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2017年6月

2017年6月30日 (金)

懇親の酒席で求められる節度

昨秋の開業15周年のつどいには、地元浜松はもちろん、全国各地から実に多くの方々にご来場いただき、感激ひとしおであった。

しかし、私が地元でお世話になった関係者のうち、何人かを最初から意図的に招かなかったことは、フェイスブックの「友達」ぐらいしかご存知なかったと思う。

なぜその人たちを「外した」のか? 答えは簡単である。

その人たちは、いつも懇親の酒席で20分、30分と自分の話を長々続けて、他の参加者がなかなか口をはさめない状態を作ってしまうからなのだ(コミュニケーション障害や構音の障害等により、20分、30分かけないと話をまとめられない人とは、全く異なる)。

この該当者数名は、私と同世代からかなり上の世代にわたる人たちである。個人が特定されないように表現するが、そのうちお二人は国際交流にも大きく貢献し、相手国の(当時の)最高政治指導者と会っている人物だ。だが、それほどの人であっても、私から見る限り、自分が主催する懇親の場に出ていただくには不適格なのである。

全国各地から多くの仲間たちが、研修会や懇親会の参加費に加えて、交通費も自己負担して集まって来られている。主催する側としては、懇親会を全員にとって有意義な交流の場にしていただくように努力するのが責務だ。

場を選ばず自慢話の独演会をやってしまう人は、もちろん悪意はないだろうが、この趣旨に沿わない人である。いかに地位の高い人であろうが、懇親の酒席では「節度をわきまえない人」だと言わざるを得ない。私の業界仲間たちは、その人の話を聞くために貴重なお金と時間を使って、遠路参加しているのではない。延々とした長話は(その分野に関心のある一部の人を除き)他の参加者にとって聞き苦しいだけであろう。自分の独演会をやりたければ、自分で企画して人を呼べば良い。

これまで当たり前のように、日の当たる場所でばかり自分の業績を披露してきた人が、ある意味でナルシストになってしまい、行く先々でこのような行為を繰り返すのは、悲しいことである。そこで自己変容できる人ならば本当に尊敬するのだが、なかなかそうならないのが人間の性(さが)なのかも知れない。

しかし、呼んでしまってから、その人が長話をしたからと言ってスピーチロックをするのは、かえって気分を害する可能性が強い。そこで、最初から招かないことにした次第だ。

その人たちを「外した」結果、昨秋の「つどい」の懇親会では、各テーブルでおおむね「独演会」の弊害を避けられた。もちろん他地から来られた方の性格までは把握できないので、一部、長話をしていた人がおられたかも知れない。それでも会場の良い雰囲気を大きく損ねるほどのことは起こらなかったと記憶している。参加された方々の節度と良識とには、改めて敬意と感謝の意とを表したい。

ところで、独演会の話とは異なるが、以前に見たこんな光景を思い出した。

何年も前の静岡県社会福祉士会総会後の懇親会。講演の講師として他県から呼ばれた人も参加して、懇親会終了まで付き合ってくれた。私は講師の講演テーマにさほど興味がなかったが、若手や中堅の会員の中には、その分野に大きな関心を示した人が多くいた様子で、講演の最後には質疑応答も交わされていた。そして懇親会は立食パーティーであり、参加者は移動しながらいろいろな人と歓談できるパターンだったので、普通なら多くの会員が講師と話す機会を持てたはずだ。

ところが、同会の理事であった一人の中堅会員が、講師に次から次へと話しかけて、懇親会の大半の時間、その講師を「独占」してしまい、他の会員が寄りつけなかったのである。私はほとんど講師の隣のテーブルに居て、行き交う周囲の人たちと談話していた時間が長かったので、たまたま記憶に残ったのだが、開始一時間半後の終わり近くになってもその理事が講師とずっと話しているのを見て、「まだやってんのかい!」と苦笑したものだ。その理事に苦言を呈するほどの知り合いではなかったので、傍観していたのだが。

