2017年6月19日 (月)

ヴェルディ歌劇の面白さ(9)

ヴェルディの歌劇は過去六回鑑賞しているが、『椿姫』は初めてである。多くのヴェルディ‐ファンは早いうちにこの作品を体験するだろうから、七作目でやっと『椿姫』なのは珍しいかも知れない。

マッシモ‐ディ‐パレルモ劇場の引っ越し公演で、会場は地元浜松のアクトシティ大ホール。とは言え、確か十年ぐらい前に一度入っただけの劇場。ホームタウンなのになぜかアウェイ感。上野の東京文化会館のほうが、年一回程度は行っていただけに、ホーム感がある(^^; 第二幕に入るあたりでようやく違和感が解消した。

指揮はフランチェスコ‐イヴァン‐チャンパ、演出はマリオ‐ポンティッジャ。キャストはヴィオレッタがデジレ‐ランカトーレ、アルフレードがアントニオ‐ポーリ、ジェルモンがセバスティアン‐カターナ、フローラがピエラ‐ビヴォーナ、ほか。

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ランカトーレは容姿もヴィオレッタ役向きであり、第一幕にやや不安定な箇所があったものの、おおむね全編を通してドラマティコ‐ソプラノを朗々と歌い込み、秀逸な歌唱。第三幕のアリア「過ぎ去った日よ、さようなら」は豊かな表現力の演技とも相まって、素晴らしい出来であった。

ポーリは正統派のリリコ‐テノールで、音程が正確なのが長所。第一幕では控えめな演技で純情なアルフレードをよく表現していた。ランカトーレとの二重唱も相性好く、ブレを感じさせない歌唱。第二幕のカバレッタの末尾「...この恥辱を晴らすぞ!」のところでは(たぶん一部の聴衆が期待した)ハイC(=二点ハ音)を出さず、会場の拍手がやや少なかったが、若手歌手が長く声を維持して活躍するためには、無理をしないのが賢明であろう。

カターナは傲然とした家父長的なジェルモン役を粛々とこなし、特に第二幕「プロヴァンスの海と陸」、息子(アルフレード)の心には全く響かない設定で、聴衆にはじっくり聴かせて魅了しなければならない難しいアリアを、自然体で歌いこなし、喝采を浴びていた。

チャンパの指揮はオーソドックスで聴きやすいものではあったが、ドラマの転換点、特に第三幕では、ポイント切り替えのように緩急を意識的に調節していた。ポンティッジャの演出は照明の使い方が巧みであり、第三幕のシェーナ&二重唱でヴィオレッタ役のランカトーレが「こんなに苦しんだのに、若くして死ぬなんて!」の歌いに入るところから、彼女の顔に全く光が当たらないようにして絶望を表現するなど、随所に工夫が見られた。

ただ、せっかくの好演の価値を減じたのは、聴衆のマナーの悪さである。途中で携帯音が鳴り出すことが(聞き取れただけで)4回。そのうち1回は音を止めようともしなかったらしく、延々と鳴り続けていた。これは絶対にしないように、あらかじめ電源オフまたは消音にしなければいけないのだが、第一幕開始前に入り口で係員が小さな声で注意を促していた程度で、アナウンスは無かったと記憶している。これが東京文化会館ならば、幕の始まりごとにアナウンスが行われるし、鑑賞に来る聴衆も回を重ねている人たちばかりだから、社会常識として心得ており、せいぜい不注意で切り忘れた人の携帯音が1回鳴るか鳴らないかである。浜松は田舎だなぁ、と嘆息してしまった。

そんなことはあったものの、全体として心に残る『椿姫』であった。

なかなか身動きできない立場になってしまったので、次の歌劇(ワーグナーなら「楽劇」)鑑賞がいつになるかは見通しが立たないが、頻度は減っても、これは趣味の一つとして続けていきたいと思っている。

また、この公演には、浜松市や静岡県の医師会で重い役を歴任され、介護支援専門員の連絡組織でも私の前任者でおられた岡﨑博先生が来られていた。同先生は海外へもときどき鑑賞に行かれるとのことである。会場で顔見知りの方に出会うことはそれほど多くはないが、意外な同好の士の存在を知ることも、歌劇鑑賞の面白さなのかも知れない。

2017年6月18日 (日)

情報を取得するときの心得

既存メディアの功罪についての議論が絶えない。政治、経済、そして社会問題、国際情勢など。さまざまな分野に関して、新聞では全国紙や地方紙、TVでは公共放送や民間放送が、情報の普及に果たしてきた功績は計り知れない。他方で、メディアの「害悪」もまた小さくなかったことは現実である。

