浅き夢見じ?
NHK木曜時代劇で、ジェームズ三木氏脚本の「あさきみめみし」というドラマを放映しているようです。これは「いろは歌」の終わりのほうに出てくる文句ですが、ふと思ったのは、これはもともと「浅き夢見し」「浅き夢見じ」のどちらだったんだろう? という疑問です。
色は匂(にほ)へど 散りぬるを
我が世 誰ぞ常ならむ
有為(うゐ)の奥山 今日(けふ)越えて
浅き夢見し(?) 酔(ゑ)ひもせず
おそらく文法的にどちらが正しいかと言えば、「見じ」のほうなのでしょう。いろは歌の成立は遅くとも平安朝中期であり、当時の古代日本語の終止形は「見き」になると思われます。作者がだれかはともかく、この定説に基づいて推論すると「見し」ではなく「見じ」、すなわち、「浅き夢見じ酔ひもせず」で、「浅はかな夢など決して見ない、(世間の俗事に)酔いもしない」という意味になるのですね。
しかし他方で「見し」説が捨てがたいのも確かです。何しろ47字を一文字ずつ使って一つの思想を表す(仏教の諸行無常の教えであると言われますが、必ずしも断定できず、思想背景には諸説あります)という至難の詩作です。表現に無理が生じたとしても理解できないことではありません。もし「見し」という言葉がすでに俗語としてでも使われていたのを、作者がそのまま使用したと仮定すれば、「浅き夢見し酔ひもせず」で「浅はかな夢を見てしまったなあ、もうこれからは(世間の俗事に)酔わないぞ」の意味であった可能性が考えられるのです。
海音寺潮五郎の作品に「浅き夢見し」という小説があります。これは江戸時代前期の流転の公子、田中半蔵を描いた短編ですが、海音寺の短編集には「浅き夢見じ」の解釈にも言及した上で、主人公が自分の半生を「浅き夢見し」と振り返ったことを注記してあります。
たった一文字の発音をめぐる解釈の違いですが、切り込んでみると奥深い味わいがあるようです。
« 「きりすて教」信者の人間に告ぐ! | トップページ | 大名華族の爵位区分 »
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- 「迷惑行為」の源流(2023.03.12)
- 「62の手習い?」(2023.01.28)
- 子どものケンカ???(2022.09.28)
- あれから20年(2022.02.09)
- 「段階的に撤退」(2022.01.09)
「国語」カテゴリの記事
- 応援してくださった方々に感謝☆(2022.10.02)
- ようやく開講して思ったこと(2021.12.04)
- まもなく開講☆(2021.06.15)
- 備えあれば(2019.10.16)
- ところ変われば...(2018.01.20)
コメント