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2020年7月

2020年7月29日 (水)

エンドユーザーの利益は?(2)

2020年版「経済財政運営と改革の基本方針」、いわゆる「骨太の方針」が政府から発表された。

斜め読みしかしていないが、大枠の方向性は一通り理解した(つもりだ)。

Facebookを見ていると、保健・医療・介護・福祉分野に関連して、心ある業界仲間たちの多くが着目しているのは、「介護分野へのAIの活用」と「医師による社会的処方」の二か所のようだ(どちらも32頁)。

前者は、「感染症の下、介護・障害福祉分野の人手不足に対応するとともに、対面以外の手段をできる限り活用する観点から、生産性向上に重点的に取り組む。ケアプランへのAI活用を推進するとともに、介護ロボット等の導入について、効果検証によるエビデンスを踏まえ、次期介護報酬改定で人員配置の見直しも含め後押しすることを検討する。介護予防サービス等におけるリモート活用、文書の簡素化・標準化・ICT化の取組を加速させる。医療・介護分野のデータのデジタル化と国際標準化を着実に推進する。」と記載されている。業界仲間の間では、対人サービスである介護やケアマネジメントの中に、AIをどう活用していくか、本当に人材不足解消につながるのかなどが、おもな論点になっている。

後者は、「かかりつけ医等が患者の社会生活面の課題にも目を向け、地域社会における様々な支援へとつなげる取組についてモデル事業を実施する。」と記載されている。こちらは、ソーシャルワークやケアマネジメントの中ですでに実践されてきた「生活モデル」と、医師の「医療モデル」に基づいた「社会的処方」とがマッチングするのか、適切に役割分担できるのかが、おもな論点である。

さて、この二つの部分について、別の視点から眺めてみたい。

「エンドユーザーの利益は守られるのか?」

まずAI・ロボットの活用について。開発・販売する業者にとってみれば、直接的な顧客になるのは介護事業所であり、そこに勤務する職員である。したがって、AIを活用したICT機器やロボットは、介護職員やケアマネジャーが効果的に活用することによって、人が担うべき業務を省力化できるものでなければならないのは、言うまでもない。
しかし、その機器やロボットによって介護、支援される対象は、高齢者や障害者などの要介護者なのだ。機器やロボットの「エンドユーザー」に該当する受益者となるのは、その要介護者の人たちにほかならない。もし開発・販売する業者が、介護職員やケアマネジャーにとって使いやすい面だけに力を入れても、その製品によって介護される人、その製品によってアレンジされたケアプランによりサービスを位置付けられる人にとって、使い心地の悪いものであれば、「仏作って魂入れず」になる。かつて拙著で紹介した株式会社Abaなどの、例外的な一部の企業を除けば、その懸念は相当以上に大きい。

それから社会的処方について。医師が患者の社会生活面の課題に目を向けることは大いに結構であり、推奨してほしい。
しかし、そこに診療報酬が付与された場合、しばしばソーシャルワークやケアマネジメントにおける生活モデルと齟齬する場合が生じる。常に後者のほうが良質だと言うつもりはないが、「餅は餅屋」の言葉に象徴される通り、それぞれの職種にふさわしい役割が存在するはずだ。医療の「エンドユーザー」は患者である。社会生活全体を広い視野で眺められる優れた「家庭医」的な医師も存在する一方、多忙で5分程度しか診療時間が確保できず、患者を医学的な面でしか理解できない専門医等の医師も存在する。エンドユーザーの利益を鑑みれば、社会学的な要素を加味した診断の不得意な医師が「社会的処方」をすることにより、患者側の混乱を招く事態になってほしくないのが、正直なところである。

このように、この二つの施策は原案のまま生硬に推進するのではなく、本旨に沿った運用が順調になされるのかどうか、モデル事業の時点でエンドユーザーの声を十分に採り入れながら、前へ進めていくべきだ。

他の施策も含め、一つ一つの施策がそれぞれ、「直接利用するユーザー」だけではなく、「エンドユーザー」のほうをしっかり向いているのか? を吟味していくことにより、その適切さの度合いを測る尺度が見えてくると思う。

「布マスク配付(第二弾以降)」や「Go to キャンペーン」が不評なのは、施策がどこかの誰かのほうを向いているからにほかならない。もちろん、現実には繊維産業や観光産業など、関連する産業側の事情も存在するだろうし、それらの業界への保護策も重要な国家的な課題であるだろうから、理想通りにはいかないことは承知している。しかし、多くのエンドユーザーたちが抱く気持ちからあまりにも外れ、供給側に連なる特定の集団を利する結果になってしまえば、国民からの風当たりが強くなるのは当然だ。政局に当たる人たちには、誰のための施策なのか、三思しながら日々の政務に精励していただきたい。

国民の一人として、それを心から願っている。

2020年7月26日 (日)

