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2015年9月

2015年9月29日 (火)

ファンドレイジング‐コストとは?

あくまでも個人的な好き嫌いであるが、日本テレビの「24時間テレビ」は嫌いだ。理由は、障害や難病など、社会的な困難を有する人たちにスポットを当てながらも、結果的には「感動の押し売り」になっている面が強いと感じるからだ。

また、日本ユニセフ協会(狭義のユニセフ機関の一部ではないが、ユニセフと協定を結んだ国内委員会であり、広義のユニセフ関連機関である)や、その大使(同じく国内委員会の大使)になっている芸能人・随筆家の女性A氏(香港出身)も嫌いだ。理由は、政治的利害を超越しているはずのユニセフの名を冠しながら、同協会やA氏がチベット人やウイグル人の迫害されている子どもたちに対して、事実上の無視を決め込んでいる姿勢が、私の人権感覚と著しく乖離しているからだ。

つまり、私が日テレの24時間TVや日本ユニセフ協会・A大使を嫌うのは、単純にこれらの組織が自分の思想・行動方針と異なる方向を向いていることによるものである。

ところが、別の理由でこの両者を嫌っている、それどころか批判している人たちがいる。組織そのものの運営に問題があるという理由だ。

一言で表現すれば「お金」の問題である。

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「24時間TVは、出演するタレントたちに高額のギャラを払っている」「日本ユニセフ協会は、A氏など活動に従事するメンバーに多額の活動報酬を払っている」といった類の批判だ。

まず、結論から言えば、「チャリティーは無償であるべき」との通念のほうが、国際標準から乖離していると言うことができる。

「ファンドレイジング‐コスト(fund-raising cost)」なる言葉をご存知だろうか?

寄付金などの資金を集めるために必要な経費のことである。どのような組織やイベントでも、募金活動に携わる人は、そのために時間と労力をかける。特に看板になる人は、その知名度や地位や技術が高いほど、それを得るまでの「原資」もかかっている。これに見合う対価もファンドレイジング‐コストに含まれる。

ここに経費をしっかりかけることは、スタッフの無償奉仕に依存する体質から誘発される、ブラック労働状態を防ぐためにも、大切なことなのだ。また、一部の富裕な活動家の資産からの「持ち出し」を抑制することは、活動の組織的な基盤を固めることにもつながる。

もちろん、経費をかけても良いからと言って、90万円のコストをかけて100万円の寄付を集めても良いわけではない。国連が設定したファンドレイジング‐コストの目安では、寄付金の25%程度が上限とされている。100万円の寄付を集めるのなら、コストは25万円程度で収めるべきということだ。

国連の規定は一つの国際基準であるので、もし向き合う社会問題がとても深刻であり、その解決のためには多くの人たちが協力してより多くの資金を調達しなければならず、結果的に経費が過大になってしまったとしても、客観的に許容される範囲であれば、25%を超えた状態が継続する場合も起こり得る。

さて、この基準に照らした場合、日テレの24時間TVも、日本ユニセフ協会(こちらは本部のユニセフが国連機関なので当然だが)も、ファンドレイジング‐コストは、25%の範囲内にとどまっている。前者であれば有名人のギャラ、後者であれば大使や職員の活動費を引き合いに出して、イカサマとかインチキとかいう人たちがいるが、少なくともファンドレイジング‐コストの割合だけから見れば、これは不当な批判である。

ただし、募金活動のファンドレイジング‐コストは公開され、寄付協力者への説明責任がしっかり果たされるべき社会的責任がある。私自身は上の二つの募金は「個人的に嫌い」なため協力していないので、収支報告を見ることもないが、もし寄付協力者が収支報告を閲覧して不審に思う点があれば、質問を送るか、より適切な形での開示を求めれば良い。

しかるべき段取りによる裏付けも取らずに、「募金活動でもうけている人がいる」との誹謗中傷が広がれば、その人たちの社会貢献の功績の部分を軽視し、人間性を貶めるような誤った評価が定着しかねない。先日、上に記した日本ユニセフ協会のA氏に対する殺害予告事件が発生し、犯人である15歳の少年は、予告文で「児童ポルノを認めよ」と言っていたものの、警察から取り調べを受けると「慈善事業をしているのに裕福な生活をしているのが許せない」と供述したという。

これがどこまで本音なのかわからない。しかし、大人がネットで繰り返している心無い行為が、少年の心までゆがめてしまうことは、他の犯罪例などからも窺える。偏った価値観をネットで垂れ流すことは、将来の日本を担う世代にも悪影響を与えるのだ。

ファンドレイジング‐コストの概念を日本の一般市民の間に浸透させることは、今後のチャリティやNPO・NGOの活動を促進するためにも、たいへん重要である。経費をかけても、お金が一般の市民から活動組織を経由して、社会的不利を抱える市民へと流れる仕組みを確立させていくことは、日本国内の格差解消にも必ずや役に立つものと信じている。

2015年9月22日 (火)

上司や上位者をどう呼ぶか?

