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2018年3月

2018年3月24日 (土)

人生の締め括りかた

いま、母が帰天したあとの事後整理を、必要なことから少しずつ進めている。昨日、年金受給権者死亡届を提出し、ひとまず第一段階が終わったところである。これから相続や預金の整理、また並行して会葬お礼や納骨の準備にかかることになる。

これまでの経過を振り返ると、母が前日に急変してから丸一日も経たないうちに死去していて、かつ、おおむね私一人で葬送の段取りをした割には、われながらスムーズに対応できた。

5日の朝、母の死亡診断がなされてから、すぐに教会の担当者Sさんと連絡を取り、氏の案内に従って教会が契約している葬儀社H社へ直接電話、まず病院から自宅への遺体搬送を依頼すると同時に、とりいそぎ8日の斎場の予約を取った。再度Sさんへ電話して神父様に問い合わせていただき、通夜と葬儀ミサ・告別式の開始時刻を決定、どの程度の人数に連絡するのかも(会場の割付に影響するので)おおむね内定させた。病棟で母のエンジェル‐ケアをしてもらい、H社の柩送の車が到着するまでの間に、母の実家(名古屋)の叔母夫妻、従妹(叔母の娘)への連絡、利用予定だった各介護サービス(5か所)へのキャンセルとお礼の電話もすべて完了した。

この間、一時間強。前日の母の様子から心の準備がある程度できていたとは言え、自分でも信じられないほど冷静で迅速な手順を踏んだと思う。

私自身が介護業界に居ることも、速やかに段取りできた要因ではあるが、何よりも、母自身が事前意思によって、連絡する範囲や葬儀のスタイルを決めてあったことが大きい。

16年前、父を葬送した際には、教会との連絡も、葬儀社の手配も、参列者への応接も、何かと後手後手に回って、弥縫的なフォローに追われ、手伝ってくれた親戚まで巻き込んで迷惑を掛けてしまった。そのことへの反省もあり、今回は可能なところから準備をしていたのは正解であった。昨年の1月、母の著しい体調不良で終末も予測されたとき、いくつかの点について本人の意思を確認しておいたことも幸いした。

母には、葬儀社は教会と連絡が取りやすいH社へ依頼することを、あらかじめ伝えてあった。また、母本人が近親者以外への連絡を望まなかったので、新聞掲載や自治会などへの通知はせず、親戚以外からのお花料やお供えも辞退して、簡素に執り行うことで合意していた。教会の信者の中では、聖歌隊などの典礼奉仕者の方々は別として、母と昵懇だった3名ほどの方(前のエントリーに登場したKさん・Sさん・Wさん)だけに声掛けすることについても、本人の了解を得ておいた。

事前に確認していなかったことだが、あえて母の気持ちを汲み取って、私の独断で行ったのは二点だけ。

一つは遺体の湯かんと化粧。母は2011年からベル麻痺を患い、顔面がやや歪んでしまったことを苦にしていた。息を引き取ってからは麻痺が消え、左右対称の端正な顔に戻ったので、最後は綺麗に化粧してもらって旅立たせようと思い、H社と契約している専門のメイクサービスを依頼した。質素な葬送の中、思いを込めてここだけはお金をかけている。私も所在を知らなかった母の着物と長襦袢とを、名古屋の叔母が箪笥の中から探し出してくれたので、化粧のときそれを着せてもらった。

もう一つは、葬送のあと、母が昨年まで食べ物などのやりとりをしていた数名の近所の方に電話して、弔問に来てもらったことである。母の口から名前が出なかったので葬儀の連絡はしなかったが、直後のお知らせだけはしておくのが、礼節を大切にした母の気持ちに沿うと判断したからだ。

このように、百点満点ではなかったかも知れないが、母の意思を全面的に尊重した葬送ができたので、ひとまず安堵している次第である。

一般的に「終活」と称されるが、「人生の締め括り方」は百人百様だ。個人差はあるものの、一定の年齢に達したら、自分の流儀を家族や親しい人に伝えておくことも大切であろう。不慮の事故や事件による死去の場合はともかく、通常の場合は事前に自らの意思を示しておくことで、葬送を執り行う遺族もあまり迷わずにいろいろな手配ができ、滞りなく厳粛に本人の旅立ちを送ることができるのだ。

生前の振る舞いや業績と、人生の締め括りの上手さとは、また別の話であろうと強く感じている。

2018年3月 9日 (金)