片付け下手の断捨離(7)-かつて趣味だったボウリング

家の中を整理していて、いつも「これ、どうするかなあ...」と思いながら、スルーしてしまっていたものがある。

20代後半から30代前半にかけて趣味にしていた、ボウリングのボウルと靴だ。まだ宮仕えだった時代、かれこれ7~8年程度、休みの日を中心に、ときどき通ってヘタクソながら練習していた。初心者向けの試合や業界仲間の試合に出たことは3~4回あったと記憶しているが、ついに上達しないままであった。

その後、30代半ばで第五腰椎分離症が悪化し、プレーが困難になったので、ずっと行かないままになっていた。最近は右手親指の関節疾患があり、ほぼ再開不可能な状態なので、道具も処分しなければと思いつつ、「お金もかかるし面倒だなあ」と先送りにしていたのだ。

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ところが先日、私がいつも通っていたボウリング場の経営者の方から、ちょっと相談したいことがあるとの連絡が入ったので、渡りに船とばかり、ボウルと靴を持参して出向いてきた。

この経営者さんと最後に会ったのは実に17年前。それも亡き母と一緒に広島へ旅行したとき、偶然にもホテルで案内されたディナーの席の隣に、この方が公務員の息子さんと二人で食事していたのだ。そのときは私が開業して間もない時期でもあったので、それに関する主題が中心だったが、席をまたいでの話に花を咲かせた。

いま、この方は70代後半。年月が経過しても、あまり加齢の影響を感じさせない強健ぶりだ。もともと浜松の方ではないが、いまは当地関連業界の長老級であり、すっかり地元に根を張っている。後継者の娘さん(経営者さんが二代目なので、娘さんは三代目になる)が会社の実務を仕切っており、引退後の将来的な不安も少ない様子。

久しぶりにお会いしたことでもあり、一時間ばかりゆっくり語ることができた。先方の相談内容が私の専門分野に関連する内容だったため、ボウルと靴の処分料は「相談料」と相殺に(^^)v おかげで節約もできた。

これから、他のさまざまな物品の断捨離も進めていくことになるが、それらの作業を通して、旧知の人や異業種の人たちとも、新たな接点ができていくのかも知れない。

2020年7月22日 (水)

勇気ある撤退はできないのか?

リニア新幹線をめぐる「騒動」。

静岡県内を通過する部分のトンネル工事に関して、着工の目処が立たない状態が続いている。川勝平太知事が、大井川の流量減少問題が解決されていないことを理由に、川底の下を通るトンネル掘削の着工許可を出していないからだ(なお、天竜川や富士川については、リニア新幹線が橋の上を通る計画なので、トンネルの問題は生じない)。

JR東海や他県民、特に愛知県の多くの人たちが、この現状を「静岡県民・県知事が、自県の利益にならない(駅ができない)ことを不満に思い、リニア計画の円滑な進捗を妨げている」と受け取っているようだが、もちろんこれは間違いである。

大井川水系流域の10基礎自治体は、水の恵みを農業、工業など広く地域の産業に活用している。トンネル掘削作業中に川の流量が減少すれば、ただでさえ「水枯れ」問題に悩まされてきた流域の自治体は、さらに打撃を受ける可能性がある。したがって、減った水の全量が戻ってくる保証がなければ、掘削工事を容認できないのだ。JR東海からそれに関して、流域の住民を納得させられる科学的な説明が十分になされていないので、不安を増幅させることになった。

川勝知事が「勝手に掘るな」と言ったことから、あたかも相手方にケンカを売っている印象を受けた人があるかも知れないが、これも間違い。JR東海の社長が流域自治体市民の神経を逆撫でするような発言をしたり、愛知県知事が川勝知事との面会を拒絶したりと、誤解を恐れずに言えば、推進する側の「不遜な」言動が、問題をこじらせる要因になったのである。あえて表現すれば、川勝知事は「売られたケンカを買う羽目になった」側になろう。

国交省の専門家会議でも、静岡県から出席した学識意見者の報告によれば、流域への影響評価については、いまだ方向性が一致していないことか明らかだ。にもかかわらず、JR東海側が計画を遮二無二進捗させようとする姿勢を変えないのだから、知事が「乱暴」と表現するのもうなづける。もちろん、県民や県知事の側も、疑いの余地がない科学的根拠に基づいた手段により、流量の回復が保証されるのであれば、耳を傾けなければならないのは当然であるが、いまはそれ以前の「静岡県民の生活が尊重されているのか?」の問題であると言わざるを得ない。

そして、推進する側の論者たちは、静岡県民や県知事が「静岡に『のぞみ』が停車しないことに不満を募らせていた」「富士山静岡空港に駅を作らせてもらえなかったことを恨んだ」ので、嫌がらせに計画を妨害しているかのように論評している。バカも休み休み言えと言いたい。それは問題のすり替えに他ならない。流域住民は現実に平穏な生活を妨げられる恐れがあるから、反対や不安を訴えているのだ。外野から誹謗中傷するのであれば、実際に住んでみれば良い。

