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2014年7月

2014年7月31日 (木)

シマを作るな! 引き出しを作れ!

昨30日、浜松市医療及び介護の連携連絡会に、ケアマネジャーの代表として出席してきた。業界のIPWを推進する市の公式な会議である。

後半、「多職種連携を進めるにはどうしたら良いか」についての意見交換があった。いろいろな意見が出ているうちに、「懇親会」の話になったので、一言。

「懇親会やっても、シマを作っちゃうんじゃ、意味ないですよね」

三年前の話。浜松市医師会が生命倫理をテーマに多職種向けの講演会(講師は箕岡真子医師)を開催し、終了後に懇親会の席を設けてくれた。医師だけでなく、ケアマネジャー、看護職、リハビリ職なども多数参加した。

問題は、そのときのテーブル地図だ。

看護職とリハビリ職とが、勤務ケアマネと一緒に、お料理が並ぶ台から奥のほうの、三つぐらいのテーブルを占有していた。

他方、医師たちはおおむね台から入口へ向けて手前側に陣取り、開業型のケアマネやサービス事業経営者の多くは、そちら側の四つほどのテーブルを囲んでいた。

私自身はどちらのテーブルに居ても良かったのだが、そのときは初対面の医師と話したい希望があったので、おもに手前側のテーブルで、ときに奥の側へ出向いて飲食していた。

そして・・・両方のシマの間で、参加者が相互に行き来することは、たいへん少なかったのである。

面白かったのは、Aさん(市内の地域包括では指導的な立場の一人)と、Bさん(市内で居宅介護支援を展開し、とある分野では広く知られた指導的な立場の人)とが、それぞれ周囲に取り巻きのような塊を作ってしまい、(私が見落としていなかった限り)最後まで二つの塊は接近することはなかった。会場入りしたときから立てていた「仮説」が見事に当たった形だ。笑っちゃいましたね。

まあ、AさんもBさんも私と同年代の女性だ。水と油なのかも(^_^;)。たぶん今もね。

しかし、これで良いはずがない。そもそも、本当の多職種連携は、異なるフィールドの専門職が互いに尊重し合うことから始まらなければならない。その点から考えれば、AさんとBさんは、どちらも業界の指導者としての資質に欠けている可能性もある。

また、この二つの塊に属さない参加者にも、普段話さない種別の人たちともっと交流してほしかった。特に医師と談笑していたケアマネジャーはおおむね自営のケアマネ(居宅単独型も事業型も含め)だったことは象徴的だ。医師には開業医が多いし、勤務医も研修医を除けば医療機関で自立した職位を持っている。他方、少なからぬケアマネジャーが単なる被用者の位置に置かれ、主体的な行動を取りにくい立場に置かれている。

しかし、立場がどうであれ、業界では勇気を持って自分から人間関係を広げていかなければ、実のある連携は築けないであろう。いつも同じ人たちと話していても、日常業務に益するものではない。その意味で、勤務ケアマネの皆さんには、進んで医師や多くの職種の人たちと交歓する姿勢を持ってほしいものだ。

また、それのみならず、シマを作ってしまうことは大きな学びの機会を逸することになる。

たとえば上述した懇親会には、産婦人科の医師が5人参加していた。私はそのうち3人と知り合いで、残りのうち1人ともあいさつ程度は交わす間柄だ。ところが残念なことに、参加していたケアマネ、看護職、リハビリ職が産婦人科の医師と語っていたところを、ほとんど見かけなかった。

ふだん、おもには高齢者や障害者の医療に携わる職種であっても、いやそれだからこそ、部門違いの周産期医療とか婦人科(女性特有の疾患)の医療に関する話を仕入れることは大切だ。医療も(福祉も同じだが・・・)縦割りで分かれているのではなく、異なる分野が絡み合って社会保障全体を構成しているのだから、自分の専門外のところで何が起こっているのか、知識を獲得することにより、自分の新たな引き出しを作ることができる。

業界の皆さん、シマを作って損するより、引き出しを作って得しようではありませんか!

