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2013年5月

2013年5月27日 (月)

「歩くケアマネ」の現実は?(1)

私は、「町を歩くケアマネ」と称されていますが、実態はどうなのか・・・と聞かれることがあります。

本日現在、私のケアマネジメントを利用されている方は32名いらっしゃいますが、統計的に整理してみました。

(1)常に徒歩で訪問 12名

(2)緊急時を除き、バス+徒歩で訪問 3名

(3)徒歩で訪問することが多いが、ときに車を使用して訪問 3名

(4)車で訪問することが多いが、ときに徒歩か、バスや電車を使用して訪問 4名

(5)ほとんど車を使用して訪問 10名

このような数字になります。「歩いて」訪問することが多いのは、(1)(2)(3)のパターンのお宅で、合わせて18名になります。(2)は駐車場所がないお宅で、緊急時は近くの店舗などに車を置いて訪問する(本来はNGですが・・・)形になります。(5)が10名という数字は、車で定期訪問するお宅も結構多いということですが、今後自分自身も加齢とともに「体力勝負」になることを考えると、徒歩で訪問する分量を維持して体力をつけなければならないので、車で訪問する利用者の数をあまり増やすわけにはいかないと、留意しています。

バスや電車を使わずに歩く目安ですが、おおむね片道30分未満のお宅です。この基準は、春や秋の快適な気候の時期も、猛暑の真夏も、厳寒の真冬も、全く変わりありません。徒歩の代わりに自転車を使用する場合もありますが、諸事情によりその頻度は減っています。

また、(4)(5)に該当するであろうと思っても、初回訪問で初めてその地域へ伺う場合(すでにすぐ近くに私のケアマネジメントを利用された方があり、現地の地理がわかっている場合を除く)には、原則として車を使わないようにしています。車で訪問するより、自分の足で歩いたほうが、家の周囲の風景がよく把握でき、アセスメントに有益だからです。

都市部のケアマネジャーの皆さんは、この記事をお読みになって、私のスタイルをご自分のスタイルと比較してみても、面白いのではないでしょうか。

2013年5月19日 (日)

15年ぶりのパスタソース

かつて、浜松地域のカトリック教会でイベントが行われるとき、信者がそれぞれの家庭から料理を持ち寄って、パーティーを開いていました。そのころ、私はにわか作りのパスタ程度しか、持参できる料理がなかったので、レシピ本を見ながら、「何とか食べられる」レベルのソースをその都度作って、パスタにかけて持って行ったことを記憶しています。

開業した後は、日曜日に仕事をしなければならないことが増え、教会から足が遠のいてしまったので、パスタソースを作る機会がないまま、15年も経過してしまいました。

先日、家に買ってあった大豆缶の賞味期限が近づいているのに気が付き、久々にパスタソースを作ってみることにしました。鍋にオリーブ油小さじ2杯を敷いてガーリックを炒め、塩こしょうで味付け。大豆ワンカップと白ワイン4分の1カップを入れ、ふたをして蒸し煮にし、最後にバターを小さじ半分程度溶かして、仕上げたというわけです。

まあ・・・味は悪くなかったのですが、大豆の量が多過ぎましたね。高齢の母はあまり量を食べられませんから、大豆の約7割は自分がパスタと混ぜて食べましたが、一人分であれば、さらにその半量程度が適当だと思いました。もしくは、大豆+他の野菜(ブロッコリーなど)のほうが良かったのかも知れません。

ともあれ、15年ぶりのパスタソースでした。

2013年5月11日 (土)

生活保護受給を「恥ずべき行為」におとしめる「恥ずべき人たち」

2012年4月、ある国会議員による、ある芸能人(高額所得者)の親の生活保護受給への批判を皮切りに、一連の「生保騒動」、そして現政権による保護費切り下げへと、情勢が動いていることは、ご存知だと思います。

ところで、この一連の「生保騒動」、本当はどのような構造だったのか、皆さんは頭の中で整理できているでしょうか?

まず、「不正受給」、あるいは「適正と言えない受給」は、あくまでも個別の受給者に関わる問題です。すなわち、AさんならAさん、B世帯ならB世帯という受給者に対し、自治体の担当部局が適・不適を判断して対処すべき問題です。AさんやB世帯が不適正な受給をしていたからと言って、生保受給者全体が集団として批判されるいわれは全くありません。そもそも、保護基準に該当し、行政が審査の結果、適正と認めた受給については、虚偽や隠蔽が行われていない限り、不正でも何でもありません。

次に、「適正に受給しているが、使途が制度の趣旨にそぐわない」という問題。飲酒したり、パチンコに興じたりするのが、受給者の自立支援に沿っているのかということですね。

これには二つの課題があります。まず、生活保護費の使い方に関する適切な指導が十分になされていないことです。行政のケースワーカーの数は限られており、専門性が高い人ばかりではありません。生保受給者の自立支援に携わるNPOや独立型社会福祉士などの活用も、いまだしといった状況です。この状況で、受給者すべてに聖人君子のような生活を送れなどと要求するのは、全く現実を無視したものです。

もう一つは生保の「補足性の原理」。すなわち、足りない部分を補うという原則です。就労することで収入が生じると、その部分が保護費から削減されます。しかし、実際には受給者が就労できたからといって、すぐに常勤社員になれるわけでもない。ほとんどの人は非常勤の期間雇用という不安定な身分で仕事をして、そこから常勤社員への「昇格」を目指さなければならないのです。その前の時点で保護費を削られてしまえば、スキルアップのためにかけられる費用も確保できず、地位向上も望めず、結局は雇用の調節弁として扱われてしまい、失職を余儀なくされることになってしまう。真の「自立」の段階に至るまでの経過措置期間を支えるシステムが欠如しているのに、「仕事が続かない」受給者の側を批判の対象にすることは間違っています。

