日本人の心に根付いた「儒教思想」の影響(1)
6月18日、東京都議会で、女性都議が質問中、セクハラに該当する複数のヤジが飛んだ。女性都議はこれを苦痛として、ヤジ発言者の特定を要求。声紋鑑定まで実施していたところ、その最中に一人の男性都議が、最初のヤジを認めて女性都議に謝罪した。その他のヤジについては、女性都議側の会派などが現在調査中である。
・・・と、まあここまでは良い。
問題はそのあとだ。
この女性都議がかつてテレビのバラエティ番組に出演していたこと、その後も道義的に問題とされるプライベートな行為があったことが、メディアにより取り上げられ、結果的に女性都議は複数のコメンテイターから批判を受けることになった。
この一連の批判をネットやTVで見て、「またか・・・」の感が拭えない。と言っても、女性都議が「結局その程度の品格の女性だった」という意味では全くない。むしろ逆だ。
つまり、「セクハラに該当するヤジが発せられた」原因を、そのヤジの攻撃対象だった女性側に求めるコメンテイター側が、問題だと言っているのである。
ズバリ、この原因は「儒教」である。
(★念のため、筆者には決して、孔子や孟子の思想を崇敬する人や、葬祭や先祖供養を儒礼により行っている人を、不当に差別する意図はないことをお断りしておく。ここで言及するのは、あくまでも前近代の伝統的な儒教思想である)
自分の著書からだが、引用しておこう。
〔読者の周囲にも、こんな人はいないだろうか? (中略) 男女の愛憎が絡む犯罪や不倫の話題になると、決まって女性側を批判する年配の男性職員(『介護職の文章作成術』P.99)〕
実はここで私が「男性職員」と書いたのは不十分であった。女性にもこういう傾向の人はいる。今回、女性都議を批判したコメンテイターの一部は保守的な女性である。
これは「男尊女卑」のバリエーションだ。「身分差別」と連動した男尊女卑と表現しても良いかも知れない。
たぶん、多くのコメンテイターも、その御説を聞いている市民も、これが「男尊女卑」「身分差別」だとは意識していないだろう(←意識して発言していたら、そのほうが大問題だ!)。一部特殊な社会を除き、男女平等、四民平等が世界の共通原理であるはず(→「男尊女卑」「身分差別」は時代遅れ)との錯覚が、一般的な日本人の常識を支配しているのだから。
しかし、これは「男尊女卑」「身分差別(君子と小人との)」を規定した儒教思想の底流が、「当の日本人が気が付かないほど、当たり前の感覚になってしまっている」と考えるべきであろう。江戸幕府が朱子学を公式な教学と位置付けてから400年。橋本治氏や井沢元彦氏は、日本人の心の中に「儒教」が深く根を張っている状況について論じている。詳しくは、これらの方々の著作をお読みいただきたい。
今回の女性都議批判においても、当人の経歴や私生活上の問題がスキャンダラスに報じられたことによって、ヤジの被害者であるべき人物が、「被害を受けた側にも問題がある」と言われんばかりの状況になっている。
これは全くの誤認である。あくまでも「お前が結婚しろよ!」のヤジはセクハラである。東京都議会という公的な場で発せられることは決して許されない。そのあとのヤジについても、正確な発音が分析され、セクハラに該当する内容が含まれていたのであれば、同様だ。ヤジで苦痛を受けた女性のプライベートな経歴とは、全く別の問題である。
このヤジ騒動が公開されたことにより、東京や日本の恥をさらしたとすれば、恥ずべき発言をした側が深く反省するのが当然である。被害者側にその責を問うのは間違っている。
ここで、女性都議のプライバシーが叩かれたということは、女性、特に「この種の経歴を持つ女性」に対する差別感情が強く作用しているとしか考えられない。裏を返せば、「品行方正(儒教的な意味で)」な女性として生きてきた人に対しては、無意識的な差別感情は表出されにくい。
一年ほど前、「誰かを叩かなければ気が済まない人たち」のエントリーで、安藤美姫氏の出産について触れたときには、儒教に言及しなかったのだが、要因は同じところにあるのだろうな、と思う。他方で、過去、歌人の俵万智氏が同様に「未婚の母」として出産したときには、批判的なコメントは非常に少なかった。コメンテイターは無意識のうちに、(儒教的な意味で)俵氏を「君子」、安藤氏を「小人」の部類に分別していた可能性が強い。もちろん、そのような「身分差別」が愚かであることは言うまでもない。筆者は安藤氏を俵氏と同様に、自分らしい生き方を貫く女性として尊敬している。
残念ながら、儒教思想の影響を理解していない知識人は、実に多いのである。
日本の社会保障が、前近代的な要素を脱し切れていない大きな原因の一つも、ここにありそうだ。
(次回に続く)
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