県社会福祉士会の理事もボランティア的な部分が少なくないだろうし、このような機会にいわば「役得」のような形で、優先的に来賓と語る機会を持つことはあって良いだろう。しかし、他の会員が間に入る余地がないような「独占」は異常だ。講師の側も、より多くの会員たちと交流したかったであろうに、一人の会員から延々と議論を吹っ掛けられていたのだから、外面はともかく、内心では決して快く思わなかったのではないだろうか。もし私がこの講師だったら、途中で「ノーサンキュー」とか言って、テーブルを移動したであろう。

これもまた節度をわきまえない好例である。

懇親の酒席では、参加した全員がなるべく高い満足感を得て、交流の果実を持ち帰ることができることが望ましい。そのために、私が席主になるパーティーでは、たとえ一部の方から嫌われようが(笑)、節度をわきまえた人たちだけをお招きする姿勢を貫こうと思っている。

私と飲んだことのある知人・友人のみなさん。どうぞ酒席の節度を守って、これからも私が快くお声掛けできる方でいてください!

2017年6月19日 (月)

ヴェルディ歌劇の面白さ(9)

ヴェルディの歌劇は過去六回鑑賞しているが、『椿姫』は初めてである。多くのヴェルディ‐ファンは早いうちにこの作品を体験するだろうから、七作目でやっと『椿姫』なのは珍しいかも知れない。

マッシモ‐ディ‐パレルモ劇場の引っ越し公演で、会場は地元浜松のアクトシティ大ホール。とは言え、確か十年ぐらい前に一度入っただけの劇場。ホームタウンなのになぜかアウェイ感。上野の東京文化会館のほうが、年一回程度は行っていただけに、ホーム感がある(^^; 第二幕に入るあたりでようやく違和感が解消した。

指揮はフランチェスコ‐イヴァン‐チャンパ、演出はマリオ‐ポンティッジャ。キャストはヴィオレッタがデジレ‐ランカトーレ、アルフレードがアントニオ‐ポーリ、ジェルモンがセバスティアン‐カターナ、フローラがピエラ‐ビヴォーナ、ほか。

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ランカトーレは容姿もヴィオレッタ役向きであり、第一幕にやや不安定な箇所があったものの、おおむね全編を通してドラマティコ‐ソプラノを朗々と歌い込み、秀逸な歌唱。第三幕のアリア「過ぎ去った日よ、さようなら」は豊かな表現力の演技とも相まって、素晴らしい出来であった。

ポーリは正統派のリリコ‐テノールで、音程が正確なのが長所。第一幕では控えめな演技で純情なアルフレードをよく表現していた。ランカトーレとの二重唱も相性好く、ブレを感じさせない歌唱。第二幕のカバレッタの末尾「...この恥辱を晴らすぞ!」のところでは(たぶん一部の聴衆が期待した)ハイC(=二点ハ音)を出さず、会場の拍手がやや少なかったが、若手歌手が長く声を維持して活躍するためには、無理をしないのが賢明であろう。

カターナは傲然とした家父長的なジェルモン役を粛々とこなし、特に第二幕「プロヴァンスの海と陸」、息子(アルフレード)の心には全く響かない設定で、聴衆にはじっくり聴かせて魅了しなければならない難しいアリアを、自然体で歌いこなし、喝采を浴びていた。

チャンパの指揮はオーソドックスで聴きやすいものではあったが、ドラマの転換点、特に第三幕では、ポイント切り替えのように緩急を意識的に調節していた。ポンティッジャの演出は照明の使い方が巧みであり、第三幕のシェーナ&二重唱でヴィオレッタ役のランカトーレが「こんなに苦しんだのに、若くして死ぬなんて!」の歌いに入るところから、彼女の顔に全く光が当たらないようにして絶望を表現するなど、随所に工夫が見られた。

