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2015年5月

2015年5月26日 (火)

いまこそ連帯を!

史書をひも解くのが好きな私は、20~30代のとき、国内の各地にある図書館や文書館を回り、その地を統治した武家の系譜を中心に、さまざまな史料を閲覧し、筆写してきた。

その一つ。どこで入手したか記憶がないが、私の手元に万延元(1860)年の水戸藩徳川家分限帳の写しがある。家柄家老である中山・山野辺・鈴木の三家の次に、仕置家老に相当する「用達」12人の名が記されており、その末席に「武田修理 五百石」とある。水戸の幕末史に名を馳せた武田耕雲斎(=正生。1803-65)のことだ。

「武田」の苗字は、ひたちなか市の勝田にある地名。同市の玄関口であるJR勝田駅が立地する場所である。常陸源氏の一つの流派である武田一族は、事情あって常陸から甲斐へ移り住み、土着して甲斐源氏となり、武田の家名を確立、戦国時代には武田信玄(=晴信)が信濃・駿河まで領有して大勢力となったが、次代の武田勝頼は織田・徳川連合軍に敗れて滅亡した。

その滅亡のきっかけを作った、武田一族で守護代家の跡部勝資は、後代、裏切り者の悪人とされて貶められた。跡部家一門で水戸藩に仕えた家があり、末裔がこの耕雲斎である。彼は跡部の苗字が蔑まれることを嫌い、藩主・徳川斉昭に登用された際に、願い出て苗字を武田に改めた。水戸藩の初代藩主が藩祖・徳川頼房の兄、武田信吉(穴山家を継いで武田の宗家となっていた)であったため、武田の苗字を無断で名乗ることは許されなかったからである。

耕雲斎は斉昭の信任を受けて政務に参画したが、斉昭の死後失脚する。その後、過激な尊王攘夷を唱える天狗党が、藤田小四郎(1842-65)を指導者として反乱を起こしたため、耕雲斎はこれを沈静化させようと説得するが、小四郎らは聞き入れずに那珂湊へ集結し、別の勢力を率いて近傍に布陣していた耕雲斎も、幕府の討伐軍や、藩の保守派である諸生党から、天狗党の与党であると見なされてしまった。

小四郎に推されて、やむを得ず天狗党の首領となった耕雲斎は、小四郎らとともに幕府軍や諸生党と戦ったが、那珂湊で大敗して多くの有能な志士たちを失い、逃れて中山道を進軍し、北陸に至る。鯖江藩や越前府中藩の討伐を受けてついに投降、耕雲斎も小四郎も敦賀で処刑され、首は那珂湊にさらされた。

さらに、耕雲斎の孫で助命された武田金次郎たちは、明治維新で水戸藩に戻ると、こんどは官軍の力を背景に、諸生党を徹底的に弾圧し、主要な人物を処刑しまくった。これらのたび重なる争乱により、水戸藩の人材はすっかり枯渇してしまった。明治政府がせっかく、勤王の功績が大きかった水戸藩から人材を登用しようとしても、「薩摩警部に水戸巡査」と揶揄されたごとく、高官に抜擢できる人間がほとんど残っていなかったのである。

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5月21日、このような悲劇の歴史を秘めたひたちなか市で、同市の介護サービス事業者連絡協議会からお招きをいただき、「口のきき方で介護を変える!」をテーマとして講演を行った。

一通り話を終えた後、「那珂湊の悲劇を再現しないでください。いまは殺し合いこそ無いにしても、足の引っ張り合いが原因で多くの人材が介護業界を去って行くことがないように、市民の皆さんのため、業界が結束してください」と述べた。

また、役員さんたちとの懇親の席(画像。向かって私の左が会長の伊藤さん、右が副会長の本多さん、女性二人の後ろが事務局長の鹿志村さんである)において、同市では地域支援事業の委託をめぐって、行政との折衝が難しい場面を迎えていると聞いたので、ぜひ先進的なモデルを確立して、私たちにも情報を教えていただきたい旨をお願いしておいた。

翌22日、帰路途中の東京で、小規模多機能型居宅介護事業所・ユアハウス弥生を表敬訪問(画像は同所の本社側の事務所)。

所長(社長後継)の飯塚裕久さんと、今後の業界のあり方についてしばし面談。「2015年を笑って迎えられるために」どうすべきか、意見交換。ここでも、「それぞれ自分の事業所、業種などの利害はあるかも知れないが、いまや垣根を越えて手を携えていく時代」との私の意見をお伝えして、飯塚さんも大枠で理解してくださったと思う。

