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2020年2月

2020年2月26日 (水)

「栃木の相手...と、ちぎりますか?」「宇都宮で想い人を、撃つのみや!」

【史料好きの倉庫(9)】

今回は、「栃木県(下野)の主要大名」の解説である。

過去、三回しか訪れたことがない。一回目は学生時代、まだ洗礼を受けていない時期に、教会の合宿に参加して那須に宿泊、信徒の皆さんからいろいろとご教示をいただき、受洗に至った貴重な機会だった。二回目は30代前半、日光まで職員旅行。三回目も30代前半、東北へ向かう途中で宇都宮に立ち寄り、二時間程度散策した。あとは新幹線での素通りばかりで、他の城下町へも行ったことはない。

栃木県をかつて下野(しもつけ)の国と称したのは、毛野(けぬ)の国を二つに分けて、栃木県側を下毛野(しもつけぬ)と呼んでいたのが、転訛したものだ。 那須地方の諸大名・豪族が変転しながら戦国期を抜けて生き残り、それぞれ小藩や交替寄合として江戸期に存続しているので、系譜を地元で調べることができる。宇都宮家や小山家は水戸藩士となったので、正式な系譜は『水府系纂(茨城県のページ参照)』等に収録されている。他の戦国大名諸家や江戸期の諸藩の系譜史料は、県文書館(未見)や県立図書館に散在するが、個別に調査する必要がある。

◆小山家
鎌倉期から南北朝期にかけての下野守護。14世紀末に小山若犬丸が鎌倉公方に討滅され、その後は結城家から泰朝が入って復興したものの、勢力は減退して下野の一大名となり、戦国末に至って豊臣政権により所領を没収された。

◆宇都宮家
下野の中心部を支配し、屋形号を称しているので、世襲の守護家であったかのように誤解されているが、南北朝期のわずかな一時期、守護に任じられたに過ぎない。室町期には大勢力であったものの、戦国期に入ると守護代の芳賀家や被官の壬生家らの勢力争いにより、統制力を欠くことが多く、豊臣政権による内紛への介入を機に、改易されてしまった。

◆那須家
那須与一(源平合戦に登場する弓の名人)の家。那須一党の主家であり、子孫は上庄那須家と下庄那須家とに分かれ、後者が家を統一したが、戦国期には家臣・大田原家の策謀に翻弄され、豊臣秀吉の小田原攻めに伺候しなかったため没落した。江戸期に入って大名に返り咲くが、養子相続の不手際が二度も発生し、最終的には小禄の交替寄合として存続を許されている。

◆大関家→黒羽藩
鎌倉期から「那須七騎」の一家として一党の一角を担っており、戦国期の大関高増以降は大田原家の血統になったが、豊臣政権により本領を安堵され、江戸期にはそのまま黒羽藩として明治維新まで存続した。初代から通し番号を付けた。

◆大田原家→大田原藩
鎌倉期から「那須七騎」の一家として一党の一角を担っていたが、戦国期の資清・縄清(つなきよ)のとき勢力を拡大、子弟で大関家や福原家を乗っ取り、主家の那須家をも圧倒する勢力を築いた。豊臣政権により本領を安堵され、江戸期にはそのまま大田原藩として明治維新まで存続した。初代から通し番号を付けた。

◆足利(小弓公方)家→喜連川藩
足利義明は古河公方・足利高基の弟であり、房総の諸豪族の支援を受けて独立し、兄に対抗して小弓公方を称するが、北条氏綱に敗死して中絶した。義明の孫娘である島子は下野喜連川の領主・塩谷惟久の妻となったが、小田原の陣に際して夫が城を捨て逃亡してしまったので、豊臣秀吉の側室となり、喜連川を化粧料として秀吉からもらい受け、実家の弟・国朝に相続させることができた。国朝、のち弟の頼氏が古河公方本家の氏姫と結婚したので、両者が統一されて古河公方を継承する「喜連川公方家」が誕生したのである。江戸期に入っても徳川家の全き臣下ではなく、客分扱いとして特例による存続が認められ、5,000石ながら10万石並の格式を保っていた。