大新聞はとかく「偏向」を指摘されてきた。確かに紙媒体の新聞を読む限りは、主要な記事や論説のうち、かなりの割合のものが偏りを免れない状況であろう。しかし、インターネットが普及した現代では、大手メディアが必ずしも「偏向」していられないのが現実のようだ。

実際、右派・保守派から「パヨク」扱いされがちな朝日新聞が、提携するハフポスト日本版では、右派側の見解もそのまま掲載しているし、逆に左派・人権派から「ネトウヨ」扱いされがちな産経新聞も、オピニオンサイト「iRONNA」のコーナーでは、左派側の見解もそのまま掲載している。もちろん、両紙とも、自社側の論調をより強く印象付けるための仕掛けを、それなりに工夫しているらしいことが看取されるが。

また、このほかに、どう考えても論調がおかしい(一貫していない、判断根拠が理解し難い、etc.)全国紙や地方紙が存在することも確かである。

TVでは、一部にどう見ても偏向としか言えない番組はあるものの、問題の多くは局側の「視聴率を取りたいビジネスライクの姿勢」にあり、過剰な取材を始め、視聴者の興味本位に迎合した番組本位の稚拙な編集が、正確性や中立性を歪める原因を作っているので、視聴者から愛想を尽かされている面が強い。裏を返せば、質の高い編集がなされている番組には、視るに値するものも少なくないのだが、大勢を占めるには至っていない。

このような実態を踏まえ、最近はおもに若い人たちが、あまり新聞やTVに依存せず、ネットから直接情報を取得しようとするのは、時代の趨勢である。

さて、私たちがネットを主たる媒体として情報を取得するときに、心がけたいことがある。

それは、情報の「選び方」なのだ。

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私がいつも強調しているのは、「私たちは無意識のうちに、自分にとって快い情報だけを取り込んでいる」ことである。人が情報を取得し、選択しようとするとき、大なり小なり、この図に示したような心理的動機が働く。いくら自分が公平な眼で、中立的な立ち位置で世の中を眺めようとしても、神ならぬ身であれば、100%それを貫徹するのは不可能と言えよう。

しかし、それを完璧に近づけるために努力することはできる。そのためには、

(1)「自分が日頃から尊敬、共感している人(組織)が、ある場面ではおかしなこと、間違ったことを言っていないか」

(2)「自分が日頃から嫌悪、批判している人(組織)が、ある場面では正論を言っていないか」

これらを常に意識して情報を「選ぶ」ことが必要になる。

拙著『これでいいのか? 日本の介護』第七章では、日本人特有の思考形態・行動様式について述べたが、その中で特に大きく取り上げたのが「二分割思考」である。「白」と「黒」、「善」と「悪」、「正」と「邪」、「純」と「不純」などが、その代表的なものだ。この「二分割思考」が「排除の論理」につながり、また私たちの正常な情報分析を妨げることは、前掲書中に述べているので、機会のある方はお読みいただきたい。

この「二分割思考」の壁を打ち破るために、上述した(1)と(2)とを常に意識することは、とても大切だ。考え方が両極端に走るのを防ぐことにより、ものごとの真実を見抜く力を養うことにつながるからである。

私たち市民がこのような努力をして、自分の頭で情報を選び、ネットでの極論や誹謗中傷に対して安易な賛同をしない姿勢、反対側の立場の見解を頭から否定しない姿勢を保っていけば、それは日本国民の民度を向上させ、成熟した市民社会の実現を近付けることになる。

上の(1)と(2)。一人でも多くの人たちに、ぜひ実践していただきたい。

2017年6月17日 (土)

特別講演を終えて

去る10日(土)、特定非営利活動法人・静岡県介護支援専門員協会の総会があり、4期8年間在任した副会長を退任することとなった。

「老害」と謗られる(?)前に引っ込もうと思い、いささか遅きに失した感はあるが、職能団体での役割に、ひとまず区切りをつけた形である。後半の三年間は、母の体調変動により、いささかの無理をしながらの在任であり、特に最後の四か月は介護に追われながらの日々で、満足に職務を遂行できなかった。ご迷惑を掛けた関係者の方々には、なにとぞご寛恕いただきたい。

続いて、総会終了後に「特別講演会」と題して、講話をさせていただく機会を得られたのは、ありがたいことであった。

タイトルは「ケアマネジャーの可能性 -制度の中の仕事と制度の外でできること-」。

前半では、2018(平成30)年度医療・介護同時改定はもちろん、2021(平成33)年度改定で起こりそうなことまで大胆に予測する流れで、県内の介護支援専門員や県ケアマネ協会を鼓舞する一方、「副会長」の肩書では言いにくかった政策側や職能団体等への体制批判的な見解も、一会員の立場でしゃべらせていただいた。

