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2015年10月

2015年10月30日 (金)

歴史上のマイナー王朝(3)

天山ウイグル国(848以前-1318以後)という王朝の名前をご存知だろうか?

ウイグル人が初めて東トルキスタン(現在は中華人民共和国が実効支配している)を領土として建設した国家である。

モンゴル高原を支配する一大勢力であった遊牧ウイグル国家(744-840)は、異常気象や内紛のために統治能力を失い、キルギス人の侵入により最後の君主ホーサー‐テギンが840年に殺害され、瓦解、四分五裂した。

ホーサー‐テギンの親族であったパン‐テギンは、自派の諸部族を率いて混乱から逃れ、南西に進んでユルドゥズ高原を支配し、新天地に国家を建設した。これが天山ウイグル国である。866年以降は、ビシュ‐バリクが王城となり、パン‐テギン本人か次代か執政かと思われるブグ‐シュンなる人物が、統治者としての地位を確立したとされる。

パン‐テギンの没年は知られておらず、その後の君主も系図などは不明である。歴代王の称号として、「第四国ビルゲ天王(→954年前後)」「アルスラン(獅子)スュンギュリュグ(槍)カガン(→983年前後)」「ボギュ(賢)ビルゲ天王(→996年以降)」「コルトレ‐ヤルク(麗輝)テングリケン(→1007年以降)」「第三のアルスラン‐ビルゲ‐ハン(→1019年前後)」「テングリ‐ウイグル‐テングリケン(→1067年前後)」といった名前が知られているが、いずれも本名ではない。ビシュ‐バリクの仏教寺院の跡には、壁画の一部に11世紀中葉かと推測される「トゥグミシュ」を名乗る王の肖像が遺されている。これが「アルスラン‐ビルゲ‐ハン」と同一人物なのか、わからない。

かと言って、この王朝は闇に埋もれているわけでは全くない。むしろ漢民族王朝に朝貢しなくなったために、中国文献に詳細が残らなかったのだ。ウイグル人自らも、文字による記録をあまり残さず、文献史料は乏しい。しかしこの地には独自の仏教文化が花開き、シルクロード貿易の要衝として繁栄した。オアシス都市であるビシュ‐バリクを中心に、草原を占めて農耕社会が展開されていった。

対外的には、キタン王朝(契丹、西遼)の緩い圧力のもとに置かれることもあったが、おおむね独立を保っていた。13世紀に入ってモンゴルが勃興すると、天山ウイグル国はその傘下に入り、君主バルチュク‐アルト‐ティギン(?-1229以降)はチンギス‐ハンの養子の扱いを受け、厚遇された。しかしそれとは裏腹に、天山ウイグル国はモンゴルの大勢力に吸収される道をたどり、国家は衰退して消滅に至った。

民族国家は消滅したが、ウイグル人は東トルキスタンでオアシス生活を営み、やがて14世紀には急速にイスラーム化して、18世紀までチャガタイ系ハン国やジュンガルなどによる統治を受けた。1759年に「多民族国家」清王朝により征服され、新疆と命名された。

そして、はっきり言えることは、前近代において東トルキスタンのウイグル人が「漢民族国家」の統治下に置かれたことは一度もないということだ。にもかかわらず、孫文政権は清王朝の全領土を中華民国のものだと宣言し、毛沢東政権は旧ソ連との「取引」によって東トルキスタンを領有し、現在に至っている。チベットの場合と大同小異である。「歴史を直視」しなければならないのは、日本だけではないことは明らかであろう。

ウイグルの歴史を通して、民族とは何かという問題を三思してみたい。

2015年10月18日 (日)

秋、旅の季節...

