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2014年8月

2014年8月15日 (金)

平和を祈ろう

カトリック教会の平和旬間(8/6~/15)に当たり、五回に分けて、思うがままに文をつづってみた。

一つひとつのエントリーが独立しているため、随筆集のようになったが、自分なりに全体の筋は貫いたつもりである。

平和を唱えているだけでは、守ることができない。価値観の押しつけや暴力の応酬は不毛である。いま私たちは、個人が、地域社会が、国家が、そして国際社会が何をすべきか、原点に戻って真摯に考えなければならない時期を迎えている。そのためには、他者に惑わされず、能動的に情報を獲得していかなければならない。日本をめぐる国際情勢を自分の頭で把握し、分析し、他者に説明できる判断根拠に基づいて、自分の言葉で発信していくことが求められている。

一人ひとりのそのような行動が多くの人たちの共感を呼び、実りある活動が波紋のように広がっていけば、これに過ぎるものはない。

一連のエントリーの掉尾を、私たちの教会で唱えられている、アッシジの聖フランシスコ(1182-1226)「平和を求める祈り」で締め括りたい。

フランシスコ自身がこの祈りを唱えたものではなく、その思想が祈祷文の形に整理され、現代の教会が追認したものだ。祈祷文が現在の形になったのは、20世紀に入ってからであり、おそらくフランシスコが神の僕(しもべ)として、常に目指していたものを、最も良く表現していると認められた内容であろう。

他宗派の方も、部分的にでも結構なので、共感していただけると幸いである。

20140810hamamatsukyokai


*平和を求める祈り*

わたしをあなた(神)の平和の道具としてお使いください
憎しみのあるところに 愛を
いさかいのあるところに ゆるしを
分裂のあるところに 一致を
疑惑のあるところに 信仰を
誤っているところに 真理を
絶望のあるところに 希望を
闇に 光を
悲しみのあるところに 喜びを
もたらすものとしてください
慰められるよりは 慰めることを
理解されるよりは 理解することを
愛されるよりは 愛することを
わたしが求めますように
わたしたちは 与えるから受け ゆるすからゆるされ
自分を捨てて死に 永遠のいのちをいただくのですから

2014年8月13日 (水)

「イスラーム国」の恐るべき脅威

皆さんは、下記の事実が何を意味するのか、理解されているだろうか?

6月29日、「イラークとシャームのイスラーム国」の指導者であったアブー‐バクル‐アル‐バグダーディー( أبو بكر البغدادي‎)は、自ら「ハリーファ(خليفة)」として即位し、国名を単なる「イスラーム国(الدولة الإسلامية )」と改称した。

イラークのマーリキー政府、シリアのアサド政府をはじめ、イスラーム諸国もその他の国々も、現時点ではもちろんこの国、「政権」の成立を認めていない。

しかし、この「イスラーム国」の「政権」が実効支配する地域では、身の毛のよだつような残虐行為が行われている。

数百人のキリスト教徒の家庭が、戸口に「ナザレのイエス」の頭文字である「ن(ヌーン)」の文字を描かれた上に、イスラーム教への改宗を迫られた。これを拒否した家の男子は首を斬られ、女性や子どもは奴隷として売られた。また数百人のヤジーディー(おもにクルド人が信じているマイノリティの宗教)教徒の家でも、イスラーム教への改宗を拒否した人は、銃で頭を撃たれる、生き埋めにされるなどのやりかたで殺害され、女性、子どもは同様に奴隷として売られている。

「イスラーム国」が支配する地域では、まさに、中世の宗教国家そのものの様相を呈しているのだ。もとは同一勢力とみなされていたあのアル‐カーイダ(القاعدة‎)さえも、「イスラーム国」は自分たちとは別組織だとの声明を出し、一線を画している。しかし、この「政権」に同調する人たちが、イラークやシリアの国外に(西アジアやアフリカはおろか、ヨーロッパや北米にさえも)少なからず存在することも確かだ。いまは一線を画していても、いずれ何らかの形で手を結んで、さらなる大勢力と化する危険性もはらんでいる。

