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2016年4月

2016年4月17日 (日)

前近代の天皇の呼び名

まず、このたびの熊本地震で亡くなられた方々の、永遠の安息を心からお祈り申し上げたい。合わせて、ご遺族の方々に慰めと励ましとがもたらされることをお祈りする。

今後は、自衛隊や警察・消防、地元行政機関の健闘により、少しでも早く被災者の方々に必要な物資が届けられること、被害を受けたライフラインが復旧することを期待する。私も顧客を抱えて一人親方で仕事をしている人間であるため、いますぐアクティブな行動ができるわけではないが、いずれ事態が落ち着いたらボランティアの方々が現地へ向かわれると思うので、貧者の一灯ながら必要経費へのわずかばかりの応援だけでもしたいと考えている。

また、この地震を受けて天皇・皇后両陛下が、15日に予定されていた静岡県訪問を取りやめられて、宮内庁を通してお見舞いのお言葉を述べられた。いつも困難に直面している人たちを最優先にお考えになることには、心から敬服申し上げたい。

さて、このことから思い付いたわけではないのだが、以前からエントリーしようと思っていた内容があるので、きょうは披露してみよう。

それは、前近代の歴代天皇の「呼び名(諡号・追号)」についてである。

ひとまとめにして「呼び名」と言うが、諡号と追号とは異なる。また諡号にも、古代の天皇に使い分けられた和風諡号と漢風諡号とがある。たとえば天智天皇であれば、「天智」が漢風諡号、「天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと)」が和風諡号に当たる。中世以降、天皇に和風諡号は使われなくなった。

他方、追号は諡号に代わるものとして、天皇の呼び名に使われた。その最初は滞在地にちなんで追号された平城天皇(位806-809)であり、宇多天皇(位887-897)以後は特別な例外を除き、追号のほうが主流を占め、さらに冷泉天皇(位967-969)以後は、「冷泉院」と「院号」で呼ばれることが一般的になった。

そして、後一条天皇(位1016-36)に至って、初めて「加後号」が登場する。過去の天皇と邸宅や居住地、置かれた立場などが類似している場合、いわば「○○天皇の二代目」だとして「後○○院(天皇)」と追号するのである。この選定は本人の遺志によることもあり、特に「後醍醐天皇(位1318-31、1333-39)」「後村上天皇(位1339-68)」は延喜・天暦の治を再現するとの理想を掲げ、生前に自ら平安朝の「醍醐天皇」「村上天皇」の二代目を公称していた。

この「加後号」、私も少年時には「後深草天皇(位1246-59)」以降の何人かの天皇の追号に戸惑っていた。「後」と言いながら、一代目の人がいないのだ。しかし高校生の頃になってようやくその謎が解けた。「深草帝(ふかくさのみかど)」は「仁明天皇」の別名だったのである。同様に、「後小松天皇(位1382-92)」は「小松帝(こまつのみかど)=光孝天皇」の二代目、「後柏原天皇(位1500-26)」は「柏原帝(かしわばらのみかど)=桓武天皇」の二代目、「後奈良天皇(位1526-57)」は「奈良帝(ならのみかど)=平城天皇」の二代目、「後水尾天皇(位1611-29)」は「水尾帝(みずのおのみかど)=清和天皇」の二代目という形になる。

わかりにくいのが「後西天皇(位1654-63)」。平安朝の淳和天皇のことを「西院帝(さいいんのみかど)」と別称したので、その二代目として「後西院(ごさいいん)」と追号されたのだが、大正時代に「院」の呼称を廃止して、すべて「天皇」に統一してしまったため、「ごさいてんのう」という座りの悪い追号にされてしまった。お気の毒であるが^^;

現代の天皇陛下が、業績にかかわらず元号をもって追号とされるのは、意図的な政治色を避ける意味では望ましいことかも知れない。なお、歴代の皇后陛下のほうは「漢風諡号」が復活して、明治天皇の「昭憲皇后」、大正天皇の「貞明皇后」、昭和天皇の「香淳皇后」と続いているのも、興味深いことだ。

2016年4月 8日 (金)