後半で伝えたかったのは、制度上の「介護支援専門員」に限らなくても、ケアマネジャーの職能でできる仕事はいくつも存在すること。障害者相談支援、認知症サポート、コミュニティソーシャルワーク、民間保険、産業(介護離職防止)ケアマネジメント、成年後見制度関連業務、外部評価、外国人人材活用など、ケアマネジャーが経験知や技術を活かすことができる場を紹介し、制度の枠だけに捉われずに職能を生かしてほしいと訴えた。

もちろん、これらのすべての分野について、ケアマネジャーが占有できるわけではない。中には、「ケアマネジメント」の領域に隣接かつ一部重複する「ソーシャルワーク」の領域に及ぶ分野もあり、本来ならそれらの分野については両者の相互関係を整理して説明するのが望ましかったのだが、時間の関係で話を端折らざるを得なかった。聴講者にはいささかわかりにくかったかも知れない。

最後に、結びとして呼びかけたのは、ケアマネジャーには、共通する職業倫理や行動規範があり、利用者の代弁、人間の尊厳、公益、連帯、たゆまぬ研鑽を旨としてほしいこと。

そして、ケアマネジャーがどのような形態で仕事をしようが、専門職としての誇りを持ち、人頼みでなく自分から行動し、積み上げた実績を信じて前進してほしいことを述べ、いつかは民意が世を理想に近づけるのだから、希望を捨てないでほしい、と締め括った。

私自身、介護者でもあるため、これから人前で話をする機会も限られてくるであろう。数少ない「本音で話す」論者の意見として、県内のケアマネジャーのみなさんが受け止め、何らかの参考にしていただければ幸いである。

2017年6月 4日 (日)

国益を損ねているのは誰なのか?

先日、日韓両チームによるサッカーの試合後、韓国チーム側に主たる原因があると判断される暴力騒ぎがあり、ネット上を賑わしていたようだ。

ただ、これに関連するブログやSNSの記事やコメントを見て、思うことがある。

よく聞く話だが、日本人Aさん、あるいはAさんの所属する集団(国を代表する機関は除く)が、Bという国で、明らかに日本人だとの理由から、理不尽な、あるいは暴力的な、あるいは差別的な仕打ちを受けたとしよう。

Aさんは怒って日本に帰り、「B国でとんでもない仕打ちを受けたよ」と、自分のブログやSNSにその経緯を掲載した。

それを読んだ多くの人たちが、「B国」を「国」として批判するのにとどまらず、「B国人は悪いヤツらだ!」「日本に居るB国人は帰れ!」と、「人」や「民族」への攻撃を続々と書き込んだ。これもよくある話だ。そのため、日本に在住する善良なB国人までが、精神的苦痛を味わうことになった。

つまり、日本国内で「B国人」に対するヘイトスピーチが広がったわけだから、結果的には日本国の「失点」となり、国際的な日本の評価を下げることになるのである。

では、私がAさんだったらどうするか?

まず、事案が発生した直後に、B国の地方行政機関などの当局に(現地語がわからなければ、日本語と英語だけでも)経緯を伝え、自分(集団)が「日本人であることが原因で」不当な扱いを受け、精神的苦痛を味わったことを明確に示し、対処を要求する。

自分の滞在中に、納得のいく結果(改善、謝罪等)が得られなかった場合は、帰国後に改めて先方国の大使館に経緯を説明し、同様な要求をする。一定期間が経過しても、誠意ある対応をしてくれないようであれば、自分と考え方の近いロビイスト等の活動家に書簡やメールを送り、国際機関への報告を依頼する。

同様な事案が積み重なるようであれば、B国が「日本人(集団)排斥」への規制に消極的だということになるから、それはB国側の失点となり、B国の国際的評価を下げることになる。もちろん、そうなる前にB国が適切な対応を見せてくれるのが、お互いのためにも望ましい。いずれにせよ、この場合は日本への国際的評価に直接の影響はない。

ところが、往々にして日本人はこのような行動を採らず、先に掲げたAさんのような行動を択んでしまう。そのため、「B国人」を罵り、貶めるコメントがネット上に横行してしまうことが少なくない。

したがって、結果から見る限り、日本の国益を損ねているのは、B国の人たちではなく、日本のヘイトスピーカーたちなのである。

東アジアの場合、たとえば西欧などと比較すると、歴史的な経過も複雑であるため、事情が異なる面も確かにあろう。また、日本のロビイスト等の活動家には、特定の国の人たちに対し行き過ぎた配慮をしている感のある左派・人権派の人たちが、たいへん多いのも現実であろう。それを理由に、右派・保守派の中には、私のやり方に首肯できない人たちも相当数いるものと推測される。

