つくられた暴君(1)
富士山の世界文化遺産登録内定、課題はいろいろ残りましたが、まずは静岡県民としてお祝いを申し上げたいと思います。
ところで、静岡県側(中・東部)から見た富士山、全体がなだらかな曲線ではありません。山の東側(向かって右側)に宝永山があり、稜線を中断する形になっています。そのため、宝永山が富士山を醜くしているという見方をする人たちがいることは、残念でなりません。しかし、この「宝永山差別」は、歴史上のある人物に対する評価の反映だということを、皆さんはご存知でしょうか?
宝永山は、1707(宝永4)年の大噴火のとき形成された山であり、このときの将軍は五代将軍・徳川綱吉(1646~1709、在位1680-1709)でした。この大噴火は当時の人々、特に門閥政治家や儒学者から、綱吉の失政による「天罰」だと評されています。その人たちが綴った史料の影響で、綱吉は人間より犬を大切にしたり、貨幣を改鋳して経済を混乱させたりした「暴君」とされてしまっています。
しかし、私は(徳川家康を除けば、)綱吉と九代将軍・家重(1711-61、在位1745-60)とが江戸時代の二大「明君」だと考えています。家重が「バカ殿」とされてしまっていることについては、少し触れました。それでは綱吉のほうは、どうだったのでしょうか?
その業績を整理する前に、まず、なぜ綱吉が「おとしめられた」のか? その事情を分析してみました。
(1)大樹寺(愛知県岡崎市)の位牌から推測される身長は124~130cmであった〔←障害者差別〕。
(2)四代までの将軍の継承ルールから「外れて」いた。家康(寅年)→秀忠(卯年)→家光(辰年)→家綱(巳年)と、偶然にも十二支の順番で父から子へ継承されていたのに、綱吉は午年ではなく戌年生まれであった。かつ、家綱に男子がなかったため、幕府開設以来初めての、兄から弟への継承であった〔←迷信・陋習による差別〕。
(3)牧野成貞(三河の門閥だが末家の出身)や柳沢吉保(甲斐の武田一門だが末流・小身旗本の出身)を側用人として重用したため、実権を削がれた従来の「閣僚」=門閥出身の老中たちが、小人(しょうじん。君子の反対)による政治であると反発した〔←身分差別〕。
(4)荻原重秀を重用して当時の経済的な需要に合わせた改革を展開し、貨幣改鋳を推進したが、結果として社会情勢にうまく適合せず、混乱を招いたことで、農業を重視する門閥などの旧勢力からの批判が高まった〔←商業蔑視〕。
(5)生類憐みの令により犬をはじめとする動物の保護を実施したのは、「人を斬っても平気」な戦国の余風が残る時代(たとえば水戸藩主・徳川光圀は、正当な理由なくして少なくとも2人を殺している)の空気を一変させ、生命を尊重する思想を浸透させようとしたのだが、これが劇薬となり、一部の知識人から揶揄され、同時に推進した江戸の福祉政策などが過小評価されてしまった〔←一種の風評被害〕。
いかがでしょうか。このうち(2)は、綱吉論でもこれまで注目されたことがない点だと思います。海音寺潮五郎が述べたものですが、海音寺もこの事実を「綱吉蔑視」と結び付けてはいません。
いずれにせよ、綱吉「暴君」説は、いくつかの「差別」が複合されて、門閥政治家や儒学者によって意図的に作り上げられた虚構だと、私は考えています。続きは日を改めて論じてみましょう。
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