2019年7月17日 (水)

政治と「家系」

民主的な近代国家であっても、政治家の世襲は少なくない。日本でも安倍総理をはじめ、世襲議員は各地に見られる。既得権を持つ利害関係者が、これまで協働して築いてきた「地盤」を守る意味で、世代交代に際して同じ「家系」の若い後継者を望むことも少なくない。

しかし、「家系」とは言いながら、このパターンと異なる形で選挙に出馬する候補者もいる。

今回の参院選で、当県ではもと将軍家の、それも「宗家の当主」である人物が立候補した。その人が保守政党ではなく左派系政党から出馬し、脱原発や九条護憲を主張していることも、県民には大きな波紋を投げかけた。「初代将軍」の事実上の政庁が当県内にあったことは事実であるが、その初代を祀る神社は、保守政党を支持しているので、ここに「初代」と「当代」との「ねじれ現象」が生じた形だ。

Back13

このようなことは、この「もと将軍家」の人に限ったことではない。

現内閣の主要閣僚の言動を注視していても、それは明瞭だ。副総理兼財務相のA氏は、祖母(元総理の妻)も母もカトリック信徒であり、ご本人も受洗しているはずだが、A氏の政治的な見解を私たち信徒から見れば、カトリック的な考え方とはかなり乖離している。また、外相のK氏は、お父さん(元衆院議長)の隣国に関する「談話」について、「私の談話ではない。私は湘南ベルマーレが圧勝したときに談話を出す」と揶揄し、その隣国に対するK氏の外交は、明らかにお父さんと異なる見解を踏まえて臨んでいる。

つまり、特定の家系の後継者に対して、「親や先祖がこんな思想や見解だったから...」との期待を持たないほうが賢明なのだ。

しかし、家系の重みを背負った人に対して、民衆がそれなりに惹き付けられることも、また現実である。

東欧のブルガリアでは20世紀に入ってから、ドイツ系の王室主導の政治・外交が失策を招き、二度の大戦で敗北を喫したため、最後の国王シメオン‐サクスコブルゴツキ氏は9歳で国を追われ、同国は共産主義国家となった。しかし1990年代に共産党が凋落すると、サクスコブルゴツキ氏は帰国し、政党を結成して2001年の総選挙に臨み、ブームに乗り国民の支持を得て自ら首相となって、政権を担った。国民の生活水準はなかなか好転せず、皆はサクスコブルゴツキ氏に失望したので、次の2005年選挙後には政権を譲る羽目になった。しかし、国の経済力が向上したことにより、氏が目指してきたEU加盟は、退任後ではあったが実現した。

このように「もと支配者の家系」の人物が国の政権まで担う例は、近代民主制国家では珍しいかも知れないが、特定の家系ならではの品格や度量を携えて政治に臨む人たちへの待望論は、国や民族を問わずあるだろう。

「もと将軍家」の人物が当選した場合、左派系政党の政治家としてどのような振る舞いを見せてくれるのか、注視したい。当落については、次の日曜日の投票結果を待つことになろう。

(※画像は「発光大王堂」さんのイラストを借用させていただき、加工しました)

2019年7月10日 (水)

音楽の著作権をどう考えるべきか

このたび、JASRAC(日本音楽著作権協会)の職員が「主婦」として、Y社(本社は当地・浜松)が経営する銀座の音楽教室に二年近く「潜入」して受講していた事案が、話題になっている。

Y社をはじめとする「音楽教室を守る会」が、教室での楽曲演奏にまで著作権使用料を徴収するのはおかしいとして、JASRACと裁判で係争している中、この「主婦」はヴァイオリン講師の模範演奏について、「講師が伴奏に合わせて弾く様子は、まるでコンサートを聞いているかのように美しく聞こえた」と証言し、JASRAC側の主張を裏付けたのだ。

この事案をめぐって、あたかも「JASRAC→悪」「音楽教室→正義」であるかのような議論が支配的になっている。

JASRACに対する批判は、多くの論者から寄せられている。著作権料の徴収対象がカラオケ店やBGMを流す店などにも拡大し、また、徴収した著作権料をクリエイターに払わない場合もある(例:短い小節なら作詞者に配分しない、雅楽の演奏にも徴収した、etc.)と報じられており、これが「権利を守る」正当な行為に相当するのか、疑問を持つ人たちも少なくない。中には誇大な報道もあり得るので、実態が報道の通りなのか不明瞭ではあるが、JASRAC自体が大きな利権を得ていることは否定できないであろう。

その流れに沿って、今回のJASRAC職員の「潜入」も、教室側との信頼関係を踏みにじるスパイ行為であると評する論者が圧倒的に多い。

しかし、これはちょっと違うのではないだろうか。

まず、楽曲を用いて収益を得る場合は、作詞家や作曲家に対して正当な対価を支払う義務がある。これは作詞家や作曲家の権利を守るためには大切なことである。こちらもいま話題になっている過去の海賊版サイト「漫画村」が、いかに漫画家や出版社の正当な権利を侵害してきたかを考えれば、クリエイターの著作権が守られなければならないことは自明である。

JASRACが作詞家や作曲家に代わって管理している楽曲であれば、当然ながら楽曲の有償使用者は、JASRACに著作権使用料を支払う義務がある。作詞家や作曲家がJASRACの取り分を除いた適切な配分を受けているかどうかは、JASRACと作詞家や作曲家との問題であり、楽曲の使用者が介入すべきものではない。