みなさんの勤務先や所属組織で、通常、すべての構成員が完全にフラットということはないと思う。上司-部下、あるいは職位や席次の上位-下位の差がどこかに存在する。

そのような中、部下や下位の人が、上司や上位の人をどう呼んでいるだろうか? 肩書で呼ぶのか、それとも「○○さん」なのか・・・。

先日、FBの友達になっている方々に、こんなことを問いかけてみたところ、多くの方々が回答を寄せてくださった。

まず、介護サービス関係の組織(施設とか事業所とか)では、肩書で呼ぶほうが一般的である。「事務長」「課長」といった具合だ。私的に呼ぶ場合には「○○さん」だというところや、状況によって使い分けるというところもあったが、外部の人の前では、多くの組織が上司・上位者を肩書で呼んでいるという回答結果だった。

仕事をして業務上の対価を得る組織であれば、対外的に責任を持つための秩序も大切であるから、肩書で呼ぶべきだとの通念もいまだに強いことが窺える。ただ、それが慣例になっているから、職場によっては、肩書で呼ばれないと機嫌を悪くする上司もいるらしい。もちろん、多くの職場では、そうしながらも互いの雰囲気が堅苦しくならないように努めていることであろう。

また、NPOなどの互助、共助的な組織では、「○○さん」のほうが主流のようだ。もともと同格の仲間が集まって組織を結成しているとの性格も強く、対等な立場でのパートナーシップを心掛けている点もあろう。肩書がかえって役職依存を誘発するというご意見もあった。

そのほかのご意見としては、人として付き合うのであれば「○○さん」のほうが望ましい、昇進するとは限らないから肩書だと呼びにくくなる場合がある、呼び方を規律化するのは時代遅れでは、などなど。

このようにさまざまなご意見をいただき、私もたいへん参考になった。

仕事そのものに当たらない業界団体や、仕事を離れた趣味活動組織などでは、肩書で呼ぶとフランクなお付き合いができないので、「○○さん」が一般的になる。民主的な組織では自然な流れと言えよう。

しかし、ひとたび仕事となると、以前も述べた「言霊」の影響から、職場の上司や上位者は名前で呼ぶのを回避するという、日本人のメンタリティが根強いことも確かだ。だから、日本では名字で呼ぶことさえ抵抗を感じる雰囲気のところが少なくない。欧米では当たり前であるファーストネームでの呼称も、日本社会で浸透していくのは遠い先のことかも知れない。

大きな企業でも、時代の流れとの考えから、「○○さん」を奨励しているところがある。ただし、それを一部門だけで推進してしまうと、かえってトラブルの元になる。他の部門では「課長」と呼ばれていた人が、異動するや否や「○○さん」になってしまえば、当惑するのは当然だ。実践するのなら全組織で合意のもとに推進することが望ましいだろう。

ちなみに、FBにおいて私は、特定の団体構成員に限った組織を除き、他の方を「○○さん」と呼ぶことで統一している(もちろん、個別のメッセージやメールでは、宛先の相手次第で「先生」など適宜呼び方は変えている)。SNSは個人と個人との対等な交流の場であるから、肩書はそれを妨げるものというのが私の意見だ。

また、「先生」と「先生でない人」など、どこで線を引くか苦慮することもあり、過剰な配慮が面倒になるかも知れないからだ。カトリック教会の最高教父であるローマ教皇様に言及するときも、「フランシスコさん(=教皇聖下)」と、注記した上で「さん」付けすることになろう。信者でない人から見れば、ただの一外国人(国家元首と同等ではあるが)でしかないのだから。

FBで業界団体の役職にある人を、その下位にある複数の構成員たちが、当たり前のように肩書(または名字+肩書)で呼んでいるのを見ると、正直、何とも堅苦しく感じる。SNSぐらいは裃を脱げば?と思ってしまう。もちろん呼ぶ側の考え方なので、呼ばれた当人に問題があるわけではないのだが。

上司や上位者の呼び方一つ取っても、なかなか奥が深いようだ。今後、これも研究の題材になりそうである。

2015年9月16日 (水)

歴史上のマイナー王朝(2)

ちょっと名前を聞いただけでは、いつの時代、どこの国の王朝かわからないような存在もある。

「ターネーサル(いまのインド・ハリヤナ州内)のプシヤブーティ王家」???

