大名華族の爵位区分
明治時代から昭和の戦前まで、日本の華族(貴族)には世襲の爵位がありました。公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五等です。華族のうち「新華族」と呼ばれるのは、明治の元勲をはじめとした、維新以降に功績があった人たちですが、「旧華族」の多くは旧公家と旧大名です。
このうち、旧公家の家格と爵位との対応関係はわかりやすいものです。摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)が公爵、清華家が侯爵、大臣家と、羽林家・名家のうち大納言常任の家が伯爵、その他の堂上家が子爵、新興の分家や地下家上座が男爵です。これに明治維新の功績が勘案され、三条家や岩倉家が公爵になるなど、一部の家が例外的に昇叙されています。
これに対して、旧大名の爵位はどうでしょうか。公爵は徳川宗家(旧将軍家)と維新の中核になった島津家(薩摩藩)・毛利家(長州藩)。しかし侯爵から子爵までの境界線はわかりにくい面があります。たとえば表高32万3950石の藤堂家(津藩)が伯爵なのに、表高25万7900石の蜂須賀家(徳島藩)は侯爵。また表高15万石の榊原家(高田藩)が子爵なのに、表高12万石の酒井家(庄内藩。一時朝敵とされて減封)が伯爵といった具合で、石高と爵位の対象が比例しない場合があるかのように見えます。
実は、大名華族の爵位の基準は、表高ではなく現米(収納高)だったのです。たとえば実高1万石の大名が、四公六民の標準通りに40パーセントを年貢として取り立てると、その年の現米は4,000石ということになります。この現米が爵位の基準になっています。
上記の例で見ると、藤堂家は現米124,270石、蜂須賀家は現米193,173石です。侯爵と伯爵との境目は、現米15万石を基準にしましたから、藤堂家は伯爵、蜂須賀家は侯爵となります。また榊原家は現米48,410石、酒井家は現米69,379石で、伯爵と子爵との境目は、現米5万石を基準にしましたから、榊原家は子爵、酒井家は伯爵となります。もちろん、戊辰戦争で大きな功績があった大名は一段階昇叙されています。
現代の私たちが判断すると、収納高が少ない=年貢率が低い藩のほうが、おおむね善政を施していたと思われるのですが、明治新政府の要人にはそういう感覚がなかったのでしょうかね。貧富の格差がどんどん広がっているのに、経済効果を期して消費税率をひたすら吊り上げようとする官僚たちの感覚とオーバーラップするようにも思えるのですが・・・。
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収入が多い順に爵位、普通だと思いますねえ。
3公の5万石が公爵、5公の100万石が子爵ってのも変だと思いますが。
投稿: らむね | 2021年2月17日 (水) 10時23分
らむねさん、コメントありがとうございます。
実際には起きませんでしたが、極端に言えば確かにその可能性もあったわけですね(^^;
正直、当時の政治指導者の感覚には理解し難い部分もあります。
投稿: John Trabutta | 2021年2月25日 (木) 08時11分
久しぶりに巡回してましたら、返信コメントありがとうございます。
貴族性そのものが現代日本の感覚には無いので想像しづらいですが、当時の日本が参考にしたであろうヨーロッパの貴族制にしたところで、爵位の上下には身分の上下だけでなく領地の広さ(収入)の上下も大きく影響していたはずです。小集落の公爵とか、広大な領地を持つ男爵とか、いないんじゃないでしょうか。明治政府が、大名の爵位を石高を原則に決めたのは十分合理的だと思います。
投稿: らむね | 2021年7月12日 (月) 19時40分