この「イスラーム国」が勢力を拡大させた原因は、米国がシリアのアサド政権を打倒するために、敵対勢力に武器供与の便宜を図ったことであり、結果的に失策であったとされる。しかし、すでに起こってしまったことを論っても意味がない。いま、私たちが着目しなければならないのは、この「政権」が日本に対してどのような影響をもたらすか、ということなのである。

現時点で、「イスラーム国」は、日本に直接宣戦する意思を表明していないし、それだけの軍事力もない。主要国のうち攻撃対象にしているのは、当面、空爆の「加害国」である米国、次には東トルキスタンなどのイスラーム教徒を弾圧している中国であろう。

しかし、国名から地域名を取り去ったということは、この「政権」が全世界を対象とした「イスラーム国」であることを意味する。すなわち、日本人だろうが中国人だろうが米国人だろうが、イスラーム教に改宗しない人間はすべて、「神の意志」に背く「敵」ということになる。この三国が世界第一位~第三位の経済大国であれば、なおさら「敵性」が強い。「資本」によって経済を支配するのは、神の意志に反して「富」を積むことなのだから。

では、日本が「イスラーム国」の「敵」とされた場合、それに対して開始される「聖戦」の標的にされるのは何だろうか?

第一の攻撃目標が「福島原発」になることは、明々白々であろう。何しろ情報が明け透けになっているのだ。位置関係から内部の構造まで、ご丁寧に映像付きで露出している。福島原発以外のおもな原発も、メディアがここぞとばかり原子炉の位置関係などを放映したため、かなり正確な攻撃目標となり得る状況になってしまっている。政府や電力会社に「情報公開」を強硬に求めていた勢力の人たちが、「公開」によって発生するリスクを意識して主張していたとは考えられない。

仮に、であるが、中国や北朝鮮が日本と戦争状態になったとしても、原発へミサイルを撃ち込むことは、九割九分九厘まであり得ない。それを断行すれば国際的な非難を受け、第三次世界大戦さえ巻き起こし、ひいては自らの国家や政権が倒れることになりかねないからだ(「核」をカードにして日本を脅迫することは大いに起こり得るが・・・)。

だが、「イスラーム国」の場合は違う。「神の意志」を実現するためであれば、あらゆる手段を選択し得る。米国の仲間である日本の「国富」の象徴である原発を攻撃したことで、どれだけ甚大な被害が出ようが、世界をイスラーム教の色で塗りつぶすことができれば、それは「必要な犠牲」であり、残虐な行為には当たらないという解釈である。

当然のことながら、「日本国憲法九条」などは、この「政権」にとって全く考慮に値しない。日本国民のすべてが九条を守り、戦わずして中世スタイルのイスラーム教に改宗するというのなら、話は別であろうが。

もちろん、現在の「イスラーム国」は日本の原発にミサイルを撃ち込む力は持っていない。しかし、もしこの「政権」側のテロリストが、日本で9.11のアル‐カーイダのような同時多発型の航空機自爆テロを断行するのであれば、複数の原発を突入目標に選ぶのが最も容易だ。そして何よりも、飛行機をハイジャックして目標へ突入するのは、イスラーム過激派にとっては、「神の意志」に沿った「殉教」なのである。この過激派の「殉教」はカトリックの殉教と異なり、何百人、何千人道連れにしようと構わない。多くの「敵」を滅ぼして自分も死ぬのは「正義」にほかならないのだから。

また、この種のテロリズムに対する、有効な予防手段に乏しいことも事実であろう。ハイジャックへのチェックに対する抜け道も、次から次へと考案されている。日本の空港はまだまだ甘い。日本がテロリストにとって「不便」な点は、厳格なハラールを守るべき食環境が不十分であるため、日本国内で何日も時間をかけてテロの準備をするのが難しいことである。しかし、インドネシアなどから日本に滞在する人たちのためにハラールの食環境が整備されてこれば、何年もしないうちにこの「不便」も解消してしまうかも知れない。

