「埼玉で花が、咲いた!まぁ...」「川越で咲く...かは、ごえ...ん次第」
【史料好きの倉庫(11)】
今回は「埼玉県の主要大名」の解説である。
学生時代、東京に5年間住んでいながら、なかなか埼玉県まで足を延ばす機会がなかった。素通りバージョンを除くと、降り立ったのは過去4~5回か。城下町では二十代後半に行った川越が一回だけだ。さいたま市へは二回出向いており、2002年末と昨年12月、知人に会いに行っている(画像はその帰りに撮影した、武蔵国一宮である氷川神社の参道入口)。
埼玉県は武蔵七党をはじめとする武士団の本場であるが、戦国期には北条家の支配下に置かれたため、大名級の領主はあまり多くない。そのため、地元に残っている文書類を除けば、県内外で個別の家系に縁のある土地に関連史料が散在している。近世大名や幕臣になった家の家譜は、『寛政重修諸家譜』等で調べられるほか、川越や秩父(忍藩)などの地元に史料が保管されている。
◆太田家
太田資長(道灌)の家系。岩付(槻)太田家として戦国期を生き抜き、北条家の滅亡に伴って大名としての役割を終え、河内の郷士になった。他方、近世大名の太田家(遠江掛川藩主)が資長の後裔を称しているが、仮託した可能性もあり、系譜上のつながりは明瞭でない。
◆成田家
◆藤田家
それぞれ横山党、猪俣党の一分流。野与党の多賀谷家(茨城県のページ参照)、丹党の大田原家(栃木県のページ参照)等とともに、武蔵七党のうちで大名級に成長した数少ない家系である。
◆岩槻藩
大岡一族では、将軍・徳川吉宗時代に江戸町奉行・寺社奉行を歴任した大岡忠相(三河西大平藩主)が圧倒的に有名であるが、同族の後輩に当たる大岡忠光のほうが、隠れた実績は大きい。将軍・徳川家重の側用人であり、構音障害を有していた家重のただ一人の「通訳」として重要な政治的役割を担い、その独裁をサポートして経済・財政の大規模な改革を推進させている。300石の旗本から2万石の岩槻城主に出世したのは褒賞であり、子孫は代々岩槻藩主を歴任して明治に至った。
◆川越藩
松平(結城)朝矩は1749年に上野前橋へ入封したのだが、水害の影響が累積して城が倒壊の危機を迎えたため、幕府に懇願して1767年に川越城を与えられ、前橋城下を併せ領した。1866年に至って、直克のときようやく前橋城の修築が終了したので、帰還している。その間の歴代表は本項目のほうに記載した。
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