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2017年1月

2017年1月18日 (水)

公正取引委員会は何をしているのか?

昨2015年の9月5日、公正取引委員会が「介護分野に関する報告書」なるものを公表したことは、もはや介護業界人には周知の話である。そこには、社会福祉法人に対する「厚遇」が株式会社などの営利法人の介護事業参入を妨げており、介護サービス事業への新規参入を促進するには、税制や補助金に関する社会福祉法人と営利企業との差を縮めることや、事業者の創意工夫を活かすために混合介護を弾力化するなどの提言が示されている。

これに対して、業界側の論者の多くは、国民の福祉の位置付けから、公取委によるこれらの指摘や提案が的外れであることを主張している。私も各々の論者と多少の温度差はあっても、基本的には同方向の考え方である。私とも交流がある知名度の高い論者の方々が、すでに続々とこの事案に関して見解を出しているので、例によって私の出る幕はないほどだ。

そこで、これも例のごとく、この事案に別の視点から斬り込んでみよう。

それは、公取委の役割とは何か? ということである。

私が9月5日の公取委報告書の存在を知ったとき、まず何を想起したか?

それは、昨年1月15日の軽井沢バス事故なのだ。乗客・乗員合わせて15人が犠牲になった痛ましい事故。

このバス事故そのものが該当するかどうかは何とも言えないが、貸し切りバスの安全がないがしろにされている背景には、バス業者に不当な低価格で仕事をさせる旅行業者、また、両者の間に介在する手配代行業者の「手数料収入」等が存在することは、心ある識者であれば誰もが認識しているところである。

ところが、あるメディアの記事から、旅行業者とバス業者との間には、元請け-下請けの関係は存在しないと漏れ聞いたので、驚いた私は国土交通省の資料を参照してみたところ、同省の資料には確かに、「旅行会社は自ら運送を行っていないので、旅行会社と貸切バス事業者の取引については、下請法の対象外。(下請法第2条)」と記されていた。

つまり、この事故の背景になってる業界慣行に対して、公取委は直接的に摘発する権限がないということだ。

それどころか、同省の資料をフツーに読む限り、逆にバス業者側がカルテルを結んで、「手数料を差し引いても絶対この金額は譲れない」と主張したら、こちらが独占禁止法による取り締まりの対象になってしまうらしい。

なんと、とんでもない構図になっていることか!

確かに、旅行の最中に電車や乗合バスや飛行機を利用するのであれば、これは下請法の対象外であろう。しかし専らその旅行のためにバスを借り切るのがなぜ「下請けの対象外」なのだろうか? 私のカボチャ頭ではどうしても理解できない。

かのバス事故のような事故の再発防止に関しては、国交省も一応、公取委や他省庁も巻き込んで改善策を採る構えであるものの、あまりに微温的である。特に、手配代行業者≒ランドオペレーター(より広く、「ツアーオペレーター」と称するのが的確かも知れない)に関しては、ようやく実態把握が緒に就いたという、恥ずかしい現状なのだ。現政権が外国人観光客の大幅な取り込みを国策にしているのにもかかわらず。

本題に戻って...、

本来、不公正な商取引を監視して、泣く人、泣く法人が出ないようにするのが公取委の役割であるはずなのに、現実がこのような性格の組織だとしたら、社会の格差は広がり、泣く人が増える一方ではないか。

社会福祉法人は日本特有の存在かも知れないし、第二次世界大戦で社会が壊滅的な打撃を受ける歴史を経なかったら、現在の姿の社会福祉法人は存在しなかったと論じる人もある。たとえそうであっても、社会福祉法人は戦後の日本社会のさまざまな分野で大きな役割を果たしてきた。収益事業にもさまざまな制約を受け、「内部留保」として叩かれている「繰越金」についてもその使途は限定されており、かつ役職員の給与水準は同規模の営利企業に比較して著しく低い。にもかかわらずこれを「厚遇」「不公正」と断じるならば、公取委の仕事に携わる人たちの能力そのものを疑わざるを得ない。不適正な運営をしている一部の法人に対しては、そこに対して鉄槌を下せば良い話なのだから。

総じて...、

バス事故に対しては旅行業者や手配代行業者(もちろん、適正な価格でバスを借り切っている善意の事業者を除いての話であるが...)に厳しいメスを。介護事業に対しては社会福祉法人の特殊な状況への理解を。このような使い分けをしつつ、必要な法令を整備していくことができない公取委ならば、国民に取って無用の機関である。早々に解体しても良いのではないか、とさえ思う。