2014年7月 7日 (月)

日本人の心に根付いた「儒教思想」の影響(4)

(前回から続く)

ここまで、儒教思想のおもな影響をいくつか例示しながら、全体を総覧してみたところである。

私たち日本人は明治以降、欧米の近代化に学ぶべく、伝統的な思想の中にある「負」の部分を消し去り、近代合理主義を取り入れるために努力してきた。

しかし、明治維新から150年近くを経過しても、その効果は十分ではない。これを「和魂洋才」と言えば聞こえが良いのだが、実はその「魂」には、伝統的な儒教思想が根付いており、それが時として私たちの言動を左右するものになっている。

これまでの三回のエントリーで、私があえて「意識しておらず」「善意から」との表現を用いたのにお気付きだろうか? 実際、儒教の呪縛は私たちが気が付かない、空気のような当たり前の存在になってしまっているのだ。

たとえば、多くの日本人にとって、江戸時代後期の政治家・松平定信(1758-1829)はいまだに「賢人」、田沼意次(1719-88)はいまだに「悪人」なのである。開明政治家であった意次をおとしめる人たちの思考が「商業蔑視」や「身分差別」に由来していることは、故・大石慎三郎氏などの心ある論者によって論証されている。私がフツーに見るところ、定信はコチコチの朱子学者であり、反動政治家である。日本が欧米列強に立ち遅れ、国際的な視野を持つ人材の育成が遅れ、ひいては第二次世界大戦での破滅に至った遠因まで、おおもとは定信が作ったと言っても過言ではない。国民に対し、大きな罪(禍根)を残した政治家だと断じたい。

しかし、意次が定信の反動政治の標的にされ、悪人の烙印を押されたのには、商業蔑視以外にも原因がある。それは田沼時代の末年に至り、天災が相次いだことなのだ。浅間山の噴火、天明の大飢饉など。このような災害が起こる原因は、時の為政者の不徳に対する天譴=天罰なのだ、という・・・これもまた「儒教思想」なのである。

現代の私たちも、これを迷信と笑えない。東日本大震災のことを「天罰」と称した政治家が、(謝罪はしたものの)一定の支持を得ている。もちろん、大震災が「被災地への天罰」だとは誰一人考えないにしても、「日本の為政者に対する天の警告」かも知れないと、内心思っていた人は、口には出さないにせよ、相当数あったのではないか(被災地の方々は不快に思われるだろうが、あくまでも当時聴き取った話の端々から忖度した推論である。ご容赦願いたい)。

ことほどさように、儒教思想の影響は根強いのである。逆に、江戸時代の封建君主であり、いかにも儒教的明君だと思われていながら、実際の言行は「脱・儒教」の色彩が強かった米沢藩主・上杉鷹山(1751-1822)などは、例外中の例外であろう。

自分たち日本人の心象風景がどのようなものであるのか。私たちはこれを客体視して、しっかり理解したうえで、日ごろの生業にいそしみたいものである。

もう一つ、私たちのメンタリティに大きな影響を与えているものがある。それは「言霊(ことだま)」である。しかし、保健・医療・福祉など社会保障の業界にあっては、言霊の影響は儒教思想ほど大きくない。言霊については、また改めて論じる機会もあると思うが、今回はもっぱら儒教思想について一通り述べたところで、ひとまず稿を閉じようと思う。

2014年7月 5日 (土)

日本人の心に根付いた「儒教思想」の影響(3)

(前回から続く)

さらに、儒教思想が現代の私たちに及ぼしている大きな影響はもう一つある。これも実際の例を挙げてみよう。

いま、日本社会にとって、子育て環境の整備は喫緊の課題である。

先般の「偽ベビーシッター事件(「偽」を付けないと、真面目に仕事しているシッターさんたちに迷惑だ。容疑者の男性は資格詐称、偽名登録、幼児の画像への異常嗜好と、判明している事実だけで考えても、決してベビーシッターの仲間ではない)」のような悲劇が起こらないためにも、保護者(母親だけとは限らない)が経済的に苦境に陥らない限度で、安全な場所に子どもを預けて、仕事を続けられる環境が求められる。