「行っていいよ」

私の母は1926(大正15)年8月7日、名古屋市中村区で、二男六女(夭折した者を含む)の三番目(二女)として出生した。高等女学校を卒業後、戦時中には軍需工場で働き、戦後は実家で病弱な父親と兄(私から見れば祖父と伯父)とを抱え、銀行などで働いて家計を支えた。

1953年、父と結婚して名古屋を離れ、磐田市中泉のアパートに居住。1960年に私が生まれたころには、仕事をやめて専業主婦になっていた。父は勤務先で大したポストに就けなかったのにもかかわらず、見栄を張って気前良く散財する性癖があったため、母は家計を緊縮して節約するのに苦労しながら、貯蓄にいそしみ、1970年にいまの自宅を手に入れ、家族で浜松市(現・西区)の家へ転居した。

私が大学へ入り、東京に出て生活したことで、母は自分の時間を十分に持てたはずなのだが、母が一人で他出するのを父が極端に嫌ったので、後味の悪い結果を避けたかった母は、旅行一つ行くことがままならず、不自由を余儀なくされた。そこで、その代償として、もともと編み物で師範の資格を持つほど器用であった母は、手芸を中心とした趣味活動に打ち込むようになった(なお、父の帰天後は、私が同伴して4回ほど旅行に出かけている)。

浄土真宗の家庭に生まれ、曹洞宗の家に嫁いだ母であったが、1965年に私を磐田聖マリア幼稚園へ入園させたことを機に、イエス‐キリストからのお招きをいただくことになる。浜松に転居してからは教会と疎遠であったが、磐田教会のインド国内ハルルへの対外支援活動「愛の泉」に参加、子どもの里親として学費支援に協力するようになってから、再び教会の活動に近づく機会を得た。父が2002年に帰天(臨終洗礼)した後、母も教会の洗礼を望むようになったので、2006年には私が所属するカトリック浜松教会の小林陽一神父様に数回ご来宅いただき、公教要理のいわばダイジェスト版によるご指導を受けた。2007年に浜松教会にて受洗(霊名マリア)。

高齢になってからも趣味活動を続け、地域でも豊かな人付き合いを続けていた母であったが、体力の限界もあり活動から一つずつ引退していった。2011年に顔面神経麻痺を患ったのを機に、少しずつ身体的な制約が加わり、これまで一人でこなしていた家事も、掃除→買い物→調理と、少しずつ私が手伝う部分が増えていった。それでも洗濯だけは私の衣類も含め、一人でがんばって続けていた。

教会へは私が同伴してときどき赴いていたが、次第にミサ参列が難しくなったので、自宅での短い祈りを日課にしていた。2016年に一度だけ、私と一緒に教会へ行き、山野内公司神父様から霊的指導をいただいている。そのときの神父様のご助言は、「死へ向かうことよりも、いま一日一日をどう生きるかを大切にしましょう」。

2017年1月19日から高熱が続き、薬の副作用か、一時は味覚異常で摂食できなくなり、慢性心不全を持っていたことから予後が危ぶまれたが、味覚が正常に戻るに連れ、本人の努力もあって食欲が回復した。要介護3の状態になり、ADLも低下したとは言え、自宅内ではときどき見守りがあれば身の周りのことがこなせるようになり、介護サービスを受けながら平穏な在宅生活を送っていた。私の手料理が美味しいと喜んで食べてくれることも多かった。「私は神様に生かされているんだね」と何度も話していた。

交替で来宅するホームヘルパーさんたちには、信頼してケアを任せていた。また、隔週で利用・滞在するショートステイの職員さんや他利用者さん、陽気で懇切丁寧な管理指導をしてくださる訪問歯科衛生士さんなどとも、意欲的にコミュニケーションを取り、春夏秋冬、楽しい日々を過ごしたことが多かった。昨年の誕生日には、「私、91かね。まだ若いな。もう少し生きなければ」と言っていたものだ。

2018年に入り、正月の餅も連日無事に食べ、気になっていた右上下の第三大臼歯(おやしらず)の抜歯を済ませて、復活祭が来たらこれまでと違う美味しいものでも食べようか、と話し、本人も楽しみにしていたのだが...

