2022年11月27日 (日)

「鹿児島の人は、過誤しませんね」「薩摩じゃ、札、間...違えないから」

【史料好きの倉庫(46)】

今回は「鹿児島県(薩隅)の主要大名」の解説である。

過去、二回訪県した。1990年にはおもに鹿児島市を観光。1992年には熊本県側から入り、北薩の大口、宮之城、入来を回って鹿児島に宿泊、霧島高原を経由して宮崎県へ移動した。

島津一族をはじめとする中世以来の大名・豪族に関する史料は、鹿児島の尚古集成館や県立図書館で集中的に調べられるのに加え、県内各地の自治体で保管されているものも少なくない。県内(薩摩・大隅、また日向の一部を含む)での移動はあったものの、古い歴史を持つ大名・重臣の多くは、『三州諸家系図纂(1968)』に収録されているので、参照すると便利である。

Kagoshimaken

◆島津家→薩摩藩
島津家は中世から明治まで670年にわたり、薩摩の統治者として続いているが、その本宗家は「惣領家→総州家(鎌倉期から南北朝期)」→「奥州家(南北朝期から戦国期)」→「相州家→薩摩藩主島津家(戦国期以降)」と変転している。二度にわたって庶家が勢力を拡大して、宗家に取って替わっているが、系図上は途切れ目なく承継されているのだ。また、戦国~江戸初期の島津義弘、幕末~明治期の島津久光は、実質的に主君として振る舞った時期があったとは言え、いずれも正式な当主(藩主)には就位していないことにも要注意。

◆島津(薩州)家
島津庶流。代々「薩摩守」を名乗るが、薩摩守護職の惣領家とは別の家であり、室町期に一家を立てた。島津実久は加世田を居城として相州家に対抗したが、義虎のとき島津貴久に降伏し、出水を領知した。忠辰は背任のため1592年に所領を没収され、家系は途絶えた。

◆伊集院家
島津庶流であり、鎌倉中期に成立、室町期に大和守家が分出して島津相州家の被官となった。大和守三代目の伊集院忠朗のとき、主家の相州家が島津主流となり、忠倉は島津貴久・義久の重臣の要となって転戦した。忠棟は豊臣秀吉の政略によって優遇され、島津領内で庄内(宮崎県都城市)8万石の大封を領知するが、当主の義久や守護代の義弘から警戒され、1599年に誅殺された。忠真は島津家に反乱を起こすも和睦、頴娃→帖佐の領主にされたが、1602年に至って島津家久により滅ぼされた。

◆肝付家
大隅国肝属郡に拠った豪族。平安後期から高山(こうやま)を拠点とし、鎌倉期に所領を拡大した。肝付兼久は島津家に対抗して独立を保ち、兼興は郡の周辺を一円支配して大隅第一の勢力を築いた。兼続のときに最盛期を迎えるが、その後は衰退し、子孫は1580年に高山から阿多へ左遷、1600年に改易された(後年、わずか100石で復家)。

◆禰寝家→小松家
大隅国禰寝院の豪族。南北朝期から戦国期に至るまで、富田を居城として、周囲の諸大名と合従連衡をしながら勢力を維持し、禰寝重長のとき島津家に服属した。重張のとき1595年、文禄の所替により薩摩吉利へ転封され、3000石余を領知した。江戸期には島津一族から養子が入ってその血統が続く。幕末の小松清廉は明治維新の功労者となった。

◆入来院家
薩摩入来院の豪族であり、もとは鎌倉御家人の渋谷一族である。室町~戦国期には清色を居城として、有力国人として勢力を保った。入来院重嗣は1570年に島津家から清色の領有を認められ、重時は1595年、文禄の所替により大隅湯之尾へ移り住んだ。重高の1613年に入来へ復帰することがかない、3900余を領知した。

◆種子島家
大隅国種子島の豪族。鎌倉期に名越家の被官から自立、室町期までに南島一帯に勢力を拡大した。戦国期には赤尾木を居城とし、種子島恵時のとき島津家に服属した。時堯のとき1543年、ポルトガル人により鉄砲が伝えられたため、国産に成功して日本全国に普及させた。久時のとき1595年、文禄の所替により薩摩知覧へ転封、1599年に種子島へ復帰し、11000石余を知行した。

2022年11月 6日 (日)

秋の味覚

私は一人暮らしであるが、仕事で日中は家を留守にすることが多いため、いまは生ものの購入や贈答品のやりとりをほとんどしていない。受け取るまでに日数が掛かってしまうと、急いで消費しなければならない。加えて、いただきものの場合にはお返しをしなければならず、業務の繁忙期には、送る時間や手間も半端ではない。

