「死者の月」に当たり
世間では先週、ハロウィーンでにぎわっていたようだ。もともと日本社会には縁が薄かった米国輸入の祝祭が、1990年代あたりから注目され、民間ベースで各地の行事などに取り入れられた結果、近年は渋谷を中心として、全国的に異様な盛り上がりを見せている。
ところで、このハロウィーンは何の祝祭かと言うと、実は11月1日に定められているカトリック教会の「諸聖人の日」のいわば前夜祭なのだ。それも、元来はキリスト教が入ってくる以前に10月31日に行われていたケルト人ドルイドたちの祭りを、アイルランドやスコットランドの教会側が、地元ベースで結び付けたものである。したがって、公式にはカトリック教会の祝祭日になっているものではない。
このハロウィーンが、アイルランドやスコットランドからの移民によってアメリカ大陸へ伝えられ、全米的な大衆文化として広まった。それが日本でも、これを商機と捉える関連企業をはじめとする利害関係者によりPRされ、SNSなどネットを介して普及してきたのである。
さて、カトリック教会では、信仰のために大きな業績があった人たち、特に列聖された人たち(聖ペトロなど)や殉教者たちを記念し、神への取り次ぎを願って、11月1日に「諸聖人の日」を祝う。
その翌日、11月2日は、キリストを信じて帰天したすべての死者を祈念する「死者の日」である。信仰に生きた人たちに敬愛の念を捧げ、神に向かって執り成してくれるように祈願する。この日に限らず、11月を通して、一か月が「死者の月」とされている。
浜松教会では、4日(日曜日)のミサの前に、信徒会の役員さんが今年帰天した信徒の名前を読み上げてくださった。私の母の名も入っていた。
主日のミサは山野内神父様の司式で行われ、祈願文の中ですべての死者のために祈りが捧げられた。講話では「神を愛することで、自分も神から愛される」意味について、説いてくださった。その話を聞いていて、私は教会のテーマを思い出した。
あと二か月を残すのみとなったが、2018年の浜松教会のテーマは、サレジオ会(山野内神父様の所属修道会)が掲げる「主よ、その水をください(画像)」である。ヨハネ福音書4章15節にある挿話。井戸に水を汲みに来たサマリア人の女性に対し、イエス‐キリストが「私が与える水を飲む者は決して渇かない」と言ったので、女性はイエスに「主よ、その水をください」と願ったエピソード。
ここでイエスが言われた「水」は、真理のことである。
キリストを信じて生きた人たちは、二千年の長きにわたって、その「水」を受け継ぎ、次の世代に伝えてきた。そこには人間社会をより理想に近付けようとする悠久の営みがあった。
私の母は晩年に受洗したので、典型的なキリスト者の生活を送ってはこなかったかも知れない。しかし、母が私に遺した訓戒「誰にでも心を開いて付き合いなさい」は、イエスの教えを母なりに受け継いだものにほかならないであろう。母はそれを自分の身に着けた流儀として、人生を生き抜いた。そしてそれを息子である私に伝えていく...
「死者の月」である11月、このようなことを題材に黙想しながら、自分が歩むべき道を模索してみたい。
仏教の「お盆」とはかなり異なるが、亡くなった親族を敬愛して偲び、その霊魂の働きによって、いま生きている自分たち家族の発展と平安とがもたらされるように願う点では、共通するものも大きいだろう。ハロウィーンの単発的なお祭り騒ぎに終わるのではなく、これを契機として、宗教が異なる多くの人たちにも、私たちの祈りの一か月を理解してもらえると幸いである。
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