誘拐、外転、仮説形成
モーツァルトのオペラに「後宮からの誘拐=Die Entführung aus dem Serail」なる作品があることは、音楽関係者でなくてもご存知のことであろう。
ところで、このオペラのタイトルを英訳すると、"The Abduction from the Seraglio"になる。
「アブダクション」とは論理学で、「仮説形成」の意味に使われる。「ディダクション=deduction(演繹)」「インダクション=induction(帰納)」とともに、論証のための三段論法として活用されている。ケアマネジメントに関する論理的思考について、学術研究でもよく使われる用語であるが、その同じ単語に「誘拐」の意味が存在するとなると、いささか物騒だ。しかし現実には、北朝鮮による拉致被害なども「abduction」の用語で表記されている。
そこで、英和辞書で「abduction」を引いてみたところ、「仮説形成」「誘拐」以外に、「外転」の意味もあることがわかった。
では、それぞれの語源はどうなっているのだろう?
「誘拐」「外転」を意味する「abduction」は、「abduct(動詞)」に対応している。これはラテン語の「abducere」が語源であり、「外側へ転じさせる」、それが派生して「略取する」意味になる。
ところが、「仮説形成」を意味する「abduction」は、近代ラテン語「abductio」に基づくものであり、それはさらにギリシア語「アパゴーゲー」の訳だという。
面倒なことになったが、とにかく「アパゴーゲー」を辞書で引いてみた。すると、「外へ引っ張ること」の意味とは別に、「本来の場所に連れて行くこと、もとの所有者に戻す=支払うこと」などの意味があるのだ。
「魚は水中でしか生息できない」そして「A地域の断層には魚の化石がある」→だから「A地域は昔は海(または湖、川)だった」といった「アブダクション」を見ると、確かに「本来のところ」に落ち着くには違いない。前提次第で誤謬が生じる可能性もあるが、大枠で言えばギリシア語の語源の通りになる。C.S.パース(1839-1914)が命名した理由が何となくわかったような気がする。
それでは、「ディダクション」と「インダクション」はどうだろうか?
「deduction」→「演繹、推論」とともに、「差し引き」の意味もある。こちらは中世ラテン語から中世英語を経由して、二つの意味に分化したようだ。動詞では前者が「deduce」、後者が「deduct」と分別されている。
「induction」→「帰納、誘発」とともに、「導入、就任」の意味もある。これも同様、中世ラテン語→中世英語経由である。動詞では前者が「induce」、後者が「induct」である。
それでは、「abduction」には「abduce」という動詞があるのか? 調べてみたところ、近世には「abduce」があったのだが、後に「abduct」に同化してしまったらしい。これは「外転」のほうの意味を超えるものではない。
まとめると、「仮説形成」の「abduction」だけが近代になってから作られた単語であり、系統を異にしていると言えるのではないか。結果的に「誘拐」「外転」と同じ名詞で表記されはしたが、論理学の用語として定着したということだろう。
類似している三つの英語も、語源を考えると面白い相違が見られるものだ。
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