これを見ただけでは、何のことかチンプンカンプンな方が多いと思うが、

「ハルシャヴァルダナ(590-647、位606-647)」と言えば、ピンとくる方も多いのではないだろうか? インド古代から中世にかけての分裂時代、一時的に北インドを統一した国王である。政治家であるとともに、サンスクリットの詩作など文化人としても一流の人物であり、また仏教を厚く信奉した。

そして、この国王が何よりも知られているのは、630年頃に唐から経典を求めて訪れた僧・玄奘(三蔵。602-664)を手厚くもてなしたことである。玄奘はナーランダ学院に5年間滞在して修行したのち、膨大な仏教経典を唐へ持ち帰り、『大唐西域記』を著述して後世に残した。これを機にハルシャヴァルダナは「戒日王(シーラーディティヤ)」として中国文献にも記されることになった。

プシヤブーティ王家は、6世紀前半のナラヴァルダナに始まるとされる。はじめはターネーサル周辺を治める小王家に過ぎなかったが、次第に勢力を拡大、四代目のプラバーカラヴァルダナ(位585頃-605)のとき、周辺の国々を制圧して領土を大きく東西に広げた。続く五代目のラージヤヴァルダナ2世(位605-606)は、さらに東進してベンガルのシャシャーンカ王と対峙したが、暗殺された。

弟のハルシャヴァルダナが六代目の国王として後を継ぎ、隣国マウカリ朝の継承権をも獲得して、都をカニヤークブジャ(カナウジ)に移転、ベンガルを攻め併合して、北インド一帯を統一した。王一代の間、国は安泰で殷盛を誇った。歴代国王の名前に「ヴァルダナ」が付くので、一般的にヴァルダナ朝とも称されている。

ハルシャヴァルダナが647年に没したとき、後継者がいなかったため、王国はたちまち混乱状態に入り、領土は分裂状態となった。家臣のアルナシュヴァが一時王位に即いたことが知られているが、プシヤブーティ家の後裔がどうなったのか、杳として伝わっていない。歴史の闇に埋もれてしまったようだ。

2015年9月12日 (土)

二分割思考の落とし穴

このたびの大雨により、当地・浜松では、一部地区に冠水があったものの、被害は少なかった。他方、茨城県をはじめ、北関東や南東北のいくつもの地域が、河川の堤防の決壊、冠水などにより、甚大な被害を受けた。水害被災地の方々には、心からお見舞いを申し上げたい。

さて、このようなときに決まって登場するのが、メディアやネットを媒介にした、「犯人は〇〇だ!」型の論説である。特に事案発生直後は、飛び交う情報も玉石混淆であるから、なおさらこの類の論説が大手を振ってまかり通ることになりやすい。

今回の水害について言えば、おもに前政権に連なる人たちが非難の対象とされている。具体的には、防災に関する公共事業を仕分けした人たち、自衛隊(救助に当たる人たち)にかける費用を削減した人たち、太陽光発電を推進した人たちや、それらの政策に乗って実際に作業をした人たち、たとえば堤防を削ってソーラーパネルを設置した事業者などが標的として叩かれている(逆に、現政権側で非難されている人たちもいるが、概して少数である)。その中で、個人名や事業者名まで槍玉に上がっている。

特に、いま安全保障法案に関して現政権が反対派側(前政権側を含む)からの強い批判にさらされているだけに、このたびの水害は、政権を支持する人たちが反撃して前政権側の「愚策」を批判する格好の材料になっている。

もちろん、上に挙げた人たちの多くには、それぞれ責任の一端はあるだろう。政権を取った驕り、政権に連なる驕りから、長期的な展望を欠いた施策や事業を一方的に推進した人たちもいることは確かである。良かれと思って推進したことが裏目に出て、拙策となってしまった面もあるかも知れない。

しかし、特定の政党や事業者を「犯人」として叩く考え方は、「情報を操作したい」人たちの罠に陥りやすいのだ。

これは日本人に特有な思考体系であり、「二分割思考」と呼ばれている。白と黒、善と悪、正と邪、純と不純などが代表的なものである。

「悪玉」を叩くことで、「善玉」を支持する市民は快哉を叫ぶ。しかし次に起こるのは、「悪玉」を排除する運動である。たとえば、政策の思惑と関係なく、科学的な論証に基づいて真面目に(住民に迷惑を掛けずに)太陽光発電を推進したい事業者が、地域で不当な権利侵害を受ける。あるいは、客観的な根拠に基づいて、自衛隊の本当に不要な設備の削減を主張した論者が、ネットで攻撃されて炎上する。

