2021年2月28日 (日)

五輪組織委の問題から読み取れるもの(下)

前回より続く)

すでにお気づきの方もあろうかと思われるが、私は今回の事案について、もっぱら話題になっている「特定の主題」だけに即する形で分析・考察してはいない。

その特定の主題とは「ジェンダー‐ギャップ」のことである。

私が決してジェンダーの問題に無関心なわけではないことは、八年も前のエントリーに言及しているので確認されたい。ただし、今回の事案は、その枠を超えた課題を私たちに突き付けているので、あえてジェンダー「だけ」に特化しての物言いをしないだけの話である。

私も本業を持っている人間であり、評論家ではない。前回掲げた個別の論点のうち何点かについては、機会を捉えて細かく論述することがあるかも知れないが、いまの時点でそれらのことごとくに踏み込んで、自分の意見を陳述することはしない。私はこの事案を総体的に把握し、分析しなければならないと考えている。前回言及した通り、今回の事案を契機に、単に個人や組織の問題にとどまらず、日本社会を根強く「支配」している上記の構図そのものを変えていく必要がある」のだ。

さて、「変えていく」のは簡単ではない。

一時期、革新的な市民活動家を中心に「オルタナティヴ」がもてはやされた。これまでの社会体系に代わり得る「オルタナティヴ‐システム」、それを実現するための「オルタナティヴ教育」、この類の「オルタナティヴ」がトレンドのようにいろいろ発信され、試みられてきた。注目すべき提案や実践がいくつも存在したことは私も認めており、決してすべてを否定的に捉えるべきでないことは、承知している。

しかし、その「オルタナティヴ」の多くが空回り、空振りに終わったことも事実なのだ。一例を掲げると、2008年末の年越し派遣村、ご記憶の向きも多いかと思う。あの活動は既存の市民社会に対し大きなインパクトを与え、私たちに大切な課題を投げ掛けることに成功した。ただし、その後の経過を見る限り、現実的な社会システム変革の実現には程遠い結果となった。同様な例は他にもいくつか見受けられる。

これらの諸活動が目標を実現できない(できなかった)要因としては、政治勢力による利用(我田引水)、携わる当事者の理解不足(指導的立場の人たちと、その他大勢の関係者との意識の乖離)、長期的なグランド‐デザインの準備不足、既成構造に対する反抗のためのアクションへの限定・矮小化(反対勢力の中でも巻き込むべき人たちがいるのに、その人たちから反発を買ってしまったこと)などが挙げられるだろう。

しかし、最大の原因は、「日本」についての理解不足だと、私は考えている。すでに拙著「これでいいのか? 日本の介護」の中で述べてきたことである。

では、私自身は日本社会がどの方向を目指すべきだと考えているのか?

それが下の画像だ。

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これを見ておわかりの通り、前回掲載した「日本的な」思考形態・行動様式と同じ構図である。

前回の図と比較していただきたい。枠で囲った文言をそのまま別の言葉に置き換えることにより、その相関から生じるもの(紫字で示した)が大きく変わってくる。ネガティヴな相互作用をポジティヴなものに転じることにより、体系全体に好循環が機能し、私たちが活き活きと自己実現できる社会に近付くであろう。

理想論だと誤解されるかも知れないが、これは現実論だ。私たち「日本」の文化の根底から培われた思考形態や行動様式を改めることなく、「そのまま」逆用するだけで、好循環への道は開かれるのである。図の左下にある(青字で示した)通り、私たちの知的体力の向上にもつながるのだから、民度の上昇に大きく寄与することは言うまでもない。

裏を返せば、オルタナティヴの諸活動が停滞した背景には、中心になった指導的な人たちが、他国の良いものを採り入れることに偏ってしまった状況があったと推察される

コロナ禍を契機に社会の閉塞感はいよいよ強まっている。いまこそ、私たちを育んできた日本文化の土壌に根差した、真の意味の「代わり得る」社会体系を、協働して創り上げていかなければならない時期である。

一人ひとりの意識改革、そしてそれを踏まえた思考形態や行動様式の変容を願ってやまない。

2021年2月24日 (水)

五輪組織委の問題から読み取れるもの(上)

このところ、テレビやインターネットなどの新旧メディアを賑わせている話題がある。

一年延期された東京五輪の組織委員会理事会の席で、会長であった森喜朗氏が、「女性蔑視」と受け止められる発言をしたことが報じられ、国内外から多くの批判を浴びた。その後、紆余曲折はあったもの、結果として会長職を辞任するに至った。

その発言の全文はすでに複数のメディアで公開されている。一例としてスポニチの該当記事にリンクを貼っておく。言葉の意味や文脈が不明確な面も見受けられ、明白に意図して女性を蔑視した発言なのかは何とも判断できないが、いくつかのキーワードに氏の正直な意識が反映されていることが看取される。全体を総合すると、ジェンダーに関して明らかな「時代遅れの感覚」を背景にしていることは否めない。

この事案に関する個別のポイントを整理すると、

・発言中の「恥」「困る」「わきまえる」等のキーワードに差別的な意味があったのか? 特に「わきまえる」は「身の程をわきまえる」ではなく、「時間配分を考慮して趣旨を短くまとめる」の意味にも解釈できるが、実際の意図はどちらだったのか?

・全文がなぜ速やかに報じられなかったのか? メディアの側に「意図的な切り取り」はなかったのか?

