« 2016年5月 | トップページ | 2016年7月 »

2016年6月

2016年6月30日 (木)

介護離職についての考察(3)

先に(2)を書いてからだいぶ時間が経ってしまったが、育児離職の話から介護離職へ軌道を修正しようとしていた矢先に、また一つのスキャンダルが報道された。

大麻・覚醒剤の使用容疑で逮捕されたTN氏が、かつて「妻(著名な女優TR氏)の父の介護をする」と宣言してタレントを休業し、美談と称えられたにもかかわらず、この「介護」はほとんど実体のない虚構であり、K氏がそれを隠れ蓑にして保身・転身を図っていた(しかし実際にはヤクとの縁が切れておらず、逮捕に至ったのだが...)ことが明るみにされたのである。

「介護中」に取材された夫妻の言葉の端々を私たちが外から窺い知る限り、どう考えても氏が実際に義父の介護をしているとは考えられず、おもに担当しているとされた「書類仕事」さえ、転身(エステ開業)準備のための虚構に近い可能性が強くなった。TN氏は高収入の配偶者を持つ恵まれた立場にありながら、自分のカモフラージュやイメージアップのために介護離職を自称していたと推察される。

他方、現実には決して収入に恵まれていない一般人が、悩んで悩んだ末に、究極の選択を迫られ、万々やむを得ず離職して、生活を切り詰めながら介護に専念せざるを得なくなっている。

今回のTN氏の報道を受けて、当然であるが、今後「介護離職」に対する世間の目が厳しくなるであろう。「本当は結構な資産があって、楽な生活をしているのでは?」「別の目的があるのでは?」と疑われるかも知れない。きれいに仕事を引き継いで去っていきたい職場から、「本当に介護するのか?」などと言われ、嫌がらせを受ける人も出てくるであろう。

事実、離職者が介護に専念して外出もままならない状況になっても、配偶者や親に頼って働かずに家でブラブラしているかのように疑われるなど、これまでよりは風当たりが強くなるのではないか。「日本は『溶け込めない人間』に対して、非常に冷たい社会だ(音楽療法士・佐藤由美子氏)」と言われる通り、特に40代ぐらいまでの若い男性介護者がひとたび孤立してしまったとき、その人たちに対する偏見の増大が懸念される。

TN氏に問いたい。あなた(一人だけとは言わないが、あなたを含む何人か)の身勝手な振る舞いが、介護離職して苦闘する真摯な介護者たちを不当におとしめ、苦境に陥らせる原因を作っているのだ。ヤクの問題以前に、あなたの行動は人間としてどうなのか?

また、大物女優である妻のTR氏は、自身の実父を通して夫の虚構の「共犯」になったことを恥ずかしいと思わないのだろうか? 社会的な地位が高ければ、社会的な(道義上の)責任も大きいはずだ。自分たちの保身のためには、一般人の介護離職者の立場などどうでも良いのだろうか? TR氏のファンの中にも、介護離職者や将来そうなる可能性がある人がいるであろう。その人たちはTR氏にとってただの踏み台に過ぎないのだろうか? それはファンに対する侮辱ではないか。

TN氏やTR氏の虚構は、第三者に損害を与えていない限り、刑事的には何の問題もない行為であろう。しかし、芸能人や知名度の高い人たちには、彼らのマネを二度としてほしくないと、私は思う。

むろん、逆に「介護離職」後の生活態度が真摯に過ぎることは、必ずしも良いことではない。たとえば故・清水由貴子氏(1959-2009)は、芸能界を完全引退し、お母さんを介護してがんばり過ぎた結果、精神的に追い詰められて自殺するに至った。このような悲劇は、決して起こってほしくない。

とは言え、知名度の高い人が「介護離職」を公言する以上、スタイルはさまざまであっても、自分が主介護者となって専心してこそ、多くの人々の共感を得られるものであろう。清水氏の誠実な態度は(私も昔ファンだったので)静かな感動に値するものだった。介護うつが深刻になる前に、もう少し効果的な地域資源の活用ができなかったか、悔やまれる話である。

今後、真の介護離職者が漏れなく、地域社会から温かい励ましを受けて介護を続けられるように祈りたい。

次からは、そろそろ具体的な地域資源との関係性などの論点へ、話題を転じてみよう。

2016年6月18日 (土)

若きリーダーのみなさんへ

SNSやブログだけの話ではないのだが、いま介護業界で活躍されている、20代後半から40代前半ぐらいまでの、全国的に著名なリーダーの方々に、50代半ばのオッサンからちょっと苦言を。

