2022年5月 7日 (土)

憲法記念日に寄せて

私は今年営業日だったが、一般的に祝日である5月3日は、「日本国憲法」が施行された日(1947年。今年は施行75年)である。

このところ、憲法を改正すべきか否かの議論が喧(かまびす)しくなっている。もちろん、ロシアによるウクライナ侵攻を受けた現象であることは、言うまでもない。

3日にも各地で「改憲」「護憲」それぞれの側からの集会や活動が行われている。私自身は「改憲論者」であるが、たとえ定休日であっても、集会に参加することまではしていない。国の基本法が75年も改正されないことが正常だとは思えないから、国政選挙で改憲を、特に九条の改正を主張する人が立候補した場合は、他の政策に大きな違和感がない限り、その候補者に票を入れている。

他方、「護憲」を主張する人たちの大部分は、何よりも平和憲法の根幹である「九条」を守れ、と主張する。そうすることによって日本の平和が守られる、との見解なのであろう。

さて、「護憲」を謳う以上、憲法そのものを守らなければならない(当然だが...)。そのためには、「A.国民による改正(護憲論者の人たちから見れば「改悪」)をさせない」だけでは不十分だ。憲法は国内法であり、外国はこれを守る義務はない。したがって、日本の平和を守るためには、「B.外国に日本を攻撃させない」ことも保証させなければならない。もし外国が日本に侵攻(「間接的侵略」も含む)して、政治の中枢を支配してしまえば、その力によって憲法はその国の都合が好い形に変えられてしまう。

そこで、「護憲論者」の方々に質問がある。

日本に敵対的、ないしは非友好的な国が、すぐ近くに四か国も存在する。(1)竹島を一方的に自国領土へ編入して返還せず、過去に日本と締結した条約の趣旨もしばしば蔑ろにしている韓国、(2)尖閣諸島(...のみならず、遠回しな表現ではあるが、沖縄全県と鹿児島県奄美群島も含む地域まで)への領有権を主張し、領海侵犯を繰り返す中国、(3)北方四島を実効支配して返還せず、周辺海域を艦船で威嚇するロシア、(4)国交がなく、日本を敵視してミサイル発射を繰り返し、その標的に位置付けてはばからない北朝鮮だ。

「護憲論者」の方々は、これらの諸国の政治指導者に対して、上記のBを実践してもらうために、日本国憲法の理念をどのように説き、どのような回答を得ているのか?

いや、(1)韓国については、散発的(志を同じくする人たちが統一して行動しているとは、とても考えられない)ではあるが、ときの大統領や首相に憲法九条の趣旨を伝え説いている人もいる(それも、逆に相手方から利用されている場合が多いと、個人的には思うが...)。しかし、韓国が「不法占拠している」竹島を返還する動きなど全く窺えない。ましてや、(2)中国・(3)ロシア・(4)北朝鮮については、そもそも働き掛けた事実さえほとんど確認できない。もちろん、政治工作の中には公開できない部分もあることは承知しているが、これまでの状況では、防衛力に不安を抱える国民が納得できる説明責任を果たしているとは認め難い。

いま、これらの国々が「これ以上の力による現状変更」をしない最大の理由は、日米安全保障条約があり、米軍が日本に駐留しているからだ。もちろん自衛隊の強化も重要な原因である。しかし多くの護憲論者は、米国寄りの安保に反対であり、かつ日本の防衛費を削減せよと主張している。

ならば、上記の国々で、護憲論者の方々がどのような活動をして、政治指導者とどのような対話をしたのか? それに対して、相手はどう反応、回答したのか? その事実をまず説明すべきである。たとえば国連本部や国際会議の場で九条の理念を説いて、そこに韓・中・露・北などの首脳も列席していた...などとゴマかしてもらっては困る。本当に憲法九条の理念が至上のものだと信じているのであれば、相手のホームグラウンドへ赴いて直談判するのに躊躇はないはずだ。

もちろん、(2)(3)(4)は民主的な体制を採っている国ではないから、「護憲論者の代表」がしかるべきルートを経由して対話を申し入れても、拒絶されることもあるだろうし、仮に対談が実現しても、活動家側の理念を否定されて終わり、になることもあるだろう。それならそれで、「わが国の憲法九条の趣旨を尊重し、攻撃してこないことを保証せよと、○○国家主席(大統領、委員長etc.)に対話を申し入れたが、断られた」「...説得したが、否定的な回答しか得られなかった」と報告してほしい。その上で、「そこで、次のステップでは、これらの国々に対して□□□の行動を実践する」と代替案を示してくれれば、少なくとも議論の対象とすることに差し支えない(賛同できるかどうかは別として)。

「護憲論者」の活動家には、日本国内で「護憲」を叫んでいる活動家たちが圧倒的に多い。日本は言論の自由が保障された民主的な体制の国であるから、いくらでも声を上げることができる。しかし、九条を「守ってもらいたい」相手のホームグラウンドで叫ばなければ、全く意味がない。失礼ながら、「お花畑で遊んでいる姿を見せられても、議論にならない」。これが私の正直な思いだ。

