2021年4月30日 (金)

「大阪なら、おお!サッカー」「浪速で、なにわともあれスポーツや!」

【史料好きの倉庫(27)】

今回は「大阪府の主要大名」の解説である。

1970年、両親に連れられて万博観光に行ったのが最初。その後は用事があるときに行く程度だが、素通りのほうが多く、府内の観光・宿泊は数回程度。大阪以外の近世城下町は高槻しか行ったことがない。最近は2013年に歌劇鑑賞のため「いずみホール」まで出向き、2016年には関西ラーメン道の仲間と交流するために訪問した(画像はその翌日に行った高槻教会・高山右近像)。

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応仁の乱以降、下剋上の影響により細川家や畠山家が没落し、摂津・河内・和泉の大名豪族にも勢力の消長が見られたが、家系の調査には京都府の場合と同じく、中央の公家による日記などの同時代史料の照会が欠かせない。大阪(当時は大坂)を拠点とした豊臣家が滅亡すると、三国の要地には徳川譜代の諸大名が配置されたため、江戸中期までに多くの藩主が入れ替わった。府内の公共図書館等には関心が薄かったので、特に訪ね歩くこともしていない。

◆細川(惣領・刑部・阿波守・典厩)家
鎌倉前期、足利家の庶流として誕生。室町幕府の時代には管領家の一として、広く天下に勢力を拡張した。細川清氏が南朝方に与して戦死した後、その従弟の頼之(京兆家)が惣領家となり、摂津など四か国の守護を世襲、勝元は管領となり幕府の権を握り、妻の父・山名持豊と張り合ったことが契機となり、応仁の乱を勃発させるに至った。政元が横死すると内紛により衰退し、家臣の三好家、ついで松永久秀に実権を奪われた。刑部家・阿波守家はそれぞれ和泉半国守護であり、前者は戦国末期に細川(長岡)藤孝が登場、織田信長の手配により丹後へ移り、子孫は肥後熊本藩主として続いた。典厩家は西成郡守護の家系。

◆池田家
摂津豊島郡に興った豪族であり、後世の岡山藩主池田家とは別の系統である。室町期の池田充政は豊かな経済力を持つ地域の実力者として知られた。貞正は細川家の内乱に巻き込まれて自殺するが、信正が家を再興、池田城を拠点とする戦国大名となった。織田信長時代には勝正・知正の抗争が止まずに没落し、江戸期に入って重信が豊島郡内に封地を与えられたが、1614年、家臣の詐欺事件に巻き込まれて改易された。

◆高山家
摂津島下郡に興り、高山友照のとき高槻を居城とした。重友(右近)は敬虔なキリシタンであり、豊臣秀吉により茨城へ転封、のち信仰を守って秀吉から勘当され、加賀前田家から扶持を与えられて高岡に居住した後、1615年にマニラへ追放されて病没した。2016年、ローマ教皇フランシスコから広義の殉教者と認定され、福者に列せられた。

◆石山本願寺
浄土真宗の教主である。15世紀末、教勢拡大の立役者・蓮如が石山御坊(大阪城の地)を拠点の一つと定めた。曽孫・証如のとき、1532年に山科本願寺が焼亡したので、以後は石山を本拠地として強大な兵力を有し、事実上、中規模の戦国大名に等しい勢力を誇った。1591年に顕如が没すると、徳川家康の介入により本願寺は東西に分裂し、現在に至っている。

◆麻田藩=青木家
青木一重は豊臣秀吉の家臣として摂津麻田に封じられ、関が原の戦後も豊臣秀頼に仕えたが、大坂の陣では京都所司代・板倉勝重に脅されて参戦できず、そのために戦後は処罰されずに済み、江戸幕府に仕えた。子孫は代々、そのまま麻田1万余石を領知した。

◆狭山藩=北条家
北条氏規は小田原領主・北条氏政の弟であり、小田原落城後に豊臣秀吉から河内丹南郡内に封地を与えられた。氏盛は宗家の氏直の所領(下野国内)を相続し、1600年に実父・氏規の後嗣となって1万石を知行、子孫は代々狭山藩主を継承して北条家の家系を伝えた。

◆大坂城代(江戸時代)
江戸期の大坂(現代の大阪)城代
には、畿内に所領を与えられて大坂を拠点にする者と、城主でありながら城代在任中は京都に駐在する者とがあり、はじめは前者の場合が多かったが、江戸中期からは後者が一般的になった。本項では前者に該当する諸大名の所領や石高の変遷を一通り掲載し、就任前と退任後の封地にリンクできるようにした。

◆吉見藩=遠藤家
遠藤胤城は千葉氏庶流、美濃の東(とう)家の嫡流である名門。江戸中期からは代々、近江三上藩主であったが、明治になってから1870年、藩庁を和泉吉見に移転。翌年には廃藩置県を迎えたため、わずか一年余の藩主に終わった。

2021年4月20日 (火)