◆烏山藩
上述の那須家を含め、何度か藩主家の交替があったが、1725年に大久保家(忠為流。九代将軍・徳川家重の母の家系と同祖)が入封して定着した。宇都宮一族で栃木県内に返り咲いた唯一の大名家(旗本には何軒かあるが)である。なお、旧藩主家の当主・大久保忠俊先生(医師)は、ご尊父の代から浜松に在住されている。

◆茂木藩
◆佐野藩
江戸期の諸藩(特に家門・譜代諸藩や外様の中小藩)は所領を遠隔地に分散して与えられていることが多い。そのため、茂木藩主細川家は1643年以前-1871年の間、常陸矢田部を居所とし、また佐野藩主堀田家は1698年-1787年の間、近江堅田を居所としている。このような場合には、実際に陣屋が置かれていた側の都道府県で歴代表を参照できるように、表記を統一し、双方にリンクを貼ってつなげた。

2020年2月19日 (水)

「茨城出身でも、威張らん気?」「水戸では、みと...もないことしません」

【史料好きの倉庫(8)】

今回は「茨城県(常総)の主要大名」の解説である。

学生時代に加入していた研究会の合宿で、五浦温泉(いまの北茨城市)を訪れたのが最初であるが、そのあと2014年までの間に訪県したのは一度(30年ほど前)だけである。直近では2015年の4月5月に研修講師としてお招きいただき、お邪魔する機会を得た。城下町では水戸(画像)しか行ったことがないので、一生のうちにもう一つぐらい訪問できるといいなと思っている。

茨城県は「常総(市ではなく広域の名称)」と称される通り、常陸国と下総国北部とで構成されている(ただし、下総国全体=千葉県北部や埼玉県・東京都の東辺まで含む=を合わせて「常総」と呼称する場合もある。ここでは千葉県=房総=と対比して茨城県を「常総」と称する)。中世の各地域には中央(幕府・京都)とつながりのある大名豪族も少なくなかったので、一般に良く知られている同時代史料でも活動状況が把握できる。他方、少なからぬ大名豪族は江戸期に入り、佐竹家や結城家(越前松平家)に随従して転出しているため、家譜に関する史料が秋田県や福井県に残されている家も相当数存在する。水戸藩士の系譜は、彰考館に所蔵されている『水府系纂』に詳しく、中山・山野辺・鈴木をはじめとする家老の系譜はもちろん、介さん(佐々家)や格さん(安積家)も収録されている。県立歴史館(未見)は近世以降の史料が中心。

Sukekaku

◆佐竹家=常陸守護
平安朝末期からの名門だが、常陸守護に任じられたのは南北朝期以降である。関ヶ原の戦後、秋田へ転封されるまでの歴代表を掲載。

◆常陸大掾(ひたちのだいじょう)家
「大掾」は国司の三等官に当たる官名である。常陸に土着した家祖の平維幹以来、この官に任じられる者が多く、やがて律令制が崩壊すると、世襲の官名→家名となった。1590年、佐竹家に攻撃され滅びるまで、歴代当主がいずれも、形式上は常陸大掾を名乗った。

◆結城家
下総北部の大勢力であったが、結城持朝が結城合戦で敗北したことにより一時滅亡。成朝が再興して戦国期を生き抜いた。晴朝は徳川家康の二男・秀康を養子にしたが、秀康は関が原の戦後越前に栄転した。晴朝は秀康の五男・直基に結城家の系譜・祭祀を継承させることができたものの、越前(福井)松平家の家臣団が再編成されたことにより、家中の構成は全く戦国期から変質してしまっている。