しかし、国際標準で判断する限り、上に述べた通りなのだ。対立する相手側が熱くなったからと言って、自分の側が熱くなるのは愚策である。B国の政治家や教育者が国としての日本をどう見なしていようが、B国内で日本人(集団)を排斥するのが間違った行為であることを、冷静に主張し、改善を求めていくことが大切である。日本に居るB国人が居心地の悪い思いをしたくないのと同様、B国に居る日本人も、居心地の悪い思いをしたくないのだから。

相手側への反感からネガティヴなヘイトスピーチに走れば、自分自身の心も貧弱になる。国同士の関係がどうあれ、私たちは異なる民族や国籍を持つ人たちと理解し合い、豊かな心で、建設的な国際交流を目指そうではないか。

2017年5月30日 (火)

朝ラーメンの体験

ここ数か月、母の介護を抱えたことで、生活にさまざまな制約が生じている。

しかし、私の生活すべてが不自由になったわけではない。逆説的であるが、いまの状況になったことにより、かえって自由になった面もあるのだ。

その一つが「朝ラーメン(略称・朝ラー)」である。

これまで、母が私の朝食の準備も手伝ってくれており、それが母の一つの役割として、決まり仕事になっていた。そのため、朝早く母を置いて出掛けるのは忍びなく、朝食をどこかの店に立ち寄って、とは簡単にいかない状況であった。

しかし、いまは母がショートステイを利用して家に居ない日があるため、その間に限っては朝ラーが可能になったのだ。

静岡県では、藤枝市を中心とする志太地区で、大正以来の伝統的な朝ラーの文化がある。当初は朝が早い茶業や漁業従事者の需要に応じたものであったが、他業種の人々の間にも好んで食べる習慣が広がり、地元の志太系ラーメンのみならず、多様なラーメンを提供する20以上の店が味を競っている。

そして、後進地域であった浜松でも、いまは市内で4店舗が朝ラーを営業。そのうち2店が、私の自宅から事務所までの間の路線沿いなのだ。

これに挑戦しない法もないと思い、朝食抜きで出かけてみた。

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まずは、西区の西山町にある「みちの」。北海道(旭川)系の店。浜松で最初に朝ラーを始めた店らしい。

ここは週休二日で、他の五日は朝から夜まで営業しているようだ。日中入ったことは何回かあるが、朝は初めて。味噌ラーメンを注文。癖が強くないマイルドな味噌味なので、一部のラーメン通よりも一般の客向けである。朝ラーにはこんなパターンが好いのかも。ご飯の代わりにラーを味噌汁で食べている感触に近く、朝の空きっ腹にはとても優しい。他のメニューも出してくれるので、次回は別の一品を試してみたい。

次は別の日に、中区の富塚町にある「七星」。和歌山系の店。ここも日中は何回か入ったことがある。

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朝ラーのメニューは煮干しと塩との二択。以前からこの店で煮干しを始めたことを聞いていたが、日中のメニューには含まれていないことを残念に思っていたので、躊躇なく煮干しを注文。

和歌山流の豚骨醤油に煮干しを利かせたスープが、硬めの細麺と実に好くマッチングしている。浜松では他でなかなか食べられない味なので、とても美味しい! 平日で、少し遅めの八時半頃だったため、客は私一人だったが、早い時間には結構出入りがあると聞いている。

考えてみれば、これまでも宿泊してホテルの建物内に朝食できる場所が無いとき、近くの店に入ってモーニングを済ませることもときどきあったわけだ。朝ラーはそれの変則的なパターンだと思えば、抵抗なく入店できる。

金額だけから言えば、自宅で何か作って朝を済ませるほうが(私の場合はいつもパンと玉子スープ)安上がりだが、気分を変えたいときなど、たまには朝ラーにすると効果的な場合もある。そんな良さが市民の間に少しずつでも浸透して、来客が増えれば、店側にとっても採算が合い、苦労して朝早く出張る甲斐もあるだろう。

私から言うと、他の二店は遠方でもあり、おそらく体験する機会はないと思うので、今後ときどきは寄らせてもらうであろう上記の二店で、朝ラーを長く続けてほしい気持ちがある。先方から頼まれたわけではないのだが、PRの一環にもなればと、エントリーしてみた次第である。

2017年5月22日 (月)

プロフェッショナルとは?

プロフェッショナル≒専門職とは何か?