こう考えると、「イスラーム国」は恐るべき脅威なのである。

国防強化論者(私と同じ方向の考え方の人たち)も、憲法九条護持論者(私と反対の考え方の人たち)も、遠く離れた西アジアで起こっている現実に目を向けてほしい。目先の仮想敵国だけを対象に国際関係の利害を論じること、九条を頑なに守ればすべての人が日本の平和を尊重してくれると信じること、どちらも、取り返しのつかない重大な惨害を招く恐れがあるのだ。私自身、「イスラーム国」の脅威が杞憂に終わることを願っている。

どの考え方の人たちも、どうか現実を踏まえた上で、国際平和のために、いま日本が国家として何をすべきなのか、三思していただきたい。

(追記; 本稿は穏健なイスラーム教徒の方々への誹謗中傷を意図したものでは決してないことを、お断りしておく)

(訂正; 本エントリーをお読みになった福岡県の「トカゲgallery」さんから、ハラール食品はすでに福岡などの地方都市でも比較的容易に手に入る状況になっている、とのご指摘をいただいたので、上記ハラールへの言及の部分を訂正したい)

2014年8月12日 (火)

ヘイトスピーチとゼノフォビア

先の7月24日、日本において、複数の団体がおもに在日韓国・朝鮮人に対して行っている、いわゆる「ヘイトスピーチ」に関して、国連の規約人権委員会は日本政府に対し、禁止勧告を出した。

国連の事務総長がどこの国の人か、などの問題は別として、この勧告は当然のことだ。日本におけるヘイトスピーチを主導する団体の行動は、暴力的、脅迫的な様相を呈し、常軌を逸していることは、以前のエントリー「『きりすて教』の信者に告ぐ」にも掲載した通りである。

これらの行動を、「反日」に対するカウンターだと弁護する人もいるようだが、前掲エントリーで人権侵害に遭った中学生の少女は、日本同様に中国から武力を背景とした領海侵犯行為を受けている親日国フィリピン人夫婦の子なのだから、筋が通らない弁護だと言えよう。

もちろん、ヘイトスピーチに対するカウンター側の暴力、脅迫的行為も常軌を逸している。一部のカウンター団体は、単に竹島奪還(という日本国民なら当然の主張)をした人たちに対し、暴力的、脅迫的行為を繰り返しているからだ。こちらも処罰されて当然である。特に、前政権に連なる有識者たちが、このような暴力的行為を、たとえ消極的であれ、反ヘイトだからとの理由で支持しているのは、言語道断である。日本社会はいつから、意見が対立する相手を暴力で排除する社会になってしまったのか?

また、国連の勧告は、「日本人出て行け」などの反日運動を処罰しない国々に対しても、公平になされるべきであろう。緊張関係が高まっている相手側の国に住み、現地の産業に貢献している日本人が肩身の狭い思いをしないためにも、現政権の今後の外交努力に期待しよう。

ところで、ヘイトスピーチについて、少し理解を深めてみたい。

前掲エントリーに記述したような団体の行動は、「ゼノフォビア(xenophobia)」の思想に発するものである。ゼノフォビアとは、生物学的に異種の存在を嫌悪する性癖を意味する。これは高度に同質性の高い民族構成を持つ社会に、比較的現れやすい。長く島国であった日本は、そういう傾向が強い。

したがって、上記とは逆に、東アジア系の外国人は「民族的に近いので」排除しないが、南米系の外国人は排除するという傾向を持つ人たちもある。以前、浜松の中心部でブラジル人による日本人殺害事件が起こったあと、残念ながら住民の一部がこのような考え方になり、MAF Hamamatsu(浜松外国人医療援助会)の活動に部分的な支障をきたしたことがあった。

