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2019年10月

2019年10月30日 (水)

英訳すると...

私の会社や事業所の名称「ジョアン(João)」は、ポルトガル語である。

しかし、私がポルトガル語を読み書きしたり話したりできるわけではない。もともと私の霊名=洗礼名が「ヨハネ」なので、これはその訳語である。四世紀前のキリシタン時代、来日した宣教師(特にイエズス会)はポルトガル人が多かったので、その宣教師たちから洗礼を受けて「ヨハネ」の霊名を与えられた信徒は、多くが「ジョアン」を名乗った。漢字の当て字では「如庵」となり(他にもあるが、この字がいちばん多い)、私のペンネームでもある。

それでは、私の会社・事業所の名前を英訳するとどうなるのか? 「Joan」は間違いである。カタカナの「ジョアン」をそのままローマ字にされたら困るのだ。固有名詞「ヨハネ」の意味なのだから、英語では「ジョン=John」である。「居宅介護支援事業所ジョアン」は、「Care-management office John」が正しい。

さらに、フランス語なら「ジャン=Jean」、ドイツ語なら「ヨーハン=Johann」、スペイン語なら「フアン=Juan」である。介護業界広しといえども、言語によって社名・事業所名の発音が違ってくるところは、ほとんど類例がないのではないだろうか。

この事業所名「John」を使って、実際に英語圏の団体宛に書簡を送ったことがある。全国の独立・中立型の居宅介護支援事業所が、弱小ながら団体を作っていた当時、米国で同様な団体があることを知り、今後の連携を打診する手紙を書いたのである。

草稿を浜松在住の米国人に見せてチェックしてもらったところ、いくつも手直しが入った。特にそのうち二か所は、私の原稿のままだと、異なる意味に解釈される恐れがあったので、指摘してもらったことでたいへん助かった。おかげで先方団体からも、こちらの団体宛に丁重な返信をもらうことができ、面目を施した形だ。もとの文章のおかしさに気が付かずにそのまま送付していたら、結構怪しい連中だと思われてしまった可能性があった。

さて、話は変わるが、2009年当時に日本の総理であったH氏が、「共和主義」に基づく「共和党」なる政党の結成を目指していると報じられている。

どうもH氏の言うところの「共和主義」は本来の意味から大きく逸脱しているように感じられるが、ここではそれについて評するものではない。注目したいのは、「共和党」を英訳するとどうなるのか? である。

「共和党」をフツーに英訳すると「Republican Party」となる。すなわち、共和主義(本来の意味の)=repubicanismを掲げる政党の意味になる。

republicanismの解釈は、国の政体によって異なる。現に共和制(大統領制など)を採っている国の場合には、共和国成立時に理想として掲げられた代議制を尊重する政治思想を指す場合が多い。したがって、傾向としては中道右派・保守派の人たちの政党が「共和党」を名乗るのが一般的だ。

しかし、君主制を採っている国の場合、republicanismと言えば通常、君主制を廃止して共和制へ移行することを目指す政治思想の意味になってしまうのである。

つまり、H氏が「共和党」の名称を堅持したまま政治勢力を結集した場合、諸外国からは、「この人たちは日本の天皇を廃止して、大統領制等へ移行する目標を持っているのだ」と受け取られる可能性が強い。党の中枢部の意思がどうあろうが、このまま英訳する限り、一般的には君主制廃止を掲げる政党だと理解される場面が多くなることが予想される。

H氏が本当は何を意図しているのか、現時点ではよくわからない面があるが、氏の「共和党」構想に賛同する人がいたら、将来「私は共和党の支持者です」と言った自分の言葉が何かの機会に英訳されたとき、「天皇制廃止」論者だと解釈される可能性があることを、あらかじめ頭に入れておいたほうが良いだろう。

2019年10月23日 (水)

勘違いしてはいけない

いま、国の審議会や委員会で協議されていることの一つに、居宅介護支援費に利用者負担を導入することの是非がある。

これまで、居宅介護支援の介護報酬は、10割すべてが保険財政から賄われ、介護支援専門員の仕事である「相談援助、連絡調整」そして成果物としての「ケアプラン」作成については、利用者の家計に負担を掛けることなく実施されてきた。