ここ数年、地球温暖化の影響が大きく、天候不順が珍しくない。特に「春らしい春」や「秋らしい秋」の日が少なくなり、「異様に暑い」「異様に寒い」日が増えているようだ。降水の際の豪雨が多くなり、直前のエントリーでも触れた町など、日本各地で被害をもたらしているのも心配である。昔ながらの日本らしい気候が、大幅に変容しつつある。

まだ気候が比較的安定していた時代、40代前半の頃まで、私は一人で日本の各地を旅行するのが好きであった。多くは二泊三日から四泊五日の旅程であり、日本の47都道府県全部に、少なくとも一回は足を踏み入れている。特に9月後半から11月前半は行楽日和になることが多く、途中で少し雨に降られても、それもまた一つの旅の風情として、楽しむことができた。

関心が強かったのは、東北の内陸から西側、北陸の東半、山陽、南九州などで、これらの地域にはそれぞれ何度も旅行している。城(跡)や城下町の歴史を味わい、キリシタンにゆかりのある史跡で先達の苦難を思い、豊かな自然の彩りを眺めながら、地元名産の食べ物を味わうのが楽しみであった。

自分の足で城に登り、街並みを巡り、移動は鉄道とバスが基本であったが、接続が悪い土地もあるので、出発前に時刻表を確認して行程を組み、原則としてそれに従って行動した。土産物は最終日の前日に買うことが多かった。

夜は、おいしいお酒を飲めるレストランをあらかじめ調べておき、ゆっくり時間を掛けて、心ゆくまで郷土料理を満喫した。場所によっては、カウンターで土地の人たちとしゃべりながら時を過ごすこともあった。夕食を済ませると、宿に落ち着き、持ち込んだ本を寝転がって読んだ。その土地に関係する歴史ものが多く、自宅であまり目を通す時間がなかった本を、好い機会とばかり読みふけったものだ。

20150919kaerimichi

この絵は知人の画家・中村晴信さん(現在は京都在住)が十数年前に初めて個展を開かれたとき、購入した作品「帰り路」である。私がしばしば旅先でその日の行程を終え、夕日を受けながら宿に向かっていたときの風景と重なっており、大切に所蔵している絵画である。

最近、別に旅行が嫌いになったわけではないのだが、静岡県外まで出かける機会が大幅に減っている。母の体調変動があるため、二泊以上は家を空けられないのも大きい。この秋も、もっぱら自宅と事務所との往復、事務所と静岡市内(所属・関係団体)との往復が多いので、あまり変わり映えのない風景ばかり目にしている毎日だ。旅行の予定は入っておらず、県外へ行く予定は名古屋ぐらいか。

とはいえ、今後も機会があれば、自分の流儀でまだ見たことのない土地の歴史や自然を楽しみに出かけたい。もちろん、旅行ということではなく、研修の講師などに呼んでいただければ、母の見守りも人に依頼するなどして、極力(一泊二日以内なら)ご要望に応じたいと考えている。この場合はもちろん仕事であるから、旅行のほうは付けたりであるが、そのような機会に他の土地の人情に触れるのも、また一つの醍醐味だと思っている。

★お知らせ

10月7日に発刊されました私の著書『これでいいのか?日本の介護-あなた自身が社会を変える』につきまして、出版社から取次会社を経由する配本システム上の事情により、特にネット書店での取り扱いが大幅に遅れ、ネット注文を希望された方々にご不便や混乱をおかけしていますことについては、恐縮千万に存じております。
本日現在、セブンネット、エルパカ、楽天、アマゾン等の大手のネット書店では、すでに注文を受け付けてくださっています。一時的に在庫切れになっていても、もちろん出版社には在庫がありますので、ご注文を入れてくださって構いません。ネット書店でも一般書店でも、日数はかかってしまいますが、基本的にお手元に届くはずですので、よろしくお願い申し上げます。
全国の都道府県庁所在地近くにお住まい、またはお仕事をお持ちの方は、庁舎のすぐ近くに官報販売所がありますので、いまなら手に取って内容を見てからお買い求めいただける可能性が強いと思います(そもそも官報販売所で取り扱ってくれること自体が、本書の信用度を示していることをご理解ください。そのため、不穏当な表現の手直しなど、原稿の手入れは何か所もしていますが・・・)。

2015年10月12日 (月)

男性とデート?した話

正直に言うと、学生時代に女性とのデート経験皆無(-_-;)だった私であるが、なぜか、「男性」とは一度だけデートした?ことがある(@_@;)。日本社会事業学校研究科在学当時のことで、研究科が原宿にあった時代である。