そんな中でも、丹波篠山市のM氏(60代後半、男性)が経営する農園の黒枝豆は、毎年10月中旬に来るのを心待ちにしている。氏はもともと同市の公務員として保健福祉部門の管理者であり、この農園は市内の引きこもりの人たちを支援するため、氏が授産事業として始めたものだ。その活動に共感して応援する立場から、購入を続けている。

今年は他の物価の例に漏れず、以前より値上げしていたが、承知の上で購入を申し込み、私の在宅日到着指定で発送してもらった。煮豆を作る時間が取れないので、えびと一緒にした炒め物(画像)、鶏むね肉のアーリォ‐オリォ‐ペペロンチーノ、豆チャーハンなどにして、美味しくいただいた。

Omame

肉厚の食感がたまらない。例年、このお豆を食べなければ10月を越せない(笑)。

また、M氏の好意で、サーピス品の「丹波栗」を同封してくださったので、水に漬けたあと、チルド室に二週間ほど置いて糖度を上げてから賞味した。

Kuri

さて、この豆や栗を、昵懇にしているK教授(70代、女性)のところへ持参してお裾分けしたところ、K氏夫妻は自家栽培している柿やピーマンをくださった。生の柿を賞味したのは記憶にないほどの以前、旅行先で食べて以来のことである。

Kaki

今年は思いがけず、普段は縁が薄い秋の味覚をいろいろと楽しむことができた。こんな年もあっていいだろうなと思う。

それにしても、これらの「不測のいただきもの」があっても、ネットには美味しい食べ方がいろいろと掲載されており、資料に事欠かない。良い時代になったものだ。

2022年10月25日 (火)

モニタリング敗戦???

過去、日本の将棋界に、大山康晴(1923-92)なる棋士がいた(敬称略。以下同)。

1958年から72年にかけて、名人を含めたタイトルの過半数を保持し続けた第一人者であり、失冠してもまた大山の手元にタイトルが戻ってきた。とにかく憎たらしいほど強かった。「タイトルは取った以上、防衛しなけりゃいけない」の名言は、タイトルに挑戦するだけで精いっぱいだった同時代のトップ棋士からは、全く異次元の人の言葉として受け止められた。

「大山時代」に誰かがタイトルに挑戦してきても、五番勝負や七番勝負で最終局(4-3、3-2)まで行くことはまれで、多くの場合はその前に終わらせた。番勝負を「最終的に勝ち抜く」戦略は群を抜いていたから、相手の棋士にとって巨岩のごとき壁であり、難攻不落の堅城となって立ちはだかった。ポスト大山を期待された二上達也(羽生善治の師匠)や、「神武このかたの天才」と称された加藤一二三が、いずれも獲得タイトル数の合計がひとケタ(二上は5期、加藤は8期)に終わった原因は、青年期に大山から何度も跳ね返されたことが大きい。

その大山でも、加齢や若手の台頭には抗えず、第一人者の地位を中原誠に奪われたのが1972年。それから半世紀、将棋界は中原時代→谷川浩司を中心とする争覇の時代→羽生時代→渡辺明を中心とする争覇の時代を経て、藤井(聡太)時代に入る。

さて、藤井のタイトル初挑戦は一昨年の棋聖戦だが、その第一局で渡辺に勝ったあとのインタビューで、「勝てて良かったですが、番勝負ですから」とあっさり答えた動画を見たとき、「この人は17歳にして、大山レベルの勝負術を持っているのではないか?」と直感した。

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もちろん、百戦錬磨の渡辺を意識した謙虚な言葉だったと思われるが、その後の彼の歩みがすごい。この棋聖戦で初タイトルを獲得して以来、計十回のタイトル戦を経て、藤井はまだ一度も敗退していないのだ。すべて「奪取」または「防衛」なのである。

特に印象に残ったのは、豊島将之の挑戦を受けた昨年の王位戦七番勝負と、永瀬拓矢の挑戦を受けた今年の棋聖戦五番勝負である。

前者は、藤井がまだ豊島に対する苦手意識を払拭できていないところで挑戦を受け、藤井の真価を占う試金石になると思われていた。そして第一局、二日目の早い時間に豊島が完勝した。ところがインタビューで藤井は「正確に指されてしまった」と言い、三日後の棋聖戦第三局では渡辺を破って3-0で防衛した。もし「すべての棋戦の全対局に勝」とうとしたら、どんな大名人でも無理が出て、かえって勝率を落としてしまう。決して手を抜いたわけではなく、棋界で勝ち抜く藤井の戦略の一端として、あえて王位戦第一局を、二日制対局での豊島の強さを測るモニタリング局にしていた印象がある。果たして第二局以降、藤井が押され気味の対局もあったものの、四連勝して4-1で王位を防衛した。