「京都で踊りまくる教徒どす」「丹後ならタンゴの一択!(^^;」

【史料好きの倉庫(26)】

今回は「京都府の主要大名」の解説である。

幼少時、両親に連れられて京都へ行った記憶があり、そのあとは中学の修学旅行、また学生時の個人旅行などで立ち寄った。社会人になってから、京都はもっぱら素通りする地になり、2006年に丹後へ旅行して舞鶴(田辺)・宮津の城下を訪れた。2014年には研修講師としてお招きを受け、その翌日に稲岡さんのお車に乗せていただき、天橋立や福知山城下を周回することができた。画像はそのとき立ち寄った、明智玉(=「細川ガラシャ」)ゆかりのカトリック宮津教会。2016年には知人の画家と一緒に、京都でラーメンを賞味した

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室町幕府の政庁があった京都であるが、諸大名たちによる政争の舞台でもあったため、主要大名の家系は、公家の日記をはじめとする同時代史料を照らし合わせながら、複雑に入り込んだ部分もかなり解明されている。室町幕府の滅亡に伴って、京都の幕臣も四散したが、江戸期まで存続して旗本になったものは「寛政重修諸家譜」に収録されており、細川家に仕えた諸家は熊本藩関連史料でたどることができる。近世諸藩関係史料は、各自治体の図書館等で閲覧できるものがある

◆一色家=丹後守護
足利将軍家の一族で、室町幕府の四職(侍所頭人に任じられる家)の一であった。南北朝期には本貫である三河の守護に補されたこともあるが、一色教親以後の戦国期にはもっぱら丹後の大名として存続した。織田信長によって細川家が丹後の統治者として送り込まれると、しばらく一色家と共存関係にあったが、義定が1582年の本能寺の変で明智光秀に加担したため、細川家によって謀殺され、義清も細川家に敗死して滅亡した。

◆伊勢家=政所執事
よく知られている武家故実、「伊勢流」を伝えた家。伊勢貞継は足利尊氏に随従して上総(鎌倉期、足利家が守護を務めていた)から山城へ本拠を移し、のち二階堂家に替わって政所執事となった。以後、伊勢家が執事を世襲し、殿中の礼法である伊勢流を代々継承した。嫡流の貞興は本能寺の変で明智光秀に加担したため滅亡したが、甥の貞衡が将軍・徳川家光に仕えて礼法の師範となり、子孫は幕臣として故実を継承した。他に薩摩藩の重臣となった家系もある。なお、庶流の伊勢貞長流は室町幕府の申次衆となり、備中伊勢家から養子に入った盛時が駿河へ下向し、北条を仮冒して小田原北条家を興している。

◆小笠原(備前守)家
こちらもまた武家故実、「小笠原流」を伝えた家である。信濃守護・小笠原家の庶流であり、京都小笠原家とも呼ばれた。小笠原氏長以降は幕府の奉公衆の一人として在京しており、弓馬の礼法である小笠原流を代々継承した(他方、宗家の信濃小笠原家も礼法を継承し、江戸期には庶流の赤沢小笠原家などが幕臣となって小笠原流を伝えたが、京都小笠原家時代のものとはいささか異なるとされている)。稙盛のとき所領を失い、秀清(=少斎)は丹後国主・細川忠興の客分となったが、関が原の戦の直前、石田方に屋敷を囲まれた忠興夫人・明智玉を介錯して自害した。長光・長定(玄也)兄弟は忠興に伴って豊前へ移り、長光は累増されて5,000石となり、細川家とともに熊本へ移転、子孫は代々熊本藩の重臣の地位にあった。他方、長定はキリシタンの教えを捨てず、1636年に妻や九人の子どもたちとともに殉教した(2008年、家族全員がローマ教皇から「福者」に列せられた)。

◆丹波国主・亀山藩
羽柴秀勝(織田信長四男)と羽柴秀勝(三好吉房二男。豊臣秀吉の甥)はいずれも秀吉の養子であるが、同名の別人である。紛らわしい「秀勝」の襲名がいかなる状況下でなされたのか? 秀吉の政権掌握後、邪魔になった前・秀勝が「消されて」、後・秀勝がすり替わったと推察する論者もいるが、実際のところは未詳。江戸中期からは形原松平家の所領となったが、明治に入ると伊勢亀山藩と分別するため、亀岡藩と改称。そのまま現在の市名に至っている。

◆丹後国主・宮津藩
長岡藤孝(=幽斎)は和泉半国守護・細川元常(伯父)の養子となったが、織田信長に服属して山城の勝竜寺城を居城とし、長岡一帯を領知、1573年に将軍・足利義昭が追放されると、細川の名字に決別して「長岡」を称した。忠興は室町幕臣であった一族の細川輝経(細川奥州家)の名義上の養子となり、外見上は長岡から細川に復した形となった。江戸中期からは本庄玉(=桂昌院。将軍・徳川綱吉の母)の実家に連なる本荘(本庄)松平家の所領。

◆京都所司代(江戸時代)
江戸期の京都所司代には、畿内に所領を与えられて京都を拠点にする者と、城主でありながら所司代在任中は京都に駐在する者とがあり、はじめは前者の場合が多かったが、江戸中期からは後者が一般的になった。本項では前者に該当する諸大名の所領や石高の変遷を一通り掲載し、就任前と退任後の封地にリンクできるようにした。

2021年4月 8日 (木)