・従前、森氏が自ら運営に携わる組織で女性役職者の増加に努めてきた実績もある。組織委では深い意味もなく、いわばエピソードとして語ったとも想定されるが、公的な立場の人が言って良いことかどうか、「舌尖で千転」したのか(自分の実績を台無しにしかねない言葉を軽率に発してしまう、資質の問題があるのではないか)?

・「女性の役職者が増えると会議が長くなる」はエビデンスを踏まえた発言か? また反発した側もエビデンスを踏まえて反論したのだろうか(ちなみに、森氏の発言を否定する研究例としては、ブリガム‐ヤング大とプリンストン大との共同調査結果が存在する。他にもあると思われるが)?

・その場で、または散会した後にでも、森氏に指摘したりたしなめたりする人が、役職者の中にいなかったのか? 組織委は普段どのような雰囲気の中で運営されていたのか?

・批判が巻き起こった後、「謝罪して撤回すれば問題ない」判断は適切だったのか? この発言が国際的に報じられた場合、いかなる受け止められ方をするのか、氏や組織委は想像力を働かせることはできなかったのか?

・世界から注目されている中、森氏が辞任表明した後の後継候補を、なぜ「密室」で決めようとしたのか? それ自体が時代遅れ、あるいはドメスティックだとの認識は、関係者の頭の中になかったのか?

・「老害」の言葉の適否はひとまず措いて(これも高齢者差別用語だとの見かたもあるが)、社会的地位のある高齢の人が、自分のポストを簡単に捨てられないのは、日本全国に共通する現象である。その実態をどう評価し、対策をどう準備するべきなのか?

日本国民の中に、森氏(の発言に窺える背景)と同様なジェンダーの感覚を持ちながら日々を過ごしてきた人(おもに高齢男性、一部は女性も)が、相当な割合で存在することは現実である。その人たちの人生の歩みを肯定的に捉えつつ、どう意識改革をしていくのか?

まずはこの辺りが論点かと考えられる。暇な人間ではなく、評論を業とする者でもないので、私がそれぞれの項目について、あえて意見を細かく陳述することはしない。各自で考察の材料にしていただきたい。

さて、東京五輪に関して、私はかつて自著本の中で以下の通り言及した。

「賢明な読者の皆さんは、2020年・東京五輪のメインスタジアムとなる新国立競技場建設計画の決定にあたり、本章(注;第7章)で述べてきた『日本』的原理の悪い面のほとんどが凝縮されていることに、気付いたことであろう」(『口のきき方で介護を変える!』P.164~165)

この本は2015(平成27)年10月に上梓しているから、5年余り前のことだ。あのときの競技場にまつわるゴタゴタは、まさに「日本特有の現象」を帯びた組織委関係者(個人・団体を含め)の体質に由来すると、私は考えていた。そして5年の時を経ても、その体質が変革されないまま、ここでまた同様な問題が起きてしまった。

その「第7章」で述べたことを相関図にまとめたものが下の画像である。これらの思考形態や行動様式が負の連鎖を構成しており、私たちの社会の行く末に暗い影を落としていることを分析して、市民意識の変容を促したものだ。詳しく知りたい方は、同書をお読みいただきたい。

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さて、いまの菅総理とも重なる面があるが、森氏もかつて小渕政権において与党幹事長、いわば屋台骨を支える「番頭」の役割を担っていた。総理になったのは前任者が急病で倒れたからだ。実は前述の「日本的な」がとりわけ鮮明に出現するのは、このパターンなのである。これが森氏のリーダーシップのスタイルとなり、現在まで「続いてしまった」と見てよいだろう。

「経営者型権力」「番頭型権力」の用語がある(ずっと以前から社会科学や人文科学に関する複数の研究者により用いられてきた)。前者のスタイル、特に足利義教・織田信長・徳川綱吉・徳川家重・大久保利通などに代表される独裁的な手法となると、後者の人たちは到底それを採用することができない(安倍前総理であっても、この5人に比べるとかなりマイルドだった)。また、独裁者は多くの「日本人」から嫌われる。義教・信長・利通のように「消され」たり、綱吉(「暴君」とされた)や家重(「バカ殿」とされた)のように貶められて低く評価されたりで、いいことがない(笑)。

後者のスタイルを採るリーダーは、「和」を尊重して組織を運営する。周囲がそれに「都合良く」合わせるスタイルが、これまでの「日本的な」組織運営に適している。政治・経済から社会の個別分野まで、中央から地方まで、いわゆる「護送船団式」が肌に合っている個人や団体が多いのだ。良し悪しはともかく、日本はその原理によって動かされてきた。

しかし、画像の図にある通り、「和」は他のさまざまな要素とつながっている。森氏の発言や五輪組織委、その周辺の人たちの意識や体質が、なぜ今回の騒動を招いたのか? それは私が解説するよりも、みなさんがこの図を眺めながら、それぞれの頭で考えていただきたい。いみじくも右下に「儒教」の一要素として、「男尊女卑」も掲げてある(笑)。
(なお、森氏は自分の思想が儒教に基づいていると明瞭に意識してはいなかったと思われるので、念のため)

そして、今回の事案を契機に、単に個人や組織の問題にとどまらず、日本社会を根強く「支配」している上記の構図そのものを変えていく必要があると、私は考えている。

次回へ続く)

2021年2月 9日 (火)