いまからでも遅くないので、護憲論者のみなさんには、北京へ、モスクワへ、ピョンヤンへ行き、自らの信じる理念にしたがって、相手を説得してもらいたいものである。もしくは、すでに実践しているのであれば、その「成果」を多くの国民に対して、わかりやすい形で開示してもらいたいものである。

その報告に接したあかつきには、「改憲」と同じテーブルに「護憲」も乗せ、議論の対象として比較検討することができるであろう。

2022年4月24日 (日)

最近の食卓

筆者は一人暮らしなので、夕食は副食1~2品と、何かしらの主食とを組み合わせることが多い。

年明けから春の前半にかけて、朝は餅食(雑煮または汁粉)+たんぱく質(魚の加工品)、昼はパン(惣菜パンの類)またはラーメン(袋麺かカップ麺)が定番になっている。そのため、夕食は肉・卵・野菜が主流だが、「頭の体操」を兼ねて、週4回程度はメインディッシュか主食を自分で調理している。

ここ一か月余りの間に、少し新しい鶏肉料理に挑戦しながら、「組み合わせの妙」を体感してみた。以下はその代表作。

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腰果鶏丁(ヤオグオジーディン)に初挑戦。実は「ぎんなん」が残ったので、早目に使い切ろうと思い立ったものだ。メインはカシューナッツと鶏もも肉だが、ぎんなんもオイスターソース(醤油と酢も少しずつ加えているが...)の味覚を引き立ててくれる。

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鶏むね肉と枝豆のペペロンチーノ。これも初挑戦。オリーブ油ですりおろしニンニクの香りを立ててから炒めているので、一応「アーリォ‐オリォ」になっているのだ。豆は冷凍ものを使用。

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トスカーナ風カッチャトーラ。ひよこ豆を開封したので使い切ろうと思い、鶏もも肉を買ってきてこの一品にした。類似品を2回ほど試作したことはあるが、本格的に作ったのは初めてである。トマトとマッシュルームは市販の加工品だが、十分に美味しい。

20220422chaofan

肉料理ではないが、チャーハンも大好きなので、週一回は食べている。定休日である水曜と日曜にご飯を炊くので、残り物を活用して金曜と火曜に作るのが通例。市販の素を使うことが多いが、一昨日は「創味シャンタンDX+醤油」で調味した自作を賞味。スーパーで購入した品々、むきエビ・刻みネギ・炒りごまを投入。付け合わせはほうれん草のおしたしで。

こんな具合に、好みの品を好みの調味(…ただし減塩を意識しながら…)で楽しみたいので、出来合いの食品で済ますばかりではなく、可能なときになるべく自作している。

居宅介護支援や予防支援の利用者さんには、80代、90代になっても新作に挑戦している方もおられる。自分自身の生活を活性化させ、食卓に潤いを与えるために、作る意欲を持ち続けていきたいものだ。

2022年4月 8日 (金)

「長崎を巡るなら、なんが先?」「有馬で、ありまぁ!と感動しろ」

【史料好きの倉庫(42)】

今回は「長崎県の主要大名」の解説である。

1989年と1997年、二回訪県した。いずれもカトリック教会を巡礼する旅であったので(画像左は一回目のときミサに参列した平戸教会、右は二回目のとき立ち寄った雲仙教会)、城下町は一回目に平戸、諫早(佐賀藩領)、二回目に大村、島原などを「ついでに周回した」程度である。

松浦・大村・五島・宗などの旧族大名が江戸期にもそのまま存続したので、各藩関係の系譜史料はそれぞれ平戸市・大村市・五島市・対馬市にある図書館や博物館で所蔵されている。ただし、他県の旧族大名同様、藩政期の家系が古い系譜類を作為している可能性があるため、閲覧には注意が必要である。有馬家・西郷家や竜造寺・鍋島家領の地域については、同時代史料や佐賀県で収蔵されている史料が有益である。イエズス会をはじめとするキリシタン関係の史料は、日本の大名を外から眺めたものとしては貴重だが、ローマ字転写の間違いや事象の誤解など、正確性に関する課題も多い。

Nagasaki

◆宗家→対馬藩
対馬の在庁官人であり、惟宗氏の支族だと考えられる。鎌倉期には少弐家の地頭代→守護代であり、南北朝期の宗経茂が朝鮮貿易を掌握し、室町期の貞茂が島主権を確立して対馬守護を世襲した。一族は多くの支流に分かれ、戦国大名化した将盛・晴康はいずれも傍系から入って相続したため、系譜に混乱が見られる。義智は豊臣秀吉の命により朝鮮へ侵攻し、貿易は一時途絶したが、徳川家康の時代になり再び日朝の仲介役となって国交修復を果たした。義方以降は10万石格の国持大名となったが、朝鮮貿易の縮小により財政的に窮迫し、加えて幕末には英国やロシアの軍艦来航により、内外の情勢不安のまま明治維新を迎えた。