ソーシャルワーカー8年、その後はケアマネジャー16年。私自身の職歴を踏まえて、どのような人を指してプロフェッショナル(プロ)と言うのか、考えてみる。なるべく多くの職種や業種に共通するものを掲げてみたい。

・しかるべき期間の学習や訓練に裏打ちされた共通基盤を、同じ職種の人たちの間で共有しているのがプロ。

・自分の能力を可能な限り最大限に発揮しながら、クライエント=顧客・受益者にとって最善の仕事をするように努めるのがプロ。

・常に職業倫理を踏まえ、行動規範に則って仕事をするのがプロ。

・アサーション(自分自身も大切にしながら、クライエントも尊重すること)が自然にできるのがプロ。

・アカウンタビリティ=説明責任を果たすことができるのがプロ。

・他の職種や業種の人と、適切な距離を保った専門的な連携・協働ができるのがプロ。

・コンセンサス(合意)とコンフロンテーション(対置)とを組み合わせ、また使い分けられるのがプロ。

・表面を観察しただけで、ある程度奥深くまで洞察できるのがプロ。

・報酬に見合う、もしくはそれ以上の仕事をするのがプロ。

・利潤を求めながらも、公益を忘れないのがプロ。

・一般の人やアマチュアを見下さないのがプロ。

・少々コンディションが悪くても、乗り越えるのがプロ。

思い付くままに挙げてみた。読者のみなさんのうち、自分のいまの仕事がプロであると認識している方の中でも、上記十二ほどの項目の中で当てはまらない項目があまり多い方は、自分に不向きであると諦めて、他の仕事を選ぶべきかも知れない。

2017年5月 9日 (火)

予見されていた労働市場の流動化

最近、介護業界で働く人たちの入れ替わりが著しい。と言っても、これは介護業界に限ったことではない。

規制緩和の推進を受けて人材派遣業が急速に成長したことにより、終身雇用制はいまや過去のものとなり、労働力の流動化がいよいよ顕著になってきた。政策としてこの流れを意識的に推進したのが、2001~06年の小泉内閣であり、現在の安倍内閣もその方針を継承していることは、みなさんご存知のことと思う。

しかし、すでに四半世紀も前の1992年に、この現状を予見していた方がある。

門奈邦雄さん。私より13歳年上であり、旧国鉄労組の相談員として長く活躍されていた。また、かつて「へるすの会(=外国人労働者と共に生きる会・浜松)」の中心メンバーであり、私もこの団体を通して門奈さんに一方ならぬご指導をいただいた。その後、地域労組である「遠州労働者連帯ユニオン」の事務局長をされていたが、いまは役員を退かれ、労働相談の第一線からは引退されている。他方で門奈さんは、袴田事件の(推定)冤罪被害者・袴田巌さんの支援など、広く人権を守る立場での活動に携わっておられる。昨秋の私の開業15周年記念のつどいにも、駆け付けてくださった。

元をたどれば、1990年の出入国管理法改正により、多くの日系人労働者がバブル期の日本へ出稼ぎに到来したあと、アジアから入国した超過(不法)滞在の人たちを中心に、外国人労働者が企業のいわば「雇用の調節弁」として扱われるようになった。人材派遣業者(当時は単純労働の派遣はすべて違法)の介在により、不当解雇、給料未払い、労災への未対応、健康管理の放置など、外国人の人権をないがしろにする事案が各地で発生し、社会問題となった。

そのような時期、派遣業者の暗躍が話題になった際に、門奈さんが私たちに語ってくださった一言を、いまも鮮明に記憶している。

「いま外国人労働者の身に起こっていることが、将来は日本人労働者の身に起こるようになるよ」

まさに先見の明! いまの日本社会は、この言葉通りになっているではないか! 派遣の自由化、派遣会社の乱立により、労働市場が流動化どころか、混乱をきわめている。本来、派遣労働者に保障されていくべき、雇用の安定、均等待遇、キャリアアップなどが置き去りにされ、格差の拡大や貧困の再生産が、じわじわと私たちの社会の健全さを蝕んでいる。

門奈さんが25年前に、すでにこの日本社会の近未来を見通していたことには、改めて深く敬意を表させていただきたい。

ここからは私の感想である。

現政権の防衛・外交政策については、(一部に疑義があるものの)私は大枠で支持している。しかし、社会保障や労働政策については、全く逆である。一言で表現すれば、これほど「『人』に優しくない政策」をなぜ続けるのか? という憤りが収まらない。

介護に関してもしかり。介護職員の処遇改善は雀の涙であるのに対して、ハコモノである介護施設の建設には、大きな投資をしようとしている。これが経済の活性化を導く介護離職防止には結びつかない政策であることは、すでに述べた通りだ。

むろん、政策サイドと密着して自分(自社)の利益を追求する、恥知らずのレントシーカー(利権あさり)に相当する財界人の横行は、目に余る状態である。しかし、それがすべての原因であるわけでもない。

最大の原因は、将来を見越したグランド‐デザインの欠如であろう。拙著『これでいいのか? 日本の介護』では自治体のグラント‐デザインについて述べたが、国全体としても、これから国家・国民がどのような方向へ進むべきなのか、その大きな未来図を描いて、そこへ向かって一歩一歩着実に歩みを進めていくことが求められる。