ジュスト高山右近を尊敬していた父

2月9日。父が2002年に80歳で他界してから満19年。もうそんなに経つのかと、在りし日のことを懐かしく想い起こしている。

一昨日、7日は福者ジュスト高山右近(長房・重友/1552?~1615.02.03。画像は教会の祈りのカードに印刷された、三牧樺ず子氏による右近の肖像画)の列福式から、ちょうど4年になる。自分も一か月ぶりに教会へ足を運び、四百年前に日本から追放されてフィリピンで客死(殉教者と認定)した、右近の生きざまを思い起こしながら、ミサに与った。

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実は父の霊名が「ジュスト(ユストとも発音する。もとはラテン語で「正義の人」の意味)」なのである。

父は代々仏教の家の生まれであり、若いころはその宗派の典籍を買っていろいろ読んでいた。50代になってからは新興宗教に転向し、そちらの勉強を熱心にしていた。一つの教えに熱中すると他の宗教を軽蔑する性癖があり、そのいささか偏った宗教観に辟易したこともあったが、父本人の意思である以上、他界したときには希望する宗教のやりかたで葬祭をしてやっても良いと考えていた。

ところが70代の終わりに、そろそろ先のことを決めておかないと思い、父に尋ねたところ、意外な答えだった。

「お前が信じている教会のやりかたでいいよ」

ある意味、宗教遍歴を重ねてきた父が、何がきっかけだったのかわからないが、思いがけずカトリックの考え方に心を寄せていたらしい。

そして、それと前後する時期に父が、「高山右近を尊敬している」と言っていたのだ。

その後、2001年の秋から父の認知症が進行して、母の負担が増大したので、通所介護を利用するようになったが、身体面では大きな疾患も機能低下もなく生活していた。2002年の2月に入ると、たいへん弱気の言葉を吐いたことがあり、生きる力が無くなったのかなぁ、と悲しくなったことはあったが、亡くなる前日までは病気らしい病気も無く過ごしていた。

9日の朝、母が起こしても目を覚まさず、これは危篤状態だとすぐに察知。しかし私はあいにく、すぐにキャンセルできない仕事を抱えていたため、母に後を頼んで出掛け、戻ったときにはすでに息をしていなかった。主治医が診療の合間に駆け付けてくださり、死亡診断。さて、あとはどうするか?

何しろ父は、「教会で葬儀をしてほしい」「高山右近を尊敬する」の二つしか言い遺していないのだから、他に選択の余地はない。霊名「ジュスト」で臨終洗礼を行い、あとで小林神父様(当時の浜松教会主任司祭)に追認していただいた。葬儀ミサも11日、小林師の司式で、無事に終えることができた。

父は欠点の多い人で、とても右近を手本に生きてきたとは言い難いところがあるが、それでも「義の人」右近の生涯の歩みを、何かの本を読んで知ったことで、それを心に刻み、信仰者の模範的な姿として敬慕していたのであろう。

このような父とのつながりがあったために、右近が福者に列せられたことは、私個人としても大きな喜びなのである。

さらに、カトリック教会がいつか右近を聖人の列に加えてくださり、私たちがこれまで以上に彼を崇敬し、その取り次ぎを願うことができるように、祈りを続けたい。

2021年1月30日 (土)

新型コロナ(14)-私たちに問われているもの

日本で新型コロナウイルスの蔓延が始まって、はや一年になる(日本国民で初めての陽性者が報告されたのが昨年1月28日)。

私たちは、さまざまな不自由や困難と向き合いながら生活することを余儀なくされてきた。そして、このコロナ禍の中で、私たちは多くの課題に直面している。

その課題のうち最大のものは、次の二つだと私は考えている。

一つは「人の尊厳」。

もう一つは「人間の尊厳」。

この二つの意味には重なる部分もあるが、切り分けて捉えている。

前者は、一人ひとりの「人」が尊重されつつ、日々を生きられることの大切さ。

後者は、その「人」と「人」とが、社会の中で関係性を保ちながら、望ましく生活できることの大切さ。

私たちの人生に欠かせない車の両輪だ。

コロナ禍で、多くの人たちが当たり前のように享受してきたこの二つの尊厳が脅かされる現実を、私たちは目の当たりにした。

「人の尊厳」の軽視。巣籠もりに起因するDVの増加、感染者への誹謗中傷、医療従事者への誹謗中傷、いわゆる「マスク警察」「自粛警察」「時短警察」等の誤った正義感に基づく行為、葬祭の過剰な感染予防体制(家族の死に目に会えない、お世話になった親戚の葬儀に参列できないなど)、等々...

「人間の尊厳」の軽視。帰省(やむを得ずに)する学生や里帰り出産する妊産婦への非難、高齢者施設での面会禁止(代替の方法も工夫してもらえない場合など)、創造性の欠如に基づく行為(軽率な飲み会やBBQなど)、蔓延のリスクを無視する自己主張(飛行機内でのマスク着用拒否など)、品物が本当に必要な(無いと生活できない)人たちを無視する異常な買い占め、在住外国人への理不尽な制約(母国へ戻れない技能実習生、入管から仮放免されても就労できない難民申請者など)、血眼になって煽動するメディアの視聴率稼ぎ、政治家や官僚による他人事モードの空虚な発信、等々...