◆江戸家
水戸を居城として、佐竹家に従属あるいは離反(独立)しながら、戦国末まで存続した有力大名。当初の脱稿時に欠落していたので、校正後に補った。

◆水戸藩
徳川御三家の一つ。はじめ徳川家康の五男・武田信吉が封じられ、穴山家の系図を継いで武田の宗家を自任するが、若死にして後嗣がいなかった。その後は名義だけの藩主だった徳川頼宣を経て、弟の徳川頼房が藩主に封じられたため、武田の遺臣たちも頼房に
仕え、その他、関東や東海の豪族等が重臣に採用され、家臣団の中軸を形成した。なお、光圀と斉昭とは没後、明治新政府から従一位・権大納言を追贈されているが、生前の「勤皇の功績」を賞されたものである。

◆宍戸藩
松平家は水戸徳川家の支藩であった。幕末、松平頼徳は宗藩・水戸の内紛鎮定に失敗して切腹させられた。そのため藩は中絶したが、父の松平頼位が明治新政府から復家を許された。

◆松岡藩/手綱藩
中山家は水戸藩のいわゆる「附家老」であり、江戸後期には常陸松岡に居所を置いたが、事実上、松岡城と称され、城主格に準じる立場であった。大名に列せられたのは明治に入ってからである(尾張藩や紀伊藩の附家老も同じ)。

◆助川海防城主 山野辺家
山野辺家は水戸藩の家老。助川海防城は幕末に設置された戦時用の城郭であり、山野辺家の城主時代は28年間にとどまったので、当主名・官位のみを掲げた。

◆志筑藩=本堂家
本堂家は戦国期には出羽本堂(いまは秋田県)の領主であり、関が原の戦後に常陸志筑へ転封、代々交替寄合であった。明治に入って新政府から高直しされ、大名に列したので、江戸期は当主名・官位のみを掲げた。

2020年2月16日 (日)

「福島に、フックしま...した」「会津から、合図があったんで(^^;」

【史料好きの倉庫(7)】

今回は「福島県の主要大名」の解説である。

先年他界した私の叔父(母の弟)が福島県に住んでいた。それと直接関係あるわけではないが、学生時代から同県を何度か訪れている。巡り歩いた城下町は福島、会津若松、二本松と、あまり多くはない。2014年には著書の取材を兼ねて、復興途上の相馬市を見学した。画像はそのときのもの。

福島県も浜通り、中通り、会津と地域が分かれているので、史料調べもそれぞれの地元で行うのが効果的であろう。なお、伊達家がいまの宮城県域へ移動するのに伴い、石川家や白河家などいくつかの被官大名は、仙台藩一門(「御客大名」)となって転出しているので、伊達家関係の史料で系譜をたどることができる。会津図書館(一度訪問)や県歴史図書館(未見)に所蔵されているものは、近世諸藩の史料が中心である。

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◆篠川公方・稲村公方 足利家
鎌倉公方の一族である足利満直・満貞の兄弟が、それぞれ安積郡・岩瀬郡に派遣され、鎌倉府の出先機関として南奥州の統制を委ねられたものである。実際には南奥州は伊達・白河・蘆名等の諸家による抗争、駆け引きの場となり、両公方は十分な存在感を発揮できなかった。満貞は永享の乱(1429)で甥の鎌倉公方・持氏方に立ったため、持氏敗北後に自殺。満直は逆に、永享の乱で
将軍・足利義教の側に味方して持氏鎮圧に協力したが、反・義教派の蜂起=結城合戦=を受けて自殺に追い込まれ、ここに両公方はともに消滅した。

◆岩城家
亀田(秋田県のページ参照)藩主家の系譜では、惣領家の隆衡から隆忠へ至る家系を引いているが、実は、隆忠は鎌倉初期に分かれた白土家の当主だと推測されるため、歴代表ではその説を採った。織田家や徳川家もそうだが、本来庶流だった家が後に一族を代表する勢力になると、嫡流家の系統に仮託して家系図を改作することが、歴史上しばしば起きている。