決して私の加齢や知名度の低さなどから来る劣等感を背景にモノを言っているつもりではなく、リーダーシップを取る方々や、そのムーヴメントの将来を真摯に懸念した意見だ。ほんの数分だけを割いて、一回でもお読みいただければ幸いである。

(1)どのリーダーも同様だとは言わないが、多くの人に類似した傾向が見られる。自分の「テリトリー」の中に入ってきた人とは、懇意なコミュニケーションを取る一方で、その中に入れない人とは距離を置く傾向である。

活動の初期にはむしろ当然であり、まずはコアになるメンバーと緊密な信頼関係を築くのが常道であろう。問題は、活動が軌道に乗り、メジャーになっても、リーダーがこのような行動傾向を続けることにある。テリトリーの内外とは、面識の有無や年代を問わず、自分が仕切る活動の枠に(草創期から、理念が周囲に知られ、広まっていく時期に)参加した度合いで、区分しているようだ。

しかし、これが続くと、内輪だけで盛り上がってしまうような活動になってしまう恐れがある。譜代大名と外様大名ではないが、活動組織の中軸になる人は、リーダーに近い人たちに限られてしまい、距離がある(「距離を置く」ではない。「距離が縮まらない」のである)人たちに取っては、なかなか活動の中軸部分に参画する機会を得られない。

(2)理解度や意識の問題がある。

法人や事業所がその活動組織を全面的にバックアップするのでない限り、活動に参加する人たちは、それぞれ個人の責任において参加することになる。しかし所属先における経営者・上司・同僚の活動への理解度は均一ではない。理解度が低ければ、活動に参加した職員が職場の中で浮き上がってしまうことにもなり、苦しい立場に追い込まれてしまう。

そういう人たちから苦渋を訴えられた場合、私も安易に「辞めれば?」と言ってしまうことがないわけでもない。しかし、辞めたらそこの法人・事業所が開明的な職員を一人失うだけで、その職場は逆に悪い方向へ向かうかも知れない。せっかく職員が職場を(利用者のために)良いものにしようと努力しているのだから、経営者・上司・同僚にも、活動組織側の人間から働きかけて、「○○さんはどのような目的で自分たちの活動に参加しているのか」を伝え、理解してもらう機会が欲しいのだが、現実的には中軸メンバーにも体力の制約があり、そこまでできない場合が多い。もちろんそれはリーダー一人の責任ではない。

しかし、それをしないまま、リーダー一人がメジャーな存在になって名前が売れてしまえば、意識の低い経営者・上司・同僚たちは、ますますその活動を理解しようとする機縁から遠ざかってしまう。仮に何かの機会があってリーダーの講演を聞いても、「ああ、良い話を聞いたけれど、どうせ有名な人の理想論だね。うちではそんなわけにいかないし・・・」となる。正確に言えばそれは法人や事業者の変容能力の問題なのだが、当事者にはその自覚がない。

だからと言って(不祥事でも起こらない限り)その能力の乏しい法人や事業者を退場させる権限は誰も持っていないのだから、利用者の不幸を招かないためには、とにかく変えていくための働きかけが求められる。すでに輝かしいスターになったリーダーには、現実的に個別の職場に働きかけることは困難である。裾野を広げて協力する人たちを確保していかないと、末端では活動が空転する場面が増えるであろう。

(3)活動に参加できるかどうかを左右する要因は、意識の高低だけではない。環境も大事な要因となる。

たとえば私には兄弟姉妹がなく、母親を私が一人で看なければならない。だから、複数の活動組織のリーダーとコンタクトを取ることはできても、多くの場合、その活動に参画することは困難である。結局、リーダーのテリトリーの「外」になってしまう。若いリーダーから見るとそんな私は、50代半ばという年齢も勘案すると、積極的に情報交換する意味が薄い人間に映るであろう。

しかし、おそらく私の前後の年代で、介護離職を余儀なくされた元介護・福祉職員は、さらにそれが困難で、情報からも取り残されがちになっているだろう。リーダーが私のことを(決して意識していないにせよ)情報交換に値しない人間だと位置付けることは、介護離職した元職員たちを嗤うことにつながることを認識してほしいのだ。このような元職員たちの中には、一つきっかけがあれば、物理的に動くことは無理でも、活動の有力な支えになってくれる場合があるのに、リーダーがその可能性を自ら閉ざすのは、望ましいことではあるまい。