「滋賀で、詩が...浮かばない」「近江の琵琶湖、おぉ!見や!」

【史料好きの倉庫(25)】

今回は「滋賀県(近江)の主要大名」の解説である。

素通りすることが多い県だが、1980・1990(画像)・2014年にそれぞれ用事で彦根を訪れ、国宝の城を眺めながら城下町を散策した。2013年に「びわ湖ホール」で楽劇を鑑賞したが、他の城下町へ出向くこともなく、帰路、長浜城址に立ち寄った程度。

六角家・京極家・浅井家をはじめとする中世大名に関しては、系譜の錯綜が少なくない。近世に編纂された軍記物の類は信憑性が低く、京にも近いことから同時代の日誌類、または各寺院に保存されている文書類を参照するのが望ましい。近世藩政期の近江には中小大名が多く、『寛政重修諸家譜』を参照するほか、各自治体の図書館等に照会する必要がある。彦根城博物館には、井伊家から寄託された古文書類が「彦根藩井伊家文書」として保管されており、重臣の系譜はここで調べることが可能である。

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◆京極家=江北三郡守護
近江の守護であった佐々木→六角家の庶流。南北朝期には京極高氏が代表的な「ばさら大名」として知られている。室町期、本国の近江では三郡の守護にとどまったが、他に飛騨・出雲・隠岐の守護職を兼任した。戦国期には浅井家の台頭により統治者の実権を失ったが、豊臣時代の高次は徳川家と縁戚になって若狭小浜へ移り、子孫は出雲松江、のち讃岐丸亀の藩主となった。

◆朽木家
佐々木家の庶流であった朽木家は、室町幕府に近い立場であり、幕府衰退期には敗残の将軍を庇護して忠勤を励んだ。朽木元綱は豊臣秀吉から本領を安堵され、関が原の戦では石田方から徳川家康に内応し、戦後は家康から9,590石を安堵され(2万石からの減封とされているが、実はもともと正しくは9,590石だったとの説もある)、交替寄合として存続した。分家が丹波福知山藩主となっている。

◆浅井家
古代の浅井郡司の末裔かと言われる。戦国期に浅井亮政が主家の京極家を凌駕し、小谷を居城として江北の支配者となった。長政は織田信長の妹婿になったが、のち信長に抗して滅ぼされる。三人の娘、茶々(豊臣秀吉側室)・初(京極高次室)・江(徳川秀忠室)が著名である。

◆小堀家
坂田郡の豪族。小堀正次は1585年から近江を離れ、豊臣秀長、その没後は秀吉に重用され、備中代官に任じられた。政一(遠江守)は庭園作りの達人「小堀遠州」として名高く、1619年に近江へ戻り、伏見奉行に任じられて小室に封じられた。政方のとき不正のため失脚し、改易されている。

◆石田家
坂田郡の豪族であるが、存在が知られるのは戦国期に入った石田蔵人のときである。その曽孫・三成は豊臣秀吉に重用されて奉行の一人となり、近江派(いわゆる淀君派)の領袖として政権の実務を仕切ったが、関が原の戦に敗れて滅亡した。

◆彦根藩=井伊家
徳川家康の家臣筆頭であった井伊直政が、関が原の戦後、18万石で石田三成の旧領・佐和山を領有した。長男・直継が彦根城を築いて移転したが、病弱だったため上野安中を与えられ分家となる。弟の直孝が彦根城を継承、幕政に参画して功績があり、加増されて30万石に達した。その後は譜代大名の柱石として大老を何人も輩出したが、幕末の直弼が強権政治(「安政の大獄」)を推進したことが裏目に出て、京の桜田門外で暗殺され、藩は10万石を減じられて明治維新を迎えた。

◆朝日山藩=水野家
山形藩主であった水野忠弘は、大政奉還後、奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍に抵抗したが、敗北して山形城を中心とする村山郡内の所領を没収された。代わりに近江朝日山で5万石を与えられ立藩したが、ほどなく版籍奉還→廃藩置県を迎えた。

 

2021年4月 5日 (月)

「三重県来たら何も、見えへん」「伊賀まで行きゃあ、いーがな」

【史料好きの倉庫(24)】

今回は「三重県の主要大名」の解説である。

幼少のとき、母の親戚一同で長島温泉へ遊びに行ったのが最初の訪県。高校生のときに部活の大会で二回ほど伊勢へ。その後、叔母(すでに他界)が桑名に住んでいたこともあり、用事があるときにはときどき出向いていた。また、30代のときに、津・亀山・神戸を車で周遊したこともあった。2014年には研修講師としてお招きいただき、伊賀上野まで出向いている。近世の城下町で訪れていないのは鳥羽ぐらいだ。

県立図書館(未訪問)に収録されている古文書は限定的だとのことなので、中世諸豪族も近世諸藩も、史料は各自治体の図書館等に所蔵されている場合があるが、北勢諸家(総体として勢州四家の一に数えられている)のような小規模なものは盛衰の全容を捉えるのが難しい。江戸期に編纂された『勢州軍記』『志摩軍記』等の軍記物も一定の史料的価値を有するが、誇張もあるため同時代史料を併せて参照したほうが良い。津藩については昭和になって藤堂一族の方が編纂した『藤堂姓諸家等家譜集』が存在し、伊賀付の諸家を含めた同藩重臣の家系が網羅されている。