後者は、藤井が「練習仲間」である永瀬との初のタイトル戦を迎えた。永瀬は第一局を何と二度の千日手に持ち込み、二回目の指し直し局で「体力勝ち」しており、最強の相手を自分の土俵に引きずり込む見事な勝ち試合であった(余談だが、大相撲の情けない大関連中には、永瀬の爪の垢でも煎じて飲んでほしい!)。ところが、永瀬にとって皮肉なことに、しばらく前まで対局の間隔が空き過ぎて、勘が鈍っていた藤井は、いわば「気の置けない先輩から三局も教えてもらった」ことによって勝負感覚が覚醒してしまい、本来の調子を取り戻した。苦戦しながら第二局を勝つと、そのまま三連勝して3-1で棋聖位を防衛した。

つまり、藤井にとって第一局は番勝負の一場面であり、それだけで一喜一憂するものではないのである。この冷静な勝負戦略は全盛期の大山を彷彿とさせる。

いま展開されている藤井の竜王防衛戦でも、挑戦者の広瀬章人が第一局を制した。中原時代に活躍した棋士・田丸昇が「Number」の中でこの対戦を評しているが、末尾で大山の番勝負に言及している。もちろん、少なからぬ年輩プロ棋士たちが藤井の番勝負を見て、往年の大山の姿を重ね合わせているに違いない。

これもまた「モニタリング敗戦」ではなかったか? 番勝負では初めて対峙する広瀬の指し回しを体感して、対抗策を組み立てることが目的だったのではないか?

果たして第二局は難解な展開になりながら、結果的に藤井が勝利して、本日現在は1-1のタイになっている。それまでの間、A級順位戦の斎藤慎太郎戦、棋王戦トーナメントの豊島将之戦と、危なげないほどの順調な勝ち方をしているのだから、第一局の敗戦が尾を引いていないことを示して余りあるものであろう。

この竜王戦の結末がどうなるのか? また、今後の藤井がどこまで大山の域に近付いていくのか? 私たち「観る将」にとっては大きな楽しみだ。

2022年10月 2日 (日)

応援してくださった方々に感謝☆

「こんなに長く続けてこられるとは、開業した当時は考えられませんでした」

私の正直な思いだ。独立型の居宅介護支援事業所を始めて21年。多くの方々に支えていただき、走り続けることができた。みなさんには感謝の念しかない。

ケアマネジャーとして事実上の「個人事務所」を持ち、一人親方として自分のスタイルで仕事をして、二百数十人の利用者さんのケアマネジメントを展開することができた。いまでこそ周囲に同様な形態で仕事をしている人が少なくないが、2001年当時は全国でも数十人。そのうち半数程度は併設サービスも運営することで収益を維持していた。志の高いケアマネジャーでなければ、単体開業を続けること自体が難しかった。

ここまで続けてこられたのは、利用者さんを紹介してくださった関係機関や事業所の方々の力が大きいが、他方で、さまざまなご縁から知り合った全国の業界仲間の皆さんが、声援を送ってくださったことも大きい。

昨日(10月1日)、コロナ禍が収束していないことも考慮し、昨年に続いて集合イベントではない「オンライン飲み会」を企画して、SNSその他でつながっている方々にお声掛けをしてみた。

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自分を含めて11名の参加だったが、インティミットな集いになった。浜松の方が3名。他に東京都(離島)、兵庫、島根、愛媛、福岡、大分、宮崎からお一人ずつ。ほとんどが対面でお会いしたことがある方だ。

この中には2011年、私が介護業界の「産業日本語」に当たる緑色の冊子を最初に自費出版したとき、購入してくださった方がお二人いらっしゃる。また2018年以降、文章作成に関する講師としてお招きくださった方、文章作成術の自著本を買ってくださった方、文章作成講座を聴講してくださった方など、国語つながりの方が結構多い。単なるケアマネジャーでなく、異なる分野での専門性を帯びていたことは、業界で私が細々と生き続けてこられた原因でもある。

昨夜は二時間にわたり、観光、信仰、地元の名産、業界の転職事情、災害対策など、いろいろな分野の話に花が咲いた。地域も職種も異なる多くの方々とのつながりは、何にも代えがたい宝物と言えよう。

「人生は何かを捨てて何かを選択する」ものであるのならば、若いときに望んで実現できなかったことがいくつかあったものの、自分の好きな仕事を続けられたことには満足している。

さて、私の年齢も間もなく62歳を迎え、身体にいくつかの小さな疾患を抱えている状態だが、自分の身の丈に合わせながら、まだまだ仕事を続けていくつもりである。

みなさん、今後ともよろしくお願いします。

2022年9月28日 (水)

子どものケンカ???

