藩名の呼び方
江戸時代の大名領のことを「藩」と呼ぶ。とは言え、公文書で正式に「藩」が用いられたのは、1869(明治2)年であるから、さかのぼって大名領の公称として使われているものだ。非公式には江戸時代中期からしばしば用いられていたので、いわば追認された形である。
藩の呼び方は、原則として城地の名称である。浜松城を居城とする藩は浜松藩、掛川城を居城とする藩は掛川藩である。一国一城制であるから、基本はこの呼称で差し支えない。
しかし、この原則に当てはまらない例外的な呼称をされる藩が、いくつか存在する。
(1)国の名称で呼ばれる藩。一国以上の広い領地を支配;
・尾張藩(=名古屋藩/徳川家)
・紀伊藩(=和歌山藩/徳川家)
・加賀藩(=金沢藩/前田家)
・薩摩藩(=鹿児島藩/島津家)
・長州藩(=長門萩藩→周防山口藩/毛利家)
・土佐藩(=高知藩/山内家)
・対馬藩(=対馬府中藩→厳原藩/宗家)
(2)地域の名称で呼ばれる藩。東北で比較的広域を支配;
・会津藩(=陸奥会津若松藩/保科松平家)
・秋田藩(=出羽久保田藩/佐竹家)
・庄内藩(=出羽鶴岡藩→大泉藩/酒井家)
(3)家名で呼ばれる藩。地生えの旧族大名;
・南部藩(=陸奥盛岡藩)
・津軽藩(=陸奥弘前藩)
・相馬藩(=陸奥中村藩)
・諏訪藩(=信濃高島藩)
・五島藩(=肥前福江藩)
・松前藩(=蝦夷地福山藩→館藩)
他の藩の中にも(1)(2)(3)のように呼称されるものがある。たとえば岡山藩のことを備前藩とも呼ぶが、備中国にも領地があったことや、岡山が絶対的な政治面の中心地であったことなどから、後者はあまり一般的ではない。また佐賀藩のことを肥前藩とも呼ぶが、肥前国には他にもいくつかの藩があることから、明治の藩閥「肥前閥」を指す呼称に限定されることが多い。
さらに、例外中の例外として、下記のものがある。
(4)明治になって呼称だけ認められた藩;
・武生藩(=越前府中領) 福井松平家の筆頭家老で府中城主であった本多家は、江戸初期には御三家の付家老同様、大名に準ずる扱いを受けていたが、松平家の家格が降下したのに伴い、普通の大大名の家老より少し格上(江戸屋敷を構えていた)程度となっていた。明治に入り、御三家の付家老五家は大名となって、廃藩置県後も華族に列せられたのに比べ、本多家は士族の扱いとなったため、旧家臣たちが新政府に抗議して暴動を起こし、十人以上が刑死・獄死するに至った。しかし、この抗議が奏功して、本多家は「武生藩主」に追認され、男爵を授けられた。したがって、名称だけの「武生藩」はあっても、江戸時代に「越前府中藩」は存在しなかったのである。
このように、藩の名称一つ取ってみても、なかなか興味深い。また、明治に入ってから、同じ名前の藩がある場合には片方が改名させられているため(例;丹後田辺藩→舞鶴藩)、廃藩置県当時の藩名は、伝統的な城地の名称と異なるものが多かったことも、付け加えておこう。
(「琉球藩」は成立の経過が全く異なるため、ここでは触れなかった)
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