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2019年7月

2019年7月24日 (水)

「落選者」二題(1)

参院選が終わったいま、二人の「落選者」に着目している。

一人は市井紗耶香氏。立憲民主党・比例に立候補して9位で落選。

元「モーニング娘。」の一人であるが、前夫との間に二人、現夫との間に二人の子どもを育てている「現役ママ」として出馬し、育児環境の整備を訴えた。残念ながら一歩及ばず落選したと言われるが、実際には8位の候補とかなりの開きがあった。

主たる敗因は、政治に関する勉強不足だと評されている。少子化対策だけは自身の体験を基に具体的な対策を訴えることができたものの、他の論点については記者の質問にも回答らしい回答ができなかった。当選したら学んでいくと語っていたが、議員として国民のために働いてもらうためには、力不足の感は否めない。かつては、タレントが知名度だけで当選できた時代もあったが、いまは有権者の選択も多様化している。ましてや、市井氏がモー娘。を引退してから十余年が経過し、細々とタレント活動を続けているとは言え、すでに芸能界でも「過去の人」となった感がある。

しかし、市井氏は苦労人だったようだ。報じられるところによると...

前夫はミュージシャンであったが、大成しなかった(現在も、注目される活動はしていない)。その収入は、家族が生活していくためには不十分であったので(プライドから衣服などのレベルを落とせなかった事情もあったかも知れないが、それはひとまず措いて...)、市井氏はかつての国民的アイドルでありながら、二人の子どもを食べさせていくために、ショッピングモールでアルバイトまでしていた。にもかかわらず、前夫は仕事(の一部?)を辞めて自分の好きなことばかりしており、家事も育児も市井氏に一任して手伝おうとしなかったとされる。

この状態であれば、「家族」を続けていくのは難しい。結局は離婚に至り、間もなく市井氏は美容師である現夫と再婚。ステップ‐ファミリーであるのにもかかわらず、現夫は市井氏の二人の子どもに対して実父同様に接し、育児に協力してくれたので、第三子・第四子も生まれ、その後は平穏な家庭生活を送っている。もっとも当然ながら、環境が変転する中で四人の子どもを育てるのは、ひとかたならぬ苦労があったであろう。

おそらく、多くの有権者は市井氏に対し、引退後から余裕を持って四人の子を育てた「セレブなマダム」像の印象を持って捉えてしまったと思われるが、もし報じられた通りであれば、実態はかなり異なっていたのだ。

他方で、「金目当ての立候補」との評も流れたが、これも筋違いであろう。当選して国会議員になれば、やらなければならない仕事が格段に増える。まだ6歳の第三子、2歳の第四子を抱える身として、いくら夫が育児に協力してくれるとは言え、並々ならぬ覚悟が必要だ。単なる収入目当てで決意できる話ではない。

私自身は立憲民主党の政策に賛同しない部分が多いが、党派を問わず、市井氏のような経験を積んだ人には、市民目線で政治を語れる女性として、国政の場に進出してほしいと願っている。市井氏自身も今回の敗戦に懲りず、他の分野についてもしっかりと学びを重ねた上で、機会があれば再挑戦してほしい。

(つづく)

2019年7月17日 (水)

政治と「家系」

民主的な近代国家であっても、政治家の世襲は少なくない。日本でも安倍総理をはじめ、世襲議員は各地に見られる。既得権を持つ利害関係者が、これまで協働して築いてきた「地盤」を守る意味で、世代交代に際して同じ「家系」の若い後継者を望むことも少なくない。

しかし、「家系」とは言いながら、このパターンと異なる形で選挙に出馬する候補者もいる。

今回の参院選で、当県ではもと将軍家の、それも「宗家の当主」である人物が立候補した。その人が保守政党ではなく左派系政党から出馬し、脱原発や九条護憲を主張していることも、県民には大きな波紋を投げかけた。「初代将軍」の事実上の政庁が当県内にあったことは事実であるが、その初代を祀る神社は、保守政党を支持しているので、ここに「初代」と「当代」との「ねじれ現象」が生じた形だ。

Back13

このようなことは、この「もと将軍家」の人に限ったことではない。

現内閣の主要閣僚の言動を注視していても、それは明瞭だ。副総理兼財務相のA氏は、祖母(元総理の妻)も母もカトリック信徒であり、ご本人も受洗しているはずだが、A氏の政治的な見解を私たち信徒から見れば、カトリック的な考え方とはかなり乖離している。また、外相のK氏は、お父さん(元衆院議長)の隣国に関する「談話」について、「私の談話ではない。私は湘南ベルマーレが圧勝したときに談話を出す」と揶揄し、その隣国に対するK氏の外交は、明らかにお父さんと異なる見解を踏まえて臨んでいる。