2017年1月11日 (水)

カトリック教会と私

私が東京の関口教会でカトリックの洗礼を受けてから、昨秋で33年になる。不熱心なのはともかく(笑)、人生の約6割を信者として過ごしたことになる。

もとはと言えば、両親が4歳の私を磐田聖マリア幼稚園に通わせたのが発端だ。幼児のときに刻まれた、聖なるものについての心象風景は、私をキリストに向かわせる要因となった。いま振り返ってみれば、これこそが神の恵みであったと思い起こしている。

キリスト教に関心を持ったのは、高校卒業後だ。浪人中にいろいろと悩みながら、この世界には何か唯一の正しいものが存在するはずではないかと、強く感じるようになった。大学入学後は、周囲の学友や知人からさまざまな思想のインパクトを受けたが、それらはむしろ私の心を教会に向かわせる結果となった。
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学生時代に、すぐ近くだった関口教会に歩いて通い、司祭の講話を聴き、周囲の信者たちから助言してもらいながら、少しずつ信仰の芽を育てていったと記憶している。当時の指導司祭だった森一弘師(後に司教)の公教要理は、たいへん理解しやすく、自分が求めていた道にピッタリ合う内容であった。似合いの服に出会ったような思いで、指導内容についていった。洗礼を受けたのは23歳の秋である(上の画像は関口教会の洗礼盤)。

当時は、まだ職業での進路を決めかねていた私だったが、浜松でカトリック教会の信者たちが中心になって作った社会福祉法人があることを知り、これもご縁だと思ってそこに就職。その後、職場でも信者の管理職が少なくなり、私自身も信仰は信仰、職場は職場として峻別するようになった。そこで15年余勤めた後、退職した原因には、特段宗教面での問題があったわけではない。

浜松に戻ってから、ずっと小さい巡回教会である三方原教会に通っていたが、1994年から自分の行動範囲が変わった関係で、郊外の富塚町に新築されたばかりの浜松教会に移籍した。三方原教会在籍当時は信徒会の役員を務め、新・浜松教会の建設基金の取りまとめには、及ばずながらお手伝いした。

浜松教会に移って何年もしないうちに、私自身の転身(開業)が原因で、日曜日にミサへ通うのにもままならなくなってしまった。そのようなわけで不熱心な信者になってしまったのだが、もちろん信仰を捨てたわけでは決してないので、復活祭(特に聖金曜日)、平和旬間、クリスマス、神の母聖マリアの祝日(1月1日)にはいつも教会へ足を運んでいる。
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2001年に父が他界。このとき、父の生前の希望により、臨終洗礼を行い、当時の主任司祭であった小林陽一師にお願いして、教会で葬儀をさせていただいた。

母は小林師にお願いして要理の要点のみを学ばせていただき、2007年に浜松教会で洗礼を受けた。それ以後、ときに私が母に同伴して二人で教会に通っていたが、2011年の聖金曜日に顔面神経麻痺を患い、それ以後は病気と向き合いながら、日々の生活を続ける日々となった。これもまた神の業であろう。2015年の春、母は私の同伴で久しぶりに教会を訪れ、来たるべき終末に向け、いまの主任司祭である山野内公士師から、一日一日をいかに生きるか、との講話をしていただいた(上の画像は浜松教会・ルルドの聖マリア)。

現在の浜松教会は、数百人の信徒を擁する多文化の教会である。通う信徒の国籍は最多のとき22を数えた。現在もブラジル国籍、ペルー国籍、フィリピン国籍の人たちはそれぞれの共同体を構成しており、大きな家族である浜松教会の中のいわば小家族として、教会の将来を担う貴重な戦力となっている。昔に比べると信徒数は減っているとは言え、「世界に広がる教会」の縮図にふさわしい現況である。

私自身は先に述べたように、浜松教会へ行くのは年に数回。むしろ最近は他県の介護業界仲間で、信者である方との交流が中心になっている。それはそれでクリスチャンとしての一つの生き方だと思うし、いずれ機会が訪れれば、浜松教会のためにできることを奉仕したいのは言うまでもない。

一度キリストに捕まったら逃れられないので(笑)、弱いながらも信仰を守りつつ、自分の間尺に合った信者人生を送りたいと思っている。

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