と言っても、デートの場所は原宿ではない。なんと山中湖だった。

当時の研究科は就学一年間で、先輩が修了したあと自分たちが入学し、自分たちが修了したあと後輩が入学するという、縦のつながりがないクラスであったから、同期生だけが何かの機会に屯(たむろ)することは結構多かった。同期生は30人ぐらいいただろうか。私は大学入学のとき一浪しているので、年齢的には上から数えたほうが早かったが、研究科には四年制大学を卒業した人であれば(入試に合格しなければならなかったが)誰でも入学できたから、自分より何歳も上の社会人が5人ほど一緒に学んでいた。

「デート相手?」になった「彼」もその一人である。私より7歳上であり、国会議員であったご父君の秘書をしていた。すでに社会人として仕事をしながら、研究科に通っていたわけだから、バイトらしいバイトもせずに学生気分を満喫していた当時の私にとっては、ある意味、尊敬すべき人であった。

「デート」のときは、「彼」と二人だけで山中湖へ行ったわけではない。同期生が十数人連れ立って山梨県まで「老人福祉論」の合宿に出向いたのだ。そのとき「彼」のほうが、「アワちゃん、ボートで山中湖へ出てみないか?」と誘ってきたのである。自分はオールを握ったこともないし、しかもタイミングから言えば、つい一か月ほど前に、飲酒した学生二人が山中湖でボート操作をしくじって溺死しているので、最悪だったのだが。

「ボート漕げないので」と遠慮したものの、「彼」から「ぼくが教えてやるから、やってみよう」と強く勧められて、付き合うことになった。二人でいざ山中湖へ! ボートに乗って漕ぎ出すと、「彼」のオールさばきはさすがに慣れたものだった。湖中へしばらく行ったところで、物は試し! と替わらせてもらう。「彼」にてほどきを受けながら、かろうじてオールを操作していたが、なにぶん初心者なので、しばらく漕ぐと腕も神経も疲れてきた。それを見た「彼」が頃合いと判断したのか、また漕ぎ役を替わってくれて、湖岸に戻って「デート」は終了となった。

念のため、「彼」と私とは決して特別な関係ではなかったことを、お断りしておく(^^;)

さて、楽しかった研究科の一年が終わり、同じ釜の飯を食った仲間たちは、それぞれの働く現場を求めて、全国に散開していった。「彼」も私もである。

その後、「彼」に会ったのは一度しかない。たまたま国立国会図書館まで調べものに行った私が、永田町で地下鉄を待っていた「彼」と出くわしたのだ。それが最後で、以来20年以上会っていない。

「彼」は地元の地方政界で地盤を固め、平成になってからは出身地の市会議員を長く務めた。旧・社会党の出身で、私とは政治思想は噛み合わなかったから、私も「彼」の動向には特段関心を払っていたわけではなく、たまに流れてくるニュースで名前を聞く程度であった。とは言え、「彼」は多忙な中でわざわざ一年を割いて「社会福祉」全般を学ぶなど、政策云々より目の前にある社会問題の根幹を踏まえて前進していたから、決して「政治屋」ではなく、真の「政治家」であったことは確かだ。

そして、「彼」は、前の市長の「ハコモノ行政」への批判を展開し、2012年に市長選に打って出た結果、多数の市民の支持を得て当選した。

市長として「彼」の政策は、これまで長年培った基盤に根差したものであった。作っただけで維持管理がかかるハコモノの計画を見直し、これまでの利権にしっかりとメスを入れた。無駄な経費を削って、福祉、医療、教育など生活に密着した部分に必要な市税を投入した。企業誘致や、健康予防施策からもたらされた市民生活の安定が、公助による経費の節約を促進し、三年間で市の借金を10億単位で減らすことに成功した。さらに市役所の日曜開庁まで実現させた。多くの地方自治体では簡単に踏み込めない課題をいくつも解決するという、輝かしい成果を上げた。