少年時代はおとぎ話だと思っていた、スウィフト(1667-1745)の「ガリヴァー旅行記」。成長してから全訳本を読んで、当時の政治家たちをはじめとする国民を、彼が強烈に風刺していたことを知った。しかし、第四篇「フウィヌム国渡航記」に「ヤフー(Yahoo社名の由来の一つでもある)」なる野蛮な類人猿が登場し、敵に排泄物を浴びせ掛ける描写、そしてそれがガリヴァーの故郷・英国の人々に擬せられている記述を読み、あまりにもどぎついその表現に、正直ついていけなかった。

ところが、いまの日本ではしばしば、通行中に排泄物(便、尿、体液)を他の人にぶっ掛けたり投げつけたりして、逮捕される人間の行為が報じられている。この種の事件が日本の各地で発生し、跡を絶たない。寡聞の範囲では、これらの犯人(≒容疑者)はほとんど男性だが、年代は老若さまざま。しかも、その一部は、年輩で地位のある人(たとえば学校の教頭など)なのだ(もちろん、その一部は精神疾患や認知症である可能性を否定できないが)。

どうやら、一部の日本国民は本当に「ヤフー」の水準まで退化してしまったらしい。嘆かわしいことである。

そして、退化とまでいかなくても、「この人たち、本当に大人(おとな)なのか?」と疑わせる事案は、さらに数多く、連日のように報じられている。

直近の例を二つ。

1.総合格闘技団体が主催した大会。招かれたのは米国の超弩級王者(プロボクサー)。ところが日本選手と対戦する前、オークションを落札してプレゼンターになった男性(政治団体の代表)が、なんと花束を王者に渡さず床へ投げ捨て。その理由は、王者が来日して自分や他の選手に対し非礼を働いたからだとのこと。そもそも言語や文化の違いから意思疎通ができていなかった可能性もあり、本当に非礼だったのか疑問。仮に氏の主張通りだとしても、リング上では大王者に対するリスペクトがあって当然。プライバシーを公的な場に持ち込むこと自体が幼稚な所業であろう。

2.某県の某市(県都の政令市)が台風のため甚大な被害。ところが県知事が自衛隊に(給水車などの)支援の派遣要請をしたのはその二日後。実は市長と県知事とは犬猿の仲。理屈から言えば、市長は冷静に事態を整理してから県へ話を通したのだろうし、県知事は市側の現状を見極めてから要請したのだろうけれど、本音は「市が当面対応できれば、慌てて県知事に要請を要求したくない(市長)」「市長が頭を下げてこなければ自分から要請する気になれない(県知事)」だったことがミエミエ。非常時に住民そっちのけで何をやっていたのだろうか。

この二例、プレゼンターや市長・県知事の振る舞いは、まさに「子どものケンカ」としか思えない。

私自身、これらを他山の石として、「あの人、大人気(おとなげ)ないね」と周囲から嗤われないように、日頃の言動に気を付けたいものだ。

2022年8月21日 (日)

甚だしいメディアの劣化

7月19日、フィギュアスケートの羽生結弦選手(27/ソチ五輪およびピョンチャン五輪の男子シングル金メダリスト)が会見を開き、自身の今後の進路について表明した。

私はこの会見をあとで断片的に見聞きしたに過ぎない(全部は視ていない)が、「引退ではない。高校野球からプロ野球へ進むのを引退と言わないのと同じ」「プロのアスリートとしてスケートを続けていく」の言葉に、

「ああ、ついに羽生選手はエリジブルから外れるんだな」と、何の疑問もなく了解したものだ。

この「エリジブル(=eligible。競技選手として適格である者の意)」はISU(国際スケート連盟)のシステムなので、一般の人たちにとってわかりにくいことは事実だ。私はスケート靴を履いたことさえ全くないが、荒川静香氏(40/トリーノ五輪の女子シングル金メダリスト)の活躍以来、多少はスケートについて知識を得ていたので、羽生選手が会見で述べた言葉の意味はすぐに理解できた。スケートにおける「プロ転向」はもちろん「引退」とは異なる。同選手は何も難しいことを語っているわけではない。

ところが、一部メディアがこの会見に噛み付いたのだ。「『引退ではない』の発言は意味不明」「ファンにわかりやすい説明を」などなど...

