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2020年2月 3日 (月)

「青森でご飯、あ?おおもり!」「弘前で疲労、先...に来ないようにね」

【史料好きの倉庫(2)】

今回は「青森県の主要大名」の解説である。

旅行で一度、晩秋に訪れた。弘前城へ行ったのは桜ではなく紅葉が美しい季節。青森に宿泊、五能線で津軽平野を周回した記憶がある。
津軽家は戦国末期に成立した大名家であり、それ以前の諸豪族の家に関する詳細な記録には乏しく、南部家や安藤家と絡んで語られることが多い。県立図書館には(記録の信憑性はともかく)それなりの蔵書が存在する。

◆北畠(浪岡)家
当主の官位が高いのは、この家が「お公家さん」だったからだ。しかし、顕義からその孫とされる具永までは年代が開き過ぎている。もう一代か二代入るのが妥当なところだろうか?

他県のページに登場する他の家についても、代数に疑義がある場合には備考欄に特記している。

◆津軽家→津軽藩
戦国末期の梟雄・津軽為信の出自は謎に包まれている。系図では四代前の大浦光信からつながっているが、為信本人の素性は判明しないままである。とりあえず、「光信以来、津軽方面に有していた権益を、何らかの形で為信が継承した」と解釈し、光信から通し番号を付けた。

◆八戸藩=南部家
一般的には南部=盛岡藩の支藩と見なされているが、本来は1664年、南部藩主・南部重直が没したとき、遺領を弟の重信と直房とが分割相続したものである。もともと藩内で両派に分かれての内紛が発生していたところ、重直が後嗣を決めずに急死したため、幕府の裁定によりこの処置が採られた。

◆斗南藩=松平(会津)家
幕末の会津藩主・松平容保は1868年、戊辰戦争で薩長主体の新政府軍に徹底抗戦した末に降伏開城し、会津領28万石は収公された。しかし、翌1869年に容大が明治政府から、当時は「不毛の地」とされた下北半島の北端3万石を与えられ、流罪同然の形ながら家の再興がかなった。1871年には廃藩置県になったので、一部を除く多くの藩士たちは斗南を去ってしまったのだが…

(作表するとき特に留意した、一部の家や藩だけについてコメントしている。
割愛した分についてはご容赦願いたい m(_ _)m )

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