◆松浦家→平戸藩
松浦郡一帯に分布した巨族。嵯峨源氏の支流とされるが真偽は不明。平安朝末期、松浦直の子どもたちが多くの流派に分かれ、一揆=松浦党を結成した。嫡流は相神浦(あいこのうら)松浦家であり、元寇の際には定が一族を率いて奮戦している。南北朝期から庶流の平戸松浦家が台頭し、南北朝期には勝が平戸に築城、孫の真のときには嫡家に対抗して松浦を公称した。戦国期には嫡流家との抗争が続いたが、興信・隆信(道可)が嫡流家を降伏させて被官化、壱岐をも制圧した。鎮信(法印)はキリシタンの布教を承認、壱岐を併合し、豊臣秀吉、のち徳川家康から本領を安堵された。隆信(宗陽)のときキリシタンを迫害する一方、オランダとの貿易で利潤を得るが、鎮信(天祥)のときオランダ商館が出島へ移されたので、以後は他藩と変わらない財政構造を有する6万3千石余の平戸藩として存続した。幕末維新の際には明治新政府のため積極的に協力している。

◆五島(宇久)家→五島藩
宇久島に発する豪族であり、先祖は名族に仮託されているが、実は末羅国造の後裔か。平安朝の時期には松浦党に属していた。南北朝期の宇久覚(伊豆守)・勝(尾張守)父子の代には福江に本拠を築いている。戦国期の純定はキリシタンの布教を後押しし、純玄は豊臣秀吉から本領を安堵され、名字を五島と改めた。玄雅は関が原で徳川方となり、後にキリシタンを迫害して家の存続を図った。盛勝のとき富江領を分知して1万2千石余の五島藩となり、明治維新まで継続した。

◆大村家→大村藩
藤津郡・彼杵郡の豪族。出自ははっきりしないが、仁和寺の荘官として大村に土着した一族である。元寇のとき大村家信が活躍して台頭、室町期の純治のとき本拠地に築城した。戦国期の純忠はキリシタンに入信、天正遣欧使節の派遣元の一人となった。喜前は豊臣秀吉、後に徳川家康から本領を安堵され、キリシタンを迫害して領主権力を確立、2万7千石余の大村藩政の基礎を築いた。代々継承して幕末に至り、他藩に率先して明治新政府に協力した。

◆有馬家
高来郡の豪族であり、大村家同様、出自が不明瞭である。鎌倉期から南北朝期には日野江城を拠点として勢力を培った。戦国期の有馬貴純から晴純に至る時期には、周囲の諸郡に勢力を拡大した。晴信はキリシタンに入信し、天正遣欧使節の派遣元の一人となったが、竜造寺家に抗して所領を死守、豊臣秀吉に本領4万石を安堵された。しかし、秀吉の禁教令により打撃を受け、さらに徳川家康の時代には旧領回復を図って汚職事件に巻き込まれ、死に追いやられた。息子の直純は家康の養女の夫であったため連座を免れ、日向延岡へ転封されたので、有馬の地は松倉家の所領となった。

◆島原藩
島原半島の有馬家が左遷された後、日野江城には松倉重政が入封したが、次の勝家は苛政により島原の乱を惹起したので、乱の平定後に改易、斬首された。そのあと高力家の時代を経て、深溝松平家の松平忠房が1669年、栄転されて島原城に入り、18世紀の一時期(戸田家時代)を除き、代々島原藩を統治して明治に至った。

2022年3月24日 (木)

ロシアのウクライナ侵攻に思うこと

2月24日、ロシアがウクライナに侵攻を開始してから、はや一か月になる。

この間、多くの論者がこの国際的な大事件について、さまざまな視点から報じてきた。

「後出しジャンケン」のつもりはないが、いろいろな素材が出揃ってから何か言おうと思っていた(正直なところ、仕事が超過密だったため、エントリーを書く余裕が無かったのだ)。昨日はウクライナのゼレンスキィ大統領が国会でオンライン演説をしたこともあり、一つの節目の時期となったので、私が着目すべきだと考えるいくつかの論点を整理してみたい。

(1)一方的な侵攻への非難は当然である
まず、これまでの経過はともかく、
ロシア・プーチン政権はゼレンスキィ政権のウクライナの領土へ一方的に侵攻し、多くの民間人を殺傷しており、かつ、それを自国の防衛のためと称して正当化している。主権国家が自国の利益のために他の主権国家を暴力で屈服させようとすることが、許されない暴挙であることは言うまでもない。世界の多くの人々がウクライナの国民を励まし、声援を送り、戦禍で亡くなった人たちを悼むことや、ロシアの現政権を非難することは、ごく自然だ。私自身も同じ気持ちである。