ヨーロッパ、西アジア、アフリカのように、民族の血統が何世代にわたって入り交じり、国籍こそ存在しても「〇〇人」という民族意識自体が希薄になっている地域であっても、同質性の高い社会の中には、ゼノフォビアが起こり得る。逆に多様性の高い社会であっても、同質性の高い特定の民族がゼノフォビアの標的にされることもあり得る。このような土壌から、ヘイトスピーチが組織的に行われるという忌むべき現象が起こる。

他方、ゼノフォビアとの関係が薄いヘイトスピーチが存在する。一つは日本と政治的、経済的利害関係が対立した国の国民に対するものである。中国人や韓国・朝鮮人に対するヘイトスピーチを唱える人たちの動機は、ここから発している場合も少なくない。こういうヘイトスピーチには、東南アジアや南米の人たちに対する敵対意識は希薄である。また逆に、血統的には全くの日本人であっても、国籍が相手方の国にあれば、「出て行け」となる。冷静に判断できる個人や団体ならば、国と国との関係を、個別の人同士の関係に持ち込む愚はしない(戦争状態やそれに近い状態なら、話は別だが)。まことに残念なことだ。

もう一つは、個人や家族の歴史に由来するものだ。A国の人間に家族を殺された、B国の会社に財産を奪われた、C国人のグループにネットで誹謗中傷を受け、著しい名誉の失墜に至った、など。これらは一人ひとりの心の問題であるし、中にはその国の名前を聞いたり、国旗を見たりしただけで、吐き気をもよおす人さえあると思われる。私も本論の中で、そこに立ち入るつもりはないし、公的な活動にならない個人の意見であれば、それはその人の考え方として受容することになろう。

このように、ヘイトスピーチと一言で言っても、簡単に片付けられないものがある。上に述べたことは、ほんの一側面にすぎない。機会があれば、さらに深くこの問題に斬り込んでみたい。

最後に・・・状況はともかく、憎悪の応酬は不毛である。私たちは国籍や民族を超え、人間と人間とがいかに共存するかを、真剣に考える時期に差し掛かっているのだ。

カトリック教会の平和旬間に寄せて。

2014年8月10日 (日)

国際関係における「動機」と「理由」

「次世代の党」なる新党の最高顧問になった石原慎太郎氏が、ある雑誌のインタビューで、あなたの野望は何ですか? と聞かれ、「シナ(中国)と戦争して勝つ」と答えたと報じられた。

これに過敏反応した複数のメディアや「護憲派」の人たちが、中国との間に緊張関係が高まったのは、都知事時代に尖閣諸島を購入しようとした石原氏に責任があるかのように唱えている。「マスゴミ」や「プロ市民」が、この発言を聞いて鬼の首でも取ったかのように喜んで論っているのは笑止千万だが、真摯に平和運動をしている人たちまでが、誤認しているとしたら、たいへん残念なことだ。

まずは、下の地図を見ていただきたい。1982年以降、鄧小平政権時代に中国の「地図出版社」が刊行した『中国歴史地図集』全8巻の、すべてに掲載されている「中華人民共和国全図」の一部分だ。

20140704chizu

画像ではわかりにくいかも知れないが、中国の「領土」は薄赤色で塗りつぶされている。「釣魚島」と「赤尾嶼」(すなわち尖閣諸島)はそう扱われている。そして、台湾と先島諸島との間には、一応国境線と思われる太い線が引いてある。

ところが、なぜか薄赤色で塗られていない(はずの)沖縄県の島々や、鹿児島県の奄美群島が、赤色の枠で囲われている。これは日本だけではなく、スプラトリー群島やその周辺の島々など、ヴェトナムやフィリピンのように昔中国に朝貢していた国(地域)が領有している島々に共通する記載である。さすがに、古代中国王朝の領土であった土地であっても、ヴェトナム北部のような独立国の本土部分には、このような記載はされていない。もし囲ってあったら、当時からたいへんな国際問題になっていただろう。

