« 2020年2月 | トップページ | 2020年4月 »

2020年3月

2020年3月22日 (日)

「神奈川...かな?かわ...らないのは...」「湘南(しょうなん)です(^◇^;」

【史料好きの倉庫(14)】

今回は「神奈川県の主要大名」の解説である。

新幹線での素通りが多いが、それでも用事のあるたびに、学生時代からしばしば足を運んでいる。横浜が比較的多く、学生時代から合わせると十回以上は行った記憶がある。他に複数回訪れたのは鎌倉、箱根などだ。小田原城へは過去二回。二回目は2014年、業界仲間と二人で平塚まで勉強に出掛ける途中に立ち寄った(画像は小田原城から眺めた湘南海岸)。

神奈川県は鎌倉幕府の本国であり、室町期には関東公方足利家に支配される中世武家勢力の一大拠点であった。しかし、戦国中期以降は小田原城を本城とする北条家の直轄地域となり、三浦家・大森家などの在地勢力は一掃されてしまう。北条家の一門・重臣は多くが主家と運命をともにして滅亡、没落した。県立博物館(未見)や各市立の図書館等に文書が所蔵されている。

20140306odawarajou

◆三浦家
鎌倉幕府草創期から活躍した名門。宝治合戦で宗家が滅亡した後には、傍系の佐原家が三浦惣領家となった。室町期の前半に相模守護となるが、その後は勢力が後退し、戦国期の入口で伊勢盛時により滅ぼされた。

◆上杉(犬懸)家
上杉諸流の中でも山内(宗家)、扇谷と並んで関東管領に就任する家系。氏憲(=禅秀)の乱が失敗して没落し、戦国期には動向が聞かれなくなる。

◆北条(小田原)家
京の伊勢家の分家で、わずかばかりの所領を持つ申次衆の身から、一代で伊豆・相模二国の主にのし上がった盛時(=北条早雲)が初代であるが、実は盛時の代を通して名字は「伊勢」であり、「北条」を称したのは二代目の氏綱からである。畿内の名族である伊勢家は関東でよそ者扱いされ、地元の武士たちから拒否反応が見られたことが原因だと推測されている。「北条」の由来は氏綱の最初の妻・養珠院が北条庶流の横江家出身だった縁で仮冒したと伝えられるが、その出自に確証はない。また、盛時が今川家のいわば後見人として興国寺城を与えられてから、氏綱の途中まで形式上は駿河今川家の被官であり、名実ともに独立したのは1519年と比較的遅い。関東に覇を唱えるも、豊臣政権の大規模な征討を受け1590年に降伏、解体され、嫡流家は河内狭山藩主(大阪府のページ参照)となって細々と存続した。

◆小田原藩
江戸期には大久保家の居城として知られているが、大久保忠隣が失脚した後、同家は減封や転地を重ねており、その間に阿部家や稲葉家が小田原城主になっている。大久保忠朝のとき1686年に小田原へ復帰、以後は代々継承して明治まで続いた。

2020年3月20日 (金)

「東京に転居する、ときよぉ(^^*」「江戸に来れば、えぇど!」

【史料好きの倉庫(13)】

今回は「東京都の主要大名」の解説である。

学生時代、5年間(大学4年、社会福祉の学校1年)都の住民であった。はじめの2年は世田谷区三宿(画像左の建物の場所にかつて存在した学生用宿舎)、あとの3年は豊島区雑司ヶ谷である。卒業後は最低でも年二回、多いときには年数回出向いている。泊まり掛けで行くこともしばしばだ。

東京都は埼玉県同様、関東武士団の拠点であったが、中世の氏族の多くは北条家に敵対するか吸収されるか、その関わりの中で存続してきた。そのため、北条家の滅亡に伴って大部分は解体されてしまい、各地の史料は断片的にしか残されていない場合が多い。徳川家の直轄領となった江戸周辺に、独立した大名はほとんど存在しなかった。江戸中期に徳川宗家から御三卿が分出し、それらの家譜は続群書類従完成会がまとめた『徳川諸家系譜』に掲載されている。江戸に在府した高家や上級旗本の系譜は、『寛政重修諸家譜』で参照することができ、中には東条吉良家のように中世から存続した家もある。東京で史料の調べ物をするのならば、何と言っても国立国会図書館が最適で、東京都に限らず広く全国の大名・豪族等の系譜を閲覧できる。