そのためには、政治学、経済学、さらに社会学といった政策科学に裏打ちされた、計画性、実効性のある施策が打ち出されなければならない。門奈さんのように四半世紀先のありさまを見通せる人物は、政策推進者の近くにも決して乏しくないはずだ。介護についても、私が存じ上げている学識経験者や実践者のうち何人かの方は、そのような慧眼を持っておられる。しかし、残念ながら、これらの方々のご意見を、中央省庁が本気で取り上げて、政策に反映させようとする姿勢は、一国民の立場で見る限りでは感じられない。

それどころか、これらの方々とは似て非なる経済学者などが、レントシーカーになり下がって政策に容喙しているのが現実なのだから、目を覆う惨状だ。

このままの状況が続けば、国民の活力の低下に歯止めがかからなくなることに、私は心から憂慮するものである。

2017年4月30日 (日)

当家の介護状況・続報

先に、1月下旬から自分の母親(90)が要介護状態になったことを述べたが、その後の経過を報告していなかった。

結論から言えば、いま何とか仕事と介護との両立ができている状況である。

3月8日に至って、「要介護3」の結果が出た。これは織り込み済みであった...と言うより、一次判定の項目をシミュレーションソフトに入れてみたら「要介護4」だったが、認定調査項目のうち、○を付けるべき番号が重いほうか軽いほうかどちらとも言えないボーダーラインの部分で、来宅した調査員が重いほうに付けて特記事項に付記した項目がいくつか存在したので、おそらく下方修正されると踏んでいたのだ。

したがって、実際に利用していた介護サービスは、要介護3の限度額までは達せずに、少し内輪で収まる分量だったのである。

加えて、母がADL(=日常生活動作)の回復途上であるため、不要なサービスは削減する方向で調整を進めた。本人が独力でポータブルトイレを使用できるようになり、一人で家に居られる時間が長くなったので、私が週五日間フルに働いても、おおむね母の介護が可能な体制を整えることができるようになった。

いま、母が利用している介護サービスのメニューは、以下の通りである。

訪問看護; W医療法人。母の主治医がよく利用しており、浜松市で長く療養型病床群や老人保健施設を経営し、定評がある。地理的な制約もあり、看護師さんは比較的年輩の人が多いが、母にとっては若い看護師さんよりも合っているようだ。1月末の時点では摂食不良を受け、悪化していた複合的疾患の看護が主であったため、毎週一回依頼していたが、いまは疾患のほうが軽快し、測定・観察とリハビリ指導が主になり、ショートステイとの絡みもあるので、月2~3回、および緊急時利用となっている。

福祉用具貸与・購入; Y株式会社。静岡市に本拠があり、全国展開している大手で、365日稼働しているのが最大の利点。1月末時点では看取り騒動のさ中だったため、当座の自立支援ベッドをレンタルした上で、ポータブルトイレを購入。危機を脱した時点で、保険適用の特殊寝台と褥瘡予防マットに切り替え、移動の便宜のため車いすをレンタルした。本人の回復に伴い、褥瘡予防マットをやめてベッドの付属品マットレスに切り替えた。

ホームヘルプ; A株式会社。浜松市に本拠があり、昔は「看護婦・家政婦紹介所」であった。市とその周辺地域に展開するローカルな企業であるが、社長は国の審議会等に参加したこともあり、意欲的な取り組みで知られている。同社の本拠地が自宅から遠くないので、人員の確保を信頼してケアを依頼。母のADLが低下していたときには、私が不在の日に午前、昼過ぎ、夕刻と3回入ってもらっていた。母の状態安定に伴い、昼過ぎの時間を少し早めてもらい、午前の部を終了、いまは一日2回が原則である。昼過ぎには昼食の準備と摂食・移動の見守り、口腔ケア、夕刻には水分補給と清拭や排泄の後始末等をしてもらっている。

ショートステイ; S社会福祉法人。浜松市の老舗施設で、私が33年前の学生時代、泊まりを兼ねて丸2日間実習させてもらった施設である(いまは区画整理による建て替えで、当時の建物は残っていない)。母が利用させてもらうことになったのも、何かのご縁であろう。母も最初は利用に抵抗があったようだが、次第に慣れて満足度も高いので、5日間×月2回を原則として、所用があるときや休息したいときに依頼している。

このような組み合わせで、介護サービスの力を借りながら、母にはなるべく家で過ごさせてやろうと思っている。本人がそう希望している以上、自分自身が可能な限り、それに沿ってやるのが最善だと考えている。