ただ、政治というものに付きものであるが、これだけの大改革をするには、反対する側の経済基盤(利権)を突き崩す必要がある。そのためには、自分の支持基盤を固めなければならない。「彼」は自分の支持層側に配慮し、妥協しなければならず、そこに新たな利権が生まれるのを(将来はともかく、当面は)容認せざるを得なかったと思う。いまになって「拙策」「愚策」と称されている部分には、そのような事情も介在したものと推測される。真の民意が総意となってすべてを動かしていくまでには、何ごとにも段階があるのだ。

「彼」の不運は、その段階の途上、せっかく自分流の市政が軌道に乗ってきた途上で、予測できない豪雨に見舞われ、河川が決壊し、広大な地域が大災害を被ってしまったことである。「彼」にとって、泣くに泣けない事態であろう。

ただ、何よりも問題なのは、このような状況の中で、意図的に市民の偏見や分裂を煽るような風評をネットで展開している輩がいることである。「市長は反日サヨクだ」「○○の利権が諸悪の根源」「行政の不手際が水害後の人災」「外国人が空き家を狙っている」などなど。根拠があると称しながら、実際は無責任な誹謗中傷の発信源になっている連中、そしてそれに快哉を叫んで拡散している連中、おそらくそのほとんどは、当事者である市民とは無関係の人間であろう(炎上目的のブロガー等もいるだろう)。そしてそれらの風評に煽られ、同じく被災者である市民同士でありながら、互いに疑心暗鬼になって、相手を不信の目で見てしまう事態も生じている。憂慮すべきことだ。

いま「彼」と市の職員は一丸となって、この非常事態から市政を建て直し、復興させるため、可能な限りの努力をしている。確かに、一部の市民は、いまや「彼」の施策に低い評価しか与えていないかも知れない。しかし、いま市民の間で不毛な派閥争いをしているような場合ではないことは、当事者である市民の多くが誰よりもよくわかっているであろう。

災害前には「彼」の問題点をいろいろ指摘して注文を付けていた市民オンブズマンさえも、行政施策に有益な提案をしつつ、協力する姿勢を強めている。風評による市民の分裂を憂慮したNPO団体などの努力で、外国人への偏見なども解消しつつある。思想や属性の違う人たちに対する不満や批判はあっても、復興のために何が大切なのか、多くの市民は理解してくれると信じたい。

前述の「輝かしい成果」も、「拙策」「愚策」も、来年8月の市長選挙で問われる。その審判を下すのは、主役である市民たちだ。無責任な風評を流す輩ではない。その選挙までの間、ひたすら復興に向けて取り組まなければならない「彼」と市民たちに対して、私たちはできる限りのことをしてあげようではないか。

茨城県・常総市長、高杉徹さんと、市民の皆さんを応援してください!

2015年10月 7日 (水)

30年の思い(4)

(前回より続く)

私が過去、講師やシンポジストとして招かれて行ったところは、それほど多くない。都府県の数から言っても、地元の静岡県、秋田県、茨城県、千葉県、東京都、神奈川県、長野県、愛知県、三重県、京都府と、十か所程度である。マイナーな講師としては、まあ身の丈に合った履歴であろう。それでもお呼びが掛かれば他県まで出向いて、自分の取り組みをお話しさせていただくことにより、介護業界で働く人たちの行動変容を促す機会になれば、嬉しいことである。

また、私は浜松市や静岡県におけるケアマネジャー連絡組織の役員も務めているため、当地に来訪される著名な講師の方をお迎えする立場にもある。いわば役得だが、私にとってはその方々を通じて視界や交流範囲を広げる良い機会になっている。

そして、現場が大切なのは言うまでもない。私自身、いま23人の利用者の方々のケアマネジメントを実施する立場でもある。頼りない私を頼りにしてくださる利用者の方々の思いを裏切らないように、日常業務を着実にこなしていきたいと思う。

長々とつづってきたが、私は曲がりなりにも、介護業界の現場で30年間仕事をしてきた。

きょう(2015年10月7日)、30年の集大成というべき第三作『これでいいのか?日本の介護 -あなた自身が社会を変える!』が、厚有出版から発刊される。いわば三部作の完結編としての意味合いを持つ。