20140727mishuku

◆豊島家
桓武平氏秩父一党の在庁官人。鎌倉期には有力御家人の一であり、室町期にも勢力を保ったが、戦国期に入る直前の豊島泰経を最後に、惣領家の動向は知られなくなった。江戸期に旗本となった豊島家は惣領家の後裔を称するが、途中のつながりが同時代史料により確認できないので、記載しなかった。

◆江戸家
桓武平氏秩父一党。南北朝~室町期に惣領家の活動が知られる。その後、傍系の木田見家が北条家に従属して存続し、江戸期にはそのまま徳川家に仕えて喜多見と改称したが、将軍・徳川綱吉の側衆となった喜多見重政が大名になった後に、怠慢を咎められて改易されてしまった。

◆吉良(東条)家
「吉良」と言えばまず三河の吉良(西条)家が挙げられるが、こちらの東条吉良家も同じ足利義氏を祖とする。吉良貞家から三代にわたって奥州探題を務め、頼氏以降は武蔵世田谷の城主であった。江戸期には門地の高さから高家として遇され、幕末まで存続した。

◆徳川(田安・一橋・清水)家
すなわち御三卿である。
当主は江戸城内に居住して、まとまった所領を知行していなかったが、諸省の卿に任官し、将軍位の継承権を有していた。一橋家からは家斉・慶喜と二人の将軍を出している。田安家と一橋家は明治初年の短期間であるが、藩として認められたので、歴代表を掲載した。清水家は当主が他家へ転出するなど、しばしば継承者を欠いて中絶しているため、当主名と官位のみを掲げた。

2020年3月17日 (火)

「千葉が、い...ちば...ん走りやすい!」「房総で暴走はダメよ(^^;」

【史料好きの倉庫(12)】

今回は「千葉県(房総)の主要大名」の解説である。

残念なことに、この県だけは近世の城下町へ一度も行ったことがない。中世千葉家の本拠から門前町に化した千葉市へは過去二回ほど訪れているが、東京にいた学生時代から数えても、県内へ出向いた記憶は合わせて数回程度だ。

千葉県は「房総」と通称される。中世の諸大名がおおむね戦国末までに滅びてしまったため、千葉家や里見家を含めて、当主継承の経緯の一部が不明瞭である氏族が多く、異同の多い系譜史料を参照して史実を割り出す作業が必要になる。一括して調べるのならば、県文書館より県立図書館のほうが良い(むかし私が行ったときには西部図書館に歴史関係のおもな蔵書があったが、いまは東部図書館へ移動?しているようなので、要確認!)。近世の諸大名はほとんどが譜代藩であるため、藩主各氏の系譜は『寛政重修諸家譜』等に詳しい。

◆千葉家=下総守護
平安朝時代からの在庁官人の家。鎌倉後期に下総と肥前とに分かれ、宗家は代々下総守護職を継承したが、戦国期に滅びた。傍系の馬加/岩橋系が取って替わり、事実上の千葉宗家となって戦国末に至り、北条家と運命をともにして終焉を迎えた。

◆原家
千葉家庶流。宗家の系統が入れ替わっても、重臣の立場で勢力を維持、北条家の傘下に入って領域を支配したが、胤義は北条家と運命をともにして家領を失った(自害?)。
息子の胤信は徳川家康に仕えて駿府城付きの近習となったが、駿府の女官おたあジュリアらの勧めでキリシタンに入信、出奔するも逮捕されて両足の腱を切断され、駿府から追放された後に(おそらく信徒たちの支援を受けて移動し)、江戸のハンセン病院で働いていた。1623年、福者ガルベス神父、福者アンジェリス神父、福者シモン遠甫修道士らとともに逮捕され、12月4日に札ノ辻で火刑にされ、殉教の栄冠に輝いた。2008年、ローマ教皇ベネディクト16世から列福され「福者(beatus)」の称号を贈られている。

◆里見家
後代の小説『南総里見八犬伝』で知られる。俗説では三浦半島から安房へ渡った里見義実が初代とされているが、義実・成義の二代は実在不明であり、現実の歴史に登場するのは義通からである。義弘のとき上総も制圧して二国の主となったが、義康のとき豊臣政権によって安房一国に縮小され、次の忠義が伯耆へ配流されて里見家は解体された。

