歴史上のマイナー王朝(1)
中国古代の史書をひもときたくなり、『南斉書(なんせいしょ)』をめくっている。
「南斉」とは、少しあとの「北斉」と対比した呼び方で、本来の国名は「斉」。中国(漢民族支配地域)の南半分を領有した王朝だが、存続したのは479年から502年。足掛け二十四年の短命王朝で、その存続した時期に限るならば、歴史に名を残すほどの著名な人物も出ていない。
だが、意外にも私が幼少のころ愛読していた世界史の本に載っていた画像に、この南斉の建国者が描かれていたのだ。いまは処分してしまったので、残っていないのだが。
倭の五王、と言えばご存知の方も多いと思う。子ども向きにわかりやすく編集されたその本には、最後に登場する倭王「武(雄略天皇に比定されている)」が南朝の「宋」に送った使節が、宋の皇帝=順帝(じゅんてい)に謁見する場面の絵が描かれていた。その順帝のすぐ下段に、順帝より偉そうな顔をした年輩のヒゲ男が立っていた。
その人の名は蕭道成(しょうどうせい)。このとき、すでに宋の政治の全権を握っており、倭王武の使節をもてなしたのも、実質的にはこの人物であった。ほどなく順帝を廃位した蕭道成は、皇帝に即位して南斉の高帝(こうてい。位479-482)となる。
自分が中国古代史に興味を持ったのは、中学生のときだったが、高校生ぐらいになって、そのボロボロの本を取り出してみて、皇帝よりも偉そうな男が次の王朝の開祖なのだと、ようやくわかったものだ。倭王武の使節も、「宰相の蕭道成に徳があって偉大だから、遠方の国がわざわざ使者を遣わしたのだ」といった権威づけに利用されたろう。
建国してからの南斉王朝、前期の十三年は平穏だったものの、後期の十一年は、宗室(皇族)や大臣の殺し合いが絶えず、蕭氏の遠い一族である蕭衍(しょうえん)に取って代わられてしまった。この蕭衍が梁(りょう)の武帝であり、以後半世紀近く江南を統治する人物である。
しかし、梁代に活躍する政治家や文人たちは、実は南斉時代、蕭子良(しょうしりょう。460-494。高帝の孫)のサロンに集まり、文化的センスを養われた人物が少なくない。上の画像は「竟陵王〔蕭〕子良伝」の冒頭部分。蕭衍をはじめ、范雲(はんうん)、沈約(しんやく)、任昉(じんぼう)など、みなこのサロン育ちである。この蕭子良の没後、南斉王朝は内部崩壊してしまったが、その後継者たちが六世紀前半に、南朝の仏教文化を花開かせたのだ。
歴史上はマイナーな存在であっても、形を変えて影響を残した王朝が散見される。機会を見て、そういった王朝の歴史をたどってみたい。
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