「青森でご飯、あ?おおもり!」「弘前で疲労、先...に来ないようにね」
【史料好きの倉庫(2)】
今回は「青森県の主要大名」の解説である。
旅行で一度、晩秋に訪れた。弘前城へ行ったのは桜ではなく紅葉が美しい季節。青森に宿泊、五能線で津軽平野を周回した記憶がある。
津軽家は戦国末期に成立した大名家であり、それ以前の諸豪族の家に関する詳細な記録には乏しく、南部家や安藤家と絡んで語られることが多い。県立図書館には(記録の信憑性はともかく)それなりの蔵書が存在する。
◆北畠(浪岡)家
当主の官位が高いのは、この家が「お公家さん」だったからだ。しかし、顕義からその孫とされる具永までは年代が開き過ぎている。もう一代か二代入るのが妥当なところだろうか?
他県のページに登場する他の家についても、代数に疑義がある場合には備考欄に特記している。
◆津軽家→津軽藩
戦国末期の梟雄・津軽為信の出自は謎に包まれている。系図では四代前の大浦光信からつながっているが、為信本人の素性は判明しないままである。とりあえず、「光信以来、津軽方面に有していた権益を、何らかの形で為信が継承した」と解釈し、光信から通し番号を付けた。
◆八戸藩=南部家
一般的には南部=盛岡藩の支藩と見なされているが、本来は1664年、南部藩主・南部重直が没したとき、遺領を弟の重信と直房とが分割相続したものである。もともと藩内で両派に分かれての内紛が発生していたところ、重直が後嗣を決めずに急死したため、幕府の裁定によりこの処置が採られた。
◆斗南藩=松平(会津)家
幕末の会津藩主・松平容保は1868年、戊辰戦争で薩長主体の新政府軍に徹底抗戦した末に降伏開城し、会津領28万石は収公された。しかし、翌1869年に容大が明治政府から、当時は「不毛の地」とされた下北半島の北端3万石を与えられ、流罪同然の形ながら家の再興がかなった。1871年には廃藩置県になったので、一部を除く多くの藩士たちは斗南を去ってしまったのだが…
(作表するとき特に留意した、一部の家や藩だけについてコメントしている。
割愛した分についてはご容赦願いたい m(_ _)m )
« 「北の大地は寒いです...」「ほっか!いどう...しましょうか(^^;」 | トップページ | 「岩手で何を、いわって...る?」「盛岡で、森を買...ったんで」 »
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 「沖縄方言で『翁(おきな)』は?」「那覇ならオジーと言い...なは...れ!」(2022.12.29)
- 「鹿児島の人は、過誤しませんね」「薩摩じゃ、札、間...違えないから」(2022.11.27)
- 「宮崎から帰るのは、イヤじゃけ!」「飫肥は哀愁を、おび...てるよね」(2022.07.31)
- 「大分でコケたら、おお痛っ!」「竹田の人に、ケタケタ笑われるよ」(2022.05.30)
- 「熊本まで行...く、間(ま)、持っとるか?」「天草で、あんまん食うさ(^^;」(2022.05.22)
「趣味」カテゴリの記事
- 自作チャーハンの楽しみ(2023.08.12)
- 「62の手習い?」(2023.01.28)
- 「沖縄方言で『翁(おきな)』は?」「那覇ならオジーと言い...なは...れ!」(2022.12.29)
- モニタリング敗戦???(2022.10.25)
- 「鹿児島の人は、過誤しませんね」「薩摩じゃ、札、間...違えないから」(2022.11.27)
「日本史」カテゴリの記事
- 記憶/記銘力の自己診断(?)(2024.06.23)
- 「沖縄方言で『翁(おきな)』は?」「那覇ならオジーと言い...なは...れ!」(2022.12.29)
- 「鹿児島の人は、過誤しませんね」「薩摩じゃ、札、間...違えないから」(2022.11.27)
- 時代小説の虚実(2022.08.13)
- 「宮崎から帰るのは、イヤじゃけ!」「飫肥は哀愁を、おび...てるよね」(2022.07.31)
« 「北の大地は寒いです...」「ほっか!いどう...しましょうか(^^;」 | トップページ | 「岩手で何を、いわって...る?」「盛岡で、森を買...ったんで」 »
コメント