しかし、どう考えても、これを見れば中国の指導部の意図は明々白々だ。奄美群島までは中国にとって旧朝貢国であり、領有権を主張できるということである。それは曲解だと主張する日本人がいたら、よほどおめでたい人物としか思われない。

中国の指導部にとっては明らかに、「尖閣諸島は自明の自国領」であり、「奄美群島までが領有権未定の係争地」なのである。これは鄧小平から江沢民政権、胡錦涛政権、そして習近平政権と替わっても、一貫しているはずだ。その間、中国が明確な表現により自国側の主張を後退させたことは、一度もないのである。

すなわち、都知事時代の石原氏の行動は、中国との緊張関係をもたらした単なる「動機」に過ぎない。中国が領海侵犯を繰り返す真の「理由」は、「もともと自国領だから」以外にはあり得ない。石原氏の行動があろうが無かろうが、どこかの時点で早晩、中国共産党はこの侵犯行為を断行したであろう。

メディアがこの32年前の中国側の認識に関して、全くと言ってよいほど報じていないことは、日本の国防にとって大問題なのだ。そもそも上記地図を見たこともないコメンテイターも多いのではないか? 多額の謝金を受け取っているのだから、自分自身の勉強不足を恥じるべきであろう。いわんや「マスゴミ」や「プロ市民」が意図的にこういう情報を人々の目に触れさせないようにしてきたのであれば、言語道断だ。

私たちはこのような事実(現実)を踏まえないと、たいへんな判断の過ちを犯すことになる。すなわち、著しい軍拡を続けている中国が、尖閣を「係争地」でなく「自明の自国領」だと考えているということは、石原氏がどうあろうが安倍内閣がどうあろうが、いつか必ず尖閣諸島を取り戻しに攻撃を仕掛けてくることになるからだ。米国が世界各地で軍事作戦を展開し、東アジアに割く戦力が減少したあたりが狙い目ということになる。

いま、私たちのカトリック教会でも平和旬間(8/6~/15)に入っている。長崎の被爆者団体の代表が、集団的自衛権の容認について、戦争に参加する可能性がある暴挙だと非難する気持ちは理解できる。もちろん私自身、死ぬまで平穏な生活が続いてほしいと願っていることは言うまでもない。

しかし、中国は第二次世界大戦以降、武力(と、それを背景にした圧力)で領土を広げている唯一の国である(ソ連時代に領有していたクリミアをウクライナから奪ったロシアについては、ひとまず措く)。ヴェトナム、フィリピン、ブータンなどで起こっていることは、対岸の火事ではない(ブータンについても、関心のある人は調べていただきたい)。

このような国が領海を接している以上、民主主義の価値観を共有する国々と共同で防衛を展開する体制を整え、戦争を抑止することが、結果的に戦争に加わらないことにつながるものと、私は考える。石原氏は中国と戦って勝てると思っているようだが、私は(一国対一国の対戦なら)諸状況から考えて、勝つのは難しいと判断している。ならば米国をはじめ、同盟関係にある国々との関係を深めるしかないのだから。

賛否両論あろうとは思うが、どのような意見を展開するにしても、誤った(偏った)報道を鵜呑みにしてモノを言ってほしくはない。心ある市民の皆さんには、正しい情報に基づいて自説を展開していただきたいと願っている。

(あくまでも国と国との国際関係について論じたものであり、日本に滞在する善意の中国国民を誹謗中傷する意図が無いことを、お断りしておく)

2014年8月 9日 (土)

真の住民運動と似て非なる「プロ市民」の運動

集団的自衛権をめぐって起こっている動きを見聞しながら、思ったことがある。

「デモに参加する人たちって、ヒマな人が多いんだなあ・・・」

もちろん、自分の仕事を持っていても、安全保障に関する真摯な問題意識から、正しいと信じている運動に時間を割いて、デモに参加している人たちも多い。私の知人にもそういう人たちがいる。これらの「真の住民運動を展開している人」たちは、政治的な見解の違いは別として、社会にとって必要なことは、私たちとも手を携えて推進してくれる、尊敬に値する人たちだ。