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辞去する際に、「未来を創る介護カフェ」主催者の高瀬さんとすれ違い、一言ごあいさつ。飯塚さんたちの多彩な交友範囲を実感するとともに、今後のネットワークの広がりを予感させる一幕だったような。

振り返ると、この27年度改定は大きな節目であった。長年、歯を食いしばって介護業界でがんばってきたにもかかわらず、報われない人たちは、がまんの限界に達している。いまここに来て、倒れる者、去る者が相次いでいる昨今の情勢なのだ。多くの法人が目先の利害を最優先にしてきた結果である。もはや、自分、自事業所の利害だけで動いている業界人は、いずれ自分自身が窮地に陥ったとき、誰からも手を差し伸べてもらえない羽目になるであろう。

そうならないためにも、私たちは地域で、さらにこの国で、同じ仕事に勤しむ仲間たちと共存していくことを旨としたいのである。

いまこそ連帯を! と改めて強く感じた二日間であった。

2015年5月17日 (日)

御三家の城下町でラーメンめぐり

尾張(名古屋)、紀伊(和歌山)、水戸と言えば、徳川御三家の城下町である。と言っても、今回は歴史の話とはあまり関係ない。

いろいろなご縁から、この三か所でラーメン食べ歩きをする機会を得たので、その話題である。

まずは名古屋。私の母親の故郷(中村区)でもある。昨年11月に講演を依頼されて知多市へ行った途中の昼食。名鉄神宮前駅の近く、名古屋人の多くが好んでときどき食べる「寿がきや(カーマ熱田店)」。いわゆる大衆向きでクセのないとんこつ味。

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また、先月19日の歌舞伎初鑑賞のときには、出演されていた市川澤路さんのご案内で、栄にある「麺屋・壱の介」の鶏白湯ラーメンを味わってみた。スープのコクがなかなかのもので、麺も好み。名古屋は浜松からも近いので、リピーターになるかも知れない。

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次は水戸。4月24日、いばらき福祉研究会へ講演でお邪魔したとき、居酒屋「ゆきち」での懇親会で飲んだあとに出てきた、隣(家族経営)の「ファミリーらーめんふるさと」の一品。時間が時間だけに、あっさりした旨醤油味が美味しい。あとで検索すると、日中も地元の人たちに人気があるようだ。

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翌25日、同会会長・小林さんからのご教示もあり、水戸市街の「石田屋」で、ビジター向けの「水戸藩ラーメン」なるものを賞味。日本で初めてラーメンを食べたとの説が有力な、水戸藩主・徳川光圀(1628-1700)時代のラーメンを再現したもので、麺は小麦粉とレンコンの粉を混ぜてあり、色がやや黒い。チャーシューは鶏肉(光圀の時代は鴨?)、具に青菜と椎茸、さらに五種類の薬味を入れるのが特徴。きわめてあっさりした醤油味だが、現代のラーメンに慣れた舌には独特の風味が印象的なご当地ラーメンである。

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そして和歌山。5月10日に観光に出向き、業界仲間である地元の町田さんお薦めの店、「玉林園グリーンコーナー」築地橋店へ。日曜日とあって、午後2時に行ってもお客さんがいっぱい。ここで市民の皆さんも多く食事する人気の「てんかけラーメン」。オーソドックスな塩味のスープに天かすが入っており、具はわかめ、薬味に紅しょうがといった組み合わせがなかなか好かった。

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夜は、町田さん、谷さん、永橋さんの地元勢と、このブログに何度も登場している京丹後の稲岡さんと合流して、5人で会食。谷さんが選んだのは、和歌山ラーメンを代表する店の一つ「楠本屋」。ここで注文したのは「中華そば」、とんこつ醤油味の正統派の和歌山ラーメンで、これぞ和歌山と言うべき品。旨し!

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結局、三か所とも、ソウルフード型のラーメンと、ご当地型のラーメンとを、それぞれ一つずつ味わったことになった。いずれにしても、一つの店の味を創始した人は、さまざまな創意工夫を加えて、独自の味覚を開発してきたことであろう。

今回はたまたま徳川御三家のラーメン店を食べ歩いた形になったが、日本各地のラーメンはまさに百花繚乱の姿を呈している。このように彩りに満ちた各地の食を味わうことができる幸せを、私たちは噛みしめたいものである。

2015年5月 8日 (金)

「言霊」の呪縛と日本人

大分市の高崎山自然動物園で、生まれたばかりのメスの赤ちゃんザルに「シャーロット」と名付けたところ、300を超える抗議や批判が寄せられ、その大半は「英国王室に失礼だ」との趣旨だったという。

実は、いま執筆中の内容に関係する事案であるため、たいへん関心を持ち、今回取り上げてみた。

まず、「英国王室に失礼だ」との趣旨について。おそらくこういう考え方をするのは、世界でも日本人だけであろう(世界は広いので、マイノリティである諸民族の中で、類似した思考体系を持つ人々がいるかも知れないが、それはひとまず措く)。

では、なぜ「失礼」なのか?