(2)「プーチンは悪」「ゼレンスキィは善」と断じるのは不適切だ
しかし、それだからと言って、この衝突に至る過程で、ウクライナ側の挑発がなかったことを示すものではない。日本の公安調査庁「国際テロリズム要覧」では、ロシアの極右過激組織「ロシア帝国運動」に触れるとともに、ウクライナの愛国者で形成される「アゾフ大隊」にも言及している。信頼筋からは、この愛国者組織がロシア系、親ロシア側の住民を殺害した情報も寄せられている。それぞれの組織が外国人戦闘員たちも抱えて相手方と戦闘を繰り返し、ついに今回の侵攻を招いた次第だ。いわば双方の相互作用が憎悪を増幅させたものであり、単純な善悪をもって論じるのは早計である。もし一方的に、プーチン氏が悪魔でゼレンスキィ氏が正義の味方だと思っている人がいたら、それは日本的な「二分割思考」の罠(さらに踏み込んで表現すれば「俳優ゼレンスキィ劇場」のプロパガンダ)にはまっているのだ(もちろん、対するロシア政府側のプロパガンダの問題もあるが...
)。国際政治は「相互作用」「謀略戦の応酬」からエスカレートして実際の戦争に至ることや、いまやサイバー攻撃などの情報戦が戦闘の前段階になっているのが常識であることを、私たちは知るべきであろう。

Ukraina

(3)各国はそれぞれの思惑で動いている
今回、かなり危機が迫るまで「当事者(ウクライナ)不在」の感があり、第二次世界大戦前のチェコスロヴァキアに似ている。プーチンvsバイデンの応酬が取り沙汰されていたのにもかかわらず、ゼレンスキーの名前は侵攻直前までほとんどの日本人に知られていなかった。米国・英国・フランス・ドイツ、そしてロシア寄りの中国・インドも、それぞれ自国・自陣営の利害のために動いている。純粋にウクライナ国民の最善を願って連帯を表明していた国は、どこにも存在しなかった。今後も原則的には同様な経過をたどることは自明だ。

(4)難民受け入れの門戸を広げよ
日本の法務省はもともと、朝鮮戦争の余波を懸念して、難民受け入れにたいへん消極的であった。インドシナ戦争の終末期(1975年)、欧米諸国の要請に押される形で、ようやく多くのインドシナ(ヴェトナム、カンボジア、ラオス)難民を国内に受け入れた。ところが、その後はまた門戸を閉ざしてしまっているので、クルド人など国際的に「迫害されている民」であることが明らかな人々でさえ、容易に難民認定されない状況が続いている。政府は「純血主義」に傾く右派・保守派の影響を受け、いつ起きるかわからない朝鮮半島有事を恐れて、国際的な信用を損じる愚策を採り続けてきたのだ。この機会に、ウクライナのみならず、世界各地から日本へ逃れてくる被弾圧民族を、新たな仲間として受け入れたらどうか? 家族ぐるみで来日する人たちの定住は少子高齢化対策にもなるのだから、一石二鳥ではないか。

(5)私たちは国際経済への影響を先読みすべき
私自身、いわゆる「経済オンチ(「オンチ」は差別用語ではなく自虐の呼称。念のため)」であるので、将来の予測は経済評論家たちの論考を頼りにするのが通例だ。しかし、そんな私でも、ロシアとの貿易途絶によるダメージ、たとえば小麦の供給減少による食品価格の上昇、原油価格の高騰によるガソリン・石油製品価格の上昇、パラジウムの輸入経路変更(おそらく今後は、価格の高い品が中国経由で入ってくる)による自動車価格の上昇により、身近な市場に大きな影響が及ぶことなどは、容易に予測できる。買い占めなどの独善的行為はもちろんいけないが、国民各自が自衛のため必要な物品の調達は、早目にしておくことが大切であろう。

(6)日本は安全保障の観点から、あくまでもウクライナを支持すべき
いま、日本がロシア、中国、北朝鮮などの友好的でない国々から侵攻されないのは、米国(核保有国)との同盟関係にあるからに他ならない(はっきり言って憲法九条は役に立っていない)。論者の中には、日本は中立的立場でロシアとウクライナとの和平に貢献すべきだと言う人たちがいる。もちろん、NATO加盟国であるトルコが試みたように、可能な範囲で何らかの仲介ができれば、それに越したことはない。しかし、ロシアへの経済制裁やウクライナへの人道支援に関しては、米国や西欧諸国と歩調を合わせるべきなのだ。いま、それをしなければ、今度は日本が安全保障上の危機にさらされた場合、どの国にも(状況によっては「同盟国」米国にさえ)支援してもらえないと思っていたほうが間違いない。たとえ国民生活に大きな影響が及ぶとしても、私たちの平和国家へそれ以上の甚大な結果をもたらさないために、国として「旗幟鮮明」にすることが、国際社会から求められている。

以上、言いたいことを言わせてもらったが、異論、反論などもあると思われる。コメントをいただいた場合、応接に値する意見には返信する場合もあるが、内容によっては無視、あるいは削除する場合もあることを、あらかじめお断りしておく。

2022年2月24日 (木)

「佐賀でうまいもの、サガした?」「唐津のカレーは、からっ!」

【史料好きの倉庫(41)】

今回は「佐賀県の主要大名」の解説である。

過去、訪県したのは一度だけ(素通りは二回ほどある)。1989年に佐賀城下を散策し、その夜は唐津に泊まって虹ノ松原などを観光した。

佐賀県立図書館には、竜造寺家文書や鍋島家文庫をはじめ、中世から近世に至る膨大な史料が所蔵されている。私が訪問した際には、藩主・重臣(各家の嫡統)の系譜をプリントアウトして一冊にまとめた綴りが周到に準備されていたので、閲覧させてもらうことができた(現在も存在するかどうかはわからない)。唐津藩は藩主家がしばしば交替したこともあり、地元に存在する史料は限定的である。