それらの記事を読んで、「何を抜かしてるんだよ!」と思った。これらの(一部かも知れないが)メディアで仕事をする記者やデスクの勉強不足は噴飯ものでしかない。わからなければ自分で調べて整理してから、読者が理解できるように解説するのが、自分たちの職務であろう。…と言うより、事前のスクープ(これはこれで問題だが...)によって「プロ転向」が予測できたのだから、先に調べてから会見へ行くべきではないのか? それがメディアとしての「プロの仕事」であるはず。

選手側の表明内容に責任があるかのような言い方は、小学生が家に帰って「こんなわかりにくい宿題を出す先生が悪い」と駄々をこねているレベルであり、天下に恥をさらしているようなものだ。偉大なチャンピオンに対して礼を失すること甚だしい。

罵倒ばかりしていてもしかたがないので、記事(要点)の模範例を作ってみた。以下の通り。

「『羽生選手が競技生活に別れ』。

フィギュアスケートで二度の五輪金メダルに輝いた羽生結弦選手が会見を開き、国際スケート連盟の競技選手(エリジブル)の登録を終了して、今後はアイスショーで演技するプロスケーターの道を歩むことを発表しました」

このように書けば、記載された意味は明々白々であろう。その上で必要ならば、「エリジブル」について囲みまたは注記で解説すれば良いだけの話だ。

スポーツにしても(将棋のような)頭脳競技にしても、いや、私たち介護業界を含め、あらゆる分野の業界にはそれぞれ特有のシステムがある。各メディアにはそれぞれ担当部署があるはずだ。自分が配属された以上、まずは勉強すべきである。それが「お客様(読者)」に対する義務であろう。

その努力をせずに報道しようとする姿勢を見聞きすると、メディアの劣化としか言いようがない。今回は羽生選手の会見がわからないとゴタゴタ言っていた一部メディアを例として掲げたが、最近は他のメディアも多くは、また別のところで同様な手抜きをしている状況だ。小学生レベルの記事しか書けないのであれば、読者が離れていくのは火を見るよりも明らか。また、それはその業界で働く人たちに対しても非礼なのである。

自社の「商品」の劣化を食い止めることが、多くのメディアにとっても課題と言えそうだ。

2022年8月13日 (土)

時代小説の虚実

私が愛読している本のうちに、佐伯泰英氏の『居眠り磐音・江戸双紙』シリーズがある。過去、NHK木曜時代劇でも『陽炎の辻』としてシリーズ化された。改作版が文春文庫から刊行されているが、私は双葉文庫の旧版のほうを全51巻揃えて所蔵しており、時折、好きな部分を読み返している。

この作品には、主人公である直心影流「尚武館」を運営する剣術家・坂崎磐音(架空の人物)の敵役の中心人物として、老中・遠江相良(静岡県牧之原市)藩主の田沼意次(1719-88)と若年寄の意知(1749-84)の父子が登場する。術策を弄して尚武館を破滅させようと企む二人は、権力に驕って国政を壟断する悪役として表現されている。実在の田沼父子はかつて喧伝された賄賂政治の代表格ではなく、むしろ開明政治家の代表であったことが、研究者によって明らかにされつつあるので、あくまでも小説の中の田沼父子ということになるのであろう。

ところで、この小説の第40~43巻で「鈴木清兵衛(すずき せいべえ)」なる人物が登場する。田沼父子に抱えられて「江戸起倒流」の剣道場を経営し、門弟三千人の隆盛を誇っていた。そして、尚武館や磐音に近い人たちに対し、繰り返し卑劣な攻撃(背後から忍び寄って突き殺すとか、毒矢を射かけるとか)を仕掛けるが、道場に乗り込んできた磐音との勝負に完敗し、武名が地に堕ちてしまう。この恥辱を逆恨みして身を隠した清兵衛は、最後の第51巻で再び登場し、またも卑劣な手段で磐音を殺そうとするが、逆に磐音に斬られて死ぬ。

さて、史実の鈴木清兵衛 邦教(くにたか。1722-90)は幕臣(蔵米100俵+月俸5口)であり、幕府の鉄炮箪笥奉行や西の丸裏門番頭を歴任した旗本なのだが、その姿はこの小説とは全く異なる。何よりも、清兵衛は「柔術家」であり、剣術家ではない(もちろん武士である以上、何らかの形で剣術は身に着けただろうが、それを業としていたわけではない)。