政策、地方自治体、ケアマネジャー、介護職員、医療従事者、そして利用者である市民の、それぞれに関する課題を自分流に抽出して問題点を指摘し、さらに日本人、日本文化の根源的なもの、原理、思考形態、行動様式に迫った一冊である。

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この本のおもな特色を挙げておこう。

(1)介護業界外の方にも読んでいただける一般書である。

(2)大きめの文字で、視力に不安のある方にも読みやすくしている。

(3)参考文献を掲載せず、読者の主体的な思考を促している。

(4)日本人の思考形態や行動様式について、歴史を参照しながら記述している。

(5)各地でがんばっている仲間の取り組みを紹介している。

(6)各論で批判的記述を盛り込みながら、総論では市民、国民の団結を提唱している。

そして最後に、

(7)すべての読者がその日から行動に移せば、介護の未来は明るい! ・・・と大上段の構えを取ってみた!

このように、自分の知見や意見を書籍という形で発信できる私は、幸せ者だなあと思う。業界広しといえども、どれだけの人が同じことをさせてもらえるだろうかと顧みれば、この機会を多くの介護従事者たちのために活用していくことが、自分の使命だとも思える。

そのためには、もちろんこの本を媒介にして、政策提言などをしていく機会も持ちたいと考えている。次世代の介護を担う人たちを活かすために。

今後の私の役割は、「オレが、オレが、」と表に立つのではなく、むしろ一歩退いて、介護業界のニューリーダーたちを下支えしていくことであろう。現実、目の前には途切れ目のない支援を提供しなければならない利用者の方々の存在がある。また、私はスポーティーな業界仲間たちとは異なり、きょうは〇〇県、明日は□□県と、走り回ることができるほどタフではない。そのような役割は若い方々に譲って、自分が共感し、相通じることのできる人たちの活動をしっかり応援していくことが、これからの私が演じるべき役回りであろう。

業界内外の人たちの間には、見解の相違から深刻な対立関係を生んでしまった例もあるが、いまや大同団結が必要な時代だ。不毛な派閥争いをしているときではない。お互いに謙虚になり、他人の意見に耳を傾けながら、自分の意見を聴いてもらうように努めていくべき時代なのだ。

そのためには、勇気を持って「謝る」ことも必要だ。特に業界の著名な方々、指導的立場にある方々には、大切なときに多くの人たちと協働するために、たとえ相手の言動のほうにより大きな責任があると思っていても、どうか自分のほうから「譲って、手を差し伸べる」ことを心掛けていただきたい。

もちろん、率先して見本を示さなければならないのは(決して著名人ではないが)私自身だ。

「私が意図しなかったことや直接責任を負わないこと、あなたの側にも問題があったことを含め、私が発した言葉や行動によって、傷ついた方、不利益を受けた方、反発を覚えた方、一人ひとりにお詫びします。至らない私を許してください。
そして、わだかまりを乗り越え、立場を超えて、ご一緒に働かせてください」
(『これでいいのか?日本の介護』第12章より)

次は、これをお読みになったあなたの番だ。

互いを理解し合うことから、明日の介護に希望を!

介護業界30年選手としての、私の願いである。

(完)

2015年10月 5日 (月)

30年の思い(3)

(前回より続く)

そのような問題意識から、より広い地域で現状の変革に何かの形で寄与したいと考えてはいたのだが、もちろん一介のケアマネジャーが簡単にできる話ではなく、当県における介護支援専門員法定研修などの指導の中で、受講者に改善を促していく段階にとどまっていた。

全国レベルで独立・中立型ケアマネジャーの地位確立を目指して集中的に活動したことによって、自分自身が心身ともに疲れ切ってしまい、しばらくは「田舎に引っ込んでいた」ことも確かである。このころ、時代はどんどん移ろい、これまでネットで論壇を張っていた人たちのあとを承継していくような、業界のニューリーダーが次々と登場していたのだが、その人たちの動向もほとんど知らずにいた。ネットを駆使して他県の業界仲間と交流することも、あまりできない状況であった。