20150406keneidanchi

(4)かつて介護・福祉業界で、最先端の旗手として活躍した人が、その後はアクティブな活動に乏しく、自分の取り巻きたちに囲まれた快い環境に満足しているのを見かけることも少なくない。過去の栄光にすがっているかのように見えるその姿には、哀れみを禁じ得ない。

中には現場から卒業してしまい、エラい学識経験者の地位を得たら、その安定した地位に安住している方もある。悪い例では、自分が業界の「エスタブリッシュト指導者」になってしまうと(それは時として自画自賛、ナルシズムに過ぎないこともあるのだが)、特権を持つ偉大な人物であるかのように錯覚し、自分(たち)だけは〇〇が許されるといった二重基準の振舞いをすることもある。

ヘソマガリの私には、この種の人たちが余計に、知名度とは裏腹な虚しさを抱える、哀れな小者に映るのだ。

以上、いろいろ述べてきたことを総括してみる。

いま、若いリーダーは全盛期で、何をやっても自分が主役、自分がメジャーであるかも知れないが、くれぐれも裸の王様(女王様)にならないように、自らを振り返っていただきたい。

高い丘の上の、隠れもなく輝く塔であるだけではなく、多くの仲間たちと一緒に咲き誇る小さな花の一つでもあってほしいのだ。

一回完結の忠言のつもりである。ご不快ならスルーしてくださって構わない。

2016年6月 5日 (日)

「仁義なき政争」

・・・日頃は、自分たちこそが平安(ヘイワ)主義者だと称している政治家たちが、その信条を否定しかねない相手に出くわすと、「死ね」などと汚い言葉で罵倒し、反対勢力を黙らせるため、場合によってはお抱えの暴力集団さえ使用して恥じるところがないのだ。これまでの「法(のり)」そのものに瑕疵があったことを棚上げして、安倍氏がそれを破ったことに難癖を付ける行動は、筋道から外れた挑発としか思われない。外部勢力と結託して安倍氏を攻撃する行為まで、自分たちの目的のために正当化してしまっているのだから、もはや仁義を踏みにじる無法勢力と変わるところがないではないか!・・・

おっと! 酔った勢いで「前九年の役(1051-62)」の話をしてしまった... f(^_^;)

21世紀に話を戻そう。

まず、現政権による政策のすべてが良いとは、もちろん私も思わない。社会保障政策などには、当事者の立場から見て「No!」と言いたい部分がたくさんあることは事実だ。

しかし、政権批判をするにしても、議会制民主主義の基本原則にのっとった方法でするのは当然である。

振り返ると、昨年秋の国会内外において安保法制に反対する勢力の動きには、(国会前デモの妥当性を否定する意図はないが)多くの場面で、基本原則から逸脱した言動が見られている。具体的には、政権側の一つの政策の是非を論じるのが真の目的ではなく、政権打倒を目的にする人たちが、純粋な「安保法制反対論者」とは異質の行動原理によって動いているという意味である。

今年に入ってからも同様な状況が続いている。先の「介護離職についての考察(2)」で示した保育所問題に関する論議も、その一例だ。政権の子育て政策の不備を攻撃していた第一野党の幹部議員が自身の燃料費疑惑を追及されると、こんどは第一野党側の市民活動家たちが一斉に、現総理の燃料費支出が著しく過大であると騒ぎ立てた。一国の総理が国を代表して内外を動き回るためには、さまざまな交通機関で膨大な燃料費を要するのは当然であり、与野党が逆になれば逆の結果になる。現総理は外遊時の宿泊費用も、あの渦中の東京都知事に比べると、何分の一かに抑えており、むしろ無駄遣いを控えるべく配慮していると言えよう。

第一野党の幹部議員が燃料費を浪費するなど公人として不適格であれば、まず更迭すべきであり、代わりに育児問題に該博な他の議員が中心となって、この問題を政権側と議論しなければならない。しかし、そのような段取りを履まずネガティヴ‐キャンペーンに終始するのであれば、幹部議員の行為を正当化して地位を温存させたい党利党略主義としか受け取れないではないか。

さらに、先日のサミットで抽出された課題に関する第一野党の政権攻撃は、お粗末としか言いようがない。英国の風刺画に津波の姿をした「愚か者」として描かれた前ロンドン市長の顔を、日本の現総理の顔と間違える。「the financial crisis」がリーマン‐ショックの意味であると知らずに、英語版資料にリーマン‐ショックが出てこないからこれは政権側の情報操作だと騒ぐ。とにかく目に入った材料を何でも政権の揚げ足取りに使って自爆するという、官邸からも失笑を買う一連の行為は、心ある市民を落胆させるに十分過ぎるほどであろう。