3月4日(日)の昼食(インスタントラーメン)を普通に摂り、私も休日だったので二階の部屋へ引き上げて仮眠。ところが15時に階下の母の居室へ行くと、「胸が痛い! さっきから呼んでいるのよ...」と言い、姿勢を転々と変えながら発汗、苦悶していた。すぐ訪問看護に緊急相談、無理せずに救急車を、との助言に従い、聖隷三方原病院へ救急搬送、16時過ぎに入院となった。循環器科の医師の診断によると、心筋梗塞で心臓が止まりそうな状態。カテーテル手術等の侵襲は年齢から難しいので、点滴と医療用麻薬(苦痛緩和)の処置になるが、一般的にきょう一日のうち、早ければ1~2時間とのこと。

急遽、母の大親友だったOさん(70代前半、女性)に病院まで来てもらった。二人で母と話しながら見守っているうちに、18時半ごろには応答がなく下顎呼吸になり、心電図モニターの表示が著しく不整、かつ弱くなったので、二人で手足を握ったりさすったりしながら看取りモードに入った。その後、ややモニターの表示が落ち着いたので、Oさんにお礼を言って帰宅してもらった。麻薬が奏効したのか、自分で枕の位置を直し、発汗のため上半身の布団を手で除けるなど、少し力を取り戻した感があった。

モニターは弱目ながら安定が続いたため、21時30分ごろにいったん帰宅しようと、母の手を握って、「一度、家へ帰るよ。明日必ず来るからね」などと言っていたら、母はかすれ声ながらはっきり、「行(い)っていいよ」と返してくれた。私が母から聞いた最後の言葉。これまでの母の姿勢から推し測れば、単純に帰宅して良いとの意味ではなく、私に「自分の道を進め」と、背中を強く押してくれたものだと思う。

翌5日(月)の朝、朝食・ゴミ出し・洗濯などを終えて、身支度が終わった直後、病院から「下顎呼吸が始まったので、すぐ来てください」との電話が入った。間髪を置かず車で出発して、雨の中、25分ほどで病院に到着。病棟に駆け付けたときは8時57分、母はすでに目を開けず、身体を動かす力も残っていなかった。

母の手を握り、「お母さん! 本当によくがんばったね。長い間本当にありがとう」と声を掛けると、それを聞いて安堵したのか、5分後の9時2分にモニターの数字がすべてゼロを示し、息を引き取った(医師による死亡確認は9時6分)。入院して18時間のがんばりを経ての収束。残念ながら自宅での「大往生」はかなわなかったが、推測する限り、ただ一人の家族である私に看取られて91年6か月の人生を終えた母は、まずは幸せだったと言えるのではないだろうか。

母から息子である私への最後の教訓は、一年以上前、すでに聞いてあった。「誰にでも心を開いて付き合いなさい」。母が日頃から実践してきたことだ。そのために地域から「人が好過ぎる」と言われたこともあったが、またそれゆえに多くの人から愛されてきた。

7日(水)にカトリック浜松教会で行われた通夜では、同じ町内で母と親しかったWさん(女性。教会の信者)が、母と交流した思い出を話してくださった。またショートステイ利用施設(地理的に教会から近い)の職員5人が、訃報を聞き駆け付けてくださった。

8日(木)、山野内神父様の司式により、教会で葬儀ミサから告別式。母本人の意思を尊重して、親族など母をよく知る限られた人たちだけに声を掛けて執り行ったので、「義理で弔問するその他大勢」もおらず、とても好いインティミットな別れの場になった。出棺の後、親族以外でも、Oさん夫妻、および、母の代母(受洗の母親代わりの役)の娘さんであるK教授(女性)と、前述の幼稚園で53~51年前、新任のとき私のクラスを担当したS園長(女性)とが、一緒に斎場まで行って拾骨までしてくださった。KさんもSさんも教会の信者で、晩年に受洗した母にとっては、教会共同体での数少ない友であったのだ。

強く、自分の信念を持って生き抜いた母の生活態度は、私にとってもこの上なく大きな学びであった。おそらく、これからも遺影(元写真の撮影者はOさんの旦那さん)を見るたびに、「行っていいよ」と励ます声を聞くことだろう。

ちょうど、5日も8日も雨になったことから、アイルランドの口碑(oral tradition)の中にあった言葉を思い起こす。

「一生を晴ればれと生きた善人ならば、帰天した日と葬儀の日は、浄罪(天国へ行く前に、生前の罪を償って清めること)の日なので雨が降る」

母の一生を振り返って、まさにこの言葉が当てはまるなあ、と勝手に解釈している。イエス‐キリストの足元に膝まづきながら、生前のいくつかの小罪を改悛し、それから神の国へ旅立ったのではないだろうか。

悲しさや寂しさは免れないが、家族としてもっとも身近にいた人の生きざまを範としながら、今後、私自身も強く生き抜いていけるよう、心を新たにしたい。

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