鉄道事故判決の裁判官非難は筋違い
2007年12月に認知症の高齢者が線路に入り込み、JR東海の電車にひかれて死亡した事故で、今年8月、名古屋地裁は遺族に720万円の損害賠償を命じる判決。衝撃を受けた介護関係者の世論は、裁判官への非難の嵐。中には「こんな裁判官は罷免せよ!」と、上級裁判所へ要望書まで送りつけた、という介護関係者もあるようです。
こういう愚かな行動はやめましょう。この裁判官は絶対に必要です。罷免要求などもってのほかです。そもそも、弾劾裁判の罷免事由(著しい義務違反、甚だしい職務怠慢、威信を失う非行)にも全く該当しませんから、送りつけてもただの紙切れとして保管されるだけでしょう。時間と労力の無駄です。
過去の判例をこの人の名前でネット検索すると、まず、すぐに引っかかるのは、2001年、あの薬害エイズ事件で、故・安部英氏に無罪判決を出したという経歴です。多くの人はこれを見ただけで短絡的に反応してしまうから、さっそく「強い者の味方で、弱い者いじめをする、血も涙もない裁判官だ!」と類型化。だから「辞めさせろ!」になってしまう。
この判断根拠は根本的に間違っています。薬害エイズ事件は刑事事件であり、民事事件ではありません。刑事裁判である以上、その罪に一点でも疑わしい部分があれば、「推定無罪」の原則に従うのは裁判官として当然の態度であり、何ら非難されるべきことではありません。そもそも、誰が見ても安部氏が有罪であることが明々白々な証拠を提示できなかった、検察の力の限界(医療絡みではよく起こることです)を指摘すべきであって、裁判官の責に帰して非難するのは誤りです。民事裁判とは明確に分別して理解しなければならないのです。
自分から情報を獲得しようとせず、受動的な情報流入に頼っているから、こういう間違った判断をしてしまうのです。
それでは、この裁判官は「民事裁判」でどのような判決を下したのでしょうか? 私が調べた範囲で、最近のものを二件挙げてみます。
【2011年3月、25歳の男性が業務上のストレスから大量に飲酒して死亡し、遺族が勤務先に1億円の損害賠償を求めた事案で、この裁判官は過労による男性の著しい心理的負荷を認め、会社に6000万円の賠償を命じた】
【2013年4月、70代の女性が高リスクの金融商品取引で、証券会社の説明責任が不十分だったことが原因で多額の損失を招いたとして、1億3900万円の損害賠償を求めたのに対し、この裁判官は女性の経済知識の欠落に対する説明責任の不備を指摘して、4100万円の賠償を命じた】
いかがでしょうか? いずれも請求した当人側の責任もあるとして減額はしていますが、損失を生じる原因を作った側に、しかるべき額の賠償責任を認める判決になっているのです。
「損失」というものは、それが個人であろうが、企業であろうが、被ってしまった側が泣かなければなりません。神さま仏さまのような善意の人が手を差し伸べて小判の雨を降らせ、穴埋めしてくれることは通常起こりません。損失を生じる事案を引き起こした側が補填しない限り、被った側は「泣き寝入り」しなければならない。この裁判官は「被害者」が「泣かなければならない量」をなるべく少なくするという原則を貫いています。それがこの人の司法官としての基本的姿勢なのでしょう。
ですから、この人のような裁判官は、民事の法廷において絶対必要なのです。「損失の原因を作った側」には常に賠償責任が生じるのだ、という原則を確認したことには、たいへん大きな意義があるものと考えます。JR東海も企業であり、事故による損失が生じる以上、事故を引き起こした故人に対して賠償を請求するのは当然であり、その権利が不当に制約されるべきではありません。家族による「事故防止努力」はたいへんな労力を要したことは、察するに余りあるほどですが、現実に事故が起こってしまった以上、故人の遺産を相続した遺族には、故人が引き起こした事故による損失を、代わって賠償する責任が生じます。
ただし、私も今回の判決が妥当であるとは決して思いません。裁判官の姿勢は姿勢、原則は原則でありましょう。しかし、認知症高齢者をめぐる社会問題の深刻さや、支え手の絶対的な不足を考慮した場合、またJRの企業としての地位・経済力や社会的責任の重さを、一市民である故人や遺族のそれと比較した場合、非常に偏った判決であると評価しています。
その意味で言うと、「裁判官非難」は筋違いですが、名古屋地裁という機関の「司法判断に対する批判」は当然していかなければなりません。そのような趣旨の要望書を関係筋に送ることは、大いに励行しましょう。家族の会などの団体を通して運動しても良いですね。
他方、上級審で賠償額が帳消しまたは減額された場合、それではJR東海が受けた損失は誰が補うのか、という課題が生じることも現実です。そのための損保システム整備などの検討も急がれると思います。
今後、控訴審や上告審で、上述したような均衡に配慮した判決が出されることを期待しましょう。それまでの間に、家族や介護サービス職員が過敏反応して、昨年の兵庫県の事案(これは判決の前でしたが)のように、徘徊がある認知症の利用者の自宅に外から鍵を掛けてしまうようなバカな行為に走るのは、絶対にやめてください。それは高齢者虐待にほかならない。
私たちは上級審の判断の行方を冷静に見守りながら、まずは一人ひとりの認知症高齢者のリスクを極小化することに心がけ、他方、それぞれの地域で形成可能な、見守りシステムの構築に努力するのが本筋だと考えます。
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