復活祭二題
今年の復活祭は、4月21日で、たいへん遅い暦日となった。それが影響したのか、しばしば「寒の戻り」「花冷え」といった現症が繰り返され、寒暖の差で体調を整えるのが難しい年だった。
とは言え、大病も大きな事故もなく、この時期を迎えることができた。ささやかではあるが、好きなワインを飲みながら、手製の一品料理でディナーを摂り、主のご復活を祝っている(画像はイタリア産、祝典用のバローロ)。
さて、復活祭に関連して、今年は二つの大きなできごとがあった。これはある意味で神様からの「発題」なのかも知れないと思い、それぞれの「お題」について黙想してみた。
一つの「お題」は、パリ(フランス)のノートルダム大聖堂の大部分が、火災によって消失した事案。
このニュースが報じられた直後に思ったのは、
「建物としての聖堂が焼失しても、心の殿堂は決して消失しない」。
その後、何日か経過すると、世界の各地から再建のための支援が続々と寄せられることが話題となった。
それに対して、「聖堂に寄付するよりも、困ってる人たちを助けろ」との批判。日本の介護・福祉関係者にもそう言い出す人がいる。
私が思ったのは、
「でも、その批判、『生活保護でパチンコ行くな!』って、外野が勝手に使途を決めて、受給者を非難攻撃するのと変わらないよね」。
宗教的情熱か、売名行為か知らないが、その国で法律上の問題さえ起こさなければ、個人の資産をどう使おうと自由なはず。まさに「自己決定」だ。
社会的成功を収めた人が、得た利潤を社会に還元するのは〔キリスト教的な〕義務であろう。しかし還元する対象が、人々の祈りの場である教会であったとしても、全く道義的に問題とされるものではない。
聖堂の再建へ向けて人々が心を合わせることにより、国境やセクトを超えた連帯が生まれるのならば、それは喜ばしいことではないだろうか?
もう一つの「お題」は、コロンボ(スリ‐ランカ)の複数の教会など6箇所の建物が、おそらくテロリストが仕掛けたと推測される爆発物によって破壊され、多くの死者が出た事案である。
テロリストたち(-イスラーム過激派だと考えられるが、同国ではかつて仏教徒とヒンドゥー教徒も、血を血で洗う抗争を繰り広げた。キリスト教を含めた多くの宗教には、異教徒たちの殺戮をいとわない人たちは存在する。日本でもかつてオウム真理教がそうであった。イスラーム教だけが非難されるべきではない。念のため-)の所業は、道義的にも法的にも許されない行為である。これは圧倒的多数の人たちが共有する見解であろう。
しかし、イエス‐キリストは十字架上で想像を絶する苦痛の中にありながら、こう仰った。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです(ルカ福音書23-34)」
この言葉をゴルゴタの丘で聴いた人たちの衝撃は、いかほどであっただろうか。
そして、私たちも信徒である以上、イエスにならうべきである。
テロリストたちが同国の法にのっとった裁きを受けるべきなのは当然であるが、彼らの魂の救済のために、神のお赦しを祈りたい。
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