わだかまりが残る「逆転無罪」
世の中には、何ともスッキリしない、理不尽に思えることが少なくない。
2015年5月、浜松のスクランブル交差点で中国人の女が、赤信号で停止していた車を急発進させ、歩行者のうち1人が死亡、4人が負傷した事件である。一審では被告に責任能力があったと殺意を認め、懲役8年の判決が下された。しかし、二審では被告が心神喪失の状態にあったとして、逆転無罪となった。高検は上告を断念して、判決が確定。
この事件の主要な論点を私なりに整理してみた。
(1)罪刑法定主義
司法の鉄則。刑法第39条には「心神喪失者の行為は、罰しない。心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。」と明記されている。「心神喪失」が認められた以上、刑事処罰をしてはならない。この原則を破れば、司法当局が恣意的に罪刑法定主義を破壊することになるので、決して行ってはならない。
(2)精神科医の鑑定の精度
今回、一審で地裁が依頼した精神科医の鑑定では「心神耗弱」と診断され、他方、弁護側が請求した精神科医の意見では「心神喪失」と診断された。二審でいわば「身内」である前者の意見よりも、後者の意見を採用したことに対しては、二つの推測ができる。一つは後者のほうがより妥当であるとの根拠が認められたこと、もう一つは「疑わしきは被告人の利益に」の原則が働いたことであろう。〔私の知る限り〕プライドの高い日本の精神科医が、予断で診断を歪める可能性はほとんど想定できない。二人の精神科医が見聞きした被告人の情報の内容によって見解が異なったのは、やむを得ない結果であろう。
(3)「疑わしきは被告人の利益に」
人類の歴史の中では、過去、冤罪や不当な量刑により、数多の人々が理不尽な処刑や処罰を受けてきた。一部の国や地域を除き、罪刑法定主義が当たり前の近代になっても、捜査する側、取り調べる側の故意や過失により、冤罪や過当な断罪が起こっている。この事態を極力避けるために、民主主義国家においては、罪状に疑わしい部分がある場合には、無罪、または軽いほうの罪にする原則が生まれた。本件で二審が「心神喪失」の可能性が強いと断じた以上、法の条文にある「罰しない」の結論になったことは、これまたやむを得ない結果だと言える。
(4)事件を防げなかった原因
同乗していた夫が「不起訴」とされたことを、遺族側は不当として検察審査会に申し立てた。もし素人目にも「心神喪失」と判断できるほどの状態が、ときどき起きていたのであれば、それを承知で車を運転させた夫に責任があると見なされるのは自然だ。精神疾患があるから車の運転を禁止することは差別かも知れないが、今回の場合、「事件」とまで行かなくても、何らかの「事故」を起こす可能性は予見できたと考えると、遺族側のアクションはもっともである。検審の判断を待ちたい。
(5)裁判員裁判の意義
本来、裁判員裁判とは、市民感覚を司法に取り入れるためのものである。ところが最近は、二審で一審の裁判員裁判による判決が覆される判例が目立つようになった。このパターンが一定以上の割合になると、他に仕事も持っている市民を何度も公判のため裁判員として動員することの、必要性や意義が問われることになる。「事実誤認」で逆転判決を下すことが可能なのであれば、一審の段階でなるべく「事実誤認」にならないための対策を講じることも必要であろう。
(6)外国人差別を誘発する可能性
今回の被告は外国人である(後述する熊谷市の事件も同じ)。「外国人が来日して、慣れない環境のため精神疾患になり、事件を起こし、無罪になった」ことが、一般市民のゼノフォビア(「異邦人嫌悪」)を誘発しており、右派から、「ならば日本に来るな!」との排外的な論調が強まることも予想される。今後の外国人材活用、共生社会の実現にとっては逆風となり、好ましくない事態を招く可能性が高い。
(7)精神障害者差別を誘発する可能性
大部分の精神障害者や精神疾患罹患者は、疾患や障害と向き合いながら必死で生きている。「引きこもり」も同様であるが、一部の人たちが起こした事件を契機に、あたかも精神障害者・精神疾患罹患者全体が課題を抱えているかのように社会から受け取られる可能性は少なくない。また、ネットでは「精神病になれば悪いことしても無罪」のような発信が散見されるが、もし「詐病」であれば、いまの精神医学のレベルではほとんど見破ることができる。このような現実を知らない人たちによる、一方的に差別・揶揄する言動がエスカレートしているのは、憂慮すべきことである。
(8)「私的復讐」を誘発する可能性
被告が死刑にされたからと言って、遺族の怒りや悲しみは決して消えるわけではない。とは言え、「重罰に処せられる」ことによって、一つの心の区切りをもたらすことができる場合は多い。以前、山口県で起こった「光市母子殺害事件(最高裁で死刑確定)」では、一審判決で無期懲役となり死刑判決が出なかったことから、遺族の男性が「社会に出てきたら私が殺してやる」と語った(上級審での死刑判決により撤回)。元来、刑法とは私的復讐をさせない目的で、人を殺した人を国が被害者・遺族に代わって処罰するシステムである。今回の事件のように、死刑はおろか懲役刑にもならなかった場合、遺族が心の区切りを付けることができず、私的復讐行為をしたい気持ちに駆られる可能性は否定できない。刑法の理念に照らした場合、決して望ましい状況ではないので、今後の刑罰システムを考える上での大きな課題となろう。
(9)熊谷市の事件との相互関係
2015年9月、熊谷市でペルー人の男が住民6人を殺害する事件が起きている。一審では死刑判決が言い渡されたが、弁護側は心神喪失を主張しているため、二審判決がどうなるかわからない。もし浜松市の事件同様に逆転無罪となれば、同様に上記の(1)~(8)までの議論が巻き起こることが予想される。
以上がこの事件に関する私の論点整理である。
大切なのは、同様な悲劇が起こる可能性を少しでも減らすことである。もちろん、日本以外の国でも類似の事件は少なからず起きており、純粋に個人の問題だと片付けることもできよう。ただし、日本社会は外国籍や精神疾患など、異質な要素を持つ人たちがたいへん生きにくい社会であることも、多くの論者から指摘されている。ダイバーシティの理念はどこへ行ってしまったのか? 自分たち自身が生活する場の周囲を眺めながら、三思したいものである。
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