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2016年10月

2016年10月30日 (日)

ワインを楽しむ

私はグルメや食通と言われる者ではないのだが、ディナーでは結構いろいろな料理の味覚を楽しむほうである。自分で一品、二品と作ることもあれば、外食で済ます場合もある。家で食べる日には、お惣菜を買ってきたり、冷凍食品をレンジで温めて済ますこともある。

そして、車で外食に行った場合を除き、飲み物はたいてい赤ワインだ。自宅で食事するときには、数百円のワインを三日かけて飲んでいる。だいたい一日250mlの割合である。

特別な時期だけは少しお金を掛けるが、それでも最高4,000円程度、たいていは2,000円前後である。もともと高級仕様の人間では全くないので(笑)、そのレベルのワインでも十分楽しめるのだ。

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組み合わせはフランスもの、それもボルドーが必ず1本(上の画像左はモンペラ)、あとはイタリアもの(上の画像中央右はバローロ)とスペインもの(上の画像中央左はエントレスェーロ)をそれぞれ1本ずつが定番。気分次第でもう1本ボルドーか何かを追加する(上の画像右はシャトー‐ラローク)。自分の誕生日と復活祭は恒例で、他の機会も含めて年に3~4回程度だ。

それ以外の普通の日は、スーパー等で購入した安ワインで済ませている。「たしなむ」とは言えないかも知れない。もともと私は先天的なアレルギー性鼻炎がある上に、嗅覚の低下があり、鼻腔全体で香りを満喫することが難しいのだ。それでもワインの味を「楽しむ」ことはできる。どちらかと言えば、甘みが抑制された、重いタイプのワインが好きである。口の中でゆっくり転がしながら喉に落とす快さは何とも言い難い。

若いときには、カトリック教会や市民活動団体の仲間と何時間もかけて食事しながら、一瓶ぐらいは空けてしまったこともあったが、いまは飲んでも6~7割程度(500ml前後)。それも三時間ぐらいかければとの条件付きである。

香りを十分味わえない代わりに、視覚で楽しもうとして、同じく安ワインでもちょっと凝ってみることもある。キャップシールやラベルの色を、同じ色でない同系色でまとめてみたり、白と黒とでコントラストにしてみたり・・・。

下の画像は、白と黒を交えた、ブルー系の同系色で並べてみた。

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実はこれ、左からフランス、アルゼンチン、イタリア、南アフリカ、オーストラリア、つまりG20参加国のワインなのだ。日本の地方都市でも一軒の酒屋さんでこれだけの手頃なワインが難なく手に入るのは、便利な話である。ただし、EUを除く19か国のワインがそろうことはあり得ない。厳格なイスラーム法による禁酒を定めているサウーディ‐アラビア産のワインは、たぶん存在しないだろうから...(^^;

宗教はともかく、世界には飲酒を楽しむどころではなく、戦乱、紛争、飢餓にさらされている人々も数え切れないほど多い。かつて日本にもそういう時代があった。現代の私たちが平穏な生活の中で、ゆったりとワインを楽しむことができる幸せのありがたさを、しっかり噛みしめることも大切であろう。

2016年10月22日 (土)

介護離職についての考察(4)

以前、(3)を書いてからまたまた時間が経ってしまった。

この辺りで、「介護離職」についての根本的な課題に踏み込んでみたい。

政府なり自治体なりが、介護離職に歯止めをかけるための施策を実施しようとしている。ここで整理しなければならない重要な点は、施策によって「エンドユーザー」が異なることである。

たとえば、都道府県や政令市が地域内企業の「介護休業」「介護休暇」「時短」などの制度を拡充して、休める日数や時間を増やす、休んでいる間の代替社員の雇用にかかる費用を負担するなどの施策を採ったとする。この場合の「エンドユーザー」は、休暇を取る介護者である。

しかし、都道府県や政令市が地域に不足している介護サービスを拡充して、職員を育成し、仕事を持っている介護者が、介護を委ねられる事業所数を増やす施策を採ったとする。この場合の「エンドユーザー」は、介護を受ける利用者になるのだ。

したがって、「介護離職対策」と一括して良し悪しを論じるのではなく、この両者を分別して考察しなければならない。もちろん、それらを総括して政策論として取り上げること自体は問題ないのだが。