◆正木家
里見家の被官でありながら、独立性の強い大名でもあった。三浦家の末裔と称するが仮託であろう。宗家は里見家に制圧されて一門化し、時茂のとき里見忠義とともに伯耆へ配流された。他方、勝浦の正木分家は里見・北条の間を変転し、頼忠の娘の万が徳川家康の側室となって頼宣・頼房を生んだため、三浦に改称した為春が紀伊藩主になった頼宣に随従して貴志城へ移転、家は藩の五家年寄の一として明治まで存続している。

◆舟戸藩
本多正重が舟戸を領知していた時期には、まだ「一万石以上が大名、未満が旗本」の明確な線引き(1635年)が行われておらず、正重没後に幼少の正貫が8,000石に減封されても、すぐに「旗本に降格」したわけではない。そのため、正貫・正直の一万石未満の時期を含め「藩主」として扱い、歴代表を掲載した。

◆船形藩=平岡家
平岡道弘は幕末に大名となったが、幕府の終焉に伴い領地を返上し、駿府藩の重臣に転身している。そのため、明治に入ってから他の藩主のように華族に列せられてはいない。

◆鶴舞藩=井上家 ~ 金ヶ崎藩/桜井藩=滝脇家
これらの7藩はいずれも遠江・駿河の諸藩(静岡県のページ参照)であったが、1868年に徳川宗家が駿府に再興されたことにより、房総へ転封されて廃藩置県を迎えた。

2020年3月11日 (水)

私たちに求められているものは?

きょうは祈りの日である。

東日本大震災から9年。犠牲になった人たちを悼み、復興の道半ばである現地の人たちを励ましながら、私たち自身を振り返る一日である。

この9年間、熊本地震や北海道胆振東部地震、御嶽山の噴火、各地の台風や洪水と、まるで災害列島かと思われるほど、日本を襲った自然災害は頻繁かつ多様であった。

さらに、いま新型コロナウィルスの蔓延が、私たちの社会に大きなインパクトをもたらしている。治療方法がいまだ編み出されていない状況下で、感染予防の観点から国民の経済活動が縮小を余儀なくされた。また、情報の錯綜や風評などにより、社会不安が徐々に増大し、日常生活に混乱をもたらしている。

そして、少なからぬ人たちが「自分さえ良ければ」の物差しで行動している。メディアに登場する我田引水の論者や、デマを流す転売屋だけの話ではない。それらの人たちに限らず、ごく身近な人たちが症状もないのに通院したり、不要不急のモノを買いだめしたりして、本当に医療を受けたい人が迅速に受けられない、物品が必要な人が適時に入手できない状態を作り出している光景が、日常化している。

お互いに思いやる心を、みんなが分かち合えるために、私たちはどうしたら良いのだろうか?

これは神様から私たちに与えられた試練だと考え、思いを巡らしてみたい。

2020年3月 8日 (日)

「埼玉で花が、咲いた!まぁ...」「川越で咲く...かは、ごえ...ん次第」

【史料好きの倉庫(11)】

今回は「埼玉県の主要大名」の解説である。

学生時代、東京に5年間住んでいながら、なかなか埼玉県まで足を延ばす機会がなかった。素通りバージョンを除くと、降り立ったのは過去4~5回か。城下町では二十代後半に行った川越が一回だけだ。さいたま市へは二回出向いており、2002年末と昨年12月、知人に会いに行っている(画像はその帰りに撮影した、武蔵国一宮である氷川神社の参道入口)。

埼玉県は武蔵七党をはじめとする武士団の本場であるが、戦国期には北条家の支配下に置かれたため、大名級の領主はあまり多くない。そのため、地元に残っている文書類を除けば、県内外で個別の家系に縁のある土地に関連史料が散在している。近世大名や幕臣になった家の家譜は、『寛政重修諸家譜』等で調べられるほか、川越や秩父(忍藩)などの地元に史料が保管されている。

20191214saitama

◆太田家
太田資長(道灌)の家系。岩付(槻)太田家として戦国期を生き抜き、北条家の滅亡に伴って大名としての役割を終え、河内の郷士になった。他方、近世大名の太田家(遠江掛川藩主)が資長の後裔を称しているが、仮託した可能性もあり、系譜上のつながりは明瞭でない。

