ヴェルディ歌劇の面白さ(3)
22日(土)、大阪のいずみホールで歌劇「シモン・ボッカネグラ」を鑑賞してきました。今年はヴェルディの複数作品の鑑賞を目標にしていたのですが、地元浜松のアクトシティで日程が近い24日に上演された、ハンガリー国立歌劇場引越公演の「椿姫」と、どちらにするか悩みました(どちらも営業日で多用なため)。結局、今後もめったに上演されないであろう「シモン」のほうに決めたのが、この3月のことです。
指揮は河原忠之(敬称略、以下同)、演出は粟国淳。キャストはシモーネ(シモン-ボッカネグラ)が堀内康雄、ヤコポ-フィエスコ(アンドレア)が花月真、アメーリア(マリア)が尾崎比佐子、ガブリエーレ-アドルノが松本薫平、パオロ-アルビアーニが青山貴、ピエトロが萩原寛明。
この作品は、ヴェルディの中・後期の作品の中で、「イタリア」を舞台・テーマにした唯一のものです。「リゴレット」は事情によりマントヴァに場を移していますが、原作はフランス王を主役にしたフィクションに基づいています。「シチリアの晩鐘」はイタリアが舞台であるとは言え、シチリア人がフランスの支配に抵抗する内容の台本をパリの劇場側作家から押し付けられ、ヴェルディ自身が不快感を抱いていました。「運命の力」はおもな舞台がスペインなので、イタリアの地が登場するのは第三幕の一場面のみです。「オテロ」は登場人物の多くがイタリア人ですが、当時ヴェネーツィア領だったキプロスは現在イタリア文化と縁が薄い独立国です。ですから、ジェノヴァを舞台にした「シモン」は、ヴェルディ後半の傑作の中で、かなり特異な位置を占めています。
ドラマでは、14世紀ジェノヴァの総督(平民出身)シモーネと貴族派代表フィエスコ、男と男の憎しみと和解が見せどころ、聞かせどころです。数多くのオペラではテノールの男性とソプラノの女性との恋愛がドラマの中軸になっています(「椿姫」などヴェルディの作品の大部分も同様ですね)。しかし、この作品の中軸はバリトン(シモーネ)とバス(フィエスコ)の男声同士の対話なのです。テノール(アドルノ)とソプラノ(マリア)は愛すべき脇役にとどまっている一方、もう一人のバリトン(パオロ)が悪役として存在感を示しています。そのため、全体が地味で重厚な味を醸し出しており、玄人向きのオペラと言えるでしょう。
その視点から今回の上演を眺めてみましたが、世界で活躍する名歌手の堀内と、宗教的な背景の重みを持つ(浄土真宗僧侶でもある)花月との掛け合いは、観客を十分に満足させる名演でした。特に第一幕の貴族派・平民派が対峙する場面で、堀内演じるシモーネが歌う「e vo gridando pace ! e vo gridando amor !(私は平和を、愛を訴える)」の一節は、鳥肌が立つほどの熱唱。こういう芸術体験には、普段めったに出会えるものではありません。
会場にはオーケストラ-ピットがなく、そのため管弦楽の音響が大きめでしたが、河原の指揮は奇をてらわないオーソドックスな解釈に従うもので、楽曲の美しい部分を十分に引き出す「緩急所を得た」演奏だったため、じっくり腰を落として聞き入ることができました。
舞台は、オーケストラの向こう側の限られたスペースを活用するものであったため、粟国の演出にもやりにくい面が多かったのではないかと思います。黒子の女性たちがチェスの駒を移動することで、上流階層のプライバシーが政略ゲームに翻弄されるさまを示した解釈には一応納得できましたが、中央の赤い駒がシモーネの総督位を示しているのが理解できる程度で、他の駒一つひとつの動きが何を意味しているのかわかりにくく、結果としては、いささか演出家の自己満足に終わってしまった面が無きにしも非ずかな、と感じました。本来なら「群衆」として主要人物たちと一緒に行動すべき合唱団を、構造の関係で左右の階上に配置せざるを得なかったのも、遺憾な点です。
全体としては、制約があったにもかかわらず、それを乗り越えた秀逸な上演だったと評価できます。お金と時間をかけて鑑賞しただけの価値は十分にあり、良い保養になりました。
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