財務省は国の財政難を理由に、これまで発生していなかった居宅介護支援費の利用者負担(1割~3割)を徴収しようと図り、厚生労働省にその実現を迫っている。

実際に利用者負担が課された場合、その金額はいくらになるのか? あくまでも浜松の場合の計算であるが、七級地であるため、私のような加算を取らない一般の事業所であれば、要介護1・2の利用者が月額1,080円、要介護3~5の利用者が月額1,402円となる。これは一割負担の場合だ。二割負担であればこの二倍、要介護1・2の利用者が月額2,159円、要介護3~5の利用者が月額2,804円。さらに三割負担であればこの三倍、要介護1・2の利用者は月額3,238円、要介護3~5の利用者が月額4,206円となる。これに特定事業所の加算が加わった場合には、さらに月額309円から515円の増額になる。

自己負担導入への反対意見を聴いていると、(1)市民の立場からすれば、少ない年金で細々と食べている人たちにとっては、たとえ一割負担であったとしても、決して小さい金額ではないので、これは改悪にほかならないとの論が中心になる。

また、(2)介護支援専門員の立場から見ると、この利用者負担の導入は、業務量を増やすことになる。私自身、一人親方で介護支援専門員も経営者も事務員も用務員も兼ねているので、利用者・家族から自己負担分を徴収する作業は、すべて自分でやらなければならない。介護報酬が上がらない限り、持ち出しが増えるだけの事態になり、歓迎する話ではない。

また、(3)居宅介護支援事業所とは別に、併設の在宅介護サービスを利用してほしいサービス事業者(介護福祉施設、老健、サ高住など)が、無料で自己作成支援を行う部門を設け、囲い込みケアプランの作成を助長することも懸念される。このような動きは、市民団体等に所属して真に自己作成を続けている利用者・家族への評価を貶め、自己作成の廃止に結び付く恐れもある。

また、(4)自己負担が導入されれば、専門性の劣るケアマネジャーが、利用者・家族の「料金を払っているんだ」との声に屈して、「御用聞き」「言いなり」レベルのケアプランを作成してしまう可能性がある。

他方、自己負担導入への賛成意見がある。業界の識者の中からは、(5)相談支援や連絡調整、その成果物としてのケアプランにもお金がかかることを、受益者側である利用者・家族に理解してもらうのが望ましいので、自己負担を導入すべきだとの見解がある。

また、財源論とは別に、(6)国民負担率の現状に鑑み、市民の自助・互助を推進する立場から、公助・共助による十割現物給付に依存するのではなく、介護事故が発生した当事者の市民に、しかるべき負担を求めるべきだとの考え方もある。「保険料を払っているが、保険を利用しなくても済んでいる」人たちの理解を得るように努めるべきだとの主張は、一つの見識であろう。

さて、私自身はいまの時点では、「国と関係団体等との何らかの取引材料にされない限り」との条件で、将来的な居宅介護支援の自己負担導入に対して、明確に賛成も反対もしていない。強いて言えば上記(2)の問題があるので、目先のことだけ見れば、自己負担が導入されないほうが楽ではあるが...(^^;

どうも、介護支援専門員たちによる本件に関する議論を見聞きしていると、賛成派も反対派も「どちらでもない」派も、一部の良識ある論者(私と交流のあるフェイスブック友達など)を除き、何か勘違いしている人が多いように感じるのだ。

そもそも、保険給付は利用者に対して給付されるものである。居宅介護支援事業者は、利用者から料金をもらい、その料金のうち定められた要件を満たした部分を保険が補填する。ただし、損保の交通事故補償同様、利用者の一時的な出費を避けるための「現物給付」のシステムがあるために、事実上は国保連から介護報酬として受領している。これはあくまでも保険のシステムの問題であり、形式上は前述の通りだ。

したがって、自己負担があろうがなかろうが、私の場合であれば、要介護1~2の「利用者さんから」毎月10,791円、要介護3~5の「利用者さんから」毎月14,018円の対価をいただいているはずなのだ。その重みを常に意識しながら仕事しなければならないのだ。