5年近く前に、同居している母が顔面神経麻痺を発症し、その通院介助のため大幅な時間と労力とを割かれてしまったことも、大きく影響している。中高年の独身男性が介護離職したり、情報弱者になっていったりすることが社会問題になっているが、まさに私自身が一時的ながらそれを実感する状況になってしまった(その後、母の状態は軽快し、完治とは言えないものの一応治癒したことで、私の負担はとりあえず解消された)。

そのような私に転機をもたらしたのが、厚有出版から著作の提案をいただいたことだ。これはもともと経済的に苦しい事業所の維持を目的として、50歳になってから「ケアマネジャー・介護・福祉職員のための作文教室」なる冊子、いわゆる「国語の本」を書き始めたことに発する。藤枝市で仕事をしている知人の社会福祉士の方が、「こんな冊子が出ている」と同社社長に話してくださり、注目した社長が私に提案してくださったという経過だ。

介護従事者の資質向上のために、「書く力」をテーマにした本を出してほしい、さらにこの流れで別のテーマを取り上げ、三冊目までは行けるのではないか、との同社長の希望に、私は半信半疑ながら応じることにした。せっかくこの業界でがんばってきた証として、「自分の本を世に出せる」ことへの喜びもあり、現状を少しでも打開する絶好の機会だと思ったこともある。企画出版で本を出すことができるのは、特段の著名な活動をしているか、もしくは元稿が存在するか、このどちらかにほとんど限られるのだが、自分は自費出版の冊子を出したことで、図らずも後者に該当していたわけである。

前の冊子はPRに際して北海道在住の業界著名ブロガー(特養施設長)の方のご協力をいただいたこともあり、いささか粗雑な部分があってもかなりの売れ行きを見せたが、今回は厚有出版の名前で著書を出すこともあり、整然とした構成が求められる。自分でも原稿を書き直し書き直し、四苦八苦しながら仕上げたが、厳しくも楽しい作業ではあった。

こうして、2012年9月に発刊されたのが、『介護職の文章作成術』である。

その次をどうするのか? 出版社との協議でテーマは「話し言葉」と決まり、自分自身が体験した現場の実例をもとに、登場する人たちの家族構成や性別を変えて架空事例を何十と作成してみた。介護従事者のための、それぞれのTPOに即したコミュニケーションの取り方を題材にして、カテゴリー分けをしながら構成してみた。

その結果、2013年8月に第二作『口のきき方で介護を変える! 支援に活かす会話55』を書き上げることができた。

この前後から、年に数回であるが、各地からセミナーの講義の依頼もいただき、細々とではあるが、自分の活動も再び「全国区」の体をなした形となる。

(次回へ続く)

2015年10月 4日 (日)

30年の思い(2)

(前回より続く)

まとまった文章を書くという作業は、簡単に見えて簡単ではない。普段から書き慣れていない人が、にわかに長文のレポートを仕上げようとしても、しっかりとした構成のレポートに完成させるのには、相当な苦労を必要とする。

私自身、仕事を離れた教会活動や市民活動に参加しながら文章作成能力を磨いたとは言え、常に異なった複数の立場で文章を書く機会を与えられていた職場の環境にも恵まれていたことは確かだ。15年余勤めた前勤務先の法人では、さまざまな制約により不本意な不完全燃焼を余儀なくされていたが、良かった点については正当に評価しておきたい。

さて、私は39歳から43歳まで、知人たちが運営していたNPO法人に「宿借り」する立場で、ケアマネジャーとして開業する形を採った。実際には最初の十か月ほどは準備期間であり、その間に前の勤務先を退職し、助走を経て事業所を開設した。自分が20代のときにはまだ何の縁もなかったインターネットが、この頃には誰もが使えるようになっており、開業に当たって介護保険に関するさまざまな情報を入手できたのは、いまさらながら大きな技術革新の賜物と言うべきか。

