平和を祈ろう
カトリック教会の平和旬間(8/6~/15)に当たり、五回に分けて、思うがままに文をつづってみた。
一つひとつのエントリーが独立しているため、随筆集のようになったが、自分なりに全体の筋は貫いたつもりである。
平和を唱えているだけでは、守ることができない。価値観の押しつけや暴力の応酬は不毛である。いま私たちは、個人が、地域社会が、国家が、そして国際社会が何をすべきか、原点に戻って真摯に考えなければならない時期を迎えている。そのためには、他者に惑わされず、能動的に情報を獲得していかなければならない。日本をめぐる国際情勢を自分の頭で把握し、分析し、他者に説明できる判断根拠に基づいて、自分の言葉で発信していくことが求められている。
一人ひとりのそのような行動が多くの人たちの共感を呼び、実りある活動が波紋のように広がっていけば、これに過ぎるものはない。
一連のエントリーの掉尾を、私たちの教会で唱えられている、アッシジの聖フランシスコ(1182-1226)「平和を求める祈り」で締め括りたい。
フランシスコ自身がこの祈りを唱えたものではなく、その思想が祈祷文の形に整理され、現代の教会が追認したものだ。祈祷文が現在の形になったのは、20世紀に入ってからであり、おそらくフランシスコが神の僕(しもべ)として、常に目指していたものを、最も良く表現していると認められた内容であろう。
他宗派の方も、部分的にでも結構なので、共感していただけると幸いである。
わたしをあなた(神)の平和の道具としてお使いください
憎しみのあるところに 愛を
いさかいのあるところに ゆるしを
分裂のあるところに 一致を
疑惑のあるところに 信仰を
誤っているところに 真理を
絶望のあるところに 希望を
闇に 光を
悲しみのあるところに 喜びを
もたらすものとしてください
慰められるよりは 慰めることを
理解されるよりは 理解することを
愛されるよりは 愛することを
わたしが求めますように
わたしたちは 与えるから受け ゆるすからゆるされ
自分を捨てて死に 永遠のいのちをいただくのですから
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