私の海外旅行歴

最近は全く海外旅行へ出かけていないが、私にも過去四回の海外渡航歴がある。

一回目は1983年、中国。大学で指導を受けていた教授のサークルによる企画であり、さらにその教授の師匠である大先生夫妻が代表となっていた20人ほどのグループに拡大させての、もっぱら史跡巡りの旅であった。上海から入り、蘇州、泰安を経て泰山に上り、曲阜の孔子ゆかりの廟堂を見学。さらに再度南下して、江南では南唐国の皇帝陵を巡り、南京で旅の終わりとなった。泰安あたりの村落都市では、現在とは比較にならないほどドメスティックな当時の中国人たちが、私たち外国からの旅行者を珍しいものでも見るように観察していたのが印象的だった。10日間。

二回目は1985年、インド。これは全くの一人旅である。カルカッタから入って近代インド以来の人間のるつぼ状態を経験し、そこから長躯デリーへ移動。西行してラージプート時代の史跡が残るジャイプル、チットールガル、ウダイプルを観光し、アグラでタージ‐マハルを見学、再度デリーに入って中世以来のいくつかの史跡を巡った。旅行中、一再ならずタクシーにつきまとわれ、かなりの金額をぼられてしまったが、それも楽しい旅の思い出である。17日間。

三回目は1988年、米国。職場の研修旅行であった。上司と同僚と3人での渡米。ニュー‐ヨークから入り、前半はワシントンDC、フィラデルフィアなどのナーシングホームを見学する真面目な行程。後半はニュー‐ヨークやボストン市内を観光、バッファロー経由でカナダ側に入国し、ナイアガラの滝を眺め、ニュー‐ヨークに戻った。ユダヤ教徒のためのホーム見学など、こんな機会でもなければなかなか思い立ってもすぐ行くこともできない、貴重な見聞であった。11日間。


Escorial_2

四回目は2001年、南西ヨーロッパである。これも一人旅であるが、おもな目的はカトリック教会への巡礼であった。折しも復活祭に続く時期で、どの国の人たちも活き活きとした表情だったのが印象的だ。

イタリアでは、まずローマで念願のヴァティカン巡礼を果たした後、数日かけてラテラーノ、サンタ‐マリア‐マッジョーレなどの大きな聖堂で祈りを捧げた。ピサの斜塔を見学し、フィレンツェに出向いてドゥオーモを中心とする花の都を満喫。ジェノヴァでは坂の多い街に意外さを感じながら、本場のパスタ‐ジェノヴェーゼを賞味して、西へ。

フランスではプロヴァンスのニース経由で、中世の教皇庁が残るアヴィニョンに数日滞在してお祭り気分を楽しみ、そこからニームやオランジュの古代劇場などの遺跡を見学。ボルドーへ移動してアキテーヌ地方の優しい風景を眺めながら、シャトーのワインで乾杯。

スペインではバスク文化の色濃いパンプローナに足を停めた後、ブルゴスやトレードに入って中世の旧都に思いを馳せた。マドリードを素通り同然にしてセビーリャへ駆け抜け、アンダルシアの香り高い文化に接しながら、信仰厚い人たちが担ぐパソ(聖マリア像を乗せた御輿)を見られる幸運に恵まれた。そこからコルドーバ、さらにグラナーダへ赴き、シエラ‐ネバダを望みながら世にも美しいアルハンブラ宮殿の魅力を心ゆくまで堪能した。最後はマドリードに戻り、森厳なエル‐エスコリアル修道院(上の画像)でハプスブルク朝時代の歴史の重みに触れることができた。最終日にはマドリードのカテドラルで祈りを捧げて、これから始まる新たな仕事への決意を新たにした。実に28日間にわたる旅であった。

それから15年。いま世界の各地で治安が悪化していることを考えると、その前にさまざまな文明の姿を自分の目で見てくることができた私は幸せなのかも知れない。だが他方で、飢餓や貧困、戦乱や暴力に苦しんでいる人たちが数多いことには心を痛める。確かニースに滞在したとき、一歩裏路地に入ると、ホームレスと思しき人たちが路上に寝泊まりしていたのを覚えている。繁栄するリゾート地の影の部分だったのだ。

異なる思想や文化や境遇を持つ人たちが、寛容の心で共生しながら、ともに豊かな生活を送ることができるように、改めて祈りを捧げたい。

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