歴史上のマイナー王朝(5)
現在、西アジアからのテロや移民流入を契機に、EUの統合理念をめぐって、各国の思惑の違いが火花を散らしている西ヨーロッパ(西欧)。
古代末期にも、ゲルマン民族が軍事集団として移住したことにより、それまで力によって西欧を支配していたローマ帝国の「たが」が緩むと、各地に独立政権が並び立ち、抗争を常とするようになった。
フランス、ドイツ、イタリアなど、いまのEUの中核をなす国々も、このような西欧の統合再編の中で形作られたのであるが、中世にはその一つの国として存在を認められながら、周囲の国々に吸収されてしまった民族共同体がある。
その名は「ブルグント王国(413?-592,877-1032)」。
フランスに「ブルゴーニュBourgogne」という地名があることは、多くの読者がご存知であろう。この「ブルゴーニュ」をドイツ語で発音すると「ブルグントBurgund」になる。ただし、古代末~中世のブルグント王国の領域は、いまのブルゴーニュ地方の南半フランシュ‐コンテの辺りからプロヴァンスの東部、ドイツのラインラントやバーデンの南西部、スイス西部、イタリアのピエモンテ北西部にまたがる地域であった。
411~413年頃、この地域の北部にブルグント族の王国を建てたのはグンダハール(グンディカール)。ヴォルムスに都を置いて領域を支配したが、フン族の王アッティラと正面衝突し、437年には国家壊滅の憂き目に遭った。この悲劇は長大な叙事詩『ニーベルンゲンの歌(作者未詳)』の中で語られ、グンダハールは「グンター」、アッティラは「エッツェル」(真のモデルは後世のハンガリー王イシュトヴァーン1世だとも言われる)として登場する。
数年後にブルグント族では、グンターの遺児グンディオック(位443-473)が王国を再建し、ヴィエンヌに都を置いた。ローマ帝国軍とあるときは同盟し、あるときは抗争しながら、勢力を拡大した。次のグンドバット(位473-516)は、兄弟たちを排除して王権を確立する一方、強大化するフランク王クローヴィス(いっとき国土の過半を占領される)に姪のクロートヒルトを嫁がせるなど、周辺諸民族との勢力均衡を図った。国内では法典を発行するなど統治にも意を用いつつ、領域を南部へ拡大した(画像は15年前に訪れたフランスのアヴィニョン。当時のブルグント領南端の街であり、クローヴィスの攻勢を逃れたグンドバットが短期間滞在していた)。
次のジーギスムント(位516-523)も父の方針を継承したが、晩年にフランク王国との和平が破れ、最後の王グンディマール(位523-534)のとき、フランク王クロタール1世に滅ぼされた。後にグントラム(クロタールの息子、グンディオックの玄孫に当たる。位561-592)が一時的にブルグント国王になったものの、彼の死によって独立したグンダハール王家は事実上終焉した。その後はフランク国内の分国として、名目上は独立した地位を保ったが、単独のブルグント王を推戴することはなかった。
中世に入り、877年に貴族ボソーが西フランク王国から独立してブルグント王国を建設し、次代にはプロヴァンス(南部)とブルグント(北部)とに分かれた。後者はボソーの娘からヴェルフ家(ブルグント族の一系統)へ継承されたが、この王家は1032年に断絶してしまう。これをもって王国は神聖ローマ帝国に事実上併合され、以後、現在まで独立国としては存在していない。ブルグント族も周囲の諸民族と融合し、西欧の中で固有のまとまりを持つ共同体ではなくなっている。
しかし、『ニーベルンゲンの歌』に登場する人物たちの、剛毅、誠実、強固な信念、礼節といった美点は、決して滅びたわけではない。ブルグントが歴史の中で発展的解消を遂げても、その精神は現代のフランスやドイツなど、周辺諸国民の信仰や騎士道などに、脈々と受け継がれているのだ。
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