◆伊勢国司 北畠家
南北朝時代に後醍醐天皇方として活動した公家・北畠親房の家系。勢州四家の一。顕能が伊勢国司に任じられて多気に居城を構え、堂上家でありながら伊勢南部に土着、代々国司を称し、幕府の守護(当初は半国守護)も世襲した。織田信長が政権を掌握するとその攻略を受け、信長の二男・信雄を家督にしたが、1576年、信雄によって一族は滅ぼされた。同族の中院家から親顕が入り、家名のみ再興したが、1630年に没して絶家となった。

◆長野(工藤)家
鎌倉期の藤原南家・工藤一族であり、長野城を拠点として中勢の安濃郡周辺に勢力を張った。勢州四家の一。織田信長の伊勢攻略を受けた後、信長の弟・信包を家督に迎えたが、1576年、北畠家とともに滅ぼされた。

◆関家
鎌倉期の伊勢平氏一族であり、亀山城を拠点として中勢の鈴鹿郡周辺に勢力を張った。勢州四家の一。一政は豊臣時代に松阪城主・蒲生氏郷の与力となり陸奥白河へ移転、氏郷の没後は三転して伯耆黒坂藩主となったが、内紛により改易され、子孫は5,000石の旗本として存続した。

◆九鬼家
言わずと知れた志摩の「九鬼水軍」。実態が明らかになるのは戦国中期の九鬼泰隆以降であり、澄隆のとき志摩の地頭諸家から攻撃を受け、領地を失う。嘉隆が家を再興して志摩を統一、鳥羽を居城として水軍を率い強大となるが、関が原の戦の際に石田方となり、敗戦後に自殺した。守隆は徳川方となって所領を安堵されたが、1632年、没後に継嗣をめぐって内紛が起き、九鬼家は摂津三田と丹波綾部とに分割移封され、水軍力を失った。

◆田丸藩
1619年以降に城主となった遠江出身の久野家は、紀伊徳川家の年寄五家の一であり、田丸城主として幕末まで存続した。正式な大名ではなかったが、万石以上(途中までは万石格)の城主として歴代表を掲げる。

◆長島藩
1625~49年に松平(久松)定房・定政兄弟が相次いで入封し、いずれも石高は一万石に満たなかったが、徳川家から準家門として遇されていた大名格の城主として、歴代表に加えた。

◆津藩
1608年に藤堂高虎が入封し、32万石余の大藩として明治維新まで存続した。本城は伊勢の津城であったが、伊勢の一部と伊賀一国とを領有し、伊賀上野城を支城とした。

◆西条藩→南林崎藩
◆東阿倉川藩
有馬氏倫と加納久通とは紀伊藩主であった徳川吉宗の謀臣であり、吉宗が将軍位を継承すると側用取次として吉宗を補佐し、1726年には両者とも並んで大名に列せられた。後代、有馬家は下野吹上、加納家は上総一宮藩主に移転している。

2021年3月27日 (土)

国際的な声価を得ること

大坂なおみ選手(23/女子テニス)が昇竜の勢いだ。

全米、ついで全豪も二度目の優勝を果たした。途中で苦戦しながらも連勝街道を驀進中(本日現在22連勝)であり、少なくともハードコートでは向かうところ敵なしの強者である。

しかし、同選手が評価を確立しつつあるのは、単に試合で勝ち続けているからだけではない。他の選手が簡単に真似できない資質と力量とを持っているからだ。

具体的には、

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・若くして王者の風格を備えている。無闇に奇策を弄せず、相手選手を正面から堂々と受けて立つ。

・自分を客体視して修正する能力がある。2019年に世界ランキング1位になったあと、メンタルの弱さもありスランプに陥ったが、それを直視して徐々に克服していった。

・勝ちを簡単に譲らない二枚腰である。有力な相手選手が大坂選手に「善戦しても最終的には敗れる」ことが続くと、対戦する前から「難攻不落の堅城」と映ってしまう。

・競技界を変容させるほどのインパクトを与える力がある。米国で白人の警察官に黒人の被疑者が殺害される事件があり、それを契機に全米で差別に抗議する運動が高まったが、大坂選手は全米オープンの7試合すべてにおいて、過去同様に犠牲となった黒人たち一人ひとりの名前を記したマスクを着用した。「スポーツに政治を持ち込むな!」との批判に動じず、「これは人権問題」との主張を貫き、観戦した多くの人々に感銘を与えた。真に一流であるプレイヤーは、他方で優れたパフォーマーとして振る舞うことができる。

・未達成のタイトル獲得や記録樹立への期待感がある。何と言っても23歳。まだまだ伸びしろをいっぱい持っている。全英や全仏などコートの質が異なる舞台でのプレーは、今後の課題でもあるが、大坂選手ならば遠からず制覇できるのでは、と希望的に予測するファンは多いであろう。「これからどこまで強くなるのか...」

これらの要素が重なり合って、魅力満点のスーパーヒロインを作り上げているのだ。大坂選手はいまや、米国在住のアスリートの中でも最高水準の一人として、人々から高く評価されており、国際的にも声価が高い。