次に、カラオケ店やBGMを流す店はともかく、音楽教室までが「楽曲の有償使用者」に該当するかの点である。

今回、多くの教室経営主体が「音楽教室を守る会」を結成、協働して裁判を起こしているが、Y社(...を含めた一部の音楽教室。以下、音楽教室「Y」という)は、他の大手や街中のところどころにある中小零細の音楽教室(以下、音楽教室「T」という)とは、性質がかなり異なることが判明している。

音楽教室「T」では、穏当に音楽文化を一般の人たちに伝えて、その対価を得ることが営業活動である。その後、そこで学んだ若い人が演奏家として育つための橋渡し程度はするかも知れないが、それ以上の営業活動に踏み込むことは通常はない。

他方、音楽教室「Y」では、自社で契約する演奏家をプロフェッショナルとして活動させ、メディアでの仕事に結び付けている。しかもY社の場合、伴奏システムまで自社側で用意しているので、ある程度の技術を持つ受講者が本気で習得に臨み、一定の過程を経れば、比較的容易に「演奏家」レベルまで到達する。この繰り返しによってY社側で「使える」プロ演奏家が(レベルはともかく)増加していく。これでは、単なる「音楽教室」ではなく、「稼げる演奏家の養成所」と見なされても、しかたがないのではなかろうか。

すなわち、Y社はコングロマリットとして総合的な音楽ビジネスを展開しており、音楽教室もその一環だと考えられるのだ。したがって、「講師が伴奏に合わせて弾く様子は、まるでコンサートを聞いているかのように美しく聞こえた」と証言した「潜入」職員の感覚は正常であり、JASRAC側の意を呈して虚構の「コンサート」を作り上げたとは言い難い。

長く浜松のため貢献している大企業なので、悪くは言いたくないのだが、残念ながら、先日、知人の演奏家(決して作曲者=JASRAC側に近い人=ではない)から耳にした話も、上記の判断を裏付けている。

だから、ここで「JASRACは悪だ」「音楽教室は正義だ」と決めつけた論評をしてしまうと、私がかねてから日本人の思考形態の特徴だと見なしている「二分割思考」の弊害に陥ってしまう。

この事案については、「ただの音楽教室(音楽教室「T」型)なのか? それとも、楽曲を有償使用したビジネス(音楽教室「Y」型)なのか?」の実態から判断して、著作権使用料徴収の是非を問うべきだと愚考する。裁判所にはこの点を賢察しつつ、判決を出してほしいと思う。

日本の音楽文化を守るためには、係争中の事案はともかく、今後、JASRACの幹部を含めた有識者や各方面の関係者が顔を合わせる場を増やし、議論を深めてほしい。クリエイターの権利をどう守り、他方で楽曲の有償、無償での使用の形態を法律や社会通念でどう定義し、線引きをするのか、利害関係者が対立を超え、知恵を出し合って、望ましい音楽文化のありかたを語り合い、方向付けていってほしいと願っている。

2019年7月 3日 (水)

人を傷つけて稼ぐのがそんなに楽しいか?

誤解なきようにお断りしておくが、このタイトルは、殺傷事件の犯人などが自らの事件に関する手記や著作を発刊して稼ぐことを意味するものではない。

あくまでも合法的な方法の範囲内で、他人を不幸にしたり苦しめたりすることで、収入を得ている人(たち)のことだ。

このテの人や組織には三つぐらいのパターンがある。一人の人や一つの組織が複数のパターンを兼ねている場合もある。

(1)差別したり侮蔑的に捉えたりしている属性の相手を貶め、自分(たち)に同調する人たちの賛同を集める

(2)情報弱者に対して、自分(たち)の一方的な評価に依拠した、信頼性や実効性に乏しい情報や物件を売る

(3)偏った過激な主張を掲げ、標的を定めて罵倒・攻撃し、自分(たち)に同調する人たちの賛同を集める

(4)その他(品薄のものを買い占めて転売するとか、虚構のブームを煽って品物を売るとか、...etc.)

この人たちの「稼ぐ」手法はさまざまだ。おもに、(1)はブログ・動画を用いたアフィリエイト、(2)は有料サロン等の会員制組織の運営、(3)は賛同者からのファンディングが主流だが、それに限らず、複数の手法を組み合わせて「稼いで」いる人たちも少なくない。一部では、違法性を疑われかねないギリギリのところまで手を出す連中も存在することが知られている。

この人たちに共通するのは、既成の権威やシステムを誹謗中傷、罵倒して、あたかも自分たちが時の人、正義の人であるかのように振舞うことだ。その点では悪質な一部の(あくまでも一部である)新興宗教にも通じるものがある。また、自分たちの手法の結果として起こったことへの社会的な非難を浴びても、責任を取らない、または責任を取ったポーズだけ見せて逃げる点も共通している。

多くは善良な社会人であった、貶められた人たちや、価値のないモノを買わされた人たちや、標的にされ攻撃された人たちが、どれだけ傷つこうが、自分(たち)の知ったことではない。限界が近付くまではやりかたを改めないし、そろそろ限界だと思えば早々に見切りをつけて撤退し、恬として恥じることなく、また新たな手口で同様な行為を繰り返す。