そして、これらの提供体制が整ったことにより、私の居宅介護支援業務も本来の形に復しており、新規ケアマネジメントの受任も再開している。また、ご要望があれば研修や企画の講師として県内外へ出講することも可能になっているので、ご検討されたい。こんどは従前からのいくつかのテーマに加えて、「ケアマネジャーやサービス提供者が見落としがちな介護者の心理」のテーマでも講話ができるので(笑)。

※ 母の親戚や友人の方がこのエントリーをご覧になっても、私に無断で母を訪問することは絶対にしないでください。自宅には「有限会社ジョアン」の書庫等があるため、ホームセキュリティを操作させてあります。したがって、私の不在中、不用意に敷地内に入った方は、映像に撮られたり通報されたりする可能性があります。また、母自身も気疲れする性分なので、会いたい方を選別しています。なにとぞご理解ください。

2017年4月20日 (木)

自治体附属機関等の委員会に出席して(4)

公的な会議に出席しての感想。

これが最終回である。そして、最も重要な課題について述べてみる。

浜松市にも静岡県にも共通して言えることだが、「当事者」である委員が出られる機会が乏しいことが、これらの会議における最大の問題なのだ。

すべての会議がそうだというわけではない。たとえば私が過去委員を拝命した、浜松市介護保険運営協議会では、公募とは言え一般市民(うち一人は介護者である当事者)が委員に連なっていたし、静岡県福祉用具・住宅改修広域支援事業推進委員会では、静岡市の介護者団体代表者の人が列席していた。

しかし、このような会議のほうが少数であり、多くは当事者不在の会議になってしまっている。これまでも触れた浜松市医療及び介護の連携連絡会では、本委員会のほかに部会別の小委員会があり、それぞれに職能団体や業界団体から代表者が列席しているのに、どの会議を取っても、当事者側委員が含まれていなかったのだ。

これでは、「当事者主権」の理想には程遠い。政策について議論する会議であれば、受益者となる当事者側の人物が意見を述べる機会を得られて当然であろう。いまだに提供側の人物だけで委員会を構成するという、旧態依然たる体制が変わっていないのであれば、これから先が思いやられる。

ただし、当事者側の委員が的確に意見を述べられているかと問われると、公平に見て、決してそうではないのが現実である。

たとえば、静岡県認知症施策推進会議では、確かに介護者の会の代表者が出ていたが、その人物は自ら、とある種別の事業所を経営しており、意見や要望は主としてその事業に関連する内容に偏っていたため、一般の認知症利用者や介護者の意向を代弁しているとは言い難かった。

また、上述の浜松市介護保険運営協議会に出席していた公募委員も、自分の親の介護に関連した話題を展開するにとどまり、そこから外へ踏み出した普遍的な意見の開陳には至らなかったと記憶している。

私自身、現在は母の介護者でもある。もし自分が介護者側の立場で公的な会議に出席する機会があれば、当然であるが自分の母親に関連するものにとどまらず、多くの介護者に共通する課題について整理した上で、会議の席においてなるべく簡潔に発言するように心がける。私自身がケアマネジャーの立場で、これまで多くの利用者や介護者の現状を知悉しているから、それが可能である。

その場合に大切なのは、特に、多数でありながら声を揚げる機会に乏しい「サイレント‐マジョリティ」のニーズが奈辺にあるかを把握し、そこに焦点を当てて代弁することが大切であると考えている。これは他方で、少数であるにもかかわらず声高に主張を繰り広げる人たちの力に、行政施策が振り回されない効果をも、併せ持っている。

しかし、当事者である利用者・介護者の代表が、公的な会議でこのような代弁ができるためには、それなりの経験知や能力が必要になる。

当事者委員の選考方法も課題である。浜松市のように介護サービス利用者・介護者の当事者団体そのものが脆弱な地域では、団体から代表者を出してもらうよりも、公募のほうが望ましいのであるが、その公募に際して「サイレント‐マジョリティ」の意向を体することができる人物を選考しないと、結局はサービス提供側である職能団体や業界団体の委員のほうが、利用者や介護者の側に立った発言をすることにもなりかねない。そうなると当事者委員の必要性自体が問われることになる。

拙著『これでいいのか? 日本の介護』の第6章や第12章で、市民の意識向上を促したのは、先進国であれば当たり前になっている「当事者主権」を実現させるためにも、私たちが介護の未来を、自分自身のこととして捉えることが欠かせないと考えたからだ。そして、行政施策の立案や実施の過程において、受益者としての発言権を強めていくことが望まれる。

これは介護に限らず、社会生活のあらゆる分野に共通するものだと言えよう。

2017年4月 8日 (土)

自治体附属機関等の委員会に出席して(3)