さて、野球界にもスーパースターが存在し、日本や米国で広く知られているのはご存知の通りだ。

大谷翔平選手(26/MLB)。言わずと知れたロサンゼルス‐エンジェルス所属の投手兼打者である。

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ただ、大坂選手と比較した場合、大谷選手はいまだその地位を十分に確立したとは言い難い。度重なる右肘の故障のため、投手としては十分に成功を収めておらず、一流の打者としての活躍にとどまっていることがブレーキとなっている。

しかし、それがすべてではない。大谷選手には全米を巻き込むほどのインパクトがいま一つであることも確かだ。欲を言えば、野球界全体を変容させるパワーがほしい。大坂選手のように社会問題を前面に押し出すことだけが方法ではない。競技の枠内で圧倒的なパフォーマンスを成し遂げる形もある。「二刀流(two-way player)」だけでもMLBで前例のない登録選手であり、それを試合で発揮できるだけで日米野球界の至宝だと言って良い。今期のオープン戦で肩を慣らし、飛躍のシーズンにしてほしいものだ。

テニスと野球とを比較した場合、個人競技とチーム競技、世界的競技と特定の国々で盛んな競技との違いは確かにあるだろうが、大谷選手は日本や米国のみならず、さらに多くの野球を愛する人たちや、その枠を超えた社会の各方面から、称賛を浴びられるポテンシャルを持っていると、個人的には思っている。

また、大谷選手がデサントやアシックスの製品を身に着けてメディアに露出する行動は、スポンサーへの配慮が窺える。大坂選手も先日の全豪優勝インタヴューでは、右肩からジャージを外し、日清食品・ナイキ・ワークデイなどのロゴをカメラの前にさらしていた。自分にお金を払ってくれる企業に対してしっかりと敬意を払っているのだ。これもまた超一流アスリートの品格であろう。

両選手に限らず、真に実力のあるアスリートやプレーヤーは、惜しみなくその力を発揮して国際的な声価を得てほしいと、心から願っている。

(※イラストはグラパックジャパンの使用権フリーのものを拝借しました)

2021年3月17日 (水)

AI評価値の「功罪」

将棋の棋戦。最近はこれまでの地上波や衛星放送TVのみならず、ネットTVでも実況されているので、いわゆる「観る将」にとっては選択肢が増えた。

このライブ放映される対局をスポーツと同様に楽しむことができる便利な道具として、AIによって算出される「評価値」がある。スポーツなら対戦者のスコアの途中経過により、どちらが優勢なのか視聴者が一見して判断できるが、将棋の場合はある程度の棋力がないと優劣の判断が難しい。

そこで、棋力をあまり持ち合わせていない私のような将棋ファンにとっては、AIが示してくれる優劣のパーセンテージを見ることで、いまどちらが有利(不利)なのか、優勢(劣勢)なのか、勝勢(敗勢)なのか、一見して把握できるので、評価値はたいへん便利である。

しかし、何ごとも良いことばかりではない。以下、二つの対局結果から考えてみたい。

昨年12月25日、A級順位戦。豊島将之竜王(30)VS羽生善治九段(50/永世七冠)。128手で豊島竜王の勝ち。AI評価値が終盤に大きな変動を繰り返した末、最後は羽生九段94%、豊島竜王6%だったのにもかかわらず、羽生九段が「負けました」と、まさかの投了。

もう一つの例。

今年2月11日、朝日杯オープン戦準決勝。渡辺明名人(36)VS藤井聡太二冠(18)。138手で藤井二冠の勝ち。AI評価値では終盤、渡辺名人が勝勢となり99%、藤井二冠1%になった。ところが渡辺名人が123手目を着手した直後に大逆転、藤井二冠のほうが90%超えとなり、そのまま勝利。

どちらの対局も一手違いの難解な将棋であり、最終盤では両者とも一分将棋、すなわち記録係が「59秒」を読み上げるまでに次の手を指さなければならない状況だったことも、共通している。

前者は羽生九段が、二転三転する局面の最終盤で、豊島竜王の玉を寄せる勝ち筋がたった一つだけあったのを読み切ることができず、もはや自分の負けを挽回できないと信じてしまった。後者は渡辺名人が最終盤、自玉が寄らないようにしつつ藤井二冠の中段玉を詰められる唯一の手順を見落とし、悪手を指してしまった。

AI評価値はあくまでも、「最善手を指し続ければ勝つ確率」を示している。したがって、棋士にとっては59秒で発見することが至難の業である手順も、容易に分析して数字を出す。それは時として、人の感覚からかけ離れた表示になってしまう。

にわか「観る将」の目には、「勝っているのに投了してしまった」羽生九段や、「詰みを逃して自滅した」渡辺名人が、あたかも間抜けであるかのように映ったかも知れないが、決してそうではない。

むしろ、超弩級、最高水準の強者同士の対局だからこそ起きた珍事なのだ。両者とも秒読みに追われる一分将棋の状況のもと、人智を尽くしても読み切れなかった筋があったゆえの敗戦と理解すべきである。前者の豊島竜王、後者の藤井二冠、いずれも最強レベルの難敵に対して、苦戦しながらも最後まで力を振り絞って競り合ったことにより、自らの勝ちを招き寄せた。その実力を称えるべきなのだ。

