルンヒルド同様、アイスランドで『ヴォルスンガ‐サガ』中の「グンナール」として伝説に取り込まれ、叙事詩『ニーベルンゲンの歌』では「グンター」としてヴォルムスに里帰りした。ゲルマンの勇将も叙事詩では優柔不断な国王として描かれ、『神々のたそがれ』に至っては、ハーゲンに操られて身を滅ぼす哀れな殿様に貶められている。
ワーグナーの意図は、権力の争奪に翻弄されて進むべき道を見失う人たちの姿を描くことだったから、グンターには個性の強いブリュンヒルデ、ジークフリート、ハーゲンの間を右往左往するコケ役を割り当てたのであろう。天国のグンダハールは苦笑しているかも知れない(^^;

さて、少し間を置いて、こんどはヴェルディ歌劇に登場する実在人物たちの姿を追ってみよう。

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