ただ、せっかくの好演の価値を減じたのは、聴衆のマナーの悪さである。途中で携帯音が鳴り出すことが(聞き取れただけで)4回。そのうち1回は音を止めようともしなかったらしく、延々と鳴り続けていた。これは絶対にしないように、あらかじめ電源オフまたは消音にしなければいけないのだが、第一幕開始前に入り口で係員が小さな声で注意を促していた程度で、アナウンスは無かったと記憶している。これが東京文化会館ならば、幕の始まりごとにアナウンスが行われるし、鑑賞に来る聴衆も回を重ねている人たちばかりだから、社会常識として心得ており、せいぜい不注意で切り忘れた人の携帯音が1回鳴るか鳴らないかである。浜松は田舎だなぁ、と嘆息してしまった。

そんなことはあったものの、全体として心に残る『椿姫』であった。

なかなか身動きできない立場になってしまったので、次の歌劇(ワーグナーなら「楽劇」)鑑賞がいつになるかは見通しが立たないが、頻度は減っても、これは趣味の一つとして続けていきたいと思っている。

また、この公演には、浜松市や静岡県の医師会で重い役を歴任され、介護支援専門員の連絡組織でも私の前任者でおられた岡﨑博先生が来られていた。同先生は海外へもときどき鑑賞に行かれるとのことである。会場で顔見知りの方に出会うことはそれほど多くはないが、意外な同好の士の存在を知ることも、歌劇鑑賞の面白さなのかも知れない。

2017年6月18日 (日)

情報を取得するときの心得

既存メディアの功罪についての議論が絶えない。政治、経済、そして社会問題、国際情勢など。さまざまな分野に関して、新聞では全国紙や地方紙、TVでは公共放送や民間放送が、情報の普及に果たしてきた功績は計り知れない。他方で、メディアの「害悪」もまた小さくなかったことは現実である。

大新聞はとかく「偏向」を指摘されてきた。確かに紙媒体の新聞を読む限りは、主要な記事や論説のうち、かなりの割合のものが偏りを免れない状況であろう。しかし、インターネットが普及した現代では、大手メディアが必ずしも「偏向」していられないのが現実のようだ。

実際、右派・保守派から「パヨク」扱いされがちな朝日新聞が、提携するハフポスト日本版では、右派側の見解もそのまま掲載しているし、逆に左派・人権派から「ネトウヨ」扱いされがちな産経新聞も、オピニオンサイト「iRONNA」のコーナーでは、左派側の見解もそのまま掲載している。もちろん、両紙とも、自社側の論調をより強く印象付けるための仕掛けを、それなりに工夫しているらしいことが看取されるが。

また、このほかに、どう考えても論調がおかしい(一貫していない、判断根拠が理解し難い、etc.)全国紙や地方紙が存在することも確かである。

TVでは、一部にどう見ても偏向としか言えない番組はあるものの、問題の多くは局側の「視聴率を取りたいビジネスライクの姿勢」にあり、過剰な取材を始め、視聴者の興味本位に迎合した番組本位の稚拙な編集が、正確性や中立性を歪める原因を作っているので、視聴者から愛想を尽かされている面が強い。裏を返せば、質の高い編集がなされている番組には、視るに値するものも少なくないのだが、大勢を占めるには至っていない。

このような実態を踏まえ、最近はおもに若い人たちが、あまり新聞やTVに依存せず、ネットから直接情報を取得しようとするのは、時代の趨勢である。

さて、私たちがネットを主たる媒体として情報を取得するときに、心がけたいことがある。

それは、情報の「選び方」なのだ。

Jouhou

私がいつも強調しているのは、「私たちは無意識のうちに、自分にとって快い情報だけを取り込んでいる」ことである。人が情報を取得し、選択しようとするとき、大なり小なり、この図に示したような心理的動機が働く。いくら自分が公平な眼で、中立的な立ち位置で世の中を眺めようとしても、神ならぬ身であれば、100%それを貫徹するのは不可能と言えよう。