つまり、ケアプランの目標期間(半年とか一年とか)を平均して、月ごとに測った場合、月平均で上記の対価に見合わない仕事しかしていないのであれば、それは介護支援専門員として失格なのである。顧客からお金をもらって仕事をする以上、その顧客の最善を図るのが当然ではないか。

それが社会保険の常識なのだが、そこを勘違いしている介護支援専門員には、大切なものが見えてこない。「お客様、タダでケアプランを作成しますよ(←つまり、この理解自体が間違い)」から「お客様、これからはケアプランの料金を何千円負担していただきますよ」になるのか? そうなったら利用者や自分たち介護支援専門員にどんな影響があるのか? といった、現場のやり取りに問題が矮小化されてしまう。

自己負担してもらう金額がゼロ割だろうが一割だろうが二割だろうが三割だろうが、自分たちの持つ専門性にのっとって、利用者から「この報酬に値する」と評価してもらえる仕事をすることが、肝心なのである。

その覚悟や心掛けを持たない介護支援専門員(現場仕事をしていない管理職等の有資格者も含める)は、この事案について語る資格がない、とさえ思う。

2019年10月16日 (水)

備えあれば

台風19号では、各地を見舞った記録的な豪雨により、東日本で数多くの河川が氾濫し、甚大な被害をもたらした。被害に遭われた地域の方々には、心からお見舞いを申し上げるとともに、一日も早く平穏な生活に戻れるようにお祈りしたい。私自身、日常の仕事や家事をこなすのに精一杯なので、何も応援できそうもないが、何らかの形で義援の意思を表すことができればと思っている。

浜松では幸いに、台風の進路西側であったためか、大きな被害がなかった。とは言え、当初は暴風雨による停電も予想されたので、遅ればせながら非常食などを買い求めた(画像は地元浜松の企業、三立製菓のカンパン)。

20191012kanpan

浜松は昨年9月の台風による停電を経験しているだけに、市民の出足は結構早く、襲来前日の午前中には、スーパーのパン売り場には菓子類しか残っていない状態だった。

普段、私の自宅にある食糧は、停電のときでも食べられるものは1.5~2日分ぐらいだ。本来なら最低3日分は蓄えておくべきである。今回は台風だったので、事前の予測ができたが、地震の場合はあまり予知機能も働かないので、待ったなしであろう。さらに、激甚災害になれば、3日分程度では到底足りなくなることも明らかである。ストーブ用の灯油は毎年買い換えているが、そのストーブ自体が長年使用していないので、役に立つかどうか心もとない。カセットコンロぐらいは購入しておいたほうが良いと、改めて痛感する。

お恥ずかしい話だが、「備えあれば憂いなし」の「あれば」が已然形(いぜんけい)であることに、やっと気が付いた。未然形なら「備えあらば」になるが、あくまでも「備えあれば」である。「準備しておくことによって、心配がなくなる」のだ。

今後は心して、来たるべき災害に対し、怠りなく備えておきたいと思う。

2019年10月 9日 (水)

参照すべき書籍

国際的な視野から日本の歴史を眺める。それ自体は必要なことであり、誰しもそうあるべきだと私も考えている。

しかし、いわゆる「国際標準」の呪縛によって、日本史に特有な現象を理解できないとしたら、それは大きな問題である。

かつて拙著『これでいいのか? 日本の介護(2015、厚有出版)』では、特に第7章の一章を割いて、「日本人」に特有の思考形態や行動様式について論じた。読者の方はすでに、賛成するしないはともかく、私が言わんとすることを理解してくださっているであろう。

すなわち、日本は伝統的に「和」を重んじる社会であり、それが「縁側」に象徴されるあいまいさや宙吊り状態をもたらしているとの見解である。「和」以外にも「言霊」「解決志向」「儒教的な諸相」「遠慮」「他人指向」「二分割思考」などの要素があり、「日本的な」様式を墨守すれば、特に他人指向や二分割思考から「知的体力の不足」を招く危険性が高いことについて論じてみたものだ。