今回はまず、前者について述べてみたい。

「介護者」を「エンドユーザー」とする施策の最大のポイントは、その「受益者」である介護者にその施策を有効に使用してもらうことである。たとえば介護休業の三か月の間、介護者が介護に追われてしまい、期間が終わってから、さあどうしよう? もう少し時間が欲しい、しかたなく休職だ、いやそれにも限界がある、結局退職だ、・・・といった結末になれば、この施策はその介護者に取っても、勤務先にとっても、意味をなさないことになる(辞めさせられずに残った代替社員は正規雇用にしてもらえるかもしれないので、その人に取っては好結果になるかも知れないが...)。介護休暇にしても、時短にしても、大同小異である。

では、そうならないために何が必要なのか?

企業の経営をサポートしながら、休業した介護者「エンドユーザー」に地域資源を上手に使ってもらい、介護離職に至らないように支援する専門職の存在である。ソーシャルワークの一環としてそのような分野の支援がなされるのが望ましいわけだ。

ところが、このような「オキュペイショナル‐ソーシャルワーカー(OSW)=職業社会福祉士」とでも称するべき人材が、日本では育っていない(国際的にはすでに半世紀も前から、ソーシャルワークの一分野として開拓されてきたが、諸外国の例までは調べていないのでわからない)。

こう言ってしまうと、日本社会福祉士会ではいくつかの分野において認定社会福祉士、認定上級社会福祉士を養成しているではないか、と反論される方があるかも知れないが、これらの認定制度は、OSWの部門とはきわめて縁が薄いのだ。その方面に精通した一握りの稀少な社会福祉士を除けば、そもそもOSWとしては使いものにならない人が圧倒的に多いのが現実である。あえて乱暴な言い方をすれば、社会を知らない社会福祉士が多過ぎるのである。

たとえば食品衛生の企業で中間管理職を務める女性Aさんが、父親の介護のため90日の介護休業を取得するとしよう。Aさんが90日後に円滑に復帰できるために、地域資源を探し、介護サービスを探し、ケアマネジャーや施設相談員などと協働して、Aさんが仕事で家に居なくても父親が日中問題なく生活できるようにする。それだけならサルにも...いや失礼!m(_ _)m、私にも、つまり高齢者分野でそこそこに経験のある社会福祉士になら、だれにでもできる。認定資格など持っている必要はさらさらない(私も社会福祉士であるが、高齢分野の認定社会福祉士ではない)。

しかし、これらをするだけであれば、OSWとしては能力不十分なこと甚だしい。企業がお金を出してOSWを雇う意味はない。包括やケアマネジャーに相談すれば良いのだから。

OSWは企業の現実的な事業内容を踏まえ、その中でAさんがどのような役割を担っているのかをアセスメントしなければならない。Aさんが抜けたあと、その部門が大きな支障なく動いていくのか、企業の業績に影響がないか。Aさんの側は、三か月の空白で技術的な低下が生じないか、それを来たさないために、介護しながら何をすれば良いのか。Aさんは元の部署に復帰できるのか、もし他の部署に配転された場合、父親の介護を続けられる配慮をしてもらえるのか。

また、Aさんが介護を続けながら仕事をする影響は、会社の側に及ばないのか。業種によっても異なるが、たとえば食品衛生の会社ならば、「親の排せつ介助のため昼休みに帰宅しているAさんが午後から仕事で食品を扱っている」ことが取引先に知れて、先方の理解不足から会社のイメージダウンにつながる恐れはないのか。もしそのような恐れがあれば、それを解消する対策は立てているのか。

また、穴埋めのために異動してきた社員Bさんの福祉に、これまでになかった問題が生じていないか、たとえば、もしBさんに不登校気味の中学生の子がいたとすれば、Bさんの勤務場所や時間帯が変わったことにより、状況を暗転させることになっていないか。

さらに、このように企業が「エンドユーザー」である介護者の社員を大切にするのであれば問題はないが、そうとは言い難い業績本位の企業の場合はどうするのか。「エンドユーザー」である介護者を支援するのがソーシャルワークである以上、その最善の利益を図ってアドボカシーを実践するのがOSWの倫理であるはずだが、OSWの給料を出している企業側がそれを妨げる対応を示してきた場合、どのように調整するのか。

