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2013年11月

2013年11月27日 (水)

鉄道事故判決の裁判官非難は筋違い

2007年12月に認知症の高齢者が線路に入り込み、JR東海の電車にひかれて死亡した事故で、今年8月、名古屋地裁は遺族に720万円の損害賠償を命じる判決。衝撃を受けた介護関係者の世論は、裁判官への非難の嵐。中には「こんな裁判官は罷免せよ!」と、上級裁判所へ要望書まで送りつけた、という介護関係者もあるようです。

こういう愚かな行動はやめましょう。この裁判官は絶対に必要です。罷免要求などもってのほかです。そもそも、弾劾裁判の罷免事由(著しい義務違反、甚だしい職務怠慢、威信を失う非行)にも全く該当しませんから、送りつけてもただの紙切れとして保管されるだけでしょう。時間と労力の無駄です。

過去の判例をこの人の名前でネット検索すると、まず、すぐに引っかかるのは、2001年、あの薬害エイズ事件で、故・安部英氏に無罪判決を出したという経歴です。多くの人はこれを見ただけで短絡的に反応してしまうから、さっそく「強い者の味方で、弱い者いじめをする、血も涙もない裁判官だ!」と類型化。だから「辞めさせろ!」になってしまう。

この判断根拠は根本的に間違っています。薬害エイズ事件は刑事事件であり、民事事件ではありません。刑事裁判である以上、その罪に一点でも疑わしい部分があれば、「推定無罪」の原則に従うのは裁判官として当然の態度であり、何ら非難されるべきことではありません。そもそも、誰が見ても安部氏が有罪であることが明々白々な証拠を提示できなかった、検察の力の限界(医療絡みではよく起こることです)を指摘すべきであって、裁判官の責に帰して非難するのは誤りです。民事裁判とは明確に分別して理解しなければならないのです。

自分から情報を獲得しようとせず、受動的な情報流入に頼っているから、こういう間違った判断をしてしまうのです。

それでは、この裁判官は「民事裁判」でどのような判決を下したのでしょうか? 私が調べた範囲で、最近のものを二件挙げてみます。

【2011年3月、25歳の男性が業務上のストレスから大量に飲酒して死亡し、遺族が勤務先に1億円の損害賠償を求めた事案で、この裁判官は過労による男性の著しい心理的負荷を認め、会社に6000万円の賠償を命じた】

【2013年4月、70代の女性が高リスクの金融商品取引で、証券会社の説明責任が不十分だったことが原因で多額の損失を招いたとして、1億3900万円の損害賠償を求めたのに対し、この裁判官は女性の経済知識の欠落に対する説明責任の不備を指摘して、4100万円の賠償を命じた】

いかがでしょうか? いずれも請求した当人側の責任もあるとして減額はしていますが、損失を生じる原因を作った側に、しかるべき額の賠償責任を認める判決になっているのです。

「損失」というものは、それが個人であろうが、企業であろうが、被ってしまった側が泣かなければなりません。神さま仏さまのような善意の人が手を差し伸べて小判の雨を降らせ、穴埋めしてくれることは通常起こりません。損失を生じる事案を引き起こした側が補填しない限り、被った側は「泣き寝入り」しなければならない。この裁判官は「被害者」が「泣かなければならない量」をなるべく少なくするという原則を貫いています。それがこの人の司法官としての基本的姿勢なのでしょう。

ですから、この人のような裁判官は、民事の法廷において絶対必要なのです。「損失の原因を作った側」には常に賠償責任が生じるのだ、という原則を確認したことには、たいへん大きな意義があるものと考えます。JR東海も企業であり、事故による損失が生じる以上、事故を引き起こした故人に対して賠償を請求するのは当然であり、その権利が不当に制約されるべきではありません。家族による「事故防止努力」はたいへんな労力を要したことは、察するに余りあるほどですが、現実に事故が起こってしまった以上、故人の遺産を相続した遺族には、故人が引き起こした事故による損失を、代わって賠償する責任が生じます。