これらの行為が報じられるたびに、悲しくなる。

日本ではこんな状況だが、国によっては民族・宗教や貧困・飢餓などの問題が大きく、さらに深刻さを増しているところもあるだろう。

読者の多くは、J.スウィフト(1667-1745)の「ガリヴァー旅行記」を読んだことがあるだろう。その最終章「フウイヌム国渡航記」に登場する「ヤフー」なる類人猿は、人間の退化した姿であり、汚物を投げ付けたり、貴重な石を奪い合ったり、あたかも人間が本能のままに振舞ったらこうなるのだと言わんばかりに描写されている。先に掲げた「人の尊厳」や「人間の尊厳」を傷付ける言葉や行為は、この「ヤフー」を想起させる。換言すれば、言動の主やそれが飛び交う原因を作り出した人たちは、自分たち自身の「人の尊厳」「人間の尊厳」を貶めているのと変わらない。

これまで抑制されていた人間の負の側面が、コロナ禍を機に表面化してしまったのだろうか?

私たちはそうあってはならないのだ。これらを反面教師として、「人の尊厳」「人間の尊厳」の大切さをいま一度見直し、その二つを守るためにどう発言し、振る舞い、活動しなければならないのかを、いまこそ模索していかなければならない。

地球規模で起こった災厄に違いないが、その災厄がもたらした試練は、私たちに対し、「人類はどうあるべきか」と問い掛けている。

この大きな命題に応えられたとき、私たちの輝かしい未来に向けての再出発が始まるであろう。

2021年1月20日 (水)

年鑑を参照しながらの便覧作り

私の趣味の中で、意外と知られていないのが、「世界各国の歴代君主・政権担当者の一覧表」の作成である。

いわゆる歴史書にとってみれば、単なる「付表」の類に過ぎないのだが、私にとっては「時間つぶし」として長年続いているのだ。当初は中学生になったころ。世界主要国の皇帝とか国王とか大統領とかに就任した人たちの歴代表を、一冊のノートにまとめるところから始めているのだから、もう半世紀近くになる。

当時は図書館の事典類を検索しながら地道に作っていたが、現代の世界各国の政権担当者の確認に関しては、高校生になってから便利なツールに巡り合うことができた。それは共同通信社が毎年発刊している「世界年鑑」である。

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母校(浜松北高校)の近くにある書店で、18歳のときから毎年取り寄せ続けているので、すでに40年以上。もちろん、これだけではなく、かつては新聞記事を地道に検索しながら補足してまとめていた。最近はインターネットの情報が充実しているので、そちらを参照することが多いが、それでも国ごとの最近の政治的な潮流をたどるのには、この年鑑を参照するのがいちばん簡便に理解しやすい。何と言ってもドライ‐アイを患っている私にとって、PCを離れ紙媒体の工具書を閲覧する時間は、両眼を少し休める機会にもなっている。

便覧の中身もだんだん本格化して、直近のものは2015年1月作成、前近代編が二冊、現代編が四冊の計六冊と、結構な大部になった。前者ではマイナーな王朝の君主もなるべく掲載して充実を期し、後者では世界全体を四分割して(アジア、西アジア・アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ・オセアニア)、大国や地域大国に関しては元首や政府首班以外の主要ポスト(外交・財務・国防など)の歴代についても掲げている。

仕事の合間に国際情勢を俯瞰してみるのは、私にとってちょっとした息抜きにもなっている。クッキングとはまた別の意味で、今後も長く続けたい趣味の一つだ。

最新版の完成はおそらく2021年末。でき上がった暁には画像アップする予定。

2021年1月15日 (金)

報酬引き上げを求める資格があるのか?

1月15日は亡き父の「生誕記念99周年(^^#」。現実の父は80歳で世を去ったので、そのあとは単に私にとってのアニバーサリーである。クリスマスから遠くないこともあり、改めて特別な料理などを用意して祝うことはないが、かつて1月15日が固定された「成人の日」だった(いまは移動祝日)こともあり、忘れずに思い出すよう努めている。

その父は、晩年に認知症を患いつつ、介護サービスには拒否的であった。母の介護疲れを見かねた私が頼み込んで、ようやく通所介護を利用するようになり、短期入所生活介護も何とか開始できる段取りを取った直後に他界した。自分からサービスの利用控えをしてしまい、必要最低限の利用にとどまった形だが、介護保険料で積んでいた分を、サービスがより必要な市内の他の利用者に回すことができたとも言える。いつも来客に気前よく飲食物などを分けてあげることだけが美点だった(笑)父には、ふさわしい終末だったかも知れない。

さて、介護給付費分科会では2021年3月の介護報酬改定の大枠が固まった。厚生労働省と財務省とが折衝した結果、個別のサービスはともかく、全体として0.7%の引き上げが見込まれている。1万円だったものが1万70円になるわけだから、「微増」と言うべきか。

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これに対して、学識経験者からも介護現場からも、さまざまな論評が発せられている。国の財政基盤を考慮すれば、コロナ禍の中で引き下げられなかっただけでも十分な成果であるとする意見。逆にコロナ禍のため各事業者が大きな負担増を強いられており、この程度の微増では現場を去る人が増え、人手不足に拍車がかかるとする意見。いずれの論者も根拠に基づいて述べておられるので、その得失について私はあえて評定しない。

ただし、居宅介護支援は延々と収支差率が赤字であるため、「介護報酬をもっと引き上げろ」との議論が絶えない。特に介護支援専門員(=ケアマネジャー。このエントリーでは制度上の介護支援専門員を意味しているので、その呼称を使う)が1~2人であり、利用者数も少ない(たとえば私の事業所のような)ところは、満足な給与を出せば利益が出ないのが現実である。これに対して、現場の介護支援専門員からは、さらなる報酬引き上げを求める声も多く、他方で学識経験者や経営コンサルからは「(特定事業所加算を取るなど)大規模化せよ」との論が優勢になっているが、これについては後日、別稿で論じることにする。

今回は、「もっと引き上げろ!」と言う介護支援専門員たちについて、...