◆渋川家
足利一門であり、鎌倉期には上野国の豪族。渋川義季は南北朝期に足利直義の麾下にあり、直頼が足利尊氏派に転じ、娘の幸子が足利義詮の正室となった。義行は室町幕府の九州探題に任じられ、満頼のとき肥前・筑前に本拠を移すが、義俊のとき権威を失墜し、以後は探題とは名ばかりの、東肥前の一豪族として存続した。

◆少弐(武藤)家
武蔵出身だが、鎌倉初期、武藤資頼が鎮西奉行に任じられ、代々大宰少弐と筑前守護とを兼帯して、大友・島津と並ぶ九州の名門となった。鎌倉末期の貞経から少弐を名字とし、頼尚・冬資・頼澄は南北朝の間を変転する。満貞は大内持世に襲撃されて対馬へ亡命、教頼は大宰府近傍の旧領回復に努めたが果たせなかった。政資以降は肥前に本拠を置くも弱体化し、冬尚は1559年、竜造寺隆信の攻撃を受け敗死した。

◆竜造寺家
佐嘉郡の豪族。高木季家が竜造寺の地頭職に任じられて家名が興る。鎌倉期はいくつかの家系が並立する状態だったと考えられ、南北朝期の竜造寺家政以降、一系となった。戦国期には村中竜造寺家(嫡流)・水ケ江竜造寺家(庶流)の二系に分かれ、後者の家兼が東肥前一の実力者となるが、敵対勢力に討たれて家純・家門・周家が戦死し、大打撃を受けた。隆信は曾祖父の水ケ江家を相続した後、宗家の村中家をも継承し、肥前を統一して周辺諸国にも勢力を拡大するが、北進する島津家と島原・沖田畷で戦って敗死した。政家は病弱で政務を鍋島直茂に委ね、その嫡子高房も実権を喪失したまま1607年に没したため、佐賀の領国は鍋島家の領有となった。

◆村田家
竜造寺政家の四男・村田安良は、佐賀領主としての竜造寺家が事実上終焉した後、鍋島直茂・勝茂のもとで「親類」の一家として遇せられ、久保田1万余石を領知して明治に至った。同じく佐賀藩重臣の村田(鳥栖村田)鍋島家とは全く別の家である。幕末の当主・政矩はプロテスタントの洗礼を受けたクリスチャンとして著名。

◆後藤家→武雄邑主鍋島家
杵島郡の豪族。平安朝後期、後藤資茂が塚崎に土着して御船山を本拠とした。南北朝期の光明は足利直冬に属して活動する。戦国期の純明が塚崎の武雄に築城、貴明のとき竜造寺隆信に服属して4万余石を領有した。家信は竜造寺家から養子に入り、鍋島家の藩政時代には「親類同格(一門格)」となったが、石高は2万1千余石に削減された。中世から数百年にわたり代々武雄領を継承して、明治維新を迎えた。

◆波多家
松浦党の一族。肥前岸岳を本拠として、室町期の波多重は壱岐国を支配する。戦国末の親は竜造寺・有馬・松浦の諸家と和戦を繰り返し、のち豊臣秀吉に降伏して所領を安堵されたが、1593年に文禄の役の落度を咎められて改易された。

◆多久家
戦国末を境にして前後に分かれる。前・多久家は高来郡の豪族であり、戦国期の宗利が竜造寺隆信と戦って敗れ、所領を失った。そのあと隆信の弟・長信が多久に封じられ、鍋島家時代には4万余石を領知して「親類同格(一門格)」となったが、安順のとき2万余石に削減され、代々継承して明治に至った。

◆神代(くましろ)家
筑後御井郡の豪族。戦国期の神代利久が肥前へ移住した。勝利は三瀬城を拠点として竜造寺隆信に対峙したが、劣勢となり和議を結び、長良は隆信に服属して肥前川久保に封じられた。家良は鍋島直茂の甥であり、鍋島領内にて親類(一門)として8千石を領知、子孫は1万石となり、代々継承して明治まで続いた。同じく佐賀藩重臣の神代(こうじろ)鍋島家とは全く別の家である。

◆鍋島家→佐賀藩
鍋島直茂は竜造寺家の家老であり、隆信敗死後に家政の屋台骨を支え、実権を握った。勝茂のとき正式に「佐賀領国」の主となり、「葉隠」に象徴される強固な支配体制を敷いた。江戸期を通して35万7千余石の佐賀藩として存続し、幕末の直正(閑叟)が明治維新に大きな業績を残して、有能な家臣たちを新政府の指導者に送り込んでいる。

2022年2月15日 (火)

「福岡で、フグ食おーか?」「小倉のイケメンなら、こぅくらぁ!」

【史料好きの倉庫(40)】

今回は「福岡県の主要大名」の解説である。

二十代のころ何度か素通りしているが、足を地に着けて周遊したのは二回だけだ。初めは1992年で、小倉・博多・秋月・大宰府・柳川を巡った。二回目は2018年、母が帰天した後の6月、巡礼(小倉は福者ディオゴ加賀山隼人の殉教地)と「業界仲間の顔合わせ」とを兼ねて、門司(画像)・福岡を訪れている。

