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2020年5月

2020年5月31日 (日)

新型コロナ(9)-消毒用品は何を選ぶべきか?

前回より続く)

ここまで、市民の行動経済学的な側面など、社会活動のありかたを中心に述べてきたが、今回は私たちの日常的な課題である「消毒」の話へ筆を進めてみたい。

新型コロナウイルスへの化学的な対策については、厚生労働省と経済産業省とが中心になって普及に取り組んでいるが、何しろ登場して半年に満たないウイルスであるから、いまだ十分に知られていない面が大きく、検証され尽くしているわけではない。それを承知で、現時点(5月30日)では何が判明しているのか、まとめてみよう。

以下は基本的に、NITE(=製品評価技術基盤機構)や北里研究所などの発表内容を踏まえている。

◆アルコール(エタノール)

北里研究所のプレスリリース(4/17)にも掲載されているが、50%以上のエタノールにウイルス不活化(失活・無力化)効果がある(最適濃度は70%前後)ことは、すでにご存知の通りである。エタノール消毒液(ジェルを含め)はすぐに揮発するので、硬質面の消毒にはもちろん、手指消毒にも活用できる。一時期たいへん品薄であったが、最近は化粧品や酒(画像は地元・磐田の酒造メーカーのもの)などでも濃度50%以上のエタノール製品が販売されているので、品質表示や流通経路などを確認した上、信頼できる製品を入手するのが良い。ただし、引火する、粘膜や傷口に塗ってしまうと炎症や急性中毒になる恐れがある、樹脂やゴムの素材には適していないなどの、アルコールの特性はしっかり押さえておこう。

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私自身は、幸い都市部に自営の事務所を構え、自宅から行き来している関係上、比較的入荷しそうな時期を狙って買い物に行くことができるので、当面必要なアルコール消毒液は入手した。また、除菌用のアルコール入りウェットティッシュも(こちらは消毒用ではなく、ウイルスを「拭き取る」に過ぎないので、効果を過信してはいけないが...)相当量を確保してある。ただし、今後も品薄が続くことに備え、早目の買い足しを心掛けたい。

◆次亜塩素酸ナトリウム

従来の各種研究で検証されてきた通り、0.05%~0.1%の次亜塩素酸ナトリウムにはウイルス不活化効果がある。PH値が高く皮膚のタンパク質を溶かしてしまうので、手指消毒には使えない。モノを消毒する際には必ずゴム手袋を使用し、消毒後に水拭きするのが望ましい。身近なキッチンハイターが代表的な次亜塩素酸ナトリウムなので、これを適切に希釈して消毒に使えば効果的である。

私自身は、母の遺産(生前に買いだめしていた...)のハイター(生協)を、おもに「おしぼり」の消毒に使っている。ズルい人間なので、硬質面については、いつも触った直後に決まって手を洗う箇所の消毒のみに限って使い、水拭きをサボッている。古い家具だからいいものの、劣化の恐れもありお勧めはできない。念のため(^^;

◆界面活性剤

石けんには界面活性剤が含まれており、手洗いによりウイルスを除去できる(洗い流せる)知識は、インフルエンザ対策としてもすでに普及している。新型コロナに関しても、漠然と界面活性剤が有効であるとされていたが、単なる除菌にとどまらず消毒/不活化させる効果については、検証の途上であった。そして、NITEによる検証試験の結果が公表されたのが5月22日と5月29日である。後者は前者のあと追加された物質を含む直近のリストだ。直鎖アルキルベンゼンスルホン酸ナトリウム(0.1%以上)、アルキルグリコシド(0.1%以上)、アルキルアミンオキシド(0.05%以上)、ポリオキシエチレンアルキルエーテル(0.2%以上)と言われても、なかなかピンとこないが、具体的な商品名はこちらのリストを参照。なお、22日のリストについては、化粧品研究・開発者(環境学修士)の「かずのすけ」(=西一総/にし かずさ)氏が、動画(5/27)でわかりやすく解説されている。