それどころか、「起倒流」は柔術の主流の位置にあり、後世の講道館柔道にもつながる大きな流れの中心だったのである。何代にもわたる伝統的な柔術を、師である滝野遊軒(貞高)から継承したのが鈴木清兵衛であり、弟弟子の竹中鉄之助であった(嘉納治五郎は竹中の孫弟子に当たる)。

「柔道(いまの柔道とは少し異なるが)」の名称を唱えた清兵衛は、多くの門弟を抱え、老中・松平定信をはじめ、高位の弟子何人かにも教えていた。単に身体の鍛錬のみならず、人の上に立つ武士としての道、健全な精神を目指した柔術指導をしていた。当時にあって尊敬される武術家の一人であったと言えよう。

したがって、清兵衛が剣術の勝負において卑劣な振る舞いをした『居眠り磐音』の記述は、全くの虚構以外の何物でもない。

田沼父子ほど名前が知られていないので、柔道や柔術に関心の薄い人は、小説に登場する見下げ果てた人物が実在の鈴木清兵衛だと信じてしまうかも知れない。これでは良くないと思ったので、事実を記載しておく。

(仮にも柔道史上で一時代を代表する人物である以上、佐伯氏も小説を書く際に少し配慮したほうが良かったのではないかと、個人的には感じている。故人には人格権が存在しないのだから、小説で何を書いても名誉毀損にならないと考えているのであれば、少し違うのではないか)

清兵衛について詳しく知りたい人は、ネットで史料の所在も検索できるので、時間を作って調べてみることをお勧めしたい。

2022年8月 8日 (月)

安倍氏銃撃の背景にあったもの

一か月前の7月8日、安倍晋三・元総理が奈良県で参院選の応援演説中に、後方から銃撃されて67歳の生涯を閉じた。

個人的には、安倍氏の全方位外交政策や、現実を踏まえた防衛政策を高く評価する一方、社会保障政策に関しては批判したい点が多くあった。ただ、いまはそれらを総括して、国政に大きな業績を残した政治家であったと評価したい。そして、その早過ぎる死去に哀悼の意を表する。

さて、この銃撃については、百花繚乱と表現すべきさまざまな論評が入り乱れている。山上徹容疑者が何をどのように供述したのか、あくまでも捜査当局→メディアを通した情報しか伝わっていない。これらの情報がどの程度、事件の全容を映し出しているのか、いまだ不明瞭な部分が少なくない。

「(容疑者の)母親が旧・統一教会にのめり込んで多額の献金を続け、家庭が崩壊した。そこで同教会の代表者を殺害しようと機会を狙ったが、近付くことができず、代わりに同教会と関係が深いと信じた安倍元総理を標的にした」。これが一般的に知られている事件の動機である。この通りだったのか、それとも私たちがいまだ知らない情報が隠されているのか、判然としない。

ただ、この情報の通りだったとしても、なぜ同教会と緊密な政治家の代表者が安倍氏だったのかが理解できない。安倍氏が同教会の関連団体に祝辞を送ったのは事実であり、側近の中に信者(と考えられる人)がいたことも現実だ。とは言っても、集票力への期待から、いくつかの宗教団体にエールを送ったり選挙の際に頭を下げたりするのは、安倍氏に限らず多くの政治家に共通する。何よりも安倍政権を含む歴代の自民党政権は、別の大きな宗教団体を支持基盤とする政党と久しく連立を組んでいる。

安倍氏が通常以上に同教会と親しかったかのような報道がなされているが、これは銃撃という結果から「こうだったに違いない」とほじくり出した、いわば後付けの情報であり、信頼に乏しい内容も少なくない。おもに左派の論者は、安倍氏の祖父であった故・岸信介が「国際勝共連合」と組む目的で同教会に接近したことを挙げているが、そもそも個人の「出自」を引き合いにすること自体をヒステリックに拒否する左派が、敵対する人の場合は「祖父の行状」を持ち出して孫を批判するとしたら、これは二重基準も甚だしい。

しかし、実際に事件は起きた。それではなぜ安倍氏が標的になったのか? 容疑者の立場に立ってみると、母親に向けられていた怒りが、「母の人生を狂わせた」同教会への怒りに変容し、さらにその教会トップを「殺せなかった」ことから、何かの形で「復讐」を果たさなければ、心の平安を保てない状態になっていたものと推測される。精神科医の片田珠美氏は、容疑者の「怒りの置き換え」が生じたと指摘している。

その「置き換わった」対象が安倍氏になった大きな原因は、いわゆる「アベ脳」に代表されるような「刷り込み」(←個人や団体に向けて意図的に行う「洗脳」とは異なる)の結果ではないかと、筆者は推測している。何か社会問題が起きると、いとも短絡的に「これもアベが悪い!」と結び付けていたメディアの煽りは、目に余るものがあった。政権が退陣したことによりこの煽りは沈静化したものの、8年にわたって、一部の国民の脳には「アベ=悪」と刷り込まれていた。その一人が山上容疑者ではなかっただろうか?