「あなたたち全員に、その資格があるのか?」

...これが本題だ。

・利用者を強く説得して(併設の)自社サービスを(必要最低限でなく)多めに利用してもらうように誘導した。

・給付管理を発生されるために利用者に頼んで、必要性がほとんど無い福祉用具を一品だけレンタルしてもらったり、通所へ月一回だけ行ってもらったりした。

・交通事故などの第三者行為で要介護状態になった(他の疾患等との合わせ技でなった場合を除く)利用者のために、通常通りに要介護認定を申請して、サービスの利用開始の運びにした。

たとえ善意から出た行動であっても、こんな経験のある介護支援専門員がいたら、はっきり申し上げたい。

「それ、モラルハザードだよね?」

保険の不適正給付に加担した人には、保険の公定価格である介護報酬を引き上げろと主張する資格はない。

さらに...

...「モラルハザード」は「保険詐欺」の意味で使われることが多いが、本来は社会保険に限定されない広い意味を持つ。「当事者の一方が自分の側だけから把握できる情報を意図的に歪曲したり、加入者が給付母体の存在を頼みにして意図的な権利の濫用をしたりする行動によって、適正な経済的関係が崩れること」の総称がモラルハザードなのである。

したがって、生保の不適正受給に加担したり(必要な利用者にはもちろん受給を支援するのが当然。ここでは客観的に、隠し資産があったり、経済的に余裕がある親族が扶助不能を偽装したりする場合を指す)、市区町村の独自サービスを受給するために事実と乖離する報告をしたり(基礎自治体側が許容範囲を甘くしているのなら話は別だが)することも、モラルハザードに含まれる。

あくまでも合法的に、公共財のサービスを我田引水の形で利用する、いわばフリーライダー(ただ乗り)の行為(例:タクシー代わりに救急車を呼んだなど)であれば、私も利用者側の選択を容認したことはある。もちろん道義的にお勧めできない旨を説いた上で、それでも利用者や主介護者から申請する、活用すると言われたら、私が勝手に代位して押しとどめる権利はないのだから。

しかし、モラルハザードは明らかにフリーライダーの行為とは一線を画している。「本来受けられない給付を、故意に事実を歪曲するなどして受給する」行為だ。反社会的行為と何ら変わるものではない。

それに参画した介護支援専門員が、なぜ介護保険の公定価格である報酬引き上げを求めるのか? 泥棒が警察に盗むためのお金をくださいと言っているのと同じであることを、わかっていないのか? 「いや、普段はまっとうな市民で、ときどき出来心で泥棒をするだけなので...」と言い訳するならば、ふざけるな!と言い返したい。

介護保険財政を食いつぶしているのは、あなたやあなたの利用者たちだ。

こんな話をすると、「馬鹿正直だねぇ」と言われるかも知れないが、みんなが正直に仕事をしていないから、各地で不正請求が摘発されるのではないのか? 介護支援専門員の風上にも置けない奴が偉そうに専門職を名乗り、その一部は人前で滔々と講義まで垂れている。馬鹿正直に仕事しているわれわれの足を引っ張るんじゃないよ!

私は過去19年の間、多くの利用者さんたちから(死去、転地、施設入所等以外の事情で)解約されている。その解約理由の大半は、私が利用者さんやキーパーソン(≒主介護者)さんのモラルハザード、またはそれに近付く行為を制止しようとしたので、煙たがられてしまったためだ。これは私の経歴の中で、最も誇るべきことの一つだと思っている。

発足当初は「介護保険の弁護士」とまで称され、期待された介護支援専門員。プロフェッショナルの矜持を忘れないでほしいものである。

2021年1月 9日 (土)

教会で祈ること

クリスマスや新年。例年と様相を異にする社会情勢の中での年末年始となったが、みなさんはどのように過ごされただろうか?

私は普段通りに教会(カトリック浜松教会)へ行き、神に祈りを捧げた。12月25日(金)10時から「主の降誕/日中のミサ」、1月1日(金)10時から「神の母聖マリアの祝日」。どちらも前夜から複数回にわたってミサが開祭され、会衆(参列者)同士の距離を確保する人数制限も設けられ、マスク着用や名簿への連絡先記入が義務付けられていた。

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すでに新型コロナウイルスが蔓延して一年近く、当初は司祭と教会委員会の方々のご苦心により、ミサの形式を試行錯誤しながら実施されていたが、いまは毎日曜日(「主日のミサ」)を中心に、祭儀の一連の手順や方式が定着している。せっかく教会まで来ながら、ミサの時間帯によっては満席で聖堂に入れず、帰宅して家で祈るか、または次のミサを(たとえば9:30のミサに入れないと10:45のミサまで)待つ人も出てしまっているが、感染予防対策の観点からは、いたしかたないであろう。

私たちにとって大切なのは「心の糧」である。福音書に記述され、二千年余の間に受け継がれてきたイエスの「みことば」を司祭の口を通して聴くことにより、日々の暮らしへの活力をいただく。