私自身は、ここに含まれていないが、台所用中性洗剤は「キュキュット」、洗濯洗剤は「アタック(粉末)」を長く愛用してきた。今後は同じ花王の商品でも、有効成分が確実に含まれているものを使用する方向で考えている。また、母が買い置きしてあった「マジックリン」が少し残っているので、そちらも消毒に有効活用したい。

◆第4級アンモニウム塩

経産省はなぜか別建てしていたが、これも界面活性剤に含まれるので、上記NITEのリストを参照されたい。29日の時点で具体的には、塩化ベンザルコニウム(0.05%以上)、塩化ベンゼトニウム(0.05%以上)、塩化ジアルキルジメチルアンモニウム(0.01%以上)の三種が有効性を検証されている。

私自身は、むかし勤務していた法人で「ハイアミン」とか「オスバン」とかを使用していた縁で、ベンザルコニウム化合物にはなじみがあり、上記のマジックリンなどにも含まれていることを確認した。ただ、ベンザルコニウム化合物となると、個人的には消毒用の商品よりも、除菌用ウェットティッシュをアルコールの品と併用しているので、秋の終わりごろからは肌荒れ(皮脂欠乏症もある)回避のため、少し多めに備蓄しておこうかと計画している。

◆次亜塩素酸水

問題はこれ。NITEでは29日の時点で「有効性は確認されない」、また「噴霧は控えてほしい」と発表した。NHKなどのニュースで視聴された方も多いだろう。元記事を確認したところ、こちらのファクトシートに詳細が記載されていた。
誤解を招かないように整理すれば、
(1)「次亜塩素酸水は失格ではなく、濃度を上げれば有効性が確認されるかも知れないので検証を続ける」
(2)「次亜塩素酸水の噴霧が各所で行われているようなので注意喚起したが、他の物質も含めて噴霧(直接人に向けて噴射するのみならず、空間への霧化なども含めて)自体が、新型コロナ対策としては推奨されない」
...ということだ。後者についてはWHOのドキュメントを部分引用しているので、疑わしく思われる方はドキュメントの原文(英語)を参照されたい。P.3の右段途中から、P.4の左上段にかけての箇所("Spraying disinfectants and other no-touch methods")である。NITEも上記ファクトシートの中で、「薬機法に抵触していないか?」「安全性の基準の解釈が違うのではないか?」「動物実験は鼻と口と両方でやったのか?」などの問題を提起している。いま出回っているすべての商品が不適切というわけではないと思われるが、医療・介護・福祉施設などで「空間除菌」を実施している、しようとしているところは、疾患を抱える利用者も居住あるいは滞在しているだけに、慎重の上にも慎重な判断・対応を求められる(状況次第で中止もあり得る)。商品に関する精査が必要であり、無条件で推奨する方策では決してない。

...ならば、環境を清潔に保つためにどんな方策を推奨するんだ? と問われるかも知れないが、まずは時間と手間がかかっても、基本的な作業をしっかり実践していくのが最善であると、私は考えている。介護・福祉事業者の場合ならば、たとえば日本プライマリ‐ケア連合学会が発行した対応の手引きに示された換気、消毒、湿式清掃など-P.35参照-の手順だ。医療機関や保育所などはまた状況が異なるので、それぞれの関連団体が発行している業種向けのものがあると思われるが、確認していない。
すぐに次亜塩素酸水を使用したくなる気持ちは理解できるが、いまは「待機」。そして、いずれ検証が進み、「この条件下であれば、噴霧や霧化の新型コロナ不活化に対する効果が明らかに認められ、かつ安全面からも推奨される」となった時点で、有効に活用したらどうだろうか?