さらに、この「生保騒動」、そもそも「騒いで」いるのは誰なのか? という点です。

私は現在、所得税と地方税とを合わせて、年間およそ24万円を納税しています。しかし、私から見るとケタ違いの収入があって、年間2,400万円納めている人もいるでしょう。この高額納税者にとってみれば、自分が納める税金のうち、生保受給者のために「使われてしまう」金額は、私の100倍にもなるわけです。したがって、生保に「ムダな(と称されている)」お金をかけないことが、結局は自分たちの税金をより「有効な(と称されている)」方面に使うことに直結します。

でも、よく考えてみれば、その「有効」な税金の使い途を政策決定している人たちの多くは、高額納税者、もしくはそれに近い人たちなんですよね。その人たちが、自分たちが損をするようなところに、保護費切り下げで浮いた税金の多くを投入するのでしょうか?

また、「生保騒動」を煽った人たち、たとえばテレビのキャスターやコメンテイターなども、その多くは高額納税者です。自分自身が生保を受給している人は、ほとんど世論形成の場面に登場せず、日常の姿を断片的に切り貼りされて(その多くは、報じる側に都合の良いようにですが)テレビや新聞・雑誌で放映され、キャスターやコメンテイターから興味半分に弄ばれている。しかし現実には、大部分の受給者はやむを得ない事情で、否応なく貧困に陥り、生保に頼らざるを得なくなっている。もちろん、そうなった過程には大なり小なり、各自の自己責任も存在するかも知れませんが、そもそも社会保障は貧困に陥った原因を究明して給付を査定するのが趣旨ではないはず。

もう、おわかりですよね? 「生保騒動」演出のどこがおかしいのか・・・。

「生保受給者より少ない収入なのに、受給せずにがんばっている人たちがいる」という「美談」を聞いて、「不適正受給者」に憤りを覚えた方へ一言。本来、公的扶助は「スティグマ(恥辱の烙印)」なく受けられるべきものです。生保を「受給せずにがんばる」動機が、受給することをあたかも「恥ずべき行為」であるかのように印象付けた世論操作から生じているとすれば、これこそ大きな汚点でしょう。そういう環境を作り出した(おもには)高額納税者のほうが、よほど「恥ずべき人たち」ではないのですか?

必要な人に十分な公的扶助が給付され、一人でも多くの人が自立生活に向けて再出発できることを、私は心から願っています。

2013年5月 3日 (金)

なぜ利用者の「認知症」を本人に伝えられないのか?

私が介護業界で働いていて、きわめて不自然に感じる現象がいくつもあります。

そのうちの一つは、多くの支援者(ケアマネジャー、介護職員、医療職員等)が、医師から認知症と診断されている利用者に、面と向かって「認知症」だと告げないことです。

もちろん、インフォームド‐コンセントが重視される時代になったからと言って、すべての対象者にすべての病気をストレートに告げることが適切だというわけではありません。具体的には、がんの告知を受けて気力を失ってしまう可能性が強い人には告知しない例があるでしょう。認知症の高齢者の中にも、自分は絶対違うと否定して、支援者を信用しなくなる人もいるでしょうし、伝えられたことが契機になり、かえって症状を悪化させる人もいるでしょう。精神科の受診を勧めて、拒否する人も結構見かけますから。

しかし、そのような高齢者ばかりではありません。むしろ、自分が認知症であるのならば、その現実を承知した上で、今後の対応方法はどうすれば良いのか、家族や支援者と一緒に考えていこうという高齢者が少なくありません。それなのに支援者のほうが、利用者がいない場所で認知症の話題を出したり、利用者が聞こえないように小声で話したりする場面によく出くわします。

この背景に何があるのか? 当然ですが、利用者が認知症であることを伝えることが「差別」であるかのような感覚を持っている支援者は、伝えないように気を遣うでしょう。それはあたかも当該支援者の一種の罪悪感から発しているように、私には看取されます。

しかし、そもそもの前提が間違っていませんか? 「認知症」という病名がなぜ差別の原因になるのですか? さらに踏み込んで言えば、誰が「認知症」を差別用語にしてしまっているのですか?

言うまでもなく、認知症のことを「ニンチ」と略するなど、かつての「痴呆」と同じ感覚でこの言葉を使っている人たちなんですよ。

一般の人たちが、こういう言葉づかいをする専門職の態度を見聞きすれば、ごく自然に反応して、「ああ、やっぱり認知症になることは忌まわしいんだ」と感じるでしょう。社会問題について学習している途上にある子どもたちならば、「認知症」ではなく「認知症になった人」に対する差別的感覚を心の中に醸成していくでしょう。

逆に、一人ひとりがこういう感覚で言葉を使わないよう心掛ければ、「認知症」をたとえば「胃潰瘍」や「腰椎分離症」と同様な疾患の一種として扱うことに徹すれば、専門職員同士で、「Aさん、ニンチがひどくなったね」のような対話をしないために細心の注意を払えば、差別的感覚は雲散霧消するのではありませんか?

そうなれば、支援者が利用者(一部の例外を除いた多くの利用者)に面と向かって「認知症」の疾患名を伝えることに、何の抵抗も感じないはずです。もともと「認知症」は差別用語でも何でもないのですからね。

私がいま実践しているのは、慎重に言葉を選びながらも、医師の診断が出ている利用者に向き合って、明確に「認知症」であることを伝え、受け止めてもらい、それを踏まえてその人にどのような支援が必要なのか、本人・家族や支援チームのメンバーとともにじっくりと検討し、一人ひとりにとって最善の支援計画を作っていくことです。小さな実践の積み重ねが、いずれは社会を変えていく力になり得ることを信じながら。

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