また、「悪玉」=「真犯人」ではないことが多い。今回の水害も、巨視的に見れば地球温暖化の大きな影響の一つとして、日本上空に線状降水帯が発生したことによるものである。この気候変化を作り出したのは、長期的に温室効果ガスを排出してきた、日本を含む先進国の国民すべてである。一定以上の年齢の人であれば、あなたも、私も犯人の一人ということになる。

この気候変化が不可逆的なものであれば、犯人探しよりも、より被害を少なくする減災対策が急がれるものであり、悪玉を叩いている暇があったら、国民全員で効果的な対策を議論していくほうがよほど建設的だ。もちろん、まさしく既往の愚策や拙策があれば、これを望ましい方向へ転換させていかなければならないのは当然であろう。悪玉叩きがくだらないと言っても、批判された人たちが現実を無視して開き直っても(誤ったことを続けても)構わないと言っているのではない。

私が強調したいのは、市民の思考が誤った認識に基づいて進展してしまうと、事案の根本的な解決から遠ざかってしまうということだ。「二分割思考」にはそのような落とし穴があることを、多くの人たちに理解してもらいたいのである。

この「二分割思考」についても、近刊の自著(第7章)で述べておいた。世に出るまで、いましばらくお待ちいただきたい。

2015年9月 7日 (月)

部分的介護就労

介護業界の人材不足が著しい。全国的に、人材どころか人員不足と言うべき状況に陥っており、各地で介護事業に携わる人たちの悲痛な声を、毎日のように耳にしている。

この状況をどうすれば打開できるのか?

介護サービスの外部評価事業を営む某社長が言う。「あなたたち、人材不足人材不足って言うけど、ダメなケアマネさんっていっぱいいるでしょ? そういう人が介護福祉士とか看護師とか、もとの仕事に戻れば、人材不足だって少しは解消されるんじゃないですか!」

厳しい言葉だが、その通りだとうなづける面は確かにある。ただし、それだけでは解決にならないことも現実である。

かと言って、東京都稲城市などで始められている、シニア世代のポイント制ボランティアにも、限界がある。何よりもボランティアとなると、事業所側にも相応の配慮が必要で、任せておけば良いものでもない。マッチングが悪いと、かえって事業所側の負担を増やしてしまう。その種のトラブルが、すでに起こっているかも知れない。

また、外国人労働者に安易に頼る考え方もいただけない。個人的には労働力の国際化(→グローバリゼーション)の流れは歓迎したいが、EPAに基づいて日本で就労したい外国人への門戸があまりにも狭い(英語圏の国々に比べると、言葉の壁も大きい)。他方で、外国人技能実習制度の業種拡大は、これまでの同制度の運用経緯から考えても、劣悪な介護労働環境を招く危険がある。私もこちらには反対である。

そこで私が提唱したいのが「部分的介護就労」だ。

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と言っても、目新しい戦略を述べているのではない。すでに各地で前述の事態を憂慮する心ある人たちによって、いろいろと先駆的な実践がなされており、これは私がそれらを総称した造語に過ぎない。あるいは、すでに他の論者が適切な用語を使っておられるのかも知れない。ご存知の方はご一報いただければ幸いである。

極端に言えば、国民のすべてが、「人生の一時期に」もしくは「生活の一部分で」介護業界に就労するシステムを実現しようという考え方である。全国レベルでの制度化となると簡単にいくものではないが、地域に合った促進運動を展開して浸透させることは、それほど難しくないと思う。

奨学金をもらえれば介護現場を経験したい学生もいれば、自営業の傍ら介護の仕事を兼業したい社会人もいるだろう。形態はさまざまかも知れないが、みんなが「介護現場の実態を知る」ことによって、自分にできることは何か、そして、自分が変わることで日本の介護を変えられないか、考える機会になる。現場を「知る」人が増えることによって、一知半解の論者による介護に対するネガティブ‐キャンペーンを抑止する効果もある。

これについては、近々刊行される予定の拙著(書名未公開)でも、最終章の一部を割いて解説しておいた。

「部分的介護就労」。まずはあなたの身近な人たちに勧めてみませんか?

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