Aさんという一人の社員の介護休業に伴って生じる課題について、このような専門的な判断とそれに基づく職務を包括的にやりこなせるのがOSWであろう。会社の仕事内容や、Aさんの介護休業に影響される他の社員たちの実態などを、マクロな全体像からミクロな個別部門の状況まで把握しなければ、務まるものではない。務まらないOSWに用はない。

逆に言うと、Aさんの父親のサービス調整に限れば、包括やケアマネジャー、施設相談員等に任せてしまえば良いのだ。OSWが自ら調整に走り回る必要は全くない。節目の経過だけ把握していれば十分なのだ。

日本でこのようなOSWの仕事ができる人材が不足していることが、介護離職問題を巡る経済界、労働組合、介護業界の間に齟齬を来たしている一因になっているとしたら、遺憾千万である。

もっとも、私自身、いますぐにOSWが務まるかと問われても、正直、自信はないが...(^^;

2016年10月17日 (月)

藩名の呼び方

江戸時代の大名領のことを「藩」と呼ぶ。とは言え、公文書で正式に「藩」が用いられたのは、1869(明治2)年であるから、さかのぼって大名領の公称として使われているものだ。非公式には江戸時代中期からしばしば用いられていたので、いわば追認された形である。

藩の呼び方は、原則として城地の名称である。浜松城を居城とする藩は浜松藩、掛川城を居城とする藩は掛川藩である。一国一城制であるから、基本はこの呼称で差し支えない。

しかし、この原則に当てはまらない例外的な呼称をされる藩が、いくつか存在する。

(1)国の名称で呼ばれる藩。一国以上の広い領地を支配;

・尾張藩(=名古屋藩/徳川家)
・紀伊藩(=和歌山藩/徳川家)
・加賀藩(=金沢藩/前田家)
・薩摩藩(=鹿児島藩/島津家)
・長州藩(=長門萩藩→周防山口藩/毛利家)
・土佐藩(=高知藩/山内家)
・対馬藩(=対馬府中藩→厳原藩/宗家)

(2)地域の名称で呼ばれる藩。東北で比較的広域を支配;

・会津藩(=陸奥会津若松藩/保科松平家)
・秋田藩(=出羽久保田藩/佐竹家)
・庄内藩(=出羽鶴岡藩→大泉藩/酒井家)

(3)家名で呼ばれる藩。地生えの旧族大名;

・南部藩(=陸奥盛岡藩)
・津軽藩(=陸奥弘前藩)
・相馬藩(=陸奥中村藩)
・諏訪藩(=信濃高島藩)
・五島藩(=肥前福江藩)
・松前藩(=蝦夷地福山藩→館藩)

他の藩の中にも(1)(2)(3)のように呼称されるものがある。たとえば岡山藩のことを備前藩とも呼ぶが、備中国にも領地があったことや、岡山が絶対的な政治面の中心地であったことなどから、後者はあまり一般的ではない。また佐賀藩のことを肥前藩とも呼ぶが、肥前国には他にもいくつかの藩があることから、明治の藩閥「肥前閥」を指す呼称に限定されることが多い。

さらに、例外中の例外として、下記のものがある。

(4)明治になって呼称だけ認められた藩;

・武生藩(=越前府中領) 福井松平家の筆頭家老で府中城主であった本多家は、江戸初期には御三家の付家老同様、大名に準ずる扱いを受けていたが、松平家の家格が降下したのに伴い、普通の大大名の家老より少し格上(江戸屋敷を構えていた)程度となっていた。明治に入り、御三家の付家老五家は大名となって、廃藩置県後も華族に列せられたのに比べ、本多家は士族の扱いとなったため、旧家臣たちが新政府に抗議して暴動を起こし、十人以上が刑死・獄死するに至った。しかし、この抗議が奏功して、本多家は「武生藩主」に追認され、男爵を授けられた。したがって、名称だけの「武生藩」はあっても、江戸時代に「越前府中藩」は存在しなかったのである。

このように、藩の名称一つ取ってみても、なかなか興味深い。また、明治に入ってから、同じ名前の藩がある場合には片方が改名させられているため(例;丹後田辺藩→舞鶴藩)、廃藩置県当時の藩名は、伝統的な城地の名称と異なるものが多かったことも、付け加えておこう。

(「琉球藩」は成立の経過が全く異なるため、ここでは触れなかった)

2016年10月 8日 (土)