◆成田家
◆藤田家
それぞれ横山党、猪俣党の一分流。野与党の多賀谷家(茨城県のページ参照)、丹党の大田原家(栃木県のページ参照)等とともに、武蔵七党のうちで大名級に成長した数少ない家系である。

◆岩槻藩
大岡一族では、将軍・徳川吉宗時代に江戸町奉行・寺社奉行を歴任した大岡忠相(三河西大平藩主)が圧倒的に有名であるが、同族の後輩に当たる大岡忠光のほうが、隠れた実績は大きい。将軍・徳川家重の側用人であり、構音障害を有していた家重のただ一人の「通訳」として重要な政治的役割を担い、その独裁をサポートして経済・財政の大規模な改革を推進させている。300石の旗本から2万石の岩槻城主に出世したのは褒賞であり、子孫は代々岩槻藩主を歴任して明治に至った。

◆川越藩
松平(結城)朝矩は1749年に上野前橋へ入封したのだが、水害の影響が累積して城が倒壊の危機を迎えたため、幕府に懇願して1767年に川越城を与えられ、前橋城下を併せ領した。1866年に至って、直克のときようやく前橋城の修築が終了したので、帰還している。その間の歴代表は本項目のほうに記載した。

2020年3月 1日 (日)

「群馬で指切り、ぐんまんだぞ!」「上野から、こう...ずけずけ言われても...」

【史料好きの倉庫(10)】

今回は「群馬県(上野)の主要大名」の解説である。

ほとんどが東京から北陸や長野県へ行く途中の素通り状態。城下町の市内を歩いたのは沼田での一回だけだ。それも尾瀬へ行くためのいわばトランジットなので、一応町に降り立った記憶はあるが、ほぼ素通りに近く、散策と言うのには程遠い。それ以外には一度も行ったことがない。

群馬県をかつて上野(こうずけ)の国と称したのは、毛野(けぬ)の国を二つに分けて、群馬県側を上毛野(かみつけぬ)と呼んでいたのが、転訛したものだ。戦国時代、上杉・北条・武田の勢力争いの地になったため、中世諸大名の系譜はまとまった形で残されたものがあるわけではない。それぞれの地域で保存されている史料から調べるのが良いが、岩松家や由良家などは幕府の高家になっているので、『寛政重修諸家譜』等に公式な家系図が収録されている。近世の家門・譜代藩も同様だが、県立文書館(未見)でも調べられる。

◆上杉(山内)家=上野守護
丹波在国時代から歴代表を作成。戦国期の上杉憲政までを記載した。そのあとは系譜上、越後の長尾家へと続く。

◆長尾家
長尾家と言えば、上杉謙信を出した越後の長尾家が知られているが、そちらは上杉家庶流である府内上杉家の守護代で、景為の息子・景恒に始まる弟系になる。本項目に掲げたのは上杉家嫡流の守護代、兄系である景忠の子孫である。足利、白井、惣社の三系統に分かれた。

◆岩松家→新田家
岩松時兼は足利庶流の畠山一族であったが、母方の新田一族の庶流となった。室町期には新田家嫡流から満純が入嗣し、その後は内部抗争を経て、家純が新旧岩松家を統一している。戦国期には家臣だった横瀬家(後の由良家)が事実上の支配者となり、岩松家は没落した。守純のとき、新田庶流を自称する徳川家康から、新田郡内の世良田にわずか20石を与えられたが、新田の名字は許されなかった。後代、秀純のとき120石に加増され、交替寄合として代々続いている。明治維新後、ようやく念願の「新田」を名乗ることが認められた。

◆沼田藩
真田家の時代は、上田藩→松代藩(長野県のページ参照)の分邦であったが、本項目では沼田領に限っての歴代当主を表に掲げた。

◆館林藩
徳川綱吉が五代将軍になった後、息子の徳松が将軍世子ながら、夭折するまで名義上は館林領の主を兼ねていたので、城主の歴代表に掲げた。

◆吉井藩
松平信平は公家(摂家)鷹司家の庶流。徳川家光の夫人・孝子の弟であり、その縁で江戸へ下向して武家に転向した。大名になったのは1709年、孫・信清のときからであるが、家格は国持大名並みの従四位下・侍従(信平だけは少将)であったため、当初から歴代表に掲げた。

« 2020年2月 | トップページ | 2020年4月 »

フォト
無料ブログはココログ
2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

他のアカウント