◆相馬家→相馬藩
平将門の子孫であるとの家伝は後世の付会に過ぎず、鎌倉初期からの千葉家一族である。行方郡に所領を持ち、嫡流家は本領の下総にとどまったが、師胤に始まる庶流が相馬地方に土着した。戦国期に勢力を拡大、義胤(長門守)が関が原の戦で石田寄り中立の態度を取ったことから、一時改易されたが、利胤が徳川家康に陳弁して了解され、本領に復した。その後は6万石の相馬(中村)藩として、明治維新まで中断することなく継続している。惣領家の時代から通し番号を付けた。

◆二階堂家
鎌倉幕府の政所執事の家。南北朝期に入る前に奥州へ下向したものの、間もなく惣領家の動向が史料でたどれなくなる。一族の中から須賀川二階堂家が台頭して一族を統一したが、惣領家との関係が不明瞭なため、歴代表の中では分けて記載した。

◆田村家
家伝では坂上(さかのうえ)氏として、平安朝の将軍・坂上田村麿から繋げているが、実際には平姓であり、実名が同時代史料で知られるのは室町期の田村直顕以降である。南北朝期までの藤原姓田村庄司との関係は未詳なので、歴代表では直顕からの当主を掲げた。

◆会津領主 蒲生家
蒲生氏郷の入封後、一時期(宇都宮時代)を除き、蒲生家が江戸前期の三代にわたって会津を領知した。はじめ91万石、のち60万石の大藩でありながら、後嗣がなく絶家になってしまったので、末尾に1613年ごろの重臣(一万石以上)配置を記載して参考に供した。

他県の部でも、同様に江戸前期で消滅した大藩の場合は、一万石以上の重臣配置を末尾に付載する。

◆会津藩
加藤家、保科→松平家を歴代表に掲載。なお、松平家の当主は代々神式の諡であるが、保科正経と松平容詮(世子)だけが仏式の戒名になっている。

◆下村藩
老中・田沼意次が冤罪により失脚した後、嫡孫の意明が懲罰的に左遷された先が下村である。藩主の若死にが続いた後、意次の四男・意正が家を継承、幕閣に登用されて若年寄に就任し、36年ぶりに旧領相良(静岡県のページ参照)へ復帰した。

2020年2月12日 (水)

「山形のほうへ車が、やぁ!まがった」「米沢には、用ねえだわ...」

【史料好きの倉庫(6)】

今回は「山形県の主要大名」の解説である。

何度か来県。米沢へは市立図書館の上杉家関係資料の閲覧を兼ねて行ったり、いまは亡き母に同伴して市内を散策したり、合わせて4回ほど訪問した。他にも山形をはじめ、鶴岡、松山、新庄、天童、上山と、江戸期の城下町はおおむね、それぞれ一度は観光している。

山形県は置賜、庄内などいくつかの地域に分かれているため、史料もそれぞれの地元に分散している。戦国期から村山、最上地方を支配した大大名の最上家は、江戸前期に解体されてしまい、服属していた諸家が離散したことにより、家史の追跡が難しくなっている面は否めない。私は行ったことがないが、県の図書館より山形大学に多くの史料が所蔵されている。また、米沢藩の一門・諸士の系譜は『上杉家御年譜』でたどることができる(画像は私が所蔵する同藩関係の書籍)。

Yonezawahan

◆最上家=羽州探題
奥州探題大崎家から分かれ、出羽の探題職を世襲した家。戦国期に入ると探題の威権も有名無実となったが、義光が周囲の諸大名と抗争しつつ、山形城を拠点に勢力を確立し、関が原の戦で徳川方に立ったため57万石に大増封された。しかし、中世期の支配形態を引きずった結果、1622年、義俊のときに重臣たちが反目する内紛のため改易されてしまう。末尾に1613年頃の重臣配置を掲げたが、一万石以上の支城主が14~15人もおり、いわば諸侯連合の状態だったのだ。近世大名に脱皮できなかった家の悲劇である。