この間、NPO法人の仲間からバックアップしてもらえた一方、同法人の事務所留守番にも部分的に入り、他の事業にもお手伝い要員としてときどき出向いている。単に高齢者を対象とする仕事から自分の視点を外へ広げるのには、たいへん役に立った四年間であった。

開業したのは良いが、同業者として相談できる仲間がいないことは悩みの種であった。全国にも同じような仲間がいることには違いないのだが、30代の終わりになってようやく浜松市内のケアマネジャーの指導的立場になった私なので、同年代の業界著名人に比べると、非常に世間が狭い。そこでネット情報や知人の縁をたどって仲間を募った結果、全国で20人ほどの独立型ケアマネと連絡が取れたので、浜松でシンポジウムと「独立・中立型介護支援専門員全国協議会」の設立大会を開催した。

この弱小団体でしばらく代表を務めたことにより、結構全国各地を回るなど「散財」もしてしまったが、結果的にそれも「投資」となって、さまざまな立場の業界人とつながることができた。また、団体を代表する形で三回ほど厚生労働省へも赴き、小さな声ながら政策提言も提出している。私が代表を退いた後、団体自体はフェイドアウトしてしまったが、私自身としては次の転換のために良い経験だったと評価している。

Photo

43歳のとき、有限会社を設立して、居宅介護支援事業をそちらに移し、事務所も自分でマンションの一角を借りた。家主さんの二男さんが社会福祉士(いまは市の職員)で、私から見ると業界の後輩に当たるため、家主さんも何かと好意的な対応をしてくださり、たいへんありがたく思っている。

遅ればせながら、44歳から静岡県の介護支援専門員指導者の一人に加わり、全県レベルで後進の育成に当たることになった。何年か研修での指導(演習指導者、講師等)を続けているうちに、強く感じたのは、多くのケアマネジャーや介護職員が、保健・医療・福祉の狭い業界で生きてきたため、一般的な社会人としてのマナーに欠けていることである。業界の常識が世間の非常識になってしまっているのだ。

もちろん、この点では私自身も偉そうに言えたものではない。とあるマナー本を購入してチェックしたところ、できていたことが約4割、知っていたができていなかったことが約3割、そもそも知らなかったことが約3割であった。独立型ケアマネジャーとして、「客商売」に心がけていたはずの私でも、そんな体たらくだった。

(次回へ続く)

2015年10月 3日 (土)

30年の思い(1)

私が日本社会事業学校の研究科を修了し、特別養護老人ホームの「寮夫(当時の呼称)」として、初めて「老人福祉(当時の呼称)」の現場に職を得たのは、1985年5月7日、24歳のときのことだ。

それから30年。

時代は大きく変わり、いまや「介護」はさまざまな課題を抱えながら、日本社会の行く末を占う主題の一つになりつつある。

一人の現業員としての私の仕事のあり方も、この間に大きな変容を遂げてきた。

なかなか仕事が上達せず、失敗ばかり繰り返す無能な職員として、この仕事が本当に向いているのか自問自答していた、特養ホーム職員時代(24~31歳)。

部署が変わったことから、利用者本位とは何かを問い直し、職場の制約と現実のニーズとのはざまで悩みながら、本来あるべき仕事の形を模索していた、在宅介護支援センター職員時代(31~37歳)。

新たな制度に向けての準備、そして大きな変革への対応、激動の中で淘汰されないように必死で時の流れにしがみつきながら、自分を生かしていくための新たな突破口を探していた、居宅介護支援事業所(宮仕え当時)のケアマネジャー時代(37~39歳)。

Photo

事業所の中しか見えていなかった施設職員から、広く地域に目を向けるようになった在宅職員への転換という流れであった。地域の指導的立場であった同年代の他法人職員たちは、広く各地の業界仲間と活発に交流して、意欲的に情報交換をしていたが、私の場合は勤めていた法人の体質も影響して、鳴かず飛ばずの時期が長かった。

一つの大きな成果となったのは、この期間を通して法人の広報部門に関わっていたことであろう。文章を書くという技術を習得し、向上させたことは、その後の職業人生において、自分の流儀を特徴づけるものとなっていった。

(続く)

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