今後、新たな事実が判明して、筆者の推測が誤りであったことが証明されるかも知れない。しかし、たとえそうなったとしても、理性的な批判の範囲を越えた憎悪を拡散することによって生じる「刷り込み」は、時として人を殺すものであることを、私たちは肝に銘じておくべきであろう。

2022年7月31日 (日)

「宮崎から帰るのは、イヤじゃけ!」「飫肥は哀愁を、おび...てるよね」

【史料好きの倉庫(45)】

今回は「宮崎県(日向)の主要大名」の解説である。

過去、二回訪県している。1990年には鹿児島観光と組み合わせて、都城(旧薩摩藩領)まで足を伸ばした。1992年には霧島高原側から入り、宮崎市内(画像は平和台公園)や日南市(画像は飫肥)を周遊し、大分県へ移動した。

中世から日向の大名として続いた伊東家→飫肥藩の史料は、日南市の飫肥城歴史資料館(未訪問)に所蔵されている。島津一族の系譜は、鹿児島にあるものを閲覧するほうが便利な場合も多いが、北郷家→都城島津家に関する文書は都城島津邸(未訪問)にまとめて所蔵されている。他の戦国大名や近世大名については、宮崎県立図書館(未訪問)や地元自治体で調べることになる。

Miyazaki1992

◆伊東家→飫肥藩
鎌倉御家人・工藤祐経の家系。祐経が曽我兄弟に殺害された後、嫡子の伊東祐時は日向国内に所領を獲得し、南北朝期の祐持は都於郡城を拠点として勢力を拡大した。戦国初期の祐堯・祐国は財部から飫肥まで版図を広げ、義祐は日向の半国を跨有し、室町幕府の相伴衆に昇格するが、島津家の北進に大敗して上方へ逃避、堺で没した。祐兵は豊臣秀吉の九州征討の後、那珂・宮崎両郡で5万7千石余を与えられ、飫肥を居城として代々存続し、明治に至った。

◆北郷家→都城外城主 島津家
北郷忠久が南北朝期に島津家から分出して成立。敏久のとき都城領主としての地位を確立し、戦国大名となる。時久は島津宗家(忠良系)の家臣となり、1593年の「文禄の所替」により北薩の祁答院へ左遷されて困窮したが、忠能が1600年に都城へ復封され、子孫は島津の名字を許されて、3万石余の「一所持(薩摩藩の重臣の家格)」として明治まで続いた。

◆延岡藩
江戸前期までは県(あがた)藩と呼称される。当初は高橋元種(大友家時代に反乱を起こして筑前を騒がせた鑑種の養子)や有馬直純(岡本大八事件で徳川家康によって処刑された晴信の嫡子)などの「わけあり」大名の城地。1747年に入封した内藤政樹も、磐城平藩時代の一揆騒動を幕府から咎められて、延岡7万石(実質的な減封)へ左遷された形である。

◆高鍋藩=秋月家
筑前の大名であった秋月種長は、竜造寺家や島津家に与力して大友家と交戦したため、1587年、豊臣秀吉に降伏した後、日向高鍋3万石へ移転させられた。江戸前期には内紛に悩まされたが、種政のときに統治機構を確立した。種美や種茂は人材登用と民衆の福利厚生に努めたので、出羽米沢藩主・上杉治憲=鷹山(種美の二男)は父や兄の政策を大いに参考にしている。幕末期の藩主世子・種樹は幕府の若年寄に任じられたが、薩摩藩の協力により明治新政府支持に転じ、維新後は政府高官を歴任した。

2022年6月26日 (日)

襟を正してください

地域包括支援センター(以下、「包括」と略称)は、管轄する区域の保健、医療、福祉に関する総合的な相談窓口である。地域の介護予防や権利擁護を推進し、必要に応じて関係機関と連絡調整しながら、支援体制を構築する機能を持つ。主任介護支援専門員・社会福祉士・保健師が必置であり、制度化されてから、はや16年になる。