◆米沢藩=上杉家
越後国主であった上杉輝虎(謙信)の跡を継いだ景勝が、豊臣政権下で会津120万石に栄転。ところが関が原の戦後処理で米沢30万石に大減封され、さらに1664年には藩主急死の際に継嗣がいなかったことから、綱憲以降は15万石に減封された。再三の縮小を経て藩は深刻な財政難に陥ったが、治憲(鷹山)が曲折を経ながらも再建に成功しており、明治維新まで継続した名家の一つとなった。分家の米沢新田藩・上杉家は実質的に本家からの蔵米支給であったため、当主名と官位のみを掲げた。重臣では初期の家老・直江兼続(新潟県のページ参照)の死亡を最後に、1万石以上を領知する者は存在しなかった。

◆山形藩
鳥居家以降の藩主を掲げる。松平(結城)家や堀田家のように、転封のため同じ家が複数回藩主になった場合には、「前期」「後期」等と区分した。また水野家のように明治に入ってから他地へ転じた藩主については、最終封地の箇所で廃藩後の官職や爵位を記載した。

他藩・他県の場合も同様な扱いとした。

◆庄内藩=酒井家
徳川「四天王」の一であり、酒井忠勝(老中・小浜藩主とは別人)が1622年に入封してから、ずっと庄内に定着した。譜代大名中の大家であり、支藩として松山(松嶺)藩が存在したが、重臣は石高が多い者でも2,000石程度にとどまった。

◆村山郡内 本多領
事典類では「村山藩」と称する場合が多いが、この藩は横須賀藩主(静岡県のページ参照)であった本多利長が、不行跡のために配流されて、村山郡内の1万石のみをいわば「堪忍分」として与えられたものである。左遷大名の極小藩だったが、次の本多助芳(信濃飯山藩)へつなげるために項目を立てた。

2020年2月 9日 (日)

「秋田縦貫鉄道、あ...きた!」「角館まで雪ん中突っ走る、かくごだで!」

【史料好きの倉庫(5)】

今回は「秋田県の主要大名」の解説である。

過去、同県には三回訪れている。秋田市には旅行で二度宿泊(それぞれ2~3泊した)、そこから角館、横手、能代、由利本荘などへ足を延ばした。直近では7年前の2月、積雪の北秋田市から介護保険「給付適正化」の講師として招かれ、市内の介護支援専門員を対象に講義をしたことがある。タイトルのダジャレはその実体験から思い付いたものだ(^^;
また、画像もその講義の中で使用したもの。ケアマネジャーと介護サービスとを別々の組織が担う「第三者機関主義」について説明する際に、秋田藩が一か所の要地周辺に二家の重臣を並立配置して、相互に「モニタリング」させた史実を引用したスライドである。

Akitaken

秋田県関係では、戦国期までに歴史の舞台から消えた大名家の系譜に、解明されていない部分が少なくない。一部の中世大名家や秋田藩については、県の公文書館に系譜が多く所蔵されている。ただし、藩士の系図集がまとまった形で編纂されたわけではないので、重臣でも系図が残っていない家もある。

◆安東→秋田家
後世、安倍氏の後裔を称していたが、実際には鎌倉期に蝦夷地一帯を管領していた安藤家の系統である。下国系と湊系とに分かれ、後者が戦国秋田家となって両系を統一した。近世の三春藩(福島県のページ参照)につながる。

◆戸沢家
◆小野寺家
この二家のように、伝えられる系譜に問題があっても、新たな史料でも発見されない限り、真相はヴェールに包まれてしまうことも少なくない。ひとまず歴代表は掲げたが、私が備考欄に疑義をコメントしたことからもご賢察の通り、史実の上での正確性を保証するものでは全くないことをご了解の上で、参照されたい。

◆六郷家→本庄藩
戦国期には仙北郡六郷の領主。政乗一代で常陸府中→出羽本庄へと転じた。旧領復帰ではないが、広い意味での羽後地域、現在の秋田県内への復帰であり、そのまま明治維新まで存続したため、例外的に通し番号を付けた。