中世の大名・豪族は立花家を除き大幅に入れ替わってしまったので、古くから土着して戦国大名として存続した宗像大宮司、原田一族、宇都宮一族なども、系譜に異同や疑問点が少なからずあり、複数の同時代史料を比較参照して確認するのが望ましい。近世には県域が四大藩(および、それぞれの分家)に分かれていたので、各藩の一門・重臣などの系譜史料を調べるには、私が滞在した福岡県立図書館だけでは不十分であり、九州歴史資料館、柳川古文書館、久留米市立中央図書館、みやこ町小笠原文庫(いずれも未訪問)などを周回する必要がある(個別の所蔵史料を確認したわけではない)。

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◆宗像家
古代豪族・胸形氏の系譜を継ぎ、筑前宗像大社の大宮司を世襲しながら、周辺を領域支配した。中世には複数の系統が大宮司の地位をめぐって抗争、12世紀に宗像氏信の系統が嫡家の地位を確立した後にも、一族内の紛争がしばしば起こった。少弐、大友、大内、毛利など周囲の大勢力にも翻弄されながら、戦国期を生き抜いたが、1586年に氏貞が没して後嗣がなく、廃絶となった。

◆秋月家
筑前夜須郡の豪族。大蔵氏の原田一族であり、戦国期の秋月種朝・種時は大内家に従属しながら、筑前南部の国人領主として勢力を確立した。大内家滅亡後、種方は大友家の攻略を受けて自殺、種実は大友家に抗戦したものの、のちに従属、さらに島津家の傘下に入り、最後は豊臣秀吉に降伏して、辛うじて本領を安堵された。種長は1587年、秀吉の仕置によって日向高鍋へ転封され、その地で明治まで存続した。

◆城井家
豊前仲津郡に土着した宇都宮一門の名家。南北朝期の城井冬綱・家綱は下野の宇都宮宗家から入嗣している。戦国期の秀房・興房・正房は大内家に従属しながらも、室町将軍の前で射法を披露する家の格式を維持した。長房は大友家と毛利家の激突の間にあって、城井谷の所領を死守したが、鎮房は豊臣秀吉の転封命令に従わず、新たに豊前へ入部した黒田孝高・長政父子に滅ぼされた。

◆立花家→柳川藩
大友家の一門。立花宗匡は九州探題・今川貞世(了俊)の麾下で九州平定に参戦、親直・親政以降は大友宗家に従属して立花山城を守ったが、鑑俊(鑑載)のとき大友家に反乱を起こして滅亡した。鑑連(道雪)は大友義鎮(宗麟)の命により立花家を継承し、主家のために各地を転戦、戦国期を代表する文武兼備の名将の一人として知られた。宗茂は1587年に筑後柳川へ転封、関が原のとき石田方に与して所領を没収されたが、江戸幕府から再度取り立てられ、1620年には旧領柳川に復帰した。以後、子孫は10万9千余石(幕末の公称11万9千余石)を領有して明治に至った。

◆立花家→三池藩
大友家の一門。高橋鎮種(紹運)は大友義鎮の命により、高橋鑑種が追放された後に高橋家の名跡を継承し、立花鑑連の麾下にあって筑前、筑後を転戦したが、岩屋城を島津家に攻略されて敗死した。直次は1587年、実兄の立花宗茂とともに筑後に封じられ、三池郡内で1万8千石を与えられたが、関が原のとき石田方に参戦して所領を没収、戦後は兄とともに江戸幕府から再度取り立てられ、立花を称して常陸柿岡5千石の旗本となった。種次は1621年、伯父に随従して筑後へ復帰し、三池で1万石を領する大名となった。江戸後期の種周に至って幕府の若年寄に就任したが、派閥抗争のため失脚、継嗣の種善は陸奥下手渡へ左遷された。幕末の藩主・種恭が所領の過半を三池へ戻され、三池藩として廃藩置県を迎えた。

◆豊前国主=細川家
室町幕府の和泉守護家・細川藤孝の長男・忠興は、関が原の勲功によって豊前一国を領知、はじめ中津を居城としたが、1602年に小倉城を拠点としたので、大分県ではなく福岡県のページに掲載した。

◆福岡藩=黒田家
豊臣政権の参謀として知られる黒田孝高(如水)の家系。黒田長政が関が原の戦後、栄転して筑前一国(一部の郡は他領と入れ替え)を与えられ、50万余石(後代、秋月支藩を加えた総石高は52万余石)を領有した。そのまま
明治まで続いて廃藩置県を迎えたが、事実上の藩主の血統は、江戸中期から徳川(一橋)→京極→徳川(一橋)→島津→藤堂と変転している。最期の藩主・黒田長知は1871年の廃藩置県直前、太政官札贋造事件により藩知事を罷免され、幹部(もと家老)5名が斬首されるに至った。中央集権を推し進める明治新政府が、旧藩単位での逸脱行為を断罪して一罰百戒を狙ったものと考えられている。