この「和」の社会とは、独裁者が嫌われる社会だ。特に、既存のシステムを破壊するところまで手掛けた独裁者は、みな終わりを善くしていない。天智天皇、称徳天皇、足利義満は、表向きは病死であるが、暗殺された可能性が濃厚だ。足利義教は謀殺、織田信長は襲撃されて自害、大久保利通は暗殺された。逆に、殺されなかった独裁者は、悪戦苦闘しながらも既存のシステムを破壊せず、巧みに自分流の改変を施した独裁者だと言うことができる。北条義時、徳川綱吉、徳川家重など。

全国レベルではなく、地方レベルでも事情は同様である。日本的な「和」の合議制は、古来、多くの地方政府で慣行となっていた。この構図を理解するために、ぜひお勧めしたい書籍がある。

Oshikome

笠谷和比古氏の著書、「主君『押込』の構造」(平凡社選書、のち講談社学術文庫)。

日本の近世大名にスポットを当て、彼らが決して額面通りの絶対君主ではなかったことを述べた論考である。独裁的傾向のある殿様が重臣たちから「押込(おしこめ)」の処置を受け、政治生命を絶たれてしまう。笠谷氏はいくつもの大名家で起きたこの「押込」現象を主題として取り上げ、君臣関係の諸相について解説し、さらにそこから近世の国制に論及し、下って現代の会社組織の状況にまで触れている。

以前のエントリーで私が「現実には昭和天皇が軍部の暴走を止められるほどの権力を持っていなかった」と言及したのも、この書籍の内容が頭にあってのことだ。特に終戦前後には「宮城(きゅうじょう)事件」をはじめ、ポツダム宣言受諾に反対する将校たちによるいくつかの反対行動があり、一部の将校たちは現実に昭和天皇「押込」(→皇太子だった明仁親王の皇位擁立)まで構想していたのである。

ここで笠谷氏が分析している「日本」特有の社会構造を顧みずして、イデオロギーに走り、国際標準からステレオタイプされた君主論を発出している論者たちは、浅慮・軽率のそしりを免れないであろう。

2019年10月 2日 (水)

わだかまりが残る「逆転無罪」

世の中には、何ともスッキリしない、理不尽に思えることが少なくない。

2015年5月、浜松のスクランブル交差点で中国人の女が、赤信号で停止していた車を急発進させ、歩行者のうち1人が死亡、4人が負傷した事件である。一審では被告に責任能力があったと殺意を認め、懲役8年の判決が下された。しかし、二審では被告が心神喪失の状態にあったとして、逆転無罪となった。高検は上告を断念して、判決が確定。

この事件の主要な論点を私なりに整理してみた。

(1)罪刑法定主義

司法の鉄則。刑法第39条には「心神喪失者の行為は、罰しない。心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。」と明記されている。「心神喪失」が認められた以上、刑事処罰をしてはならない。この原則を破れば、司法当局が恣意的に罪刑法定主義を破壊することになるので、決して行ってはならない。

(2)精神科医の鑑定の精度

今回、一審で地裁が依頼した精神科医の鑑定では「心神耗弱」と診断され、他方、弁護側が請求した精神科医の意見では「心神喪失」と診断された。二審でいわば「身内」である前者の意見よりも、後者の意見を採用したことに対しては、二つの推測ができる。一つは後者のほうがより妥当であるとの根拠が認められたこと、もう一つは「疑わしきは被告人の利益に」の原則が働いたことであろう。〔私の知る限り〕プライドの高い日本の精神科医が、予断で診断を歪める可能性はほとんど想定できない。二人の精神科医が見聞きした被告人の情報の内容によって見解が異なったのは、やむを得ない結果であろう。

(3)「疑わしきは被告人の利益に」

人類の歴史の中では、過去、冤罪や不当な量刑により、数多の人々が理不尽な処刑や処罰を受けてきた。一部の国や地域を除き、罪刑法定主義が当たり前の近代になっても、捜査する側、取り調べる側の故意や過失により、冤罪や過当な断罪が起こっている。この事態を極力避けるために、民主主義国家においては、罪状に疑わしい部分がある場合には、無罪、または軽いほうの罪にする原則が生まれた。本件で二審が「心神喪失」の可能性が強いと断じた以上、法の条文にある「罰しない」の結論になったことは、これまたやむを得ない結果だと言える。