AI評価値の数字だけを踏まえて対局者を評するのは、あまりにも非情であろう。

衛星放送やネットTVの解説者たちも、しばしば「評価値は決して対局者の現実の感覚に沿っていない」趣旨の発言をしている。AIが登場したことによりライブ放送の評価値に一喜一憂してしまうのは、健全な「観る将」に当たらないと、私は考えている。

その道にかけては天才的な人たちばかりが織り成す将棋の対局。日々過酷な勝負を繰り広げる棋士たちに敬意を表しながら、余裕を持って観戦する楽しみを持ちたいものだ。

2021年3月11日 (木)

忘れてはならないこと

東日本大震災が起きてから、きょうで十年になる。

あの日、私は事務所で仮眠していたが、グラリと揺れる体感で飛び起きた。直後には震源地は近くのどこかだと思っていたが、ネットの情報を見ていくうちに、東北だとわかって驚いた。そして次々と情報が入り、福島県方面で甚大な被害が起きていることを知り、たいへんなことが起きたことを実感した。日本全国への影響は必至だと思い、私たち他地域の者も、これから先、無事に生活を続けられるのか、不安が先に立ったことを覚えている。

この震災では、福島県浜通りに住んでいた私の叔父(母の弟)も住処を失い、その後は中通りの災害公設住宅に入った(2018年秋に他界)。

私自身は2014年になってようやく、現地へ赴く機会を得て、業界仲間の佐々木香織さん(相馬市)に案内していただいた(こちらのエントリー参照)。復興作業が進められている一方、災害の爪痕が生々しく残る浜通りを見学しながら、自然の営みの大きさと、その中で生き抜いている人たちの力強さとを、深く心に刻んだものだ(画像は2019年に佐々木さんからいただいた書状)。

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なお、佐々木さんは、ご勤務先の訪問介護事業所が諸事情により事業終了となったので、新たな働き場所を求め、転職されている。人も環境も、時とともに移ろっていく。

十年の時を経て、福島・宮城・茨城・岩手県の復興はいまだ道半ばである。その後に水害や再度の地震も発生し、原発の廃炉問題など、複雑に入り組んだ数多くの困難が地域に重くのしかかっている。

そして2021年。昨年来のコロナ禍は日本社会にも大きな課題をいくつも投げ掛けた。それはあたかも、「日本のみなさん、この十年、あなたたちは何を学んだのですか?」と私たちに問いかけ、十年の間に克服できなかったものを改めて浮き彫りにしたごとくである。かゆいところに手が届かない政策に始まり、差別、風評、誹謗中傷などの人を傷付ける行為に至るまで、十年前から一歩も進化していない振る舞いをする人たちが、いかに多いことか...

最も大切な「人の尊厳」「人間の尊厳」。それを守るために、私たちの社会の姿はどうあるべきなのか? この命題を解決し、達成する責任は、残された私たちの肩にかかっている。そのことを決して忘れてはならない。

十年を節目に、いまの世を生きる私たちが果たすべき役割について、黙想してみたい。

2021年3月 8日 (月)

あれから三年

3月8日の朝。しとしとと降り続く雨が、本格的な春の訪れを露払いしている。ちょうど三年前の同じ日に亡き母を葬送したときも、こんな天候であった。

帰天してもう三年にもなるんだなぁ、と思い返しつつ、在りし日の母の姿を、改めて頭の中に浮かべてみる。

夢の中に母が登場したのは二回だけ。

はじめの一回は葬送から数日後、存命のときとは反対側(祭壇がある側)を向いて腰掛けていたので、「ぁ、もうこの世での罪を償って、神の国に召されたんだ」と納得したものだ。

もう一回は私の59歳の誕生日(一昨年の10月)。私と一緒に何かを待ってくれていた。それが何だったかはわからない。来たるべき時代(たとえばコロナ禍のような)に備えなさいよ、との教えだったかも知れない。

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母は聖マリア(上の画像はカトリック浜松教会所蔵のマリア像)がイエス様を慈しみ育てたことを範と仰ぎ(本人の霊名も「マリア」)、私がいくつになっても「良き母」として振舞ってくれた。母の生きざまから学ぶことは多く、いまでも私の日ごろの過ごしかたには、母から吸収したスタイルが多く根付いている。

私が20歳前後のとき、母はよくこんなことを言っていた。

「友達や仲間でも、お金を貸してくれと言ってきたら、もうそこで縁を切りなさいよ」

60歳になる現在まで、私が大きな事件やトラブルに巻き込まれずに過ごしてこられたのは、この言葉の賜物だと言えよう。

他にも心に残る遺訓がいくつかあるので、いまだに何か迷ったときには、「母だったらどう行動しただろうか?」と考えながら判断することもしばしばだ。

最近は墓参に行く機会も減ってしまったが、父の帰天記念日(2/9)直後にシンプルな花を活けてきた。また遠からず墓前へ出向いて、これからの生活の構想など、両親に報告してこようかと思っている。

2021年2月28日 (日)

五輪組織委の問題から読み取れるもの(下)

前回より続く)