なお、次亜塩素酸水の基本的な性質について、一般向けにわかりやすく説明されたものとしては、上記「かずのすけ」氏の動画(5/13)があるので、必見である。また、少し前になるが、医師の友利新氏が、次亜塩素酸水は自己責任で使用すべきことや、空間除菌について正しく理解すべきことについて、動画(4/28)で言及されているので、こちらも参照されたい。

私自身は、一時期アルコールが品薄であったことから、次亜塩素酸水のスプレーを自宅で使用していたが、いまはやめている。

【まとめ】

新型コロナウイルスの消毒方法については、刻一刻と新しい知見が公開され、日進月歩していると言って良い。明日にはどこかで、これまでの常識を覆すような発表がなされるかも知れない。

私たちは自分や家族や親しい人の、また医療・介護・福祉の現場であれば利用者・患者も含めた関係する人たちの、健康を守ることを第一に考え、常に頭の中をアップデートしていくことを怠ってはならない。それがウィズ‐コロナ、アフター‐コロナの時代まで見据えて、私たちが生き抜いていくために肝要なのである。

※〔6/6追記〕NITEでは、6月4日付でQ&Aが更新されているので、そちらも参照されたい。特に次亜塩素酸水については、今後の展開次第で変わっていく可能性もあるため、随時確認されたほうが良いと思われる。本日時点での私の個人的見解は、上の文章で述べた通り、「いったん待機して、事業者側が『所定の条件下で効果や安全性についての検証を確実に済ませている』ことを確認した後に活用したほうが無難」に変わりはないので、念のため。なお学校や保育所については当面中止したほうが望ましいと考えているが、これは改めてエントリーを建てて述べたいと思う。

次回へ続く)

2020年5月17日 (日)

新型コロナ(8)-「想像力」をどう働かせるか?

前回より続く)

他人の行動に腹を立てても、建設的ではない(ただし、そのような行動を誘発する精神的風土については分析したほうが良い。これは後日、別稿で触れる)ので、まずは自分が望ましい行動をするためには、どうしたら良いかを先に考えよう。

前回述べた、的確な情報を取得することは大切だが、それだけでは十分ではない。

これから先へ向けて「想像力」を働かせることも、人間にとって大事なことだ。

将棋や囲碁でおなじみの「次の一手」である。棋士たちは「次の一手」を指す(打つ)前に考えることは、目先に映る魅力的な(=すぐ戦況を好転させそうな)一手を「とりあえずこう指す(打つ)」ではない。「最終的にこの一局で勝つ」ことである。「勝つ」ために必要な「次の一手」は、損な一手、我慢の一手、無策に映る(当面は)一手になるかも知れない。しかし、棋士にとってはそれでも構わない。勝つことが目的なのだから。

それでは、以下に掲げる三つの類型の人たちが打っている「次の一手」はどうだろうか?。

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△「買いだめ志向」の人。ワイドショーなどでトイレットペーパーが品薄だと聞き、自宅のストックが不安になる。そこで頭に浮かぶ「次の一手」は、なるべく多く買い置こうと考え、朝からドラッグストアに並び開店と同時に入って、トイレットペーパーを購入することだ。そうすることにより安心できる。

→ *しかし、そのために店に並べば、その行列の前後や近くに万一感染者がいた場合、自分が感染するかも知れない。個数制限の設定をめぐって、店員との間に気まずいやりとりを起こすかも知れない。その光景を知人が見ていて、知らないところで自分への陰口が広がるかも知れない。家族が買いだめに反対している場合、家庭内の空気が悪くなるかも知れない。もし品薄情報がデマだったら、笑われるかも知れない。トイレットペーパーを買いだめすると、家があまり広くなければ保管場所に苦慮するかも知れない。

△「自粛期間中に観光したい」人。非常事態宣言(国の緊急事態宣言や各都道府県独自の宣言を総称する)が出されていると、せっかくの連休中に「家に居ろ」と要請されてしまう。もともと電車や飛行機の予約を取っていたのだから、休みがあるのに行かないのはもったいないと思う。そこで頭に浮かぶ「次の一手」は、自粛疲れを回避するため、精神衛生を兼ねて予定通り観光することである。

→*しかし、そのために交通機関を利用すると、他の乗客から感染するかも知れない。目指す土地へ行っても、目ぼしい観光地はみな閉鎖されていて、楽しめないかも知れない。地元の人から白い目で見られるかもしれない。当地の美味しい料理店も大部分は休業中なので、つまらない旅行に終わるかも知れない。万一自分が感染していて潜伏期間だったら、地元の店で何か一品買っただけでも、その店を介して別の人の感染が判明したとき、ネットで個人を特定されて非難されるかも知れない。肩身の狭い思いをするかも知れない。