私は最近、自分自身で情報発生源を探り、自分の頭で妥当性を考える癖が付いているので、この類の人たちには引っ掛かることはめったにない(と思っている)が、それでも一時的、部分的に評価する場合はある。もちろん、大枠で「偽物」だと判明した時点で、基本的には信頼しない(ただし全否定ではなく、真に価値のある見解があれば、それに限って評価する可能性はあるが)。

この人たちは私の言葉などに対して、どうせ聞く耳を持たないだろうが、それでも言いたい。

「あなた(たち)は、人を傷つけて稼ぐのがそんなに楽しいですか?」

人の幸せを願って日々仕事をしている私たちの職域から眺めると、この人たちは全く異質の存在にしか見えない。なぜ、そのような生き方ができる社会になってしまったのか? 私たちも三思する必要があるだろう。

2019年6月26日 (水)

冷静に読み解くべき報告書

最近、以下の二つの報告書が話題になっている。

(1)金融庁が公表した金融審議会「市場ワーキング・グループ報告書 高齢社会における資産形成・管理」

(2)財務省が公表した財政制度等審議会「令和時代の財政の在り方に関する建議」

この両者に関して報道された内容が、人々を騒がせているのだ。

特に(1)は、「夫65歳、妻60歳の夫婦世帯では、30年間に公的年金以外の資産が2000万円必要」との試算だけがクローズアップされ、それを野党が意図的に政治問題化させ、与党は不器用な火消しに追われるといった、ドタバタ政治劇の混乱を招いている。

また、(2)の中にあった年金関係の数字が抹消されたことも、一部の市民から問題視されている。加えて、私たちの介護業界では、(2)のうちケアマネジャーなどの介護業界に関する内容が、安かろう悪かろうを推進し、良質な事業者をツブしかねない愚策だと非難されている。

そこで、〔自分の専門外の分野については十分に理解できていないことは承知の上で〕両者の全体に目を通してみた。

まず(1)であるが、読んでみたところ、報道されている話とは全く異質の印象を受けた。

これは、「余裕のある中高年世代に対する資産運用の勧奨」と、それに対する「金融機関向けの手引書」なのだ。だから、まだ導入部に過ぎない「人口動態等」の箇所で、勇み足よろしく米国の「プルーデント‐インベスタールール」を紹介している(P.8)。「この段階で早々とこんなコラム出すなよ!」と失笑してしまった。

つまり、「年金」の話題は、「資産運用」と「金融機関用手引」を引き出すための糸口に過ぎないのであり、そもそも主題ではない。もちろん、年金に関する試算にはそれだけの根拠があるのだろうが、そもそも一定以上の富裕層が志向する生活水準を前提にしたものであるから、私たち庶民には縁の薄い話(笑)なのだ。

したがって、この数字をネタにして一部野党が攻撃したのは事実「煽り」と言って差し支えないし、与党が報告書を「受け取らなかった」のも拙策だ。いや、受け取らないなら受け取らないでよかった。「ワーキンググループの段階の報告書なので、受理しなかった」と躱せば良かったのだ。受け取らないのにその内容についてあれこれ応酬しているから、かえって話がややこしくなってしまった。

続いて、(2)である。こちらは国政に占める比重は(1)よりもズンと重い。審議会による「建議」の形を採っているが、これが財務省の「意思」だと考えて良い。

まず、財政再建に向けて、オランダの財務大臣室に掲げてあったギリシア神話の絵まで紹介して、危機を警告している(P.9、資料Ⅰ-6-1)。オランダの場合、欧州債務危機の波及を受けての経済回復が緩やかであること、EUとの協調と移民対策との兼ね合いが長期にわたる重要課題であること、中小政党の政策の摺り合わせで連立政権が成立していること、などなど、日本とは国情の違いが大きいので、わざわざ引き合いに出すのはどうかと思うが、ま、それはひとまず措いておこう。

次に、社会保障に関する部分。私が着目したのは、薬局業務のうち、薬剤師の業務を対物業務から対人業務へシフトさせていくとした点である(P.19)。おそらくこの先には、AIの活用による薬剤師業務の省力化、ICT化も見越した見解であろう。ケアマネジメントにおいてもAIの活用が期待されているが、専門性を有する人間でなければできない部分をどう評価していくのか? それを調剤業務の報酬にどう反映させていくのか? 隣接する私たちの業界から見ても興味深い。

そして、上に述べた、介護業界の心ある論者たちから、愚策だとボロクソに叩かれている点。介護サービス価格の透明性向上・競争推進のために(P.23)、ケアマネジャーが複数の事業所のサービス内容と利用者負担額、つまり支払うお金を比較して紹介することで、より良いサービスがより安価に提供される仕組みのために働くべきとされている(資料Ⅱ-1-44)。これはまさしく現場を理解しない暴論であり、いまの時点で他業種に比較しても、職員に満足な給与さえ払えない介護報酬≒公定価格なのである。ここからさらに割り引きすることを期待するのは無理難題でしかない。ましてやケアマネジャーは必要な利用者に対して必要なサービス(たとえ利用者負担が多くなっても)を調整するのが役割であり、価格引き下げの片棒を担ぐものでは全くない。失礼千万である。この点に関しては、愚策だとの見解に全く同感である。業界から有能な人材が去っていく結果しか招かないことは、火を見るより明らかだ。

