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2017年6月19日 (月)

ヴェルディ歌劇の面白さ(9)

ヴェルディの歌劇は過去六回鑑賞しているが、『椿姫』は初めてである。多くのヴェルディ‐ファンは早いうちにこの作品を体験するだろうから、七作目でやっと『椿姫』なのは珍しいかも知れない。

マッシモ‐ディ‐パレルモ劇場の引っ越し公演で、会場は地元浜松のアクトシティ大ホール。とは言え、確か十年ぐらい前に一度入っただけの劇場。ホームタウンなのになぜかアウェイ感。上野の東京文化会館のほうが、年一回程度は行っていただけに、ホーム感がある(^^; 第二幕に入るあたりでようやく違和感が解消した。

指揮はフランチェスコ‐イヴァン‐チャンパ、演出はマリオ‐ポンティッジャ。キャストはヴィオレッタがデジレ‐ランカトーレ、アルフレードがアントニオ‐ポーリ、ジェルモンがセバスティアン‐カターナ、フローラがピエラ‐ビヴォーナ、ほか。

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ランカトーレは容姿もヴィオレッタ役向きであり、第一幕にやや不安定な箇所があったものの、おおむね全編を通してドラマティコ‐ソプラノを朗々と歌い込み、秀逸な歌唱。第三幕のアリア「過ぎ去った日よ、さようなら」は豊かな表現力の演技とも相まって、素晴らしい出来であった。

ポーリは正統派のリリコ‐テノールで、音程が正確なのが長所。第一幕では控えめな演技で純情なアルフレードをよく表現していた。ランカトーレとの二重唱も相性好く、ブレを感じさせない歌唱。第二幕のカバレッタの末尾「...この恥辱を晴らすぞ!」のところでは(たぶん一部の聴衆が期待した)ハイC(=二点ハ音)を出さず、会場の拍手がやや少なかったが、若手歌手が長く声を維持して活躍するためには、無理をしないのが賢明であろう。

カターナは傲然とした家父長的なジェルモン役を粛々とこなし、特に第二幕「プロヴァンスの海と陸」、息子(アルフレード)の心には全く響かない設定で、聴衆にはじっくり聴かせて魅了しなければならない難しいアリアを、自然体で歌いこなし、喝采を浴びていた。

チャンパの指揮はオーソドックスで聴きやすいものではあったが、ドラマの転換点、特に第三幕では、ポイント切り替えのように緩急を意識的に調節していた。ポンティッジャの演出は照明の使い方が巧みであり、第三幕のシェーナ&二重唱でヴィオレッタ役のランカトーレが「こんなに苦しんだのに、若くして死ぬなんて!」の歌いに入るところから、彼女の顔に全く光が当たらないようにして絶望を表現するなど、随所に工夫が見られた。

ただ、せっかくの好演の価値を減じたのは、聴衆のマナーの悪さである。途中で携帯音が鳴り出すことが(聞き取れただけで)4回。そのうち1回は音を止めようともしなかったらしく、延々と鳴り続けていた。これは絶対にしないように、あらかじめ電源オフまたは消音にしなければいけないのだが、第一幕開始前に入り口で係員が小さな声で注意を促していた程度で、アナウンスは無かったと記憶している。これが東京文化会館ならば、幕の始まりごとにアナウンスが行われるし、鑑賞に来る聴衆も回を重ねている人たちばかりだから、社会常識として心得ており、せいぜい不注意で切り忘れた人の携帯音が1回鳴るか鳴らないかである。浜松は田舎だなぁ、と嘆息してしまった。

そんなことはあったものの、全体として心に残る『椿姫』であった。

なかなか身動きできない立場になってしまったので、次の歌劇(ワーグナーなら「楽劇」)鑑賞がいつになるかは見通しが立たないが、頻度は減っても、これは趣味の一つとして続けていきたいと思っている。

また、この公演には、浜松市や静岡県の医師会で重い役を歴任され、介護支援専門員の連絡組織でも私の前任者でおられた岡﨑博先生が来られていた。同先生は海外へもときどき鑑賞に行かれるとのことである。会場で顔見知りの方に出会うことはそれほど多くはないが、意外な同好の士の存在を知ることも、歌劇鑑賞の面白さなのかも知れない。

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