強固な支持基盤を持つ別の某野党は、こんな第一野党の足元を見透かして、反政権側勢力での存在感上昇を果たしつつある。しかし某野党には、現総理にヒトラーのヒゲを付けた顔をドラムに描いて叩きまくった元ロッカーの議員に象徴されるように、何が何でも現政権を「極右」と位置付けてイメージダウンさせようとする意図が見え見えである。

また、同じ反政権側勢力の一部は、悪質なプロパガンダも展開している。

沖縄の女性殺害事件をめぐる対応で、米軍関係者の家族たちが、祈りの言葉を書いたプラカードを掲げて路上に立ち、頭を垂れている光景が報道された。N教団(米国に拠点)が関係者に呼びかけて主催した和解へ向けての行動である。ところが、反政権側の活動家たちは、この行動の中心人物がK教団(日本に拠点)幹部と握手して、もらったバッジを付けていたことから、K教団が人々をダマしていると強弁しているのだ。日米安保を維持・推進する勢力(政権与党に近い側)を攻撃する材料が見つかれば、なりふり構わず持ち出すのであろうか?

そもそも、N教団であろうがK教団であろうが、宗教団体が争いを煽るのならともかく、異なる立場の人たちの融和を図る活動が、なぜ「ダマす」ことになるのか? これがもしN教やK教ではなく、私の信仰であるカトリックを指した発言であったら、悪質な誹謗中傷として容認できないであろうし、私の知人や私と同じ団体の成員の発言であれば、撤回と謝罪を要求するであろう。しかも「ダマしている」と言い放った個人・団体の中には、九州の国立大学の教員まで含まれていることを確認している。この教員の専攻は人権教育であり、反差別教育も含まれているというから驚きだ。特定の宗教の信者を差別視する人間が反差別教育をすること自体、お笑いものではないか。
(K教団は過去、国内で悪質商法とされて訴訟が起こされたことがあるが、仮に宗教団体にそのような側面があったとしても、信仰とは別の事案として対応されるべきものであることは、拙著『口のきき方で介護を変える!』中に明記した。もしこの教員が両者を分別する能力を欠いているのならば、資質自体に重大な疑問がある)

ヘイトスピーチに反対だと称する人たちが、他方で「ヤンキー(米軍ではなく米国人)‐ゴー‐ホーム!」とシュプレヒコールを揚げるのも同様である。タレントや商社員など軍関係者でない米国人が心ない罵声を浴びている事実も報告されている。政権反対なら何でも正しいという身勝手な論理を通したい人たちが、このような愚かな行為をするのだ。朝鮮半島の人たち、フィリピン・ブラジル・ペルーなどの人たち、米国人たち、どこの人たちに対するヘイトスピーチも、許されてはならないのは当然だ。

長々と述べてきたが、一言で言えば「仁義なき政争」である。相手方を叩き落とすためには何でもアリになってしまっている、ということだ。

現政権与党が野党だった時期にも、逆のアクションがなかったとは言わない。しかし、いまの反政権側に比べると、基本原則からの逸脱はかなり少なかった。だから愛想をつかす市民が少なく、政権奪還に成功したとも取れる。

私がいまの時点で支持する政党は、政権与党の二政党のどちらでもない。だからと言って、自分が支持する政党の政策がすべて正しいとは思わない。賛同すべきところは賛同し、批判すべきところは批判しながら、他の諸政党と比較して最も自分の考えと共通する部分が大きい政党として認められる場合、はじめて一票を投じるつもりだ。

当地・浜松における私の友人・知人にも、さまざまな政党の支持者がおられる。少なくとも私が日常的にお付き合いしている方々は、おおむね民主主義の基本原則を履んだ議論の応酬ができる、良識のある方々なので、逸脱行動はされないと信じているが。

「仁義なき政争」は横目で見ながら、冷ややかにスルーした上で、自分の信条に従い、民主主義の基本原則にのっとって、政治的な意見を述べていきたい。それが成熟した民主主義社会において市民の取るべき態度であると考える。

« 2016年5月 | トップページ | 2016年7月 »

フォト
無料ブログはココログ
2021年4月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  

他のアカウント