◆秋田藩=佐竹家
常陸(茨城県のページ参照)の大大名であり、諸大名の中でも屈指の古い家柄であった。関が原の戦後、石田三成寄りの中立であったことから懲罰的に久保田城へ転封され、
江戸期には現在の秋田県の大部分を統治して、明治維新まで継続した大藩である。

◆角館所預 佐竹家
◆佐竹(東)家
◆湯沢所預 佐竹家
◆大館城所預 佐竹家
いわゆる佐竹四家。角館佐竹は「北家」、湯沢佐竹は「南家」、大館佐竹は「小場家」と称される。東家だけは所預(ところあずかり)ではなかったが、藩政初期には増田に在城していたこと、他の三家と比較して一家のみ載せないのは妥当でないと判断したことから、四家とも当主名を掲載した。万石待遇とは、各家が一万石級の供連(ともづれ)など戦国期以来の格式を保っていたことが、藩内のみで通用していたものだが、秋田藩が戊辰戦争で新政府側に参戦して功があったため、四家はいずれも明治政府から一万石以上格を追認されて、男爵を授けられている。

◆矢島藩=生駒家
讃岐一国を四代にわたって領知した生駒家は、高俊のとき御家騒動のため領国を没収され、配流の形で矢島に1万石を与えられた。次の高清の代からは分知により8,000石となったため、幕末までずっと交替寄合であった。生駒親敬が戊辰戦争で新政府側として戦ったため、戦後15,200石に高直しされ、いわば滑り込みで大名に列したものである。したがって、江戸期は大名でなかったのだが、初代と最後の当主が大名であるため、間をつなぐ意味で歴代表を掲げた。

2020年2月 5日 (水)

「宮城のお...みやぎぇ...は、いくつ?」「仙台で購入したのは、千だい!」

【史料好きの倉庫(4)】

今回は、「宮城県の主要大名」の解説である。

最初に訪問したのは修学旅行のときで、仙台に三泊して周辺を観光した。その後、用事や旅行で数回来県。白石・登米・亘理・涌谷などの地方都市にも足を延ばした。

宮城県関係では、仙台藩の『伊達世臣家譜(正・続)』に藩士家の歴代当主や伊達家との関わりが略述されており、特に伊達家の「一門」は「御客大名」とも称され、江戸期になって領地こそ移転させられたものの、藩内の要地を封邑として統治していたので、戦国期以前からの系譜をたどることができる。他方、戦国期までに終焉を迎えた諸家については、不分明な点も少なくない。

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◆大崎家=奥州探題
室町時代、一時期の例外を除き、陸奥国には守護が置かれなかった。そのため、管領・斯波家の庶流である大崎家が探題に任命され、奥州を統括する役割を果たした。現実の探題職は伊達家や南部家の勢力拡大により形骸化し、戦国期には一大名の立場を超えるものではなく、豊臣秀吉の仕置により歴史を終えた。

◆葛西家
宮城県の戦国大名の系譜をたどる上で、一番の難物はこの葛西家である。十種以上ある葛西の諸系図は、大きく盛岡系と仙台系とに分かれ、鎌倉・室町期の当主名はほとんど別人の名前ばかりが続いている。登米寺池系と石巻系との対立、伊達家の介入、豊臣秀吉の仕置による宗家の滅亡などが、混乱を招いたおもな理由であろう。本稿では、はじめ両系譜を一本化させて歴代表を記載したが、無理があると判断し、両系それぞれの継承を推定しながら、ひとまず現在の形に歴代表を改訂した。

◆国分家
平氏からいつの間にか藤原氏に入れ替わっているが、南北朝期を境に交替したとも推定され、その後の系譜も錯綜している。本稿では、はじめ平姓系図をもとに一系として歴代表を記載したが、無理があると判断し、二つに分けた上で、戦国期の藤原氏国分家については、より現実的な当主の在任を推定しながら、ひとまず現在の形に歴代表を改訂した。