もちろん、信仰は自分自身の真心から発するものであるから、家で一人、一家族だけで祈っても構わないのだが、カトリック教会の場合は、教団の結び付きを古来重んじてきた伝統がある。それはコロナ禍にあっても変わらない。現に70歳以上の信徒は、ミサへの参列義務は免除されているが、それでも熱心な高齢者は、進行を同じくする友たちの顔を見て、(物理的な距離を取りながらも)お互いの近況を語り合うことにより、精神面の栄養を得ている。

そのような状況も踏まえて、私自身は9月以降、毎月一回はミサに参列することにした。

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実際、神の母聖マリアの祝日=元日には、古くからの信徒が相当数参列していたので、私も久しぶりに会う何人かの方々と交歓することができた。いまのところ、浜松市内や県西部の教会(全部で5か所)でクラスターが発生したとの報もなく、まずは平穏な中での「分かち合い」ができている。

しかし、世の中の課題は新型コロナ対策だけではない。この日は世界中のカトリック信者が心を合わせて平和を祈る日でもある。そして、祈りは始まりに過ぎない。現実の社会では、戦争、暴力、飢餓、貧困、疫病(コロナ以外にもさまざまだ)のために、命を失う子どもたちの数が何と多いことか。私たちは日本国内のみならず、海外の次世代に対しても責任を負っている。一人ひとりの力は微小なものかも知れないが、たとえば食物ロスを減らす、フェアトレードに参画する、現地で活動する人たちに金銭面の支援をするなど、わずかでも良いので、自分にできることから始めていくことは大切だ。何もしなければ何も変わらない。人々が社会正義のため動き出してこそ、神の大いなる力を寄り頼むことができるのだから。

そのようなことを年末年始に思い巡らしていた。

教会へなかなか足を運ばない不信心な私ではあるが、今後も祈りとささやかな実践とを欠かさないようにしたい。

2021年1月 4日 (月)

作る楽しみ

私の調理は「一応合格点」程度の水準なので、もっぱら個人的な趣味程度であるが、ときどき自作して楽しんでいる。

日常、週4回程度はフライパンを使っているものの、冷蔵庫&冷凍庫整理が多い。食材を選んで時間を掛けるのは週1~2回、定休日の夕食が中心だ。普段は連休を取らないので、何日かセットでメニューを組み立てられるのは、年末年始しかない。

通常、主婦(夫)のみなさんはおせち料理を年末に作っておいて、正月は手抜きをする。もともと亡き母はそのパターンだったので、以前、正月用に食材を注文していた中華料理のディナーを何品か、連日がんばって作ってくれたが、加齢に伴って負担が大きくなるに伴い、あまり喜んでいなかった。そこで私がバトンタッチされて年始の料理当番になったのだが、何年もしないうちに母が要介護状態になったので、母には苦労をかけてしまったなぁ、と反省している。

とは言え、一人暮らしになってみると話は別だ。この12月末から1月の年頭に掛けても、例によって「作る楽しみ」を満喫した。

12月27日(日)は、クリスマスに食べられなかったガーリックチキン、大好物の定番である。パスタ(ジェノヴェーゼ)は市販のソースで手抜き。何年か前に一度だけ作ったことがあるが、時間を掛けた割にはイマイチだったので挫折した(笑)。

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12月28日(月)は仕事だったので冷蔵庫&冷凍庫整理&納豆ご飯で済ませる。

12月29日(火)から冬休み。この日はブラジル料理「フェイジョアーダ」に初挑戦! キドニービーンズ(店でははじめ「赤インゲン豆」と聞いて怪訝な顔をされた(^^;)の水煮缶をベースに、玉ねぎと粗挽きソーセージとやや厚切りベーコンを入れて作成。初心者にしてはまずまずの出来だったので、これからもときどき作ってみたい。

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12月30日(水)はお昼過ぎから事務所へ出掛け、帰り路に丸一魚店から刺身のテイクアウト。主食は市販のチャーハンの素だったが、おつまみに味噌田楽を自作。

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12月31日(木)。昨年はなぜか食中りしてしまった(-_-;)ので、そのテツを踏まないようにしっかり火を通して、ミラノ風チキンカツを賞味。主食はトースト。一年の締めのディナー。

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1月1日(金)は神の母聖マリアの祝日である。午前中は教会へ行き、昼食は寿司をテイクアウトした。おせち料理は注文せず、スーパーで栗きんとんとか伊達巻とかワカサギとか黒豆とかをテキトーに購入して、何日かで消費する予定。年末から寒波に襲われたので、夕食はアツアツのマッシュポテトグラタン。毎年一回はどこかでこれを作っているが、じゃがいもをつぶすのと焦げ付いた皿を洗うのとに、結構な時間と労力とがかかるので、来年はどうしようかなと考えているところ。

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1月2日(土)は午前中に事務所へ出掛け、たまっているFAXを整理。夕食は「ニューノーマル」の自粛モードを象徴する一品、「巣籠もり卵」\(^^)/! ベーコンをしっかり並べてたんぱく質も補給。主食はトースト。

