つくられた「バカ殿」
徳川家重(1712-61)という将軍(第九代。在位1745-60)がいたことをご存知でしょうか?
この人物、後世の歴史家からは、「発語に障害があり、政治は人任せ」「内にこもっていて、酒びたり」「重臣の処罰が短絡的」などと酷評され、バカ殿、暗君の分類に入れられています。
しかし、私は家重のことを、江戸時代の将軍14人(家康は例外とします)の中でも、一、二を争う明君であったと結論付けています。比肩する明君は徳川綱吉(第五代)でしょうか。綱吉と家重は、国際的にもまれな開明君主であったのです。日本が鎖国状態でなければ、彼らの功績はもっと着目され、高く評価されていたでしょう。
逆に、徳川家光(第三代)や徳川吉宗(第八代)は、明君のように称されていますが、私は決してそうは考えません。むしろこの二人のほうが「バカ殿」に近い存在だったと推測しています。
それでは、家重がなぜ「バカ殿」にされてしまったのか?
一言で言えば、「都合が悪い人たち」の手で歴史が書き換えられた、ということでしょう。
どこかで一度、家重の「リハビリテーション(≒復権)」となる史論を執筆してみたいものだと思っています。
最近のコメント