それから、年金に関連する部分。上記(1)の報告書をめぐる騒動を受け、マクロ経済スライドに関する部分の書き換えが行われたのは事実である(P.26)。しかし、他方で政府が推し進めてきた在職老齢年金制度の廃止(によって、働いて多くの収入があっても年金額を減らされないことになる高齢者の就労意欲を促進するのが目的)については、将来の年金受給者の給付水準の低下にも言及し、高所得者に対するクローバックの可能性にまで踏み込んで提議しており(P.29)、決して現実を軽視したものではない。この課題については、短絡的に反応するのではなく、国民皆が真剣に考えなければならないのではないだろうか。

あまり多岐にわたるので、私自身が該博な知識を持たない部分も多いが、他にも二点ほど気になった部分がある。

一つは、文教・科学技術の項目に関して、大学における研究環境の閉鎖性、硬直性が指摘され、日本の研究人材の国際流動性や国際共著論文数が主要先進諸国の中で劣っていることへの指摘である(P.46)。私たちの業界では、(専門職能団体が中心になってまとめているので)学術研究とはいささか趣を異にするのかも知れないが、先年、国のシンクタンクが事業として『適切なケアマネジメント手法の策定に向けた調査研究事業報告書(2018)』を編纂している。ここで言及されたケアマネジメントの「標準化」なる代物を謹んで拝見し(笑)、国際的なケアマネジメントの潮流であるナラティヴ‐ベイズド‐アプローチが著しく軽視された(としか言いようがない)作品を目の当たりにした私にとっては、実にうなづける指摘だなあと納得してしまった。
他の学問分野についてはよくわからないが、同様な傾向が顕著であるとしたら、日本人研究者のドメスティックな欠点を露呈しているものであり、英語力の不足などのさまざまな要因があろう。今後、業界を超えて克服していかなければならない。

もう一つは、社会資本整備の項目に関して、PPP/PFIの民活導入について論じ、そこでコンセッション方式の事例拡大を推進すべきとする方向性である(P.56)。コンセッション方式導入を勧奨する以上、従来型PFIであるとか、DBO方式であるとか、他の手法と比較した長所・短所について、当該社会資本の受益者が十分に理解した上で採否を決定していくのが筋であろう。私の見落としでなければ、今回の建議ではこの比較が明瞭に示されていない(資料Ⅱ-4-19)。規制緩和と連動した行政責任の縮小だけでは、市民生活に混乱を招く恐れが大きい。経営主体が外資系企業であればなおさらのことである。財政再建を錦の御旗にする財務省は推進に意欲満々なのかも知れないが、悔いを千載に残すことになってほしくないものだ。

以上、ざっと読んだ限りの感想である。賛成論も異論・反論も大いに歓迎する。ただし、必ず全体に目を通してからお願いしたい。

2019年6月19日 (水)

ヴェルディ歌劇の面白さ(15)

亡き母の故郷である名古屋。最近は行き来する頻度が少なくなり、用事でときどき出向く程度になっている。

先週の15日(土)、栄の愛知県芸術劇場で、ボローニャ歌劇場の引越し公演『リゴレット』を鑑賞。夕方からの公演だが、土曜日は営業日なので、午後半日の有給休暇を取っておいた。

指揮はマッテオ‐ベルトラーミ(敬称略、以下同)、演出はアレッシオ‐ピッツェック。キャストはリゴレットがアルベルト‐ガザーレ、ジルダがデジレ‐ランカトーレ、マントヴァ公爵がセルソ‐アルベロ、スパラフチーレがアブラモ‐ロザレン、マッダレーナがアナスタシア‐ボルドィレヴァ、ジョヴァンナがラウラ‐ケリーチ、モンテローネがトンマーゾ‐カーラミーア、マルッロがアブラハム‐ガルシア‐ゴンサーレス。

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主演三人の出来が素晴らしかった上演。ガザーレは歌唱・演技とも重みたっぷりの存在感を示し、特にリゴレットが廷臣たちに向かい、奪われた娘を思う気持ちを切々と歌う第二幕のアリア「非道な役人どもよ!」は圧巻。ランカトーレは浜松で一度(『椿姫』のヴィオレッタ)見ているが、そのときよりも安定した情感たっぷりの歌唱で、全幕を通してジルダの悲哀を十二分に表現。また、第二幕を締める父娘の二重唱は互いの音程も正確で実に息が合っており、満場の喝采を浴びた。アルベロはマントヴァ公爵を数多く歌い込んでいるベテランであり、第二幕のカバレッタで求められる難度の高いハイD(=二点ニ音)を軽々と響かせる輝かしいテノールで、第三幕のカンツォーネ「女心の歌」も朗々と歌い切り、ショー‐ストッパーよろしく会場を魅了していた。脇役になってしまったが、殺し屋の役にハマったロザレンのスパラフチーレと、四重唱で存在感を示すボルドィレヴァのマッダレーナも水準以上の出来。

ベルトラーミの指揮は全体を通し、基本を踏まえて一つ一つの場面を大切にする秀逸なものであった。ピッツェックの演出はかなり奇策を用いていた。第二幕にモンテローネの娘(黙役)を登場させ、ジルダの悲劇と重ね合わせているが、かえって設定を複雑化させてしまい、あまり効果的だとは思えなかった。他方、カーラミーア演じるモンテローネが白のスーツとシルクハット姿で登場し、公爵に抗議して投獄される廷臣と言うよりも、呪いを告げるメッセンジャーボーイの役どころになっていたのは面白い。また、ジルダが箱入り娘状態であったことを、人形箱を使って視覚的に示したことも興味深い。ゴンサーレスのマルッロとケリーチのジョヴァンナについては、脇役ながら細かい動きに微妙な気持ちの変化が表現されており、示唆的であった。