◆木村家
豊臣秀吉の取り立て大名。奥州仕置に失敗して改易され、その後は豊後国内に封じられているので(関が原の戦で失脚)、最終封地は大分県であるが、地名未詳であることから宮城県のページで取り扱った。

◆伊達家→仙台藩
鎌倉期の信達(信夫郡・伊達郡)時代に始まり、領土の拡大、縮小、変更を経ながらも、途切れ目なく明治維新まで継続した大家(藩)である。そのため、通し番号は信達時代から一貫させ、かつ政宗までは福島県のページにも重複させて掲載した。

2020年2月 4日 (火)

「岩手で何を、いわって...る?」「盛岡で、森を買...ったんで」

【史料好きの倉庫(3)】

今回は「岩手県の主要大名」の解説である。

修学旅行で初めて行き、平泉などを見学。また、三十代のときにも旅行で一度訪れている。遠野までは行かなかったが、盛岡や水沢を観光した。

岩手県関係の系譜史料としては、南部藩の『参考諸家系図』がある。中世で滅亡した家を除けば、岩手県や青森県東部の多くの家系が、これに収録されている。ただし、各家の家伝をそのまま掲載している場合が多いので、考証が必要になる。

◆南部(三戸)家→南部(盛岡)藩
南部の宗家。「三戸」が示すように、もともと現在の青森県側に拠点があったが、本稿では最初から岩手県に分類して、通し番号を付けた。

◆南部(根城→遠野)家
「八戸南部家」とも呼ばれるが、後代の八戸藩(青森県のページ参照)とは関係ない。南部庶家であり、中世に八戸を領有していたことから「八戸」を称したものだ。南北朝時代に南朝方として活躍した南部家はこちらである。嫡流=三戸南部家と並立に近い状態を維持していたが、豊臣秀吉の天下統一に際して、嫡流家の一門として臣列に下った。江戸期に入ってから遠野へ移され、代々の所領としている。

◆九戸家
◆阿曽沼家
◆和賀家
◆稗貫家
これらの諸家は戦国時代まで現在の岩手県内の各地に分立していた。どの家も後世に伝えられている系図に不明瞭な部分が多く、それぞれの氏族史の解明には今後の研究を待つことになるであろう。

他県でも同様な例があるが、それぞれの歴代表の備考欄に疑義を記載しておいた。今後、同様な例については改めて解説しない。

◆水沢要害 伊達(留守)家
仙台藩(宮城県)領内のいわば封臣であるが、水沢要害が岩手県内にあったため、仙台藩のあとに付載するのではなく、こちらに当主名と所領の変遷のみを掲載した。

他にも大藩の一門・重臣で拠点(封邑・陣屋など)が他県にある家は、所属するところで扱う。

2020年2月 3日 (月)

「青森でご飯、あ?おおもり!」「弘前で疲労、先...に来ないようにね」

【史料好きの倉庫(2)】

今回は「青森県の主要大名」の解説である。

旅行で一度、晩秋に訪れた。弘前城へ行ったのは桜ではなく紅葉が美しい季節。青森に宿泊、五能線で津軽平野を周回した記憶がある。
津軽家は戦国末期に成立した大名家であり、それ以前の諸豪族の家に関する詳細な記録には乏しく、南部家や安藤家と絡んで語られることが多い。県立図書館には(記録の信憑性はともかく)それなりの蔵書が存在する。

◆北畠(浪岡)家
当主の官位が高いのは、この家が「お公家さん」だったからだ。しかし、顕義からその孫とされる具永までは年代が開き過ぎている。もう一代か二代入るのが妥当なところだろうか?