大きな転換期

私がケアマネジャーとして開業15年、一つの大きな転換期を迎えたと言うことができる。その節目として、10月1日に、自分自身の「記念のつどい」を企画・開催してみた。

これはクローズ企画であり、お声掛けした方は全部で280名ほど。そのうち、来場してくださった方は、北は福島県、南は宮崎県まで14都府県に及び、全部で62名。うち研修会が58名、懇親会が48名(大部分は重複)であった。62名の内訳は、静岡県内が32名、県外が30名。4割以上が県外の方であり、その多くは泊まり掛けで遠路浜松までお越しくださった。

著名な論者でも学識経験者でもない、一人のケアマネジャーである私が開催した、事実上の個人企画に、これだけの方々がお集まりくださったことには、ただただ感謝・感激するばかりだ。

半年前から少しずつ準備を重ね、十日ほど前からは多忙な日々が続いたが、当日になると快い緊張感で満たされていた。講義や講演などにときどき呼んでいただくうちに、大きな節目に当たっても自分のコンディションを整えるすべを身に付けたと言うことか。とは言え、当日の運営は一人で難しかったことは確かであり、従妹夫妻と、厚有出版の社長・編集担当者(著書の販売も兼ねて)とが応援に来てくれたのは、とても助かった。

午後の企画は、14時からクリエート浜松で開催。冒頭のあいさつ、ご祝辞、ご祝電披露と、まずはセレモニーから。

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研修会前半は、記念講演と称して一時間半、独演会をやらせていただいた。ここでしか話せない内容を満載して、数発のダジャレを散りばめたのはもちろんのこと、「水戸黄門」を全く異なるコンテクストで4回登場させ(いばらき福祉研究会の小林和広さんや北野さんのお顔を立てて...)、さらに放送禁止用語(?)にまで言及。会場では何人かの方に振ってご意見を求める部分もあり、結果は10分ほど延長してしまったが、歯に衣着せぬ話を洗いざらいしゃべらせていただき、実に爽快であった。

後半はシンポジウム。私の著書にちなんで「これでいいのか? 日本の介護」が主題。コーディネーターが石田英一郎さん(アシストケアプランセンター昭島・取締役)、シンポジストが佐々木香織さん(あるぷすヘルパーステーション管理者/相馬市)と稲岡錠二さん(北丹後福祉会 在宅介護課長/京丹後市)。お名前を見る限りでは介護業界「イロモノ隊」の観が強いが、もちろん内容は真面目な話である。特に丹後や相馬の介護現場をめぐる状況は、ナマで聴ける機会に乏しいだけに、浜松からの参加者にとっても学びになったようだ。

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夜、18時からは、場所をハートランドに移して懇親会。古井慶治さん(ふるい後見事務所所長・社会福祉士/静岡市)による乾杯の音頭でスタート。

この懇親会は「融和」「友愛」をテーマにしたつもりだが、それだけに事前の準備はかなり周到に行った。参加申込は前日の夕方に締め切ってFacebookでも通告、さらにFacebookを見ていない浜松周辺の方で、当日飛び入り可能だと誤解している人がいないか、可能性のある人たち全員に、前夜のうちに電話を掛け、来場されるかされないかの最終確認をした。主張の隔たりが大き過ぎる人同士や、齟齬が生じてしまった人同士などが、最初は同じテーブルにならないように、また私の関係者の輪に初めて参加する人が孤立しないように、また男性だけ・女性だけにならないように、眠気を我慢しながら(笑)約一時間かけて作業して、テーブルの配置を決めたのである。

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その上で参加者のみなさんに、宴が始まってからは自由に行き来していただき、有意義な交歓の場にしてくださるようにお願いした。結果として、初対面ながら会話が盛り上がったり、距離を置いていた人同士が仲直りしたりと、良い成果を上げられた二時間になったかと、勝手に(笑)自画自賛している。

途中で3~4回、「ライジングポーズ」でカメラに収まった記憶がある。下の画像はちょっと暗めに写っているが、関西アホ仲間+関東の〇〇〇〇仲間で。向かって私の左下、岡肇也(としや)さん(会社で高齢者施設入居案内を担当され、お仕事は東京都内)と、右下で稲岡さんに虐待されている(?)幸地伸哉(こうち しんや)さん(グローバルウォーク代表取締役)とは、著書「これでいいのか...」の第12章にも登場いただいた。私の左隣が過去エントリーに登場された小田原貴之さん(医療機関併設居宅のケアマネジャー/明石市)、一番左が白井法子さん(レインボー西宮=グループホーム・デイサービス等=施設長)。右隣は高阪史生(たかさか ふみお)さん(ウェルソル株式会社代表取締役=介護・福祉関係の人材・企画のコーディネートを実践/渋谷区)である。