しかし、他方で「そうではない人たち」も少なくない。いわゆる「プロ市民」と呼ばれる人々である。「反対のための反対運動」をしている人たちと表現すれば、わかりやすいかも知れない。

この人たちにはしかるべき資金源があるため(出所はある程度推測できるが、憶測でモノを言うのは適切でないので、言及しない)、運動の継続には困らない。公職にある者ならば有給休暇(だと信じたいが)を取り、仕事を持たない人ならば用事のない時間に駆け付けて運動に加わる。お金と時間はしっかりあるのだから、都道府県境など関係なく機動的に移動する。

これら「プロ市民」の共通項は、以下の通りである。

・要予約のパーティーに予約なしで参加する、臆面もなく約束を破るなど、社会人のマナーを守らない。

・これまで面識のない人へ深夜にFAXを送るなど、他の生活者の迷惑をかえりみない。

・公開討論の場と称しながら、自分たちの主張と対立する側の発言の機会を意図的に奪う。「言わせない」。

・価値観の押しつけ、マインドコントロールなどを事とする。子ども(自分の子ども以外の)に対してさえもそれを行い、考える機会を奪う。

・理想やイデオロギーだけを説き、判断根拠を明示しない。

・自分たちに理解を示す人は「賢い市民」として味方につけ、そうでない人は「愚かな市民」と断じて烙印を押し、攻撃の対象にする。

・自分たちのプライバシーが侵害されると権利意識をむき出しにして抗議する反面、同窓会名簿や会員名簿などを躊躇なく政党や思想の宣伝目的に使うなど、他人のプライバシーを踏みにじる。

まあ、少々乱雑な表現が含まれていたかも知れないが、大枠で言えばこんな感じである。すべての「プロ市民」が全部の項目に当てはまるわけではないが、多くの場合、上記の諸点で共通している。

以下は自分の体験談。

ずっと前になるが、とある小規模な環境保護団体の取りまとめ役を引き受けたことがある(これを読んで当時の関係者に対して迷惑行為を働く人間が現れてもいけないので、団体の活動内容や名称や年代は伏せておく)。そのとき、前任者から示された条件は、自分は勤務先の関係で団体の役ができなくなってしまったが、ある活動家(女性)が協力するので、受けてほしいというものであった。私はその当人にもきちんと書面であいさつして、協力を取り付けた上で、役を引き受けた。

ところが、その人物が、私に何の連絡もなく、無しのつぶてになってしまった。しばらくして、同氏は立ち上がったばかりの、ずっと資金力の豊かな環境保護団体の役員になってしまい、私のほうには全く協力する意思が無いことが、あとから判明した。私としては、同氏の協力なく団体の運営をするのは難しかったので、やむを得ず団体を解散することになった。はっきり言えば、裏切られた形だ。それ以来、ヒステリックに環境保護を訴える人たちの品性が信用できなくなってしまった。

それから長い年数が経って、2011年に県内の某市で大震災後の「がれき受け入れ」に対する反対運動を報じていたテレビを偶然見たとき、その女性が中心人物の一人として写っていたのである。

「ははあ、この人はそういう人だったんだな」

同氏が「プロ市民」であることがわかったのが遅過ぎたかも知れない。

しかし、こういう人たちが「9条護れ!」とか「オスプレイ反対!」とか、シュプレヒコールを揚げているのだ。残念ながら、こういう声にダマされてしまっている真の住民活動家も少なくないのが現実だ。

真の住民運動と「プロ市民」の運動とは、似て非なるものだ。私たちは英知を働かせて、本物とニセモノの区別をつけたいものである。

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