他県のページに登場する他の家についても、代数に疑義がある場合には備考欄に特記している。

◆津軽家→津軽藩
戦国末期の梟雄・津軽為信の出自は謎に包まれている。系図では四代前の大浦光信からつながっているが、為信本人の素性は判明しないままである。とりあえず、「光信以来、津軽方面に有していた権益を、何らかの形で為信が継承した」と解釈し、光信から通し番号を付けた。

◆八戸藩=南部家
一般的には南部=盛岡藩の支藩と見なされているが、本来は1664年、南部藩主・南部重直が没したとき、遺領を弟の重信と直房とが分割相続したものである。もともと藩内で両派に分かれての内紛が発生していたところ、重直が後嗣を決めずに急死したため、幕府の裁定によりこの処置が採られた。

◆斗南藩=松平(会津)家
幕末の会津藩主・松平容保は1868年、戊辰戦争で薩長主体の新政府軍に徹底抗戦した末に降伏開城し、会津領28万石は収公された。しかし、翌1869年に容大が明治政府から、当時は「不毛の地」とされた下北半島の北端3万石を与えられ、流罪同然の形ながら家の再興がかなった。1871年には廃藩置県になったので、一部を除く多くの藩士たちは斗南を去ってしまったのだが…

(作表するとき特に留意した、一部の家や藩だけについてコメントしている。
割愛した分についてはご容赦願いたい m(_ _)m )

2020年2月 2日 (日)

「北の大地は寒いです...」「ほっか!いどう...しましょうか(^^;」

【史料好きの倉庫(1)】

一応完成したHPのコンテンツ、「主要大名」の一覧。逐次、校正を加えながら、ダジャレのタイトルに乗せて紹介していきたい。

初回は「北海道(蝦夷地)の主要大名」の解説である。

「日本」の一部になるまでには、長い時間がかかった蝦夷地≒北海道。実際に私が函館から松前、上ノ国まで旅をしたのは、ずっと昔のこと。自宅で『エゾの歴史』(海保嶺夫、1996講談社選書メチエ。下の画像)をはじめ2~3の書籍を読みながら、調べた部分が多い。アイヌ民族共同体の歴代首長の名前などが判明していたら掲載しようかとも思ったのだが、残念ながらコシャマインとかハシタインとかチコモタインとか、近世のシャクシャインとかオニビシとか、一部の著名な指導者が断片的に知られている程度なので、「大名」に数えなかった。

Hokkaido

◆蠣崎家→松前藩
蝦夷地の大名と言えば松前藩だが、同藩(松前家)が蝦夷地全域の支配権を認められたのは、近世に入る時期である。中世には安東家(秋田県のページ参照)が宗主権を持っていた。戦国時代に松前家の前身である蠣崎家が領主として支配を拡大し、江戸期に入って大名格の交替寄合、後に大名になったものである。松前家の伝統的な系図では若狭出身の「武田庶流」に入れているが、実際には田名部一族かとも言われ、出自ははっきりしない。江戸後期の松前章広のとき、一時的に関東や南東北へ領知を移され、後に蝦夷地へ復帰し、幕末まで領地の一部変更はあったが、明治維新まで続いた。本稿では蠣崎家時代から通し番号を付けてある。

◆有珠郡支配 伊達家
◆空知郡→当別支配 伊達家
◆幌別郡支配 片倉家
この三家は仙台藩の一門・重臣であり、戊辰戦争の敗北によって所領を失い、家臣たちを食べさせていくことができなくなったので、明治政府に志願して北海道開拓に着手した。1871年には「所領」としての支配は終了したが、旧藩士たちが引き続きそれぞれの土地で開拓に従事しながら、現在に至る地域、自治体を築き上げている。

◆静内郡支配 稲田家
もと徳島藩家老。淡路洲本城代だったが、幕末の騒動のため藩と修復困難な状態になったことが原因で、明治政府のもと兵庫県貫属とされ、上記の三家同様、北海道開拓に従事した。

このように、47都道府県のページを一つずつ解説していく。なお、次回(青森県)からは、作表するとき特に留意した一部の家や藩だけについてコメントする。割愛した分についてはご容赦されたい m(_ _)m

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