ただし、私も今回の判決が妥当であるとは決して思いません。裁判官の姿勢は姿勢、原則は原則でありましょう。しかし、認知症高齢者をめぐる社会問題の深刻さや、支え手の絶対的な不足を考慮した場合、またJRの企業としての地位・経済力や社会的責任の重さを、一市民である故人や遺族のそれと比較した場合、非常に偏った判決であると評価しています。

その意味で言うと、「裁判官非難」は筋違いですが、名古屋地裁という機関の「司法判断に対する批判」は当然していかなければなりません。そのような趣旨の要望書を関係筋に送ることは、大いに励行しましょう。家族の会などの団体を通して運動しても良いですね。

他方、上級審で賠償額が帳消しまたは減額された場合、それではJR東海が受けた損失は誰が補うのか、という課題が生じることも現実です。そのための損保システム整備などの検討も急がれると思います。

今後、控訴審や上告審で、上述したような均衡に配慮した判決が出されることを期待しましょう。それまでの間に、家族や介護サービス職員が過敏反応して、昨年の兵庫県の事案(これは判決の前でしたが)のように、徘徊がある認知症の利用者の自宅に外から鍵を掛けてしまうようなバカな行為に走るのは、絶対にやめてください。それは高齢者虐待にほかならない。

私たちは上級審の判断の行方を冷静に見守りながら、まずは一人ひとりの認知症高齢者のリスクを極小化することに心がけ、他方、それぞれの地域で形成可能な、見守りシステムの構築に努力するのが本筋だと考えます。

2013年11月19日 (火)

つくられた暴君(2)

リチャード3世、中世のイングランド国王(1452-85、在位1483-85)。昨年、英国のレスターで遺骨が発見されたことで知られています。この人はシェイクスピアによって「悪人」のレッテルを貼られてしまった人物。残忍な暴君で、容姿も醜悪な人として、おとしめられています。

彼は特に、ヘンリ6世、エドワード5世と二人の国王を殺害した張本人とされていますが、実はこの「殺害」、いずれも証拠はありません。どちらの王に対してもリチャードが「幽閉」に加担した事実はありますが、「王殺し」の汚名を着せられるいわれはない。これは新王朝であるテューダ朝の、いわば御用作家であったシェイクスピア(トマス‐モアやホリンシェッドもこの「仲間」)が、前王朝であるヨーク朝のリチャードを悪王として評価を低落させる必要があったため、残虐な行為をすべて彼の責に帰してしまったことによるものです。

そのリチャードを敗死させてテューダ朝を創設したヘンリ7世(1457-1509、在位1485-1509)は、プランタジニット朝の国王エドワード3世(1312-77、在位1327-77)の四男、ジョン‐オヴ‐ゴーントの玄孫になります。系図上から見ると、ヘンリ7世が一族の間の抗争を勝ち抜いて王位に即いたとしても、正統性には何の問題もないように思われます。

ところが、ここに意外と知られていない事実が。ジョンの子どもたちのうち、ヘンリ7世の曽祖父に当たるジョン‐ボーフォートなど4名は、異母兄であるヘンリ4世との協定によって、王位継承権を放棄していたのです。ということは、その子孫であるヘンリ7世も王位を継承する資格はない。すなわち、彼は「簒奪者」であったのですから、リチャード3世を「国王に値しない人物」と決めつけないと、自分の王位を正当化できない状況にあったのですね。

現実のリチャード3世は、短い治世でありながら、すぐれた統治者として知られ、議会の議決を経ない臨時献金徴収の廃止や、紋章院の創設などの業績があった人物です。不運にも、イングランドの正当な王朝最後の君主になってしまったために、簒奪者から「悪王」に位置付けられてしまったというわけです。

まさに日本の徳川綱吉と同じく、「つくられた暴君」と言うことができるでしょう。

2013年11月11日 (月)

どこまでが「親戚」?