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1月3日(日)は自宅の敷地内から一歩も出なかったが、この日に外出しないのはもう何年も前から通例になっている。家でのんびり過ごしたあと、夕食はエビフライを揚げ、ニンジンのシリシリに初挑戦した。油の使い方があまり上手ではないので、揚げ物は買ってきたほうが楽かも...。沖縄料理(シリシリ)のほうはなかなか美味しくできたので、次からは調味料の配合を工夫して、自分流の味を出してみたい。主食はまたトースト。正月から4月上旬にかけては朝が餅食なので、夕食はときどきパン食が続くのだ。

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こんな具合の自作ディナーで年末年始を過ごし、本日から仕事始めである。

読者のみなさん、今年もよろしくお願いします☆

2020年12月31日 (木)

どんなに若く未熟な駆け出しのスタッフに対しても、丁寧な言葉で話しましょう

2020年はコロナ禍に明け暮れた年となったが、私は可能な限り感染予防に心掛けながら、一年を通して、目の前の課題に向き合い、粛々と仕事を続けてきた。

日頃から心掛けているのは、「口先だけの人」にならないこと。「有言実行」が自分の目標である。この一年を振り返ると、気持ちはあっても実践したとは言い難いこともあれば、目指した通りに実践できたこともあった。

その中でも特に実践の完成度が高いと自画自賛しているのは、「タメ口をなるべく使わず、丁寧に話すこと」。

こう言うと、人生の先輩である利用者さん(大部分が高齢者)に対してのことだと思われるかも知れない。しかし、「顧客に対してタメ口をきかず敬語を使う」ことは、言われなくてもできて当然だ(画像の拙著でも節を立てて説いている)。むしろ、できていない人や事業所のほうが恥じ入る話であろう。ここで私が言いたいのはそれではない。

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「丁寧に話すべき」相手は、職場や業界の後輩たちなのだ。

私はケアマネジャーだが、一人親方の自営業であるから、連携を取り合う相手はすべて「他法人の職員」である。中には私から見れば経歴・実績が比較にならないほど経験が浅い、30年以上後輩の職員との間で報告・連絡・相談し合うのはよくあることだ。その際に、相手が応接もたどたどしく、なかなか意図が伝わらなかったとしても、タメ口で押しかぶせるような話し方はしていないつもりである。なぜなら、私自身、20代から30代前半のときには、その相手のレベルだったのだから。

そこで、自分が若く未熟な駆け出しのスタッフだった時期を思い出してほしい。経験を積んでいる業界の先輩たちとの間で報告・連絡・相談を繰り返していて、気持ち良く仕事ができたのはどんな場合だろうか? ほとんどの人にとって、それは相手が丁寧な言葉で応接してくれ、自分や自法人の立場を理解してくれ、対等な立場で尊重してくれた場合ではなかったか?

また、同じ法人の職場内でも言葉遣いは重要だ。しばしば、新人職員は上司や先輩の態度を見て学ぶ。横柄で、高圧的な、マウントを取るような上司や先輩が多ければ、それを学んだ部下や後輩は、次には利用者に対して横柄で、高圧的な、マウントを取る態度を示すようになるのだ。もちろん、他法人の職員を相手にするのと違い、上司や先輩が部下や後輩にタメ口で話すこと自体は、日常的でも差し支えないが、相手に対する敬意を込めて会話することは大事である。

さらに、外国人職員(技能実習生も含む)への影響は大きい。かつて製造業や建設業でも、外国人が安価な労働力として使い捨て状態にされている職場で、彼ら、彼女らが身に着けてしまった日本語の多くは、上司や先輩が吐いた暴言や罵詈雑言なのである。介護業界でも指導する日本人職員の資質次第で、同様なことが起きるであろう。逆に彼ら、彼女らが、洗練された言葉や相手に敬意を払う言葉を多く聞いていれば、それらの言葉をしっかり習得して、日本語の美点を理解してくれるに違いない。

近年、常に話題とされているネット上の誹謗中傷、何の躊躇もなく飛び交っている「人を傷付ける言葉」が、心ある人たちの目には、どれほど醜いものに映っているか。それは「丁寧な言葉」とは対極にある存在である。

逆に、敬意を込めた丁寧な言葉は、受け取る人のみならず、発する人の心も豊かにしてくれるのだ。

言葉は生き物であるから、時代に応じて変わっていくことを、もちろん私は否定しない。しかし、日本語の歴史の中で長きにわたって大切にされてきたものを、私たちは受け継いでいかなければならない。豊富な語彙の随所に見受けられる丁寧語や丁寧な言い回しは、私たちの伝統の中で育まれてきた、掛け替えのない文化の所産なのだから。

寒波に包まれた大晦日、みなさんにその大切さを訴え、理解していただきたく願っている。

暖かい言葉に包まれた2021年を過ごしましょう☆

良いお年をお迎えください!