いつもならば、鑑賞後にワイン+ディナー...となるところだが、この日はいささか体調不良だったこと、お天気が荒れ模様だったこともあり、浜松へ戻ってからリーズナブルな夕食を済ませ、帰宅した。

これでヴェルディ鑑賞も10作品目と、二ケタに達する。お金や時間が有り余っているわけではないので、年に1~2回程度、それも海外からの引越し公演より国内企画公演を鑑賞するほうが多い。自分のささやかな楽しみとして、今後も機会があれば出掛けたいものである。

2019年6月12日 (水)

再教育が必要なのだろうか

きょうは珍しく、児童(少子化)に関連する話をエントリーしてみる。

私自身が未婚であり、(本日現在まで)子育て経験はない。なので、街角で子どもを同伴している親(母親の場合が多いが、土日には父親が一緒に居る姿も結構見かける)を傍目で眺めながら、子どもを一人前の大人に育てるため奮闘している姿に、微笑ましくなることが多い。

もちろん、時折だが社会常識に沿っていない親を見かけることはある。どんな事情があってそうするのか、なかなか察することはできないし、私自身が実害でも受けない限り、あえて口出しすることはしていない。親のそんな姿を見た子どものほうは大丈夫かな? と心配になることはあるが。もっとも、これは一握りの例であり、大部分はごく普通の常識的な親だ。

いずれにせよ、この子どもたちは自分たちの老後を支えてくれる世代である。元気に育っていってほしいと思う。

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しかし、残念なことに、世の中にはそう考えない人がいることも現実だ。親たちが社会常識に反する振る舞いをしていなくても、子どもたちや親たちに対して露骨に不快感を示す人たちが、相当数の割合でいる。それが単なる不満や、苦情程度に収まっていれば、まだ個人の意見として理解できないわけではないが、犯罪にまで至ることがある。

6月5~6日の間に、東京都足立区で、数人の幼稚園児の自宅郵便受けへ、「朝、駐車場で子供を騒がせるな。静かにさせろ。できなければ何があっても文句を言うな」との脅迫文が投函されていた。保護者が警察へ届け出て、捜査の結果、71歳の男が容疑者として逮捕された。男は容疑を認め(脅迫の意図については否認)、「毎朝のことで騒音に耐えかねた」と供述しているという。

この人物の姓を見て、同じ姓の男(たぶん血縁ではなく、偶然であろう)が数年前に起こした、とある事件を思い出してしまった。

2015年、東京都の有楽町駅でベビーカーに乗っていた1歳児の頭を、64歳(ならば現在は68歳ぐらい)の男が拳で殴打した。母親の悲鳴に驚き、父親がすぐに男を取り押さえ、警察に突き出したので、男は逮捕された。「ベビーカーが邪魔だったので殴った」と供述していた事件。

どちらの男にも共通するのは、子どもや親に対する病的な憎悪である。普通は、ベビーカーが邪魔だと思っても、子どもを殴ることはしない。普通は、幼稚園のバスを待っている子どもの声がやかましいと思っても、親を脅迫することはしない(ちなみに、私自身、営業時間の関係上、朝起きるのが遅いので、家の前を通る小学生の大きな声で起こされることはあるが、『ああ、もうそんな時間か』と思うだけで、一度として迷惑だと感じたことはない)。

もう一つ共通する点がある。それは二人とも「団塊の世代」であることだ。前者はおそらく1947年生まれ、後者はおそらく1950年生まれで、厚労省が白書にうたう「団塊世代(1947~49年生まれ)」より一つ若いが、実はこの年までの出生数が著しく多いので、広義の「団塊の世代」は、1947~50年生まれと考えて差し支えない。

日本中を騒がせた大事件でもないので、二人の家族関係や背景を検索しても明らかではなかった。憶測は控えたいが、家族がいないか、または、いても孤立に近い状態だったのではないだろうか?

もちろん、子育てに不寛容なのはこの二人だけではない。確かにこの二人がやったことは異常であるが、自宅の近くに幼稚園や保育所の設置計画が持ち上がると、地域の静穏が乱されると思い反対する住民(おもに中高年以上だが、若い世代にもある)は、日本中の各地に存在する。ある意味、この二人がしたことは、多くの市民が抱いている気持ちを、過激に表現しただけだと言えるかも知れない。幼稚園教諭や保育士たちの技術的な課題も存在している(ヨーロッパの福祉先進国では、幼児たちを無理に抑制しなくても、あまり騒がせずに遊ばせる技術が進んでいるとの報告もある)。また、ベビーカーを電車に乗せる親の一部には、他の乗客や通行人への配慮が欠落しているとの意見もある。不満や苦情を訴える側が一方的に非常識でズレていると言うのは、過当であろう。

だからと言って、暴力や脅迫が許されて良いはずはない。当たり前だ。

この二人のような行為が頻発した場合、単に社会不安を誘発するだけではない。若い子育て世代の間に、「自分たちが働いて納める税金を、何でこんな〔子育てを妨害する〕ジジイたちのために使われなければならないのか?」との声が高くなれば、団塊の世代に対する批判が強まり、世代間の憎悪を増長させ、地域社会の人間関係がさらに不寛容になる恐れがある。