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実は、つい先月11日、オペラ鑑賞の後で夕食をご一緒したのが岡さんだったのだ。介護業界から少し離れた立場にあって、課題をズバッと指摘してくださる、数少ない貴重な仲間である。その前、8月にはサッカー観戦の目的で浜松に来訪された小田原さんとも昼食をご一緒して、地域事情について情報交換するなど、私も人と語る機会を大切にしてきた。

最後は関西中堅経営者の重鎮、幸地さんの締めで閉幕。

散会後、お決まりのラー店へ。会場界隈でイチ押しの「細麺三太」が若い人たちに人気があるため、土曜日の夜は厳しいかな、と思っていたが、意外にも12人が一緒に入店できた。従妹夫妻は別の席を選んだので、「ナントカ仲間(?)」7人に、齋藤由美さん(オフィスそら/宮崎市)+松田智之さん(秦野福祉会)+次田(つくだ)芳尚さん(介護支援サービス)らの社長仲間を加えてテーブルを囲む。

向かって私の左隣が次田さんで、介護支援専門員の資格を持ちながら、介護現場とITとを結び付けるお仕事をされている。その対面側手前が松田さんであり、NPO法人で複数のケアマネジャーとともに独立型居宅を運営、厚労省の介護保険部会も傍聴してFB友達にアウトラインを伝えてくださっている。昨年航空自衛隊のエアフェスタで来浜された斎藤さんは、今年はお仕事の関係でエアフェスタのほうを断念されるとのこと。

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ご用事の関係で明朝早く戻らなければならない方もいらっしゃったが、多くは浜松の観光を楽しんでから帰宅されたようだ。ただし意外にも、NHK大河で盛り上がっている奥浜名湖のほうへ行かれた方はほとんどなかったらしい。行くと結構時間がかかるので、ゆっくり回りたいのならば機会を改めてのほうが良いのかも知れない。

さて、以前のエントリーでも指摘したが、若いリーダーが主導するものに限らず、介護・福祉業界の団体・企画には限界が見られる。特別な人以外は脇役にされたり、参加に不便な人が主流から取り残されたり、といったような。確かに一つ一つの団体や企画にはすばらしいものがあるのだが、「自分」「自組織」「自前組織」の意識が強いと、なかなか悪循環から抜け出すことが難しい。私自身、独立・中立型介護支援専門員全国協議会を運営してきた際の失敗を、記念講演では正直に告白した。

そこで、今回、私が提唱したのは「次郎長サロン(仮称)」。エラそうな名称だが、もちろん私が業界の清水次郎長を演じようということでは決してない。そもそも、そんな力もない。

社会保障が大きく後退しようとしている節目に当たって、介護・福祉業界全体の「融和」「協調」「大同団結」をテーマにした「場」を作ることができないだろうか? ということだ。これまで結びつきが希薄だった、接点に乏しかった人たちをつなぐ。また、見解の溝が埋まらずに袂を分かったり、不快な行動や態度を取られて反目したり、共感できずに接点を避けたりといった、負の関係にある人たちの和解を図っていく。このようなことができれば、私たちの業界に大きな果実をもたらすのではないだろうか。

そのためには、自意識が強過ぎるとうまくいかない。常に一歩引きながら、全体をコーディネートしていく力が必要になる。不器用な私一人では到底実現できないことだが、上述の白井さんや高阪さんのような、人と人とを結び付ける橋渡しに長けた方々をはじめ、多くの方々の協力を得られれば、決して不可能ではない。

今回、前半で私の言いたいことを言わせていただき、研修会後半や懇親会では、「次郎長サロン(仮称)」の試みの第一歩を踏み出した形だ。幸い、多くの参加者から好意的に受け取っていただけたようなので、次の一歩をどう進めるのか、参加された方もされなかった方も合わせて、みなさんのお知恵をお借りしたい次第だ。

自分から動き、信じて前へ進み、希望を捨てない!

これからの道を、そのように歩みたいと考えている。

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