しかし、それを完璧に近づけるために努力することはできる。そのためには、

(1)「自分が日頃から尊敬、共感している人(組織)が、ある場面ではおかしなこと、間違ったことを言っていないか」

(2)「自分が日頃から嫌悪、批判している人(組織)が、ある場面では正論を言っていないか」

これらを常に意識して情報を「選ぶ」ことが必要になる。

拙著『これでいいのか? 日本の介護』第七章では、日本人特有の思考形態・行動様式について述べたが、その中で特に大きく取り上げたのが「二分割思考」である。「白」と「黒」、「善」と「悪」、「正」と「邪」、「純」と「不純」などが、その代表的なものだ。この「二分割思考」が「排除の論理」につながり、また私たちの正常な情報分析を妨げることは、前掲書中に述べているので、機会のある方はお読みいただきたい。

この「二分割思考」の壁を打ち破るために、上述した(1)と(2)とを常に意識することは、とても大切だ。考え方が両極端に走るのを防ぐことにより、ものごとの真実を見抜く力を養うことにつながるからである。

私たち市民がこのような努力をして、自分の頭で情報を選び、ネットでの極論や誹謗中傷に対して安易な賛同をしない姿勢、反対側の立場の見解を頭から否定しない姿勢を保っていけば、それは日本国民の民度を向上させ、成熟した市民社会の実現を近付けることになる。

上の(1)と(2)。一人でも多くの人たちに、ぜひ実践していただきたい。

2017年6月17日 (土)

特別講演を終えて

去る10日(土)、特定非営利活動法人・静岡県介護支援専門員協会の総会があり、4期8年間在任した副会長を退任することとなった。

「老害」と謗られる(?)前に引っ込もうと思い、いささか遅きに失した感はあるが、職能団体での役割に、ひとまず区切りをつけた形である。後半の三年間は、母の体調変動により、いささかの無理をしながらの在任であり、特に最後の四か月は介護に追われながらの日々で、満足に職務を遂行できなかった。ご迷惑を掛けた関係者の方々には、なにとぞご寛恕いただきたい。

続いて、総会終了後に「特別講演会」と題して、講話をさせていただく機会を得られたのは、ありがたいことであった。

タイトルは「ケアマネジャーの可能性 -制度の中の仕事と制度の外でできること-」。

前半では、2018(平成30)年度医療・介護同時改定はもちろん、2021(平成33)年度改定で起こりそうなことまで大胆に予測する流れで、県内の介護支援専門員や県ケアマネ協会を鼓舞する一方、「副会長」の肩書では言いにくかった政策側や職能団体等への体制批判的な見解も、一会員の立場でしゃべらせていただいた。

後半で伝えたかったのは、制度上の「介護支援専門員」に限らなくても、ケアマネジャーの職能でできる仕事はいくつも存在すること。障害者相談支援、認知症サポート、コミュニティソーシャルワーク、民間保険、産業(介護離職防止)ケアマネジメント、成年後見制度関連業務、外部評価、外国人人材活用など、ケアマネジャーが経験知や技術を活かすことができる場を紹介し、制度の枠だけに捉われずに職能を生かしてほしいと訴えた。

もちろん、これらのすべての分野について、ケアマネジャーが占有できるわけではない。中には、「ケアマネジメント」の領域に隣接かつ一部重複する「ソーシャルワーク」の領域に及ぶ分野もあり、本来ならそれらの分野については両者の相互関係を整理して説明するのが望ましかったのだが、時間の関係で話を端折らざるを得なかった。聴講者にはいささかわかりにくかったかも知れない。

最後に、結びとして呼びかけたのは、ケアマネジャーには、共通する職業倫理や行動規範があり、利用者の代弁、人間の尊厳、公益、連帯、たゆまぬ研鑽を旨としてほしいこと。

そして、ケアマネジャーがどのような形態で仕事をしようが、専門職としての誇りを持ち、人頼みでなく自分から行動し、積み上げた実績を信じて前進してほしいことを述べ、いつかは民意が世を理想に近づけるのだから、希望を捨てないでほしい、と締め括った。

私自身、介護者でもあるため、これから人前で話をする機会も限られてくるであろう。数少ない「本音で話す」論者の意見として、県内のケアマネジャーのみなさんが受け止め、何らかの参考にしていただければ幸いである。

2017年6月 4日 (日)

国益を損ねているのは誰なのか?