そうならないために、私たちは何をすれば良いのだろうか。

この二人のような人だけではなく、すべての住民、特に中高年以上を対象とした「再教育」が必要なのかも知れない。いまの日本の少子高齢化により、社会の持続にとって危機的な事態が近付いていること。それを考慮すると、自宅近くだけ子どもの騒音がないようにしてほしいなどの「総論賛成、各論反対」は、もはや許される状況にはないこと。地域全体で理解し合って子育てをすることが、自分自身の老後を支えてもらう豊かな社会の構築につながること。等々。単なる「学習会」ではなく、おもに周囲に子どもがいない人たちには、地域の幼児や小児と実際に触れ合ってもらう機会もほしい。

もっとも、そんな再教育の場を設けたとしても、上記の二人などは参加しないかも知れない。それならば逆に、彼らを孤立させないために、地域でどう声掛けをすれば良いのか? 次なる課題を皆で協議していくことが大切だ。

地域包括ケアシステムが目指すものは、高齢者や障害者だけのための仕組みづくりではない。誰もが住みやすい街をどう建設していくのか、構成員が全員参加する形で、知恵を絞っていきたいものである。

(※画像はグラパックジャパンのものを借用しました)

2019年6月 5日 (水)

東大卒のプライドは東大卒にしかわからない!

今回は、最近メディアを騒がしたいくつかの衝撃的な事件のうち、二つを取り上げてみたい。

4月19日、池袋で元上級官僚・I氏(88)の運転する車が暴走して、母子二人の命を奪い、九人に重軽傷を負わせた事故。

6月1日、練馬区の元上級官僚・K氏(79)が自宅で長男を刺殺した事件。

両事件とも、発生後にさまざまな視点からの議論が巻き起こっている。

前者に関しては、高齢者の運転技術や、警察や報道のありかたに関するものが多い。被疑者であるI氏が容疑者ではなく「さん」付けで報道されたこと。そしてI氏が退院後も容疑を実質否認しているのにもかかわらず警察に逮捕されていないので、もとの身分を忖度されたのかと評されていること。また、同年齢程度の高齢者の多くは運転能力に疑問があると考えられること。これを契機に運転免許証を返納する高齢者が急増したこと。等々。

後者に関しては、直前に発生した川崎の殺傷事件と関連付けた論評が主である。K氏の長男(44)が川崎の加害者(51歳。自殺)に類似した「ひきこもり」生活を送っていたこと。家庭内暴力があってK氏が身の危険を感じていたところ、長男が近くの小学校の運動会について「うるさい」と怒ったので、川崎同様の事件を起こさせないため殺害に踏み切ったこと。一人で抱え込んで公的機関に一度も相談しなかったこと。等々。

そして、さまざまな議論が交わされている中で、保健・福祉関係者をはじめとする多数意見は、前者について「高齢者は運転免許を返納しよう」、後者について「家族の生活課題を抱え込まずに地域資源を活用しよう」へ向かいつつある。

だが、あえて異論を一言。

I氏やK氏に対し、早くから上記のように提案しても、おそらく解決に結び付かなかった。

妨げになっているのが「東大卒のプライド」なのである。

(...もっとも、最近は東大の「権威」も低下しているので、「東大卒のプライド」にも変化が見られる。ここでは40代ぐらいから上の、一定以上の年代のOB・OGに共通するプライドの意味に使う)

誰も(←私が見聞する限り)二つの事件に共通するこの代物に斬り込んでいない。「上級官僚のプライド」に踏み込んだ論調はいくつも見受けられるが、両者はイコールではない。

上級官僚に限らず、大企業の経営者や役職者として成功した富裕な人とか、学会や業界の重鎮などは、他にも少なからず存在する。誰もがそんな知人を三人や四人持っている。つまり、数は少ないが自分の周囲にも結構いる存在なのだから、その人たち特有のプライドを感じることも、機会は少ないが日常の中でときどきあると思われる。外面からであっても、それらを理解するのはさほど難しくない。

だが、「東大卒のプライド」はそんな簡単に理解できるものではない。いや、おそらくこれは、該当する者(修了した学部・学科に関係なく)でなければ理解できないと思ってもらったほうが良い

そう言い切ってしまうと、「それでは評論のしようがないじゃないか!」と反論されるかも知れないが、それでも私はうなづくしかない。

I氏の場合。氏は事故について謝罪しつつも、「ブレーキが利かなかった」と言い張り、アクセルを踏み込んだことを否認している。他方で警察はブレーキに故障が認められないと結論付けている。この点について論者は、I氏の「認知症の兆候」、あるいは「正当化」「自己弁護」「隠蔽」の意思だと推測する。

私に言わせれば、これらは的外れだ。I氏の思考の中では、どこまでも「ブレーキが利かなかった」のである。間違えてアクセルを踏み込むはずはないのである。自分の行為は「ブレーキを踏み続けた」のに「利かなかった」以外にあり得ない。事故のとき、同乗の妻に対して「ああ、どうしちゃったんだろう」と言ったとされる言葉が、それを正直に表している。