公的な会議に出席しての感想。

三回目は、都市計画のありかたの話である。

これは、静岡県政にも当てはまらないわけではないが、おもに政令市たる浜松市の当局に投げ掛けたい(特定の管理職等を意識した記述ではないので、誤解なきようにお読みいただきたい)。

まず、当然の話であるが、介護分野に関する施策はそれだけで独立しているわけではない。保健・医療・福祉の関連施策とはもちろんであるが、たとえば経済・産業とか、教育とか、交通とか、内容次第では文化・芸術に関する施策とも連動して展開されるものである。

したがって、都市計画全般の中で、いま委員会で審議している政策がどのような位置にあるのか、他の関連施策とどう連動し合うのか、行政担当者は自らが知っているだけではなく、各委員にそれを知らしめる必要がある。特に専門職団体を代表する委員は、特定分野に関する深い専門性を持っていても、その外側については良く知らない人も少なくないので、なおさらである。

しかし、浜松市の介護関係の委員会は、実に縦割りである印象が強い。これまで出席した複数の会議で、市政の全体像の中における当該部門の位置付けと、他分野の施策との関連性とが、広角的に示された記憶は皆無に等しい。

行政の部門責任者が、委員会に対してそれを示す機会を逸しても、総合的な都市計画はしっかり進めているのであれば、文句を付ける筋合いはないのだが、どうもそういうわけでもないようだ。

過去の話であるが、市当局が実際、他県から都市計画の専門家を招聘して、市の外郭団体のトップに座ってもらったことがあった。ところが、せっかくこの人が実力を発揮しようにも、市内のさまざまな既成勢力のバランス‐オヴ‐パワーに妨げられてしまったため、市が抱える課題に対して根本的にメスを入れることができないまま、消化不良で浜松を去って行った(本人に近い信頼筋からの伝聞)。これでは宝の持ち腐れとしか言いようがない。

その後も、忌憚なく言えば、都市計画のほころびが随所に見られる。

一例を掲げよう。

東区の中田町・市野町・天王町・原島町の辺りは、郊外型の大型ショッピングセンターが林立する、巨大消費地域である。この地区では時間帯によって、信号のある交差点から100メートルそこそこしかない次の交差点に達するまでに、長ければ10分も要することがある。

天竜区の春野町や龍山町の幹線道路を10分も走れば、100メートルどころか、7~8キロメートルは移動できる計算だ。

すなわち、中田など四町の周辺にある福祉サービスや医療機関をオブジェクトにする場合、通所・通院にしても訪問系サービスにしても、同じ距離を車で走行するのに、春野や龍山の数十倍の時間を要することを想定しないと、的確な見積もりができない。

また、当然であるが、これは福祉・介護サービスの人手不足にも深刻な影響をもたらす。この地区を通り抜けるのに費やす時間を計算に入れると、職員の通勤圏の地図が大きく変質するのだ。たとえ自分が就職・転職したい事業所が距離的に近くても、通勤に際して無駄な時間が著しくかかるのであれば、躊躇してしまうかも知れない。

この地区の交通量が介護関連サービスに及ぼしているマイナスの影響をどう緩和し、解決に導くのか。これは当然のことながら保健・医療・福祉分野だけの課題ではない。市当局は交通政策や商業政策を含めた、都市計画総体の中で適時に検討を重ね、より効果的な対策を速やかに打ち出していかなければならないはずだ。

そのような効果的な対策が、少なくとも私が出席する介護関係の会議では過去示されたことがなく、また、示されたとの話を聞いたことがない。この東区の交通問題はあくまでも一例に過ぎないのだが、他の分野の課題についても同様、介護関係の会議でめったに提示されない状況であることを、出席した当該委員から聴き取っている。

市当局のしかるべき地位にある人たちが、このような課題への対処をなおざりにして、自分の守備範囲の施策だけの遂行に終始しているのであれば、統合された市政の実現には程遠い。もちろん、各部門を一つの市政として統合する最終的な責任は市長に帰せられるであろうが、市長一人ですべての仕事ができるわけではない。各部門の責任者が市長を補佐し、議会で民主的に出された意見を反映させながら、横断的な施策の実現を目指して連携しなければならないのだが、これまでの経過から見る限り、浜松市の行政幹部職員には、その責任に対する認識が薄い人が多いようだ。

やるべきことをやらなくても、テキトーな時期が来れば栄転したり他の部署へ異動したりする。そして、確かに自分の担当部署の中ではそれなりの実績を残したとしても、統合された市政に関しては「何もしなかった」という無能無策の実績だけ残すのならば、市民不在の行政の推進者であったことを、自ら証明するようなものであろう。意識の高い公務員であれば、ご当人たちにとっても遺憾千万な話だと思うのだが、どうだろうか?

浜松市の将来のために、私はこの現状を憂えるのである。

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