先日、日韓両チームによるサッカーの試合後、韓国チーム側に主たる原因があると判断される暴力騒ぎがあり、ネット上を賑わしていたようだ。

ただ、これに関連するブログやSNSの記事やコメントを見て、思うことがある。

よく聞く話だが、日本人Aさん、あるいはAさんの所属する集団(国を代表する機関は除く)が、Bという国で、明らかに日本人だとの理由から、理不尽な、あるいは暴力的な、あるいは差別的な仕打ちを受けたとしよう。

Aさんは怒って日本に帰り、「B国でとんでもない仕打ちを受けたよ」と、自分のブログやSNSにその経緯を掲載した。

それを読んだ多くの人たちが、「B国」を「国」として批判するのにとどまらず、「B国人は悪いヤツらだ!」「日本に居るB国人は帰れ!」と、「人」や「民族」への攻撃を続々と書き込んだ。これもよくある話だ。そのため、日本に在住する善良なB国人までが、精神的苦痛を味わうことになった。

つまり、日本国内で「B国人」に対するヘイトスピーチが広がったわけだから、結果的には日本国の「失点」となり、国際的な日本の評価を下げることになるのである。

では、私がAさんだったらどうするか?

まず、事案が発生した直後に、B国の地方行政機関などの当局に(現地語がわからなければ、日本語と英語だけでも)経緯を伝え、自分(集団)が「日本人であることが原因で」不当な扱いを受け、精神的苦痛を味わったことを明確に示し、対処を要求する。

自分の滞在中に、納得のいく結果(改善、謝罪等)が得られなかった場合は、帰国後に改めて先方国の大使館に経緯を説明し、同様な要求をする。一定期間が経過しても、誠意ある対応をしてくれないようであれば、自分と考え方の近いロビイスト等の活動家に書簡やメールを送り、国際機関への報告を依頼する。

同様な事案が積み重なるようであれば、B国が「日本人(集団)排斥」への規制に消極的だということになるから、それはB国側の失点となり、B国の国際的評価を下げることになる。もちろん、そうなる前にB国が適切な対応を見せてくれるのが、お互いのためにも望ましい。いずれにせよ、この場合は日本への国際的評価に直接の影響はない。

ところが、往々にして日本人はこのような行動を採らず、先に掲げたAさんのような行動を択んでしまう。そのため、「B国人」を罵り、貶めるコメントがネット上に横行してしまうことが少なくない。

したがって、結果から見る限り、日本の国益を損ねているのは、B国の人たちではなく、日本のヘイトスピーカーたちなのである。

東アジアの場合、たとえば西欧などと比較すると、歴史的な経過も複雑であるため、事情が異なる面も確かにあろう。また、日本のロビイスト等の活動家には、特定の国の人たちに対し行き過ぎた配慮をしている感のある左派・人権派の人たちが、たいへん多いのも現実であろう。それを理由に、右派・保守派の中には、私のやり方に首肯できない人たちも相当数いるものと推測される。

しかし、国際標準で判断する限り、上に述べた通りなのだ。対立する相手側が熱くなったからと言って、自分の側が熱くなるのは愚策である。B国の政治家や教育者が国としての日本をどう見なしていようが、B国内で日本人(集団)を排斥するのが間違った行為であることを、冷静に主張し、改善を求めていくことが大切である。日本に居るB国人が居心地の悪い思いをしたくないのと同様、B国に居る日本人も、居心地の悪い思いをしたくないのだから。

相手側への反感からネガティヴなヘイトスピーチに走れば、自分自身の心も貧弱になる。国同士の関係がどうあれ、私たちは異なる民族や国籍を持つ人たちと理解し合い、豊かな心で、建設的な国際交流を目指そうではないか。

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