ではI氏は亡くなった母子に対して申し訳なさを感じていないのかと言えば、決してそうではないと思う。自分の車が事故を巻き起こしたことについて、言いようのない慙愧を覚えているのではないか。しかし、その原因はあくまでも「自分は安全運転していたのに、ブレーキが利かなかった」なのである。I氏自身もそうとしか言いようがないのだと思う。

K氏の場合。氏は「長男が川崎のような事件を起こすかも知れないと案じて殺害に踏み切った」と供述しているという。長男の引きこもりは以前からあったのだから、同居した直後に公的機関などの社会資源に相談すれば良かったという人たちがいる。著名なソーシャルワーカーもそう言っている。

私は言いたい。それができない(できなかった)のだ。

結果から推測する限りであるが、何と言われても、できないものはできないのである。K氏の思考の中には、「他人に迷惑がかからないように、自分たち(家族)の中で始末する」のが唯一の選択だったのだ。K氏ほど人脈が豊かな人が、その気持ちさえあれば、自分の知人を通して適切な専門職に相談するのはたやすいことだったと判断される。しかし、それはK氏にとって容認できる手段の外であった。

理解に苦しむ読者が多いであろうことは承知しているが、この両氏の行動の根にあるのが「東大卒のプライド」である。

この二人の事例を見て気が付いたこと。「受援力」=「支援を求め、受ける力」の言葉があるが、「東大卒のプライド」は「受援力」の欠如に結び付いている。

なので、このプライドはある意味、危険な存在なのかも知れない。I氏やK氏の事例から見る限り、多くの人から見れば、「東大卒のプライド」の所産は、実体として「愚劣」に映るに違いない。

しかし、他方でこのプライドは、当人が「辛い、苦しい状況」に陥ったとき、歯を食いしばって耐え抜く原動力でもあるのだ。そして、その力が、政治、経済、科学技術、文化、社会保障などの多くの分野で、輝かしい成果を実らせてきたことも、また疑いのない事実なである。

I氏とK氏には、亡くなった人に対して心から贖罪することと、自らの心の安らぎがもたらされることを願いたい。

併せて、該当するすべてのOB・OGが抱いている「東大卒のプライド」が、社会にとって望ましい方向のエネルギーに転化されることを祈りたい。

2019年5月29日 (水)

メッキは剥がれると思え!

ファンを大切にしない芸能人やアスリートが、業界からホされる事件が、ときどき起こっている。

最近も、二人のメンズモデルがファンから贈られたプレゼントを蹴ったり踏み付けたりしながら罵倒する動画が出回り、彼らは開催中の企画側から出演を禁止された。このテの行為をするバカモノは、ホされて当然だ。

しかし、まだこれらのタレントは、本性をあっさり露呈してしまっているだけマシな連中なのかも知れない。

「可愛い」...と言うと語弊があるが、若さゆえの傲慢さもあるだろう。自分たちの愚行を反省しつつ、いずれは品格を磨き、成長することを望みたい。

さて、この連中よりも忌み嫌われるべきなのは、相手を見て態度を変える人間ではないかと思う。

顧客≒利用者に相対するとき、貧しい人や立場が弱い人の前では尊大に、横柄に振舞い、富める人や立場が強い人の前では遜(へりくだ)って丁重な態度を示す。

残念ながら、私たちの介護業界でも、数は少ないものの、一定程度の割合でそんな人たちがいるのも現実である。

業界全体がそうだと思われたくはない。どのような立場の利用者さんに対しても誠実に仕事をしている善良な仲間たちの、足を引っ張らないでもらいたい。

そんな「相手によって態度を変える」人たちに一言。

富める人や立場が強い人の前でだけ丁重なサービス提供者を演じても、あなたのメッキは剥がされていると思ったほうが良い。

考えてみれば、これは当然である。地位の高い利用者さん(おもに高齢者)たちの多くは、修羅場を潜り抜けて財産や地位を獲得・維持してきたのだから、長年の経験から人を見る目も備えている。あなたの丁重な態度が、自分を「人」として尊重しているからなのか、それとも自分の財産や地位に対するものなのか、見抜くのは大して難しいことではない。

「こいつ、私の前では謙譲に見せかけているけど、社会的弱者の前では横柄なんだろうな」

そんなことは、何回か面談してコミュニケーションを取るうちに、あなたの振る舞いのどこかでボロが出て、相手は敏感に覚っている。恐らく、気が付いていても、そ知らぬ振りをしてあなたに相対するだろう。そういう人物は、あなたのような「小人」をせせこましく咎めることはしないからだ。

そして、そんな「客商売にふさわしくない」あなたの態度は、いずれ仕事上の破綻を招くだろう。

そうなる前に、胸に手を当てて自分を省みてほしい。そして抜本的に考え方を改め、財産や地位に関係なく利用者さんをリスペクトする姿勢に転換すれば、多くの利用者さんが、心を入れ替えたあなたを信頼してくれるに違いない。

その変容こそが、メッキの下の醜い中身を、美しく変えることができるのだ。

2019年5月21日 (火)

それが「諦める」理由なのか?