△「地域を守るために、感染を広げかねない人を排除したい(=いわゆる『自粛警察』などの)」人。自分や家族は感染したくない。また、地域に住む基礎疾患を抱えている人や高齢者にも(自分や家族に及ぶと困るから)感染させたくない。そこで頭に浮かぶ「次の一手」は、陽性者が出た医療機関の職員とか、物流で首都圏と行き来している運転手とかを、なるべく地域の他の人たちから隔離するように叫んだり、他県ナンバーの車を見つけたら出て行くよう要求したりして、地域全体を感染から守ることだ。

→*しかし、相手の生活もあるのだから、自分の勝手な思いで要請しても、意見が噛み合わないかも知れない。逆に本物の警察を呼ばれるかも知れない。相手の名前をネットに開示するなどしてしまうと、人権侵害だと受け取られ、法的手段に出られて自分が敗訴した場合、かえって大きな損害を被るかも知れない。また、ネット上で自分のほうが名前を開示され、非難されるかも知れない。結果的に双方が深い心の傷を負うかも知れない。

以上の三例。それぞれ「→*」のところに想像力が及べば、△の行為に踏み切らず、思いとどまることができる。おそらく、ほとんどの良識ある人はそうしているだろう。

SNSでも「落ち着いて行動しよう」と呼び掛ける人たちもいる。友人・知人からの声に耳を傾けることも大切だ。

いま安心したり、好い気分になったり、正義感に浸ったりすることができても、将来、自分が後悔する羽目になる。それほど逸脱した行動ではなくても、自分の次の一手は、結果的にリスクを高め、自分が損失を被る行為にならないだろうか? 一つ一つの行動において、常に「先を読む」力も必要だ。

そこまで思いを致して、よく考えてから、どう行動するかを決めたいものである。

(※画像の局面は将棋史に残る名場面の一つ。1979年の第37期名人戦第四局。一勝二敗と苦しい展開だった先手の中原誠第16世名人が、後手の故・米長邦雄永世棋聖に対し、ここで「5七銀」の一手を繰り出して破った場面。結果、このシリーズは中原氏の名人位防衛で終わる)

次回へ続く)

2020年5月 6日 (水)

新型コロナ(7)-情報を取り入れるときに心掛けることは?

前回より続く)

これまで述べてきた負の連鎖→「病気」「不安」「差別」を断ち切るために、大切なことがいくつか挙げられる。一つずつ提示していこう。

今回は「情報の取り入れかた」である。情報が偏ったり不正確だったりすると、自分の知識・知見が誤った方向へ誘導される。それが望ましくない言動の原因ともなる。

私たちは発信者自身と知り合いで直接伝えられるレアケースを除き、さまざまな媒体を通して情報を取得している。この新型コロナウイルスに関しても、すでに各方面から溢れるほどさまざまな情報が、玉石相混じって私たちの周囲を飛び交っている。

これらの情報を得るに当たって、私が心掛けていることがいくつかある。

(1)疑う
いきなり「疑う」のは意外に思われるかも知れないが、まず大切なのは、それが実在する論者の論評なのかどうか疑ってみることだ。オールドメディアかネットかにかかわらず、虚構(フェイク)もあちこちで出回っているからだ。
また、たとえ実在しても、こんな例がある。一か月ほど前、それなりの水準である経済誌・経営誌の中に、正体不明の論者による扇動的な内容の論評を掲載しているものがあった。もっともらしく自己の見解を主張していながら、その実は複数の他人の論評を切り貼りして、他者(おもにコロナ対策を推進している側)を攻撃している内容であった。執筆者の名前が(結婚等で改姓した場合は別として)、検索しても当該誌以外では全く引っかからない、すなわち、どこの誰なのか特定できない場合、注意が必要だ。 
逆に私は、匿名の論者の見解として紹介されているものでも、明らかに現場を知る人でないと語れない内容が含まれている場合には、信憑性があると判断して取り入れることがある。先日某誌で見かけた、医療現場を統括している医師(病院に電話が殺到するのを回避するために匿名で登場していた)などはその好例である。