2020年12月29日 (火)

チャンスを生かして結果を出す

自分が若い時期に比べると、ネットが急速に普及して情報伝達が全く様変わりしてしまった現代、各界の若い人たちの活躍をリアルタイムで見聞きすることができる。起業して最先端の変革に取り組んだり、非営利な公益活動へ自主的に参画したり、スポーツや頭脳競技で一流どころの仲間入りをしたり、各地で活動する青年たちの姿に接すると、日本の次世代への期待は明るいものがある。まだまだ捨てたものじゃないな、と感慨深い。

「早熟」と呼ぶのが適切かどうかわからないが、ビジネスでは仁禮彩香氏(23)のように14歳で教育事業の会社を興して新風を巻き起こしている女性もいる。他方、公益活動では金子陽飛氏(17)のように高校在学中ながら町内会長を担う男性も登場している。もちろん、スタートが若ければ良いわけではないが、若者たちの活躍は同世代の人たちにも刺激になるので、それは大いに歓迎したい。

これらの若者たちに共通するのは、与えられたチャンスを生かそうと努めていることだ(私が若いとき、残念ながらその才能も力量も持ち合わせていなかった(笑))。家庭、経済、教育などの条件が影響して、チャンス一つさえ得られない若者のほうが圧倒的に多いのが残念な現実である(もちろんその中でも、20代後半以降にチャンスをつかんで大成する人はいくらでもいる)から、恵まれた環境にある若者には、それを生かして結果を出してほしいものだ。

過去の例で言えば、野球の斎藤佑樹投手(32)と田中将大投手(32)。2006年の高校野球では、甲子園で死闘を繰り広げた二人である。田中投手は高卒後に楽天入りして、連年輝かしい成績を上げ、2014年からは渡米してヤンキースの中核投手となり、年俸は25億に至る。他方、斎藤投手は大卒後の2010年に日本ハム入りしたが、デビュー前から指摘されていたフォームの改造を先送りにしたところ、初年度から故障の連続を招き成績は低迷が続いたため、年俸は1,250万まで低下した。フォームだけが原因ではないだろうが、チャンスを生かせなかったために結果を出せず、ライバルの200分の1の評価に甘んじている(次年度がラストチャンスかと言われているが...)。

いまの若者はどうだろうか。直接知っているわけではないが、報じられている知名度の高い人たちの中から、何人かの例を挙げてみよう。

山本みずき氏(25)、同じ発音の俳優さんとは別人。2015年に集団的自衛権をめぐる政治抗争が起きた際に、抗議活動を繰り広げた学生団体シールズのあり方に対し、冷静に疑問を投げ掛けて注目された論者である(当時20歳)。ここで論壇デビューのチャンスを与えられたわけだが、その後、慶大の大学院博士課程でおもに英国政治を専攻しつつ、氏は着実に成長、発信を続けている。一方に偏らず現実を踏まえた議論を展開できる数少ない人物だ。いまのメディア露出度は決して高くないが、急ぐ必要はないであろう。いずれ政治学者として大きな実績を上げることが期待されている。

花田優一氏(25)はご存知の通り、両親が名横綱と名アナウンサーであり、メディアに露出すると「鼻持ちならないお坊ちゃん」と見なされがちだ。本職は靴職人だと言っているが、他方で歌や絵画などのタレント活動にも余念がないだけに、本気度を疑わせる向きも多い。受注した靴が納期に間に合わなかったことを理由に、芸能事務所を契約解除されたことも報じられている。しかし2018年に、氏はイタリアの「PITTI IMAGINE UOMO」に靴を出品させてもらい、また将来注目すべき若いクリエイターに贈られるベストデビュタント賞を受賞している。チャンスを与えられたのだ。私自身はオーダー靴の世界とは無縁なので、氏が製作する靴が一定以上の水準なのかはわからない。仕事の評価は氏が作った靴を履く顧客たちや、全国の同業の巨匠たちから下されるべきであろう。本気で靴職人として大成したい思いが強いのであれば、仕事で結果を出してほしいものである。

久保建英選手(19)はサッカーの日本代表(2019-、現在最年少)であり、2017年からFC東京、2019年にスペインへ渡ってレアル‐マドリードに所属した。今年8月からビジャレアルに期限付きで移籍したのだが、ウナイ‐エメリ監督の起用方法が議論になっている。なかなか先発に起用してもらえず、出場しても十分な結果を出せないので、移籍まで取り沙汰されている状況だ。チャンスを生かせない同選手の側に課題があるのか、それとも監督側に起用ミスがあるのか? 小宮良之氏がSportivaで興味深い意見を述べているので、関心のある方は参照されたい。一言で要約すれば、「誰にも文句を言わせない仕事をしろ!」となるが...

藤井聡太棋士(18)こそは、与えられたチャンスをしっかりモノにしていると言えよう。昨年の王将戦では、事実上の挑戦者決定戦まで駒を進めながら、広瀬章人八段に大逆転で敗れて涙を呑み、史上最年少でのタイトル挑戦を逸した。そしてコロナ禍による緊急事態宣言のため、4・5月は愛知県から東京や大阪へ移動できずに対局延期が続き、決勝トーナメントのベスト4まで進出していた棋聖戦の進行が止まってしまった。移動解禁後、日本将棋連盟は棋聖戦の準決勝、決勝(挑戦者決定戦)、挑戦手合五番勝負第一局を、一週間の中に詰め込み、わずかに(それまでの記録より三日早い)最年少挑戦の可能性を与えた。同棋士は見事にその期待に応え、準決勝で佐藤天彦九段(元名人)、決勝で永瀬拓矢王座を連破して挑戦者となり、渡辺明棋聖(現名人)を3勝1敗で降してタイトルを奪取したのだ。続けて木村一基王位にも挑戦して王位を奪取し、史上最年少の二冠王となったことは周知の話。

あくまでも例として掲げたが、この四人に限らず、若者の将来は、大事な節目に集中力を発揮し、継続して努力精進できるかどうか、それ次第で変動する可能性は大きい。多くの若者たちには、ひとたび目の前にチャンスが到来したら、それを逃さずに飛躍して結果を出してほしいと願っている。

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