◆久留米藩=有馬家
赤松家の庶流であり、室町期には摂津有馬郡の分郡守護を世襲した家。有馬豊氏は豊臣秀吉に仕えて遠江横須賀城に封じられ、関が原の戦後は丹波福知山へ移り、のち父・則頼の旧領を併せて8万石、大坂の陣の後には筑後久留米に栄転して21万石を領知した。子孫は代々同地の大名として存続、明治の廃藩置県に至った。

◆小倉藩/香春藩/豊津藩=小笠原家
信濃守護であった府中小笠原家当主の小笠原貞慶が徳川家康に仕え、秀政(信濃松本城主)を経て、三代目の忠真が1632年、豊前小倉に栄転して15万石を領知し、江戸幕府の九州探題的な役割を担った。1866年、幕末の藩主・忠忱は第二次長州征伐に参戦したが、長州軍の反攻に遭い小倉城を放棄し、香春に藩庁を新設、さらに1870年には藩庁を豊津へ移し、廃藩置県を迎えた。

2022年2月 9日 (水)

あれから20年

父が80歳で世を去ったのは、2002年2月9日。きょうは帰天20周年に当たる。

そのとき、私は父を看取ることができなかった。

朝、二階で寝ていた私が起きて階下へ行くと、いきなり深刻な顔をした母が私に声を掛けた。父が全身に汗をかいている様子で、母がいくら声を掛けても起きてこないのだ。

父は数か月前から認知症が進んでおり、母の介護負担が増えつつあった。近くの通所介護を見学した後、ひとまず週一回から利用を始め、短期入所生活介護も併せて利用するつもりで予約していたが、身体面では大きな衰えはなく、家の内外を普通に立ち居、移動していた。

しかし、この朝の7日ほど前、父が私と会話していて、たいへん力ない応答をしたことがあった。そのとき私は、「もう生きる気力を無くしてしまったのかなぁ」と直感した。この前兆があったので、当日朝の急変を迎えて、「もしかしたら...」と悟ったことを覚えている。

あいにく、午前中には外せない用事が入っていた。朝食を済ませた後、母の友人が応援に来てくれたので、二人にあとを頼んで、ひとまず出掛けて用を済ませた。

お昼前に帰宅したのだが、すでに父は天に召され、かかりつけ医が来宅してくれて、死亡診断も終わっていた。母の友人に感謝して帰ってもらった後、本人の意思にのっとって急場の「臨終洗礼(帰天直後は有効)」を行い、尊敬していた高山右近と同じ霊名「ジュスト」を追贈して、教会で葬儀を執り行ってもらう運びにした。かかりつけ医の診療所から看護師が来宅して「死後の処置」を済ませてくれた。

そのあと、10日に自宅での通夜、11日に教会での葬儀ミサと、それぞれ百名を超える列席者への応接で、何とも多忙な三日間であったことを、いまでも鮮明に記憶している。自分にとって初めての経験だったが、介護施設に勤務して、過去に類似した体験をしているので、それが役に立ったことは確かだ。

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きょうは、父が好きだった海産物をよく行商に来てくれた「丸一魚店」から何品かテイクアウト。一人でささやかながら20年を記念して、父を偲んでみた。うちが三十数年(昭和の終わりから)買い物をしていたこの魚店も、今月末で閉店するという。時代は移ろうものであろう。

これからは、自分自身の健康管理に努めながら、父の年齢を超えることを目標にして、日々の仕事や家事に勤しみたいと思っている。

2022年1月30日 (日)

「40年積み上げた信用を、5分で全部失いますか?」

最近、メディアを賑わせている記事の中には、相変わらず殺人事件や傷害事件が多く見受けられる。

まず、無差別の殺人事件が少なからず発生している。

いわゆる「劇場型犯罪」「拡大自殺」やその模倣犯罪などのため、理不尽に命を絶たれる人が跡を絶たない。まだまだ人生でやりたいことがたくさんあったのに、それが永久に不可能になり、突然生涯を終えさせられた人たちの無念を思うと、他人事とも思えず、悲しみに堪えない。

それらの犯人(今回のエントリーでは、犯罪の経過が明々白々であることを前提に、この呼称で統一する)の年代はさまざまだ。10代後半から80代までどの年代を取っても、一握りではあるが、この種の殺人事件を起こしてしまう人がいる。コロナ禍による閉塞感が影響していると評する論者もおり、無関係とは言わないが、コロナ禍以前からこの種の犯罪はしばしば見受けられている。「孤立」「引きこもり」「長年にわたる無職」だった犯人が相当数いることも確かだが、それにステレオタイプ化してはいけない。

もっとも、失うものが「ない」「たいへん少ない」人が犯人になってしまう場合が多いことも、これまた現実である。その意味では「信用」「名誉」「地位」などは、この種の破滅型・自暴自棄型の犯罪への抑止力になっているのかも知れない。