つまり、特定の家系の後継者に対して、「親や先祖がこんな思想や見解だったから...」との期待を持たないほうが賢明なのだ。

しかし、家系の重みを背負った人に対して、民衆がそれなりに惹き付けられることも、また現実である。

東欧のブルガリアでは20世紀に入ってから、ドイツ系の王室主導の政治・外交が失策を招き、二度の大戦で敗北を喫したため、最後の国王シメオン‐サクスコブルゴツキ氏は9歳で国を追われ、同国は共産主義国家となった。しかし1990年代に共産党が凋落すると、サクスコブルゴツキ氏は帰国し、政党を結成して2001年の総選挙に臨み、ブームに乗り国民の支持を得て自ら首相となって、政権を担った。国民の生活水準はなかなか好転せず、皆はサクスコブルゴツキ氏に失望したので、次の2005年選挙後には政権を譲る羽目になった。しかし、国の経済力が向上したことにより、氏が目指してきたEU加盟は、退任後ではあったが実現した。

このように「もと支配者の家系」の人物が国の政権まで担う例は、近代民主制国家では珍しいかも知れないが、特定の家系ならではの品格や度量を携えて政治に臨む人たちへの待望論は、国や民族を問わずあるだろう。

「もと将軍家」の人物が当選した場合、左派系政党の政治家としてどのような振る舞いを見せてくれるのか、注視したい。当落については、次の日曜日の投票結果を待つことになろう。

(※画像は「発光大王堂」さんのイラストを借用させていただき、加工しました)

2019年7月10日 (水)

音楽の著作権をどう考えるべきか

このたび、JASRAC(日本音楽著作権協会)の職員が「主婦」として、Y社(本社は当地・浜松)が経営する銀座の音楽教室に二年近く「潜入」して受講していた事案が、話題になっている。

Y社をはじめとする「音楽教室を守る会」が、教室での楽曲演奏にまで著作権使用料を徴収するのはおかしいとして、JASRACと裁判で係争している中、この「主婦」はヴァイオリン講師の模範演奏について、「講師が伴奏に合わせて弾く様子は、まるでコンサートを聞いているかのように美しく聞こえた」と証言し、JASRAC側の主張を裏付けたのだ。

この事案をめぐって、あたかも「JASRAC→悪」「音楽教室→正義」であるかのような議論が支配的になっている。

JASRACに対する批判は、多くの論者から寄せられている。著作権料の徴収対象がカラオケ店やBGMを流す店などにも拡大し、また、徴収した著作権料をクリエイターに払わない場合もある(例:短い小節なら作詞者に配分しない、雅楽の演奏にも徴収した、etc.)と報じられており、これが「権利を守る」正当な行為に相当するのか、疑問を持つ人たちも少なくない。中には誇大な報道もあり得るので、実態が報道の通りなのか不明瞭ではあるが、JASRAC自体が大きな利権を得ていることは否定できないであろう。

その流れに沿って、今回のJASRAC職員の「潜入」も、教室側との信頼関係を踏みにじるスパイ行為であると評する論者が圧倒的に多い。

しかし、これはちょっと違うのではないだろうか。

まず、楽曲を用いて収益を得る場合は、作詞家や作曲家に対して正当な対価を支払う義務がある。これは作詞家や作曲家の権利を守るためには大切なことである。こちらもいま話題になっている過去の海賊版サイト「漫画村」が、いかに漫画家や出版社の正当な権利を侵害してきたかを考えれば、クリエイターの著作権が守られなければならないことは自明である。

JASRACが作詞家や作曲家に代わって管理している楽曲であれば、当然ながら楽曲の有償使用者は、JASRACに著作権使用料を支払う義務がある。作詞家や作曲家がJASRACの取り分を除いた適切な配分を受けているかどうかは、JASRACと作詞家や作曲家との問題であり、楽曲の使用者が介入すべきものではない。

次に、カラオケ店やBGMを流す店はともかく、音楽教室までが「楽曲の有償使用者」に該当するかの点である。

今回、多くの教室経営主体が「音楽教室を守る会」を結成、協働して裁判を起こしているが、Y社(...を含めた一部の音楽教室。以下、音楽教室「Y」という)は、他の大手や街中のところどころにある中小零細の音楽教室(以下、音楽教室「T」という)とは、性質がかなり異なることが判明している。

音楽教室「T」では、穏当に音楽文化を一般の人たちに伝えて、その対価を得ることが営業活動である。その後、そこで学んだ若い人が演奏家として育つための橋渡し程度はするかも知れないが、それ以上の営業活動に踏み込むことは通常はない。

他方、音楽教室「Y」では、自社で契約する演奏家をプロフェッショナルとして活動させ、メディアでの仕事に結び付けている。しかもY社の場合、伴奏システムまで自社側で用意しているので、ある程度の技術を持つ受講者が本気で習得に臨み、一定の過程を経れば、比較的容易に「演奏家」レベルまで到達する。この繰り返しによってY社側で「使える」プロ演奏家が(レベルはともかく)増加していく。これでは、単なる「音楽教室」ではなく、「稼げる演奏家の養成所」と見なされても、しかたがないのではなかろうか。

