「群馬で指切り、ぐんまんだぞ!」「上野から、こう...ずけずけ言われても...」
【史料好きの倉庫(10)】
今回は「群馬県(上野)の主要大名」の解説である。
ほとんどが東京から北陸や長野県へ行く途中の素通り状態。城下町の市内を歩いたのは沼田での一回だけだ。それも尾瀬へ行くためのいわばトランジットなので、一応町に降り立った記憶はあるが、ほぼ素通りに近く、散策と言うのには程遠い。それ以外には一度も行ったことがない。
群馬県をかつて上野(こうずけ)の国と称したのは、毛野(けぬ)の国を二つに分けて、群馬県側を上毛野(かみつけぬ)と呼んでいたのが、転訛したものだ。戦国時代、上杉・北条・武田の勢力争いの地になったため、中世諸大名の系譜はまとまった形で残されたものがあるわけではない。それぞれの地域で保存されている史料から調べるのが良いが、岩松家や由良家などは幕府の高家になっているので、『寛政重修諸家譜』等に公式な家系図が収録されている。近世の家門・譜代藩も同様だが、県立文書館(未見)でも調べられる。
◆上杉(山内)家=上野守護
丹波在国時代から歴代表を作成。戦国期の上杉憲政までを記載した。そのあとは系譜上、越後の長尾家へと続く。
◆長尾家
長尾家と言えば、上杉謙信を出した越後の長尾家が知られているが、そちらは上杉家庶流である府内上杉家の守護代で、景為の息子・景恒に始まる弟系になる。本項目に掲げたのは上杉家嫡流の守護代、兄系である景忠の子孫である。足利、白井、惣社の三系統に分かれた。
◆岩松家→新田家
岩松時兼は足利庶流の畠山一族であったが、母方の新田一族の庶流となった。室町期には新田家嫡流から満純が入嗣し、その後は内部抗争を経て、家純が新旧岩松家を統一している。戦国期には家臣だった横瀬家(後の由良家)が事実上の支配者となり、岩松家は没落した。守純のとき、新田庶流を自称する徳川家康から、新田郡内の世良田にわずか20石を与えられたが、新田の名字は許されなかった。後代、秀純のとき120石に加増され、交替寄合として代々続いている。明治維新後、ようやく念願の「新田」を名乗ることが認められた。
◆沼田藩
真田家の時代は、上田藩→松代藩(長野県のページ参照)の分邦であったが、本項目では沼田領に限っての歴代当主を表に掲げた。
◆館林藩
徳川綱吉が五代将軍になった後、息子の徳松が将軍世子ながら、夭折するまで名義上は館林領の主を兼ねていたので、城主の歴代表に掲げた。
◆吉井藩
松平信平は公家(摂家)鷹司家の庶流。徳川家光の夫人・孝子の弟であり、その縁で江戸へ下向して武家に転向した。大名になったのは1709年、孫・信清のときからであるが、家格は国持大名並みの従四位下・侍従(信平だけは少将)であったため、当初から歴代表に掲げた。
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