(2)背景を調べる
発信者が特定できたら、次はその人物の背景を調べてみる。ネット検索で何でも調べられる時代なのだから、これまでの活動歴や発信歴を知ることは重要である。どのような立場から論評しているのかの参考になる。その人が過去に発信したもの(あまり古すぎると、スタンスが変わってきている場合があるので要注意!)を閲覧して、人物像の概観を捉える。
先日、この事態を契機に都道府県知事の権限を強化せよと主張している論評に接した。私自身の考え方にも近いが、経歴を調べてみると、過去、政権与党側の会議に参画して、道州制を推進してきた側の人であった。我田引水をしていないか、念入りに読み解いてみた。また、投資家の見解は、自分の経済活動が有利になるように世論を誘導しようとしている場合があるので、注意が必要だ。
友人・知人が引用した論評の発信者について調べていくと、最悪、全く「人」の尊厳に対する敬意に欠ける発言を繰り返している人物も存在する。私の場合、その類の人物によるパフォーマンスを、原則的には顧みないことにしている。批判する相手の人たちに敬意を払えない人間の論評に敬意を払う必要はないからだ。

(3)文脈や流れを確認する
背景を把握できたら、次はその論評がどのような文脈の中で発信され、どのような流れの中で論じられているのかを確認する。表題がセンセーショナルな表現になっているもの、元エントリーの一部だけ切り取られているものなどは、論評全体を俯瞰しないと、論者の意図が明らかにならない。新型コロナの恐怖を煽っているような表題でありながら、結構冷静に事態を分析している内容のものも見かけたが、これは表題を付けた人(本人なのか誰なのか...)の問題であろう。
なるべく全文を読み、前述の(2)を頭に置きながら、論拠や判断根拠は正しい分析に基づいているのか、慎重に読み解く必要がある。

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(4)分別・整理する
文脈や流れを確認できたら、次はその論評全体に再度目を通し、内容について分別・整理する。
多くの市民は無意識のうちに、自分にとって快い情報だけを取り込む傾向がある。特にいまのような時期に、自分自身の不安にストンとはまり込む論調に接すると、無批判に信じてしまい、脊髄反射的な言動に結び付けてしまう恐れがある。たとえ私が日頃から尊敬、共感している論者であっても、その論評ではおかしなこと、間違ったことを主張しているかも知れない。逆に私が日頃から嫌悪、批判している論者であっても、その論評では正論を主張しているかも知れない。
自分が全面賛成なのか、部分的に賛成なのか、基本的に反対なのか、また、どの立場を取るにしても、その根拠は何なのかをはっきりさせる。私は全面的に、または大枠で賛同する論評については、ブログ(ココログ)やSNS(Facebook)を使い、シェアするなどして多くの人たちに広く紹介し、拡散することもある。

(5)賛同できる見解を咀嚼して行動様式を定める
いまの時期、新型コロナにどう対峙するか、どう共存するか。一人ひとりが模索している。誰かの論評を見聞きして「あぁ、〇〇さん良いこと言ってるね」だけでは、自分の中に取り入れたと言い難い。「〇〇さんのこの見解に基づき、自分はきょうからこの点を意識して行動しよう」と、自らの振る舞いかたを決めていこう。

〈まとめ〉
新型コロナについては、まだ登場して半年にも満たないだけに、オールドメディアにしてもネットにしても、さまざまな立場からの見解が入り乱れているのが現状だ。よほどアンテナを高くしていないと、不適切な情報に踊らされ、望ましい社会の姿から乖離した思考へ誘導されてしまう。それが「排除」や「差別」に結び付く原因になるのだ。

立場はそれぞれ異なっても、自らの良識に基づいて、情報を取捨選択したいものである。

次回へ続く)

2020年5月 3日 (日)

新型コロナ(6)-「排除」「差別」はなぜ起きるのか?

