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2019年2月 5日 (火)

「聞くは一時の恥」

拙著『口のきき方で介護を変える!(2013厚有出版)』の第6章第4節では、このタイトルの言葉を取り上げた。「わからなければ尋ねる」心構えを説いたものである。これは介護業界に限らず、どの業界にも当てはまる話だ。

このほど、偶然ではあるが、国史の分野で格好の事例を発見したので、参考までにご紹介しておこう。

なお、この事例は、専門領域を深く掘り下げると、それに対する自負からしばしば起こりがちなことを示したものなので、当該人物を貶めるものではけっしてないことを、お断りしておく。

M氏なる方がいる。すでにご高齢の方であり、私自身は残念ながらお会いしてご指導を受けたことがない。このM氏は、中世・近世の島津家・薩摩藩史に関する第一人者である。

そのM氏が『島津継豊と瑞仙院(1983)』なる論考を出している。薩摩藩主・島津継豊が長州藩主・毛利吉元の娘であった瑞仙院を妻に迎えてから、彼女が若くして死去するまでの経緯を記し、そこから島津家の婚姻政策について詳細に論じたものである。

さて、この論考の中で、たいへん気になる箇所がある。

M氏によると、「『追録(引用者注;『薩摩旧記雑録・追録』のこと)には、吉元の娘には『吉元令嬢』『御前様』『瑞仙院』という院号があるのみで、名前の記述がない」とあり、論考の中では、名前が省かれた背景事情として、継豊の再婚相手が徳川将軍家の養女・竹姫であったこと、島津家が特定の大名と婚姻を重ねるのを避けたことなどを挙げ、瑞仙院との婚姻が比較的軽く小規模な形に扱われてしまった。そのため、この時点では後世の薩長同盟につながる動きは見られない、と結んでいる。

この結論自体には何ら異存はない。M氏の見解に全面的に同意する。

では、何が問題なのか?

M氏は島津家側の記録だけを閲覧した結果、瑞仙院の名がわからないので記載していない。

しかし、この人の名ははっきりしている。「皆姫」である。おそらく「ともひめ」、ひょっとしたら「みなひめ」か、あるいは他の読み方かも知れないが、いずれにせよ、長州毛利家側の記録では、この女性の名は明々白々である。

つまり、M氏は島津家側の記録しか調べておらず、かつ〔自分の専門外である〕毛利家側の資料には当たっていないことが明らかなのだ。

いま、Wikipediaなどのネット事典を検索して、「皆姫」の名が普通に出てくるところを見ると、これは該博な碩学の誰かが編集に参加したのであろうと思われるかも知れないが、そうではない。実は瑞仙院が「皆姫」であることを私が見た史料は、『近世防長諸家系図綜覧(1966マツノ書店)』であり、これは一般の歴史好きの人が普通に入手できた本(いまはおそらく絶版)なのだ。そのレベルの史料に瑞仙院の本名が載っているのである。したがって、M氏ほどの一流の研究者が調べられなかったことはあり得ない。

もし、M氏が「私は専門外だから」と、謙虚に知人の毛利家・長州藩研究者に尋ねて、瑞仙院の名を確認しておけば、このようなことにはならなかったであろう。その辺りの経過については、ご本人に聞いてみなければわからないことは確かだが、結果としては、論考の主人公の一人である「皆姫」の名が記載されないままになってしまった。きわめて不自然な隔靴掻痒の論考になってしまったことは否めない

このM氏ほどの方であっても、「聞くは一時の恥」とはいかなかったのだ。

井沢元彦氏によると、M氏に限らず歴史学者には、専門外の知見を、その分野の専門家に尋ねようとしない人が多いようだ。上述した通り、自分の専門分野に関する該博さへの自負が影響しているのであろう。

これは史学だけではなく、どの業界でも起こっている問題である。私たちの保健・医療・福祉・介護業界もまた同様なのだ。「聞くは一時の恥」との認識を欠いた専門職が少なからずいて、横断的な連携ができないままに課題が残されてしまうのは、日本人の通弊なのかも知れない。

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