長期的な社会コスト→費用対効果を考えれば、遅くとも20年前には、抜本的な対策が開始されなければならなかったはずであるのに、実際には政策が後手後手に回っている。

さて、この原因を作っているのは、おもに保育業界団体の人たちなのだ、と言うと、関係者の人たちは怒るだろうか?

しかし、社会構造論から言えば、まさにその通りなのだ。

認可保育所には多額の公的な補助金が投じられるが、認可外施設には補助がなされない(地方自治体の単独事業で補助を行っているところはある)。これを抜本的に見直して、一般企業の参入を促進させ、段階を踏みながら、準市場、さらに完全市場に移行させる。行政は保育所の登録と指導監査を行い、経済力のない家庭には、登録された保育所へ通うための限定的な助成(タクシー券のように、特定の目的にしか利用できない助成)を実施する。そのような状況になれば、保護者(受益者)の負担を減らして良質な保育を展開できる事業者が生き残り、それができない事業者は淘汰されるであろう。

ところが、現実にはそうならない。業界団体の人たちが、「子どもを危険にさらす恐れ」を理由に、このシステムに反対するからである。

社会福祉法人などオーソライズされた団体の構成員たちの頭には、「官」に縛られたものが良質、安全である、という「神話」が存在するのだ。厚生労働省の官僚たちも、自分たちが「官」であるから、その観念に引きずられて、あえて利権の拡大展開を控えている可能性がある。実際に認可外保育所やベビーシッターのもとで子どもが危険に陥る事故が多いのは、そもそも認可保育所との資金面の条件が全く違うところに由来するものなのだから、比較すること自体が無意味なのだが、関係者はそう考えない。

これは、儒教思想の影響の一つ、「官尊民卑」なのである。保育団体の関係者には、既得権益の保持という事情もあろうが、本来、「善意」から出ているはずの、「官が安全」だとの主張によって、その受益者になれない子どもたちを「危険」にさらすという、逆説的な結果を招いてしまっているのである。

もう一つの例。

昨年度、大阪市長が市立小・中・高等学校の校長を公募で採用したのは記憶に新しい。また、その後何人かの校長が不祥事を引き起こすなどで退職に至り、同市の民間採用方針が大きく失速していることも、報じられている。

不祥事の原因は、結果から見れば、校長本人の品格、人間性の問題だ。不祥事以外の理由で退職した校長の場合も、基本的には学校の校長職に適していなかったということになろう。

しかし、それだけが問題を引き起こした原因とは考えられない。信頼性の高い報道機関の筋からは、民間から採用された校長の多くが、先任の教員たちの中で浮き上がってしまっていることが知られている。斬新な発想から学校を変革させようとしても、保護者や地域との関係づくりがうまくできない状況になっているのだ。不祥事を起こした校長も、事態を打開できないもどかしさから、一線を越えてしまった場合があるかも知れない。

これも、「次は自分が校長」だったはずの幹部教員が、悪意で妨害を仕掛けている、との見方ができなくもないが、もともと、すべての教員が校長になれるわけでもない。一握りの幹部教員を除けば、悪意というよりも別の事情があると考えられる。

むしろこれは、自分たち「官」のシステムで仕事をしてきた教員のほうが、「民」から来た校長よりも、教育者として「上」だという矜持に由来するものだと考えたほうが、わかりやすい。

すなわち「官尊民卑」である。校長は学校組織の運営だけしていれば良い、子どもたちも、保護者も、地域も、自分たちの縄張りだ、との保守的な「善意」が、結果的に多くの校長のミスマッチを誘発していると判断されるのである。

こういう固定観念は、なかなかしつこい。変革するにはたいへんなエネルギーを要する。

(次回に続く)

