カトリック教会と私
私が東京の関口教会でカトリックの洗礼を受けてから、昨秋で33年になる。不熱心なのはともかく(笑)、人生の約6割を信者として過ごしたことになる。
もとはと言えば、両親が4歳の私を磐田聖マリア幼稚園に通わせたのが発端だ。幼児のときに刻まれた、聖なるものについての心象風景は、私をキリストに向かわせる要因となった。いま振り返ってみれば、これこそが神の恵みであったと思い起こしている。
キリスト教に関心を持ったのは、高校卒業後だ。浪人中にいろいろと悩みながら、この世界には何か唯一の正しいものが存在するはずではないかと、強く感じるようになった。大学入学後は、周囲の学友や知人からさまざまな思想のインパクトを受けたが、それらはむしろ私の心を教会に向かわせる結果となった。
学生時代に、すぐ近くだった関口教会に歩いて通い、司祭の講話を聴き、周囲の信者たちから助言してもらいながら、少しずつ信仰の芽を育てていったと記憶している。当時の指導司祭だった森一弘師(後に司教)の公教要理は、たいへん理解しやすく、自分が求めていた道にピッタリ合う内容であった。似合いの服に出会ったような思いで、指導内容についていった。洗礼を受けたのは23歳の秋である(上の画像は関口教会の洗礼盤)。
当時は、まだ職業での進路を決めかねていた私だったが、浜松でカトリック教会の信者たちが中心になって作った社会福祉法人があることを知り、これもご縁だと思ってそこに就職。その後、職場でも信者の管理職が少なくなり、私自身も信仰は信仰、職場は職場として峻別するようになった。そこで15年余勤めた後、退職した原因には、特段宗教面での問題があったわけではない。
浜松に戻ってから、ずっと小さい巡回教会である三方原教会に通っていたが、1994年から自分の行動範囲が変わった関係で、郊外の富塚町に新築されたばかりの浜松教会に移籍した。三方原教会在籍当時は信徒会の役員を務め、新・浜松教会の建設基金の取りまとめには、及ばずながらお手伝いした。
浜松教会に移って何年もしないうちに、私自身の転身(開業)が原因で、日曜日にミサへ通うのにもままならなくなってしまった。そのようなわけで不熱心な信者になってしまったのだが、もちろん信仰を捨てたわけでは決してないので、復活祭(特に聖金曜日)、平和旬間、クリスマス、神の母聖マリアの祝日(1月1日)にはいつも教会へ足を運んでいる。

2001年に父が他界。このとき、父の生前の希望により、臨終洗礼を行い、当時の主任司祭であった小林陽一師にお願いして、教会で葬儀をさせていただいた。
母は小林師にお願いして要理の要点のみを学ばせていただき、2007年に浜松教会で洗礼を受けた。それ以後、ときに私が母に同伴して二人で教会に通っていたが、2011年の聖金曜日に顔面神経麻痺を患い、それ以後は病気と向き合いながら、日々の生活を続ける日々となった。これもまた神の業であろう。2015年の春、母は私の同伴で久しぶりに教会を訪れ、来たるべき終末に向け、いまの主任司祭である山野内公司師から、一日一日をいかに生きるか、との講話をしていただいた(上の画像は浜松教会・ルルドの聖マリア)。
現在の浜松教会は、数百人の信徒を擁する多文化の教会である。通う信徒の国籍は最多のとき22を数えた。現在もブラジル国籍、ペルー国籍、フィリピン国籍の人たちはそれぞれの共同体を構成しており、大きな家族である浜松教会の中のいわば小家族として、教会の将来を担う貴重な戦力となっている。昔に比べると信徒数は減っているとは言え、「世界に広がる教会」の縮図にふさわしい現況である。
私自身は先に述べたように、浜松教会へ行くのは年に数回。むしろ最近は他県の介護業界仲間で、信者である方との交流が中心になっている。それはそれでクリスチャンとしての一つの生き方だと思うし、いずれ機会が訪れれば、浜松教会のためにできることを奉仕したいのは言うまでもない。
一度キリストに捕まったら逃れられないので(笑)、弱いながらも信仰を守りつつ、自分の間尺に合った信者人生を送りたいと思っている。
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