すでにお気づきの方もあろうかと思われるが、私は今回の事案について、もっぱら話題になっている「特定の主題」だけに即する形で分析・考察してはいない。

その特定の主題とは「ジェンダー‐ギャップ」のことである。

私が決してジェンダーの問題に無関心なわけではないことは、八年も前のエントリーに言及しているので確認されたい。ただし、今回の事案は、その枠を超えた課題を私たちに突き付けているので、あえてジェンダー「だけ」に特化しての物言いをしないだけの話である。

私も本業を持っている人間であり、評論家ではない。前回掲げた個別の論点のうち何点かについては、機会を捉えて細かく論述することがあるかも知れないが、いまの時点でそれらのことごとくに踏み込んで、自分の意見を陳述することはしない。私はこの事案を総体的に把握し、分析しなければならないと考えている。前回言及した通り、今回の事案を契機に、単に個人や組織の問題にとどまらず、日本社会を根強く「支配」している上記の構図そのものを変えていく必要がある」のだ。

さて、「変えていく」のは簡単ではない。

一時期、革新的な市民活動家を中心に「オルタナティヴ」がもてはやされた。これまでの社会体系に代わり得る「オルタナティヴ‐システム」、それを実現するための「オルタナティヴ教育」、この類の「オルタナティヴ」がトレンドのようにいろいろ発信され、試みられてきた。注目すべき提案や実践がいくつも存在したことは私も認めており、決してすべてを否定的に捉えるべきでないことは、承知している。

しかし、その「オルタナティヴ」の多くが空回り、空振りに終わったことも事実なのだ。一例を掲げると、2008年末の年越し派遣村、ご記憶の向きも多いかと思う。あの活動は既存の市民社会に対し大きなインパクトを与え、私たちに大切な課題を投げ掛けることに成功した。ただし、その後の経過を見る限り、現実的な社会システム変革の実現には程遠い結果となった。同様な例は他にもいくつか見受けられる。

これらの諸活動が目標を実現できない(できなかった)要因としては、政治勢力による利用(我田引水)、携わる当事者の理解不足(指導的立場の人たちと、その他大勢の関係者との意識の乖離)、長期的なグランド‐デザインの準備不足、既成構造に対する反抗のためのアクションへの限定・矮小化(反対勢力の中でも巻き込むべき人たちがいるのに、その人たちから反発を買ってしまったこと)などが挙げられるだろう。

しかし、最大の原因は、「日本」についての理解不足だと、私は考えている。すでに拙著「これでいいのか? 日本の介護」の中で述べてきたことである。

では、私自身は日本社会がどの方向を目指すべきだと考えているのか?

それが下の画像だ。

Photo_20210228112901

これを見ておわかりの通り、前回掲載した「日本的な」思考形態・行動様式と同じ構図である。

前回の図と比較していただきたい。枠で囲った文言をそのまま別の言葉に置き換えることにより、その相関から生じるもの(紫字で示した)が大きく変わってくる。ネガティヴな相互作用をポジティヴなものに転じることにより、体系全体に好循環が機能し、私たちが活き活きと自己実現できる社会に近付くであろう。

理想論だと誤解されるかも知れないが、これは現実論だ。私たち「日本」の文化の根底から培われた思考形態や行動様式を改めることなく、「そのまま」逆用するだけで、好循環への道は開かれるのである。図の左下にある(青字で示した)通り、私たちの知的体力の向上にもつながるのだから、民度の上昇に大きく寄与することは言うまでもない。

裏を返せば、オルタナティヴの諸活動が停滞した背景には、中心になった指導的な人たちが、他国の良いものを採り入れることに偏ってしまった状況があったと推察される

コロナ禍を契機に社会の閉塞感はいよいよ強まっている。いまこそ、私たちを育んできた日本文化の土壌に根差した、真の意味の「代わり得る」社会体系を、協働して創り上げていかなければならない時期である。

一人ひとりの意識改革、そしてそれを踏まえた思考形態や行動様式の変容を願ってやまない。

2021年2月24日 (水)

五輪組織委の問題から読み取れるもの(上)

このところ、テレビやインターネットなどの新旧メディアを賑わせている話題がある。

一年延期された東京五輪の組織委員会理事会の席で、会長であった森喜朗氏が、「女性蔑視」と受け止められる発言をしたことが報じられ、国内外から多くの批判を浴びた。その後、紆余曲折はあったもの、結果として会長職を辞任するに至った。

その発言の全文はすでに複数のメディアで公開されている。一例としてスポニチの該当記事にリンクを貼っておく。言葉の意味や文脈が不明確な面も見受けられ、明白に意図して女性を蔑視した発言なのかは何とも判断できないが、いくつかのキーワードに氏の正直な意識が反映されていることが看取される。全体を総合すると、ジェンダーに関して明らかな「時代遅れの感覚」を背景にしていることは否めない。

この事案に関する個別のポイントを整理すると、

・発言中の「恥」「困る」「わきまえる」等のキーワードに差別的な意味があったのか? 特に「わきまえる」は「身の程をわきまえる」ではなく、「時間配分を考慮して趣旨を短くまとめる」の意味にも解釈できるが、実際の意図はどちらだったのか?

・全文がなぜ速やかに報じられなかったのか? メディアの側に「意図的な切り取り」はなかったのか?