2014年7月 2日 (水)

日本人の心に根付いた「儒教思想」の影響(2)

(前回から続く)

「男尊女卑」だけでなく、儒教思想が現代の私たちに及ぼしている影響のうち、他の部分に目を転じてみよう。

以下は私たちケアマネジャーの現実。いまでもこういう人はそれなりの割合でいると思うが、介護保険開始当初にはたいへん多かった。

「給付管理はケアマネジャーの仕事ではない」と主張するケアマネジャーの存在である。

この主張は二つの面で間違っている。

一つは、モニタリング機能の軽視である。利用者に対し、介護サービスがその本体部分にせよ加算部分にせよ、計画通りに提供されたのか、それとも何らかの変更が生じたのかについて、確認しながらモニタリングを進めていくのは、ケアマネジャーの責務である。それをやらずして利用者や家族への訪問・面談を続けることは、明らかな手抜きであろう。

もう一つは、保健・医療・福祉の専門職が、細かいお金の計算に直接携わることへの忌避である。この意識は、これらの分野で「古き良き時代」から仕事を続けてきた保守的な専門職ほど、強く持っている。

実はこれこそ、儒教の「商業蔑視」なのである。中には、「お金の計算は事務員がやれば良い」と言い切ったケアマネジャーもいたが、これは「身分差別(職業に貴賎を認める)」に通じる発言だ。本人はおそらくそう意識しておらず、「役割分担」程度の気持ちで言ったのかも知れないが、実は時代遅れの発想であると言えよう。

(なお、このような金銭を取り扱う職業に対する蔑視は、東アジアの儒教思想だけではなく、潮流は異なっても世界各地に類似の思考が存在したことを、誤解なきように付言しておく)

保守的ではなくても、意識の高いケアマネジャーが、ついつい利用者に対して、サービスを利用する際にかかるお金の説明を後回しにすることはないだろうか? 業界でも商業蔑視は意外と根強いものなのだ。高齢者(介護)施設職員の演劇でも、いまだに「越後屋(時代劇の)」は悪役なのだから(笑)。

しかし、介護サービスの利用者や家族の多くは、経済的な事情を抱えている。具体的にかかる金額を、せめて千円単位ぐらいで、丁寧に説明していくのは、ケアマネジャーならずとも、保健・医療・福祉の専門職の義務である。サービス提供票の別表においても、これに関する説明責任は求められている。その点からも、給付管理はケアマネジメントの重要な一部分であるとの認識が大切だ(過度に力を注ぐ必要はないが)。

また、介護サービスは「正当な対価を得て提供する商品」なのであり、「有償ボランティア」ではない。利用者負担がないケアマネジメントにしても、資格取得にかかる費用、事業所整備にかかる費用、事務用品にかかる費用、研修受講にかかる費用など、多くの原資がかかっているのである。この点を(意図的にか)理解しようとせず、居宅介護支援が全国平均で15年連続経常赤字である状態を容認してきた政策側の責任は、大いに問われなければならないであろう。

他種別の介護サービスにしても同様だ。現場の各事業所では、事業が立ち行かないと利用者に迷惑をかけるので、赤字にならないように人件費を厳しく切り詰めているから黒字なのである。それは自由市場でなく、報酬が公定価格である準市場なるがゆえの苦肉の策なのだ。

にもかかわらず、一握りの不正な事業者を吊るしあげた上、全体が黒字だからと言って「介護サービスで稼ぐのは悪だ」と言わんばかりに、実質的な報酬のマイナス改定へと駒を進めるのは、政策を主導する「君子人(儒教思想でいう)」たちの心の深層に、「商業蔑視」が植え付けられているのであろう。

介護職員の待遇改善を妨げている要因は、単に財源論(それも政治家や官僚によるお金の無駄遣いから生じた)だけではなく、このような思想も影響しているのである。

病根はたいへん深い。

(次回に続く)

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