他方、無差別ではなく、誰かからの「何かのアクション」を受けて、短絡的に人を殺したり、人に暴力を振るったり威嚇したりする事件も、しばしば報道されている。他車の行為に腹を立てたことによる「あおり運転」もその好例だ。第三者から見ると、些細なトラブルが原因で、相手を殺したり傷付けたりする犯人の精神状態が、理解し難いかも知れない。

しかし、「立腹して相手に攻撃(反撃)したくなる」情動は、多くの人の心に発生するものなのだ。特に加齢に伴い、アドレナリンの分泌に影響される易怒性をコントロールするのが困難になると、予期しない暴発をしてしまって後悔することになるのだ。「高齢者は角が取れて丸くなる」は一面の真実を表しているのかも知れないが、不測のアクシデントやインシデントにより、それと相反する行為への動機付けが突発することも、日常茶飯事だと思っていたほうが良い。

私自身もときどき、他者からの些細なインパクトに立腹して、この情動を覚えることがある。そんなときには、自分自身に対して、こう問いかけることにしている。

「40年積み上げた信用を、5分で全部失いますか?」

幸いにも、この自己暗示?が奏効して、メディアに報じられる事件を起こさずに済んでいる日々である。

2022年1月17日 (月)

調理のリハビリテーション

数年来、私が自信を失っていたことがある。

パスタソースが上手に作れなくなっていたのだ。

もともと、そんなに凝ったソースを作っていたわけではない。40前後まで、料理のレパートリーに乏しく(亡き母がお勝手を仕切っていたこともあるが...)、ときどき何か作るとしたら、パスタソース程度でごまかすことが多かった。レシピ本を参照しつつ、一応食するに値する味(笑)を出すことができたに過ぎないのだが、それでも教会でパーティーが催される際には、「自作です」と言って持参して、辛うじて面目を保ったものである。

その後、50代になると、他のレパートリーが少しずつ増えていくのに反比例して、パスタソースが上手に作れなくなった。バジルとかビーンズとか、一昨年は明太子にまで挑戦したが、何とも凡作、駄作、失敗作続きとなり、一回作って食べてはがっかりして、しばらく間が空いてしまうことの繰り返しとなった。

ところが、昨年の12月11日、冷蔵庫に残り物の「有塩バター」「しめじ」「ネギ」があったので、たまには調味料を加えてパスタソースを作ってみようかと思い立ち、実行してみたところ、やや薄塩味の(血圧が高めなので、自分にはちょうど好い)結構な一品に仕上がり、「イケるじゃないか!」と自信を取り戻したのだ。

そこで、年明けから4回ばかり、自作のソースに再挑戦してみた。

20220106beanspasta

これはキドニービーンズ(1月6日)。ベースは有塩バターだが、香味にバジルを加えたところ、なかなかイケる味覚。

20220113shiitakepasta

こちらはしいたけとわかめ(まぜご飯用)のパスタ(1月13日)。ベースをオリーブ油にして、香味はニンニクのみじん切り。まさに「アーリォ‐オリォ」である。

この調子で、次はまた別の味覚も試みようと目論んでいる。

「以前にはできていた生活を、再び送れるようになること」が「リハビリテーション」の真の意味(大上段に振りかぶった表現だと「全人的復権」になってしまうが...)なのだから、私が再びパスタソースを作れるようになったことは、まさに調理の上でのリハビリテーションに違いない。

リハビリテーションを順調に進めるためには、ふとしたきっかけからでも良いので、自信を取り戻すことが大切だと、身を持って学ぶことができた。

2022年1月 9日 (日)

「段階的に撤退」

遅くなりましたが、読者のみなさまに新年のごあいさつを申し上げます。

さて、このエントリーの題名だが、仕事の話ではない。

これまで、お世話になった人や友人などに対し、年賀状に代わる年末年始のごあいさつを、クリスマスカード(ハガキ)の形で出していた。かつて開業したばかりのころ、多いときには100人を超えていたが、次第に絞り込むようになり、いまはひとケタにまで減った。

前回(2020年末~21年始)はクリスマスの直前に、自分の現況プロフィルを添えて、4人の方だけに宛ててごあいさつのハガキを送っている。

今回はクリスマスを越して年明けになっても、どうしようかと迷っていた。インターネットが格段に普及したので、従兄弟姉妹たちへのあいさつもメッセンジャーで済ませているのに加え、この年末は結構多忙だったので、紙媒体による時候のあいさつを作成する作業を、いささか面倒に感じていたところがある。

しかし、実際にはそのうち3人の方から年賀状をいただき(いただかなかった1人の方は、むかしの恩師で高齢者)、こちらからも出さないと先方が心配するかも知れないな、何しろ自分もそろそろ安否確認される年齢に差し掛かっているから...(笑)、と気にするようになった。

20220101smaria

そこで、神の母聖マリアの祝日(1月1日)のミサに参列したときの画像を組み込んで、一応年賀状らしいハガキを作成。ご無沙汰へのお詫びを兼ねて、昨日、4人の方へ宛てて送ったところだ。

約20年の間に、送る相手が100人超→4人となったのは、いわば「段階的撤退」であるが、最終的にゼロになるまでは、慣習として続けていこうか、と思った次第である。やめてしまうのは簡単だから。

«みなさん、今年もありがとうございました。

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