すなわち、Y社はコングロマリットとして総合的な音楽ビジネスを展開しており、音楽教室もその一環だと考えられるのだ。したがって、「講師が伴奏に合わせて弾く様子は、まるでコンサートを聞いているかのように美しく聞こえた」と証言した「潜入」職員の感覚は正常であり、JASRAC側の意を呈して虚構の「コンサート」を作り上げたとは言い難い。

長く浜松のため貢献している大企業なので、悪くは言いたくないのだが、残念ながら、先日、知人の演奏家(決して作曲者=JASRAC側に近い人=ではない)から耳にした話も、上記の判断を裏付けている。

だから、ここで「JASRACは悪だ」「音楽教室は正義だ」と決めつけた論評をしてしまうと、私がかねてから日本人の思考形態の特徴だと見なしている「二分割思考」の弊害に陥ってしまう。

この事案については、「ただの音楽教室(音楽教室「T」型)なのか? それとも、楽曲を有償使用したビジネス(音楽教室「Y」型)なのか?」の実態から判断して、著作権使用料徴収の是非を問うべきだと愚考する。裁判所にはこの点を賢察しつつ、判決を出してほしいと思う。

日本の音楽文化を守るためには、係争中の事案はともかく、今後、JASRACの幹部を含めた有識者や各方面の関係者が顔を合わせる場を増やし、議論を深めてほしい。クリエイターの権利をどう守り、他方で楽曲の有償、無償での使用の形態を法律や社会通念でどう定義し、線引きをするのか、利害関係者が対立を超え、知恵を出し合って、望ましい音楽文化のありかたを語り合い、方向付けていってほしいと願っている。

2019年7月 3日 (水)

人を傷つけて稼ぐのがそんなに楽しいか?

誤解なきようにお断りしておくが、このタイトルは、殺傷事件の犯人などが自らの事件に関する手記や著作を発刊して稼ぐことを意味するものではない。

あくまでも合法的な方法の範囲内で、他人を不幸にしたり苦しめたりすることで、収入を得ている人(たち)のことだ。

このテの人や組織には三つぐらいのパターンがある。一人の人や一つの組織が複数のパターンを兼ねている場合もある。

(1)差別したり侮蔑的に捉えたりしている属性の相手を貶め、自分(たち)に同調する人たちの賛同を集める

(2)情報弱者に対して、自分(たち)の一方的な評価に依拠した、信頼性や実効性に乏しい情報や物件を売る

(3)偏った過激な主張を掲げ、標的を定めて罵倒・攻撃し、自分(たち)に同調する人たちの賛同を集める

(4)その他(品薄のものを買い占めて転売するとか、虚構のブームを煽って品物を売るとか、...etc.)

この人たちの「稼ぐ」手法はさまざまだ。おもに、(1)はブログ・動画を用いたアフィリエイト、(2)は有料サロン等の会員制組織の運営、(3)は賛同者からのファンディングが主流だが、それに限らず、複数の手法を組み合わせて「稼いで」いる人たちも少なくない。一部では、違法性を疑われかねないギリギリのところまで手を出す連中も存在することが知られている。

この人たちに共通するのは、既成の権威やシステムを誹謗中傷、罵倒して、あたかも自分たちが時の人、正義の人であるかのように振舞うことだ。その点では悪質な一部の(あくまでも一部である)新興宗教にも通じるものがある。また、自分たちの手法の結果として起こったことへの社会的な非難を浴びても、責任を取らない、または責任を取ったポーズだけ見せて逃げる点も共通している。

多くは善良な社会人であった、貶められた人たちや、価値のないモノを買わされた人たちや、標的にされ攻撃された人たちが、どれだけ傷つこうが、自分(たち)の知ったことではない。限界が近付くまではやりかたを改めないし、そろそろ限界だと思えば早々に見切りをつけて撤退し、恬として恥じることなく、また新たな手口で同様な行為を繰り返す。

私は最近、自分自身で情報発生源を探り、自分の頭で妥当性を考える癖が付いているので、この類の人たちには引っ掛かることはめったにない(と思っている)が、それでも一時的、部分的に評価する場合はある。もちろん、大枠で「偽物」だと判明した時点で、基本的には信頼しない(ただし全否定ではなく、真に価値のある見解があれば、それに限って評価する可能性はあるが)。

この人たちは私の言葉などに対して、どうせ聞く耳を持たないだろうが、それでも言いたい。

「あなた(たち)は、人を傷つけて稼ぐのがそんなに楽しいですか?」

人の幸せを願って日々仕事をしている私たちの職域から眺めると、この人たちは全く異質の存在にしか見えない。なぜ、そのような生き方ができる社会になってしまったのか? 私たちも三思する必要があるだろう。

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