総務大臣だった鳩山邦夫氏が三年ほど前に、自分のことを「坂本龍馬の親戚」と発言して話題になりましたが、当の龍馬側の身内(龍馬の姉の子孫)からは反発を受けたようです。

さて、歴史上の著名人の真正な「子孫」ならともかく、何か係累を誇ろうとすると、「親戚」を振りかざす人たちがときどき見られるのですが、いったいどこまでが「親戚」の許容範囲なのでしょう? 鳩山氏と龍馬とは、間に二家族をはさんでいます。これでも華やかな閨閥の世界では、「親戚」に当たるのでしょうか?

もしそういうことであれば、私自身もとんでもない人の「親戚」になってしまうんです。

豊臣秀吉の正夫人・ねね(北政所)は尾張烏森城主・杉原家の出身でした。ねねの兄弟や甥たちは、皆、木下の名字を称し、そのうち二軒は大名(備中足守、豊後日出)となって明治まで続き、どちらも華族になりました。一方、烏森の所領はねねの従弟・杉原長房が継承し、長房は但馬豊岡の城主になりましたが、嫡流は後継者がなく断絶しました。

杉原家は長房の(庶流の)孫の代に、江戸幕府の旗本になった系統と、烏森城の跡地に館を構えて郷士(広義の尾張藩士)になった系統に分かれました。烏森の杉原家は代々その地を守って近代に至りましたが、その杉原家に戦前、私の伯母(故人)が嫁ぎ、その子である私の従兄は、烏森で整骨院を運営しています。

つまり、「間に二家族をはさんでも親戚」であれば、私は秀吉の親戚になってしまうんですね。

もちろん、通常の感覚ではこれは「他人」と言うべきでしょう。私自身も別に秀吉の親戚であろうがなかろうが、どちらでも全く構わない話です。業界における自分の今のポジションは、そのような縁故関係とは無関係に得ているものですから。

自分に自信のない人ほど、「○○の親戚」を振りかざすものなのかなあ、と、改めて思いました。

2013年11月 3日 (日)

「目線の方向」は?

ケアマネジャー(介護支援専門員)研修における演習指導。グループワークの中でロールプレイが演じられるとき、私がいつも着目していることがあります。

それは参加者の「目線の方向」です。(本来は「視線」。「目線」は映像関係の業界から発展した俗語ですが、慣用に考慮して「目線」で統一します)

ロールプレイでどの役を担当するにせよ、気になるのはその「目線」がどちらを向いているのか? ということ。これは私たちの仕事の根幹に関わる問題です。

演習の場で結構多くみられるのが「ケアマネのほうを見ている」ケース。ロールプレイの司会はケアマネ役の人になりますから、自然に起きやすい現象でしょう。

それに次いで多いのは、「家族のほうを見ている」ケースです。特に家族役の人が語り上手で、介護負担などについて延々と語るようなときに、多くの参加者の目線がそちらに釘付けになってしまい、肝心の「利用者」の表情をほとんど窺わないというケースがたいへん多い。

残念なことに、これが介護現場の現実を反映していると言わざるを得ません。主任ケアマネジャー級のベテランでさえも、家族の意見ばかり聞いて当の利用者本人はそっちのけ、などという事例を耳にすることが少なくないのが現実です。それが「アビューズ(≒行政用語の「虐待」)」を助長してしまうことも。

施設入所に当たってケアマネジャーや相談員が自宅へ面談に行っても、家族のほうにばかり説明して、当の利用者には十分な説明をしていないことは少なくありません。認知症の人であろうが意思疎通が十分にできない人であろうが、「施設に入る」のは利用者本人なのですから。そこで「行きたくない」という表示が返ってきたとしても、どのように納得してもらうかがプロの技術。特殊な困難ケース等の例外を除けば、施設ケアマネ(または相談員)はきちんと本人に説明する責任があります。

家族からでも事業者からでもケアマネジャーからでも、私が相談を受けた場合、どうやら家族本位の状況なのかな、と感じられる事例については、こんな反問をしてみます。

「どなたが主役なんですか?」

さまざまな事情を抱える家庭がありますから、完璧にこなすのは難しいのが現実かも知れませんが、支援者の姿勢としては、ふだんから心したいものです。

(『口のきき方で介護を変える!』の21~23ページに、関連する講話を載せておきました)

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