自治体によって、包括を直営している場合と、社会福祉法人・医療法人等に委託している場合とがあるが、いずれの場合も、包括は自治体のいわば出先機関として、この16年間、大きな役割を果たしてきた。介護支援専門員にとっても、対応困難事例に相当する利用者さんを担当する上で、包括の有能なスタッフはありがたい存在である。

筆者の事務所がある地区の包括(社会福祉法人が受託運営)は、地域づくりにたいへん積極的であり、施設長さん以下、スタッフも粒ぞろいの感がある。先日も包括が主催した「圏域ケア会議」に出席して、愚見を申し述べてきた(画像は包括の保健師さんがホワイトボードにまとめたもの)。ここは「顔の見える」包括として、地域からたいへん頼りにされている。

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しかし、全国の業界仲間からは、必ずしも良い仕事をしているとは言えない包括の状況も聞こえてくる。自治体の姿勢や、受託した法人の姿勢にも影響されるだろうし、批判している側が必ずしも的を射ているとも限らない(相手の言い分を聞くわけではないので...)が、芳しくない行為をする包括(組織、個々の職員)が一定程度いることは、残念な現実であろう。

当地にも、包括の姿勢を疑いたくなる例はあった。

(1)土日祝日の間にはさまる平日、市の某庁舎では、包括を受任している法人の車が(確認できただけで)市役所の駐車場に9台駐車してあった。九分九厘九毛までは包括の会議だったはず。そして9法人のうち(少なくとも)3法人は、徒歩15分以内に、駐車できる同一法人の事業所がある。
他方、市民の車が何台も駐車場の入り口で列をなしていた。
市から委託を受けた機関の車が、市民の車を待たせるのはおかしくないのか??? なぜ自法人の事業所に車を置いて歩かないのか???
(なお、私自身は別の用事のため、車を使わずに来庁した)

(2)とあるケアマネジャーが、九分九厘九毛まで「虐待(行政用語)」に該当する事例に出くわしたので、5月2日の午後、包括へ相談した。当地では、通報を受けたら48時間以内に確認しなければならない規定がある。5月7日になって、この包括の職員がその人の自宅へ出向き、状況を確認した(と、そのケアマネジャーが私に話した)。2日から7日までがなぜ48時間なのか? 時間の感覚が麻痺したのか???

(3)要介護になった住民が、A法人が運営する地元の包括に行き、希望する居宅介護支援事業所の連絡先を教えてほしいと言ったところ、包括職員は同所に確認もせず、「そちらは仕事が忙しいから頼みにくい」と言い、別のB法人の居宅を紹介した。あとで聞いて不審に思った同所のケアマネジャーが、たまたまB法人運営の他地域の包括職員と話していたときに、新規利用者さんを「A法人の居宅へよく頼んでいる」ことが判明。これを一般的には、「ヤミカルテル」と言わないのか??? 公的機関がそれをやってもいいのか???

(4)私のところに、過去複数回舞い込んだ話。「要支援1から要支援2にしようと区分変更申請して、どこの居宅にも頼まずに(アセスメントもカンファレンスもやらず)月を越してしまって、認定結果が『要介護』になってしまった。前月分が減算になってしまうけれど、受けてくれないか?」
これに対して私は、「いや、それは違うでしょ? 
行政の出先機関が居宅介護支援事業所の『運営基準違反(減算)』を依頼するのはおかしくないですか?」と答えて、全部断っている。この場合、前月分は包括の責任で利用者さんに償還払いの手続きをお願いして、それをサポートしなければならないのではないか??? なぜそうしないのか???

これは当地の実話である(もちろん(2)(3)は伝聞であるが、私に語ってくれた方は信頼のおけるケアマネジャーであり、また問題になっていた包括の運営法人は、別部門で過去に類似行為をしていた「実績」もある)。それぞれ、いまから○年前の話だと言ってしまうと、法人名が特定されてしまう恐れもあるので、単にこの16年間に起きた話として紹介するにとどめる。もちろん、冒頭に記した当所所在地を管轄する包括は、(1)~(4)のいずれにも該当しない。

当地では市民、行政、他法人からの監視の目もあり、まだこの程度で済んでいると思ったほうが良いかも知れない。とは言え、本来ならば決しておかしな振る舞いをすべきではない。そのような事例が見受けられる包括の経営者、管理者、職員には、市民のための公的機関を受託している自覚が欠けていないだろうか。

介護業界が人材不足をはじめとした大きな課題をいくつも抱える中、地域の中核となるべき包括に携わる人たちには、いま一度、しっかりと襟を正してほしいものである。

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