・従前、森氏が自ら運営に携わる組織で女性役職者の増加に努めてきた実績もある。組織委では深い意味もなく、いわばエピソードとして語ったとも想定されるが、公的な立場の人が言って良いことかどうか、「舌尖で千転」したのか(自分の実績を台無しにしかねない言葉を軽率に発してしまう、資質の問題があるのではないか)?

・「女性の役職者が増えると会議が長くなる」はエビデンスを踏まえた発言か? また反発した側もエビデンスを踏まえて反論したのだろうか(ちなみに、森氏の発言を否定する研究例としては、ブリガム‐ヤング大とプリンストン大との共同調査結果が存在する。他にもあると思われるが)?

・その場で、または散会した後にでも、森氏に指摘したりたしなめたりする人が、役職者の中にいなかったのか? 組織委は普段どのような雰囲気の中で運営されていたのか?

・批判が巻き起こった後、「謝罪して撤回すれば問題ない」判断は適切だったのか? この発言が国際的に報じられた場合、いかなる受け止められ方をするのか、氏や組織委は想像力を働かせることはできなかったのか?

・世界から注目されている中、森氏が辞任表明した後の後継候補を、なぜ「密室」で決めようとしたのか? それ自体が時代遅れ、あるいはドメスティックだとの認識は、関係者の頭の中になかったのか?

・「老害」の言葉の適否はひとまず措いて(これも高齢者差別用語だとの見かたもあるが)、社会的地位のある高齢の人が、自分のポストを簡単に捨てられないのは、日本全国に共通する現象である。その実態をどう評価し、対策をどう準備するべきなのか?

日本国民の中に、森氏(の発言に窺える背景)と同様なジェンダーの感覚を持ちながら日々を過ごしてきた人(おもに高齢男性、一部は女性も)が、相当な割合で存在することは現実である。その人たちの人生の歩みを肯定的に捉えつつ、どう意識改革をしていくのか?

まずはこの辺りが論点かと考えられる。暇な人間ではなく、評論を業とする者でもないので、私がそれぞれの項目について、あえて意見を細かく陳述することはしない。各自で考察の材料にしていただきたい。

さて、東京五輪に関して、私はかつて自著本の中で以下の通り言及した。

「賢明な読者の皆さんは、2020年・東京五輪のメインスタジアムとなる新国立競技場建設計画の決定にあたり、本章(注;第7章)で述べてきた『日本』的原理の悪い面のほとんどが凝縮されていることに、気付いたことであろう」(『口のきき方で介護を変える!』P.164~165)

この本は2015(平成27)年10月に上梓しているから、5年余り前のことだ。あのときの競技場にまつわるゴタゴタは、まさに「日本特有の現象」を帯びた組織委関係者(個人・団体を含め)の体質に由来すると、私は考えていた。そして5年の時を経ても、その体質が変革されないまま、ここでまた同様な問題が起きてしまった。

その「第7章」で述べたことを相関図にまとめたものが下の画像である。これらの思考形態や行動様式が負の連鎖を構成しており、私たちの社会の行く末に暗い影を落としていることを分析して、市民意識の変容を促したものだ。詳しく知りたい方は、同書をお読みいただきたい。

Photo_20210218082201

さて、いまの菅総理とも重なる面があるが、森氏もかつて小渕政権において与党幹事長、いわば屋台骨を支える「番頭」の役割を担っていた。総理になったのは前任者が急病で倒れたからだ。実は前述の「日本的な」がとりわけ鮮明に出現するのは、このパターンなのである。これが森氏のリーダーシップのスタイルとなり、現在まで「続いてしまった」と見てよいだろう。

「経営者型権力」「番頭型権力」の用語がある(ずっと以前から社会科学や人文科学に関する複数の研究者により用いられてきた)。前者のスタイル、特に足利義教・織田信長・徳川綱吉・徳川家重・大久保利通などに代表される独裁的な手法となると、後者の人たちは到底それを採用することができない(安倍前総理であっても、この5人に比べるとかなりマイルドだった)。また、独裁者は多くの「日本人」から嫌われる。義教・信長・利通のように「消され」たり、綱吉(「暴君」とされた)や家重(「バカ殿」とされた)のように貶められて低く評価されたりで、いいことがない(笑)。

後者のスタイルを採るリーダーは、「和」を尊重して組織を運営する。周囲がそれに「都合良く」合わせるスタイルが、これまでの「日本的な」組織運営に適している。政治・経済から社会の個別分野まで、中央から地方まで、いわゆる「護送船団式」が肌に合っている個人や団体が多いのだ。良し悪しはともかく、日本はその原理によって動かされてきた。

しかし、画像の図にある通り、「和」は他のさまざまな要素とつながっている。森氏の発言や五輪組織委、その周辺の人たちの意識や体質が、なぜ今回の騒動を招いたのか? それは私が解説するよりも、みなさんがこの図を眺めながら、それぞれの頭で考えていただきたい。いみじくも右下に「儒教」の一要素として、「男尊女卑」も掲げてある(笑)。
(なお、森氏は自分の思想が儒教に基づいていると明瞭に意識してはいなかったと思われるので、念のため)

そして、今回の事案を契機に、単に個人や組織の問題にとどまらず、日本社会を根強く「支配」している上記の構図そのものを変えていく必要があると、私は考えている。

次回へ続く)

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