前回より続く)

さて、人々の「不安」に乗じて、心の中に悪魔が入り込む。その誘惑に脳内を毒された人たちは、類型こそ違え、一つの方向性を持った行動に出る。

感染者やその同じ属性を持つ人たちを「排除」する言動である。

この「排除」は、互いを尊重した上での「適切な隔離」とは似て非なるものだ。非科学的な判断に基づく不寛容な言動、さらに、内容によっては、逸脱した言動を指す。

それはごく自然に、前々回で日本赤十字社が示した「三つの感染症はつながっている」の三番目、「差別」に直結する恐ろしさがある。

前提として、この新型コロナウイルスの特性がある。あくまでも特殊な「風邪の一種」であるのにもかかわらず、多くの人からはそう理解されていない。感染しても無症状、あるいは軽症(医療用語の「軽症」ではなく、一般人の認識としての「軽症」)の人が多いことは、むしろインフルエンザなど他のいくつかのウイルスによる肺炎のほうが危険だとの見方もある。しかし、ひとたび牙を剥くと全身の機能に総攻撃を掛ける性質があり、重症化した場合には従前通りの社会復帰が困難なレベルまで進んでしまうことが、相当以上の可能性で起きる。かつ、致死率は他の肺炎ほど高くないのに、若い人も含めて急速な増悪(-数時間前には普通に話していたのに、呼吸困難に陥るような-)により死亡する可能性がある。そして感染力が強いことから、家族に看取られずに死ぬことになる。これも過酷である。

専用の治療薬やワクチン、あるいは新たな技術を駆使した予防策が開発されれば、この状況も緩和されると思われるが、まだそうなっていない以上、このウイルスを的確に理解していても、多くの人にとって怖い存在なのだ。過度に恐れていたらなおさらである。そして、メディアがその過度の恐れを誘発している面は小さくない(岡江久美子氏の死去に関する報道など)。

その「恐れ」ゆえに、感染した人や、感染を助長しそうな人に対する差別や偏見が誕生する。

後者に該当するのは、医師や看護師などの医療従事者(特に、感染が報告された医療機関に関連している人)、介護従事者、保育などの福祉従事者、量販店やドラッグストアの店員、運送会社の配達員、清掃会社のゴミ収集員、などなど。自身が感染しておらず、十分な予防策を講じていても、周囲の人々からいわば「バイキン扱い」されてしまっている事例が、少なからず報告されている。

さらに、差別はこれらの人たちの家族にまで及んでいる。感染が報告された医療機関に勤務する看護師(当人の検査結果は陰性)の子どもが、保育を拒否された件。物流に従事して遠距離輸送しているトラックの運転手の子どもが、小学校の入学式に不参加を強いられた件。これらの事例を見聞きするたびに、どうしようもなく悲しくなる。

ここに掲げた人たちは、「エッセンシャルワーカー」と称される、社会を維持するためになくてはならない人たちだ。本来ならば、最大級の敬意を払われてしかるべきであろう。

保育所の施設長は、「お母さんの職場ではたいへんなご苦労でしたね。お子さんの健康管理に十分注意して登園させてください」と言えなかったのか? 小学校の校長は、「お父さんのお仕事で社会を支えてくれてありがとう。お子さんの健康管理に十分注意して入学式に来させてください」と言えなかったのか?

組織の責任者として守るべきものがあることは百も承知だが、この人たちの対応は明らかに過剰防衛であり、人間性に欠陥があると断ぜざるを得ない。部下の職員や他の児童の保護者に不安が広がるようならば、「正しく恐れる」べきことをしっかり指導、説明するのも、現場責任者の役割ではないか。

自分たちや自分たちの家族が、もし排除され、差別された場合はどう思うのか?...に関する想像力が欠如している。ここまで恐れるほど感染力が強いウイルスならば、いずれ将来その可能性もあることを、頭ではわかっているのだろうが、「心」で感じようとしない。感染を広げそうな人たちに対し、何かしら迷惑なもの...という非科学的な思いが先走ってしまい、科学的根拠に基づいた判断を思考の外へ押し出している。

おそらく、全国的に同様なことが起きていて、報じられなかった事案も多く存在するであろう。

それでは、新型コロナウイルスを、科学的根拠に基づいて「正しく恐れる」ためには、何が大切なのだろうか?

次回へ続く)

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