これこそ、古来から日本人の思考を制約している「言霊」の考え方から来るものである。

「言霊」については、作家の井沢元彦氏が数々の著書で述べているので、井沢氏ファンの方々は先刻ご存知のことと思う。何かを言葉に出して「言挙げ(ことあげ)」することによって、そこに霊力が与えられるという考え方である。言挙げしたものが人の名前であれば、その人の人格に影響を及ぼす。だから、軽々しく相手の名前を言ってはならない。

特に古代から、女性の実名は秘匿しなければならないものだった。もし古代日本で男性が女性の名前を知って「○○さん」と言えば、求婚を意味したのである。古代女性の実名が伝わっていない場合が多いのは、そのような理由によるものだ。

現代でも、年輩の人たちは女性の下の名前を呼ぶときには慎重である。私自身、20代の頃に休職中の女性同僚職員の夫に電話して、「○○さんはいらっしゃいますか」と言ったところ、上司から「女性の名前言うなよ。奥さんと言え」と指摘されたことがある。

男性の名前であっても、目上の人の名前を「□□さん」とは言わない。名字で呼ぶか、職名などで呼ぶことが多い。昔なら「組頭さま」「番頭さん」、いまなら「部長」「課長」といった具合だ。

なお、中国の文化圏では、君主や父親の死後の名前(諱=いみな)を回避したり、貴人や上役の実名を言わずに、職名などで呼ぶ習慣があったが、これは儒教の「礼」に基づくものであるから、言霊とは似て非なるものだ。

最近は日本でも男女ともに、相手を実名で呼ぶことも増えているが、まだ「言霊」の影響は強く残っている。日本文化の中で生まれ育った私たちには、逃れられないものかも知れない。

そして、これは子どもに名付けるとき、「他人と違う名前を選択する」行為にもつながっている。井沢氏は欧米から日本人の代表的な名前だと思われている「太郎」や「花子」が、実はごく少数で、ポピュラーな名前になっていない実例を掲げ、「ジョン」や「メアリ」などの欧米でポピュラーな名前と比較して、この現象を説明している。

最近の親が子どもに「キラキラネーム」を付けるのも、この流れが進化してバリエーションが広がっているものだとも理解できる。

さて、この「言霊」の思考により、欧米ではありふれた名前に過ぎず、動物の名前に付けられて何の不思議もない「シャーロット」が、日本人の感性から言えば、サルに名付けることによって、同じ名前である特定の王女の人格をおとしめる行為だと映るわけなのだ。

それが抗議・批判する人の身内の名前であったり、あるいは英国側がこの命名を問題視して外交上の懸念が生じていたり、ということならば、まだ理解できなくもないが、特段の問題がないにもかかわらず、このような抗議・批判をすることは、正直に言って常軌を逸していると思わざるを得ない。

公募で第一位の名前が「シャーロット」になったのであれば、それを尊重するのが当然だ。でなければ公募する意味はないし、最初から別の可愛い女性名を動物園側が付ければ良い話である。公募して結果を発表した以上、回避するほうが信用失墜になろう。

私は個人的には、一連の経過を眺めて、サルの命名は「シャーロット」で何の問題はないと考える。園側の良識を期待したい。

ところで、このような「言霊」に呪縛された人々は、私たちの介護業界にも少なからず存在する。その好例が、「認知症」を利用者に伝えない支援者である。

以前のエントリー、「なぜ利用者の『認知症』を本人に伝えられないのか?」で、支援者の側に差別的感覚が内在する状況について述べたが、ここに大きく影を落としているのが、実は「言霊」なのである。

「認知症」の言葉は、たとえば「慢性胃炎」や「腰椎すべり症」や「緑内障」などの疾患と同様、一つの疾患名である。その診断名が付いたからと言って、その人物の人格には何の影響もないはずなのだ。

ところが、支援する側が言霊の呪縛によって、脳の疾患である「認知症」の言葉があたかも相手の人格をおとしめる言葉であるかのように感じてしまうと、その疾患名を当の本人である利用者に伝えることを躊躇してしまう。だから面と向かって「認知症」だと言えず、結果的に利用者をごまかすことになってしまうのである。こちらのほうが利用者に対して失礼だというのが、私の考えだ。

利用者を尊敬しているからこそ、医師から診断された疾患名「認知症」を正しく伝えて、一緒に生活課題を明らめていくことができる支援者でありたい。

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