岐阜城、安土城、そして・・・
確か、井沢元彦氏の著書だったはずだが、「織田信長がもし横死しなかったら、豊臣秀吉同様に、大坂(いまの大阪)を居城にしていただろう」との論評を読んだ。
私も全く同感だ。信長ほどの人物が、石山本願寺の立地条件と広域的な経済の利便性に注目しないはずはない。彼の戦略眼からすれば、安土城の次は大坂に築城していた可能性が極めて高い。
問題はその城の名称だ。
岐阜城はもともと稲葉山城と称されていた。信長が美濃を征服した後、周辺に「岐阜」の地名があるのを知って、城の名前にした。古代中国・周の文王が「岐山」を拠点にして勢力を広げ、息子の武王の代に殷を滅ぼして天下を取った故事に基づくものだ。
いわば、「天下を取りに行く城」の意味である。この解釈を、私は故・海音寺潮五郎氏の著作で読んだ。
安土城はもともと目加田城と称されており、信長が全面的に新しい城を新築した。「安土」の地名を城の名前にした理由は、「平安京」に対抗する「平安楽土」の略称である。
すなわち、「天下を分け合う城」の意味となる。この解釈は(たぶん)井沢氏によるものだ。
では、大坂城はどうだろうか? 私の知る限り、「信長がこの地をどう名付けたか?」について、まだ誰も言及していないようだ。
しかし、自ら神格化を目指した信長は、いずれ天皇家を圧伏しようとしていたことは確かである。彼の横死によって、それがどのような構想だったのかは歴史の彼方に埋もれてしまったが、生前の意図は明瞭であろうと思われる。だとすれば、大坂に城を築くときの命名方法は・・・、
「天下を取って自分が(天皇家を差し置いて)君臨する城」を意味する命名しか考えられない。
したがって、城の名称の候補はただ一つ。
「今宮城」である。
歴史がそのように展開しなかったことが、日本人にとって幸か不幸か知りようがない。何百年も前に過ぎ去った、大いなるロマンの幻影かも知れない。
※すでに井沢氏かどなたかが、私より先に「今宮城」の説を唱えておられるのをご存知の方は、ご指摘いただけると幸いです。その場合は「遼東の豕(自分がオリジナルだと思い込んでしまうこと)」の批判に甘んじますので(^^;)
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