(4)事件を防げなかった原因

同乗していた夫が「不起訴」とされたことを、遺族側は不当として検察審査会に申し立てた。もし素人目にも「心神喪失」と判断できるほどの状態が、ときどき起きていたのであれば、それを承知で車を運転させた夫に責任があると見なされるのは自然だ。精神疾患があるから車の運転を禁止することは差別かも知れないが、今回の場合、「事件」とまで行かなくても、何らかの「事故」を起こす可能性は予見できたと考えると、遺族側のアクションはもっともである。検審の判断を待ちたい。

(5)裁判員裁判の意義

本来、裁判員裁判とは、市民感覚を司法に取り入れるためのものである。ところが最近は、二審で一審の裁判員裁判による判決が覆される判例が目立つようになった。このパターンが一定以上の割合になると、他に仕事も持っている市民を何度も公判のため裁判員として動員することの、必要性や意義が問われることになる。「事実誤認」で逆転判決を下すことが可能なのであれば、一審の段階でなるべく「事実誤認」にならないための対策を講じることも必要であろう。

(6)外国人差別を誘発する可能性

今回の被告は外国人である(後述する熊谷市の事件も同じ)。「外国人が来日して、慣れない環境のため精神疾患になり、事件を起こし、無罪になった」ことが、一般市民のゼノフォビア(「異邦人嫌悪」)を誘発しており、右派から、「ならば日本に来るな!」との排外的な論調が強まることも予想される。今後の外国人材活用、共生社会の実現にとっては逆風となり、好ましくない事態を招く可能性が高い。

(7)精神障害者差別を誘発する可能性

大部分の精神障害者や精神疾患罹患者は、疾患や障害と向き合いながら必死で生きている。「引きこもり」も同様であるが、一部の人たちが起こした事件を契機に、あたかも精神障害者・精神疾患罹患者全体が課題を抱えているかのように社会から受け取られる可能性は少なくない。また、ネットでは「精神病になれば悪いことしても無罪」のような発信が散見されるが、もし「詐病」であれば、いまの精神医学のレベルではほとんど見破ることができる。このような現実を知らない人たちによる、一方的に差別・揶揄する言動がエスカレートしているのは、憂慮すべきことである。

(8)「私的復讐」を誘発する可能性

被告が死刑にされたからと言って、遺族の怒りや悲しみは決して消えるわけではない。とは言え、「重罰に処せられる」ことによって、一つの心の区切りをもたらすことができる場合は多い。以前、山口県で起こった「光市母子殺害事件(最高裁で死刑確定)」では、一審判決で無期懲役となり死刑判決が出なかったことから、遺族の男性が「社会に出てきたら私が殺してやる」と語った(上級審での死刑判決により撤回)。元来、刑法とは私的復讐をさせない目的で、人を殺した人を国が被害者・遺族に代わって処罰するシステムである。今回の事件のように、死刑はおろか懲役刑にもならなかった場合、遺族が心の区切りを付けることができず、私的復讐行為をしたい気持ちに駆られる可能性は否定できない。刑法の理念に照らした場合、決して望ましい状況ではないので、今後の刑罰システムを考える上での大きな課題となろう。

(9)熊谷市の事件との相互関係

2015年9月、熊谷市でペルー人の男が住民6人を殺害する事件が起きている。一審では死刑判決が言い渡されたが、弁護側は心神喪失を主張しているため、二審判決がどうなるかわからない。もし浜松市の事件同様に逆転無罪となれば、同様に上記の(1)~(8)までの議論が巻き起こることが予想される。

以上がこの事件に関する私の論点整理である。

大切なのは、同様な悲劇が起こる可能性を少しでも減らすことである。もちろん、日本以外の国でも類似の事件は少なからず起きており、純粋に個人の問題だと片付けることもできよう。ただし、日本社会は外国籍や精神疾患など、異質な要素を持つ人たちがたいへん生きにくい社会であることも、多くの論者から指摘されている。ダイバーシティの理念はどこへ行ってしまったのか? 自分たち自身が生活する場の周囲を眺めながら、三思したいものである。

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