先日、亡き母と親しかった方(女性)と、短い時間であるが、話す機会があった。

この方は年齢70代初めで、旦那さんと二人暮らしである。内蔵的な疾患は持っているが、いまはご夫婦とも元気で、畑仕事や趣味活動には前向きに参加している。

この方には娘さんがお二人、どちらも40代前半で独身なのだが、娘さんたちについてこんなことを語っていた。

「うちの長女(会社の中間管理職)は仕事を仕切っていくのが忙しく、ご縁が無いのよ」

「下の娘さんはどうなんですか?」

「二女(病院の中間管理職)も多忙なのに加えて、自分が看護師だから、いろいろなことがわかってしまっている。いまの自分の年齢だと、出産しても障害を持つ子どもが生まれる確率が高い。だからもう結婚も諦める考えになってしまっているの。もし将来、ご縁があるとしても、育児とは関係ない『パートナー』ってことになるのかな」

それが二女さんの正直な気持ちであれば、十分に理解できるし、ネガティヴに評価するつもりは全くない。

生まれてくる子どもが障害(種別はどうあれ)を持っていれば、親の負担は大きい。介助に要する時間や費用、補助具の調達等の生活環境整備に要する時間や費用は、障害の程度にもよるが、「健常者」の子どもたちに比べると大きなものがある。特に、夫となった人が、仕事の多忙などにより障害を持つ子どもの養育に十分協力してくれない場合、妻の側が一人で抱え込む事態にもなりかねない。

この二女さんが「結婚・出産・育児」を諦めた真の理由は、ご本人に会って話してみないことにはわからない。しかし、医療の専門職である以上、「命」の重さに格差があるなどと考える人では決してないだろう。また、高齢出産で障害を持った子どもが生まれると決まったわけでは全くない。

本来、障害を持つ子どもが生まれてきても、親とともに社会でその子たちを支えていくことが、日本が目指す「高福祉」の理想だったはずだ。しかし、現在の日本社会は、その理想とは程遠いところにある。残念だが。

だからこそ、この二女さんの「諦め」を助長することにもなってしまうのであろう。

もし、障害を持つ子どもが生まれても、確実に支えてもらえる社会であれば、この二女さんの選択も、異なったものになるのかも知れない。

そんなことを思ってみる。

2019年5月14日 (火)

ようやく「普通」になった?日本

令和の時代が幕を開けて、はや二週間になる。

平成の30年余については、さまざまな振り返りがあるだろう。

こんなデータがあるので、読者のみなさんにご一覧いただきたい。

 

【G20諸国の指導者の変遷(1989-2019。臨時代理は除く)】

日本の内閣総理大臣         18代(17人)

中国の最高指導者             4人

韓国の大統領                   7人

インドネシアの大統領        6人

インドの首相                  10代(9人)

トルコの政権担当者         11人

サウーディ‐アラビアの国王 3人

南アフリカの政権担当者     7人

欧州連合(EU)委員長       5人

イタリアの首相               17代(13人)

英国の首相                     6人

フランスの大統領             5人

ドイツの首相                   3人

ロシアの実質的政権担当者 3人

カナダの首相                   6人

米国の大統領                  6人

メキシコの大統領             6人

アルゼンチンの大統領      8人

ブラジルの大統領            8人

オーストラリアの首相       9代(8人)

 

途中で大統領・首相・(一党独裁の国では)党書記長などの肩書が変わっても、政治指導者であった期間は通して一人と数えた。また、軍事委員会主席や軍政評議会議長などの地位にあった人物でも、公的な肩書を有して事実上政権を担っていた人物は数に入れたが、公的な肩書を持たないインフォーマルな実力者は含めていない。あくまでも何らかの形で「現職」にあった首脳の代数・人数である。

そして、このように一覧表にすると、ここ30年は首脳の代数・人数とも、日本が最多なのである。

日本以外の国で、首脳経験者の人数が二ケタなのはトルコとイタリアだけ。ドイツとロシア(旧ソ連から。「事実上」で数えた)に至っては、絶対君主国であるサウーディ‐アラビア並みだ。中国もそれに近い。

もちろん、政治指導者が民主的なプロセスで選ばれていない国もあることや、長期政権が人権侵害をもたらしている国も少なくないことは百も承知だ。しかし、政策の安定的継続や対外的な代表の重要性を考えた場合、政治指導者がクルクル変わることも、決して望ましくないのではないだろうか。

国際的に見れば、日本の現政権の長さは「普通」のレベルである。私個人としては、外交や防衛に関しては大枠支持・一部批判、社会保障や教育に対しては大枠批判・一部支持、経済・産業・科学技術・国土政策その他は是是非非で評している。だが、「長期政権」であること自体については、基本、プラスに評価できる。

確かに政権の綻びはいろいろと垣間見られるが、そもそも「独裁者」を嫌う日本の風土では、長期政権の弊害がそれほど大きくなるとは考えられない。この点については拙著『これでいいのか?日本の介護』第7章も参照されたい。

「地球儀を俯瞰する外交」に対してはさまざまな視点からの評価があるだろう。しかし、6年半の間、対外的な「顔」が安定していたことは、日本の国力をアピールするためにも大きな意味を持っていたはずだ。一年やそこらで頻繁に総理が変わっていた一時期、世界各国の首脳たちは、日本政府をどこまで信用して良いのか心もとなく感じていたとしても、不自然ではあるまい。

いまの政権与党が続くとしても、野党が政権交代するとしても、今後、簡単に総理が入れ替わるような状況は、国民の利益に鑑みて、ご免こうむりたい。次の総理以降も、長期安定政権を目指してほしいものである。

«「沖縄独立」は現実的か?

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