それらの論者の側にこそ問題が大ありだ。県民を貶めているおもな論者の何人かを検索して洗ってみたが、みな穏当とは思えない利権や利益とつながっている。中には過去、善良な人を死に追い込んだ経歴のある人間までいる。ジャーナリストの旧悪を穴ぐり立てるのは本意ではないが、過去の行為を恥じることなく相変わらず他者を非難攻撃しているのであれば、さかのぼって問題視せざるを得ない。

ところで、流域10基礎自治体の首長すべてが一枚岩ではない。計画自体に絶対的に反対している人もあれば、「建設しても良いが説明責任を果たせ」と主張している人もある。川勝知事はこれらのさまざまな意見を集約して、JR東海や国土交通省と交渉し、専門者会議で流域住民を納得させられる明確な根拠を示し、責任を持って方向性を出してほしいと要請している。

これは工事期間だけの問題で、リニア新幹線が完成してしまえば良いかと言えば、そういうわけでもない。上流の貯水機能の低下や、重金属等の下流への流出への懸念も生じる。JR東海には静岡県民に対し、これらの事象の予測可能性についての説明責任も当然求められる。

ところで、私も現時点で、リニア新幹線計画を全否定→ダメ出しする意図はないが、これほど問題が複雑化している計画なのだから、一つの選択肢として、「勇気ある撤退」はできないのだろうか?

愛知県の人たちの多くは、この計画に賛同したいのかも知れないが、東京-名古屋が日帰りで往復できることになれば、用事で出向いた際の宿泊や外食の機会も減ることを考えると、一概に所期の経済的効果が上げられるとも思われない。山梨県・長野県・岐阜県についても、駅を設置した町とその他の地域との間に落差が生じ、加えて設置した町の交通も大して利便にならない(東京や名古屋とはすぐに往復できても、県都や他の観光地までの距離は埋まらないなど)ことも予想される。

また、長大なトンネル通過中に大きな地震が発生して停車した際に、乗客がどのように車外へ脱出できるのか? これについても人々を納得させる案は示されていないと理解している。

実際に開通したとき、世の中がどうなっているのか? 多くの国民の利用に耐え得るのか? リニア新幹線ができた後の新たな課題や負の成果も予測しながら、再度アセスメントすることが求められているのではないだろうか。

「すでに膨大なお金を掛けたから、先へ進むしかない」のであれば、それは75年前、連合国との戦争にどんどん深入りしてしまった旧帝国軍部と同様な思考であり、結果として大きな破綻を招くことが懸念されるのである。

2020年7月19日 (日)

祝!東海将棋界70年の宿願達成☆

7月16日、藤井聡太七段(きょう18歳の誕生日/愛知県瀬戸市)が、ヒューリック杯棋聖戦(産経新聞社主催)第四局に勝ち、渡辺明棋聖(38)を3勝1敗で破り、初のタイトルを獲得した(獲得時点では17歳。史上最年少)。

この「快挙」、簡単な言葉ではとても表せない歴史の重みがある。

1950(昭和25)年、三重県出身で東海将棋界の重鎮であった板谷四郎(1913-95)は、将棋界がこれまでの「名人」に加え、「九段(当時は最高位が八段)」「王将」の三タイトル制になったばかりの時期、「九段戦」の決勝まで進みながら、三番勝負では当時昇竜の勢いだった大山康晴(1923-92)に二連敗して、涙を飲んだ。

板谷は引退後、1959年に名古屋の将棋道場を開き、東海地区での棋士育成を開始する。何人もの弟子を育てたが、実子の板谷進氏が一門の中心的存在となり、愛知・三重・岐阜・静岡県の将棋界を牽引していった。

ところが、進氏はタイトル挑戦に手が届かないまま、1988年、47歳で急逝してしまう(追贈・九段)。

進氏の没後、弟子の杉本昌隆氏(現在51歳・八段)が1990年にプロ棋士(四段)に昇格を果たし、名古屋に在住しながら、弱小な東海将棋界の灯を絶やさずに守り続けてきた。

その杉本八段の弟子が藤井青年。板谷四郎から見れば、曽孫(ひまご)弟子に当たる。「東海地方にタイトルを」は、70年前の「無念の敗退」以来の悲願であった。杉本八段は棋聖戦第四局の控室に入った際に、板谷進氏の遺影を携えていたという。そして藤井七段がついに宿願を達成!

藤井新棋聖、杉本八段をはじめ、東海将棋界を長く支えてこられたすべての関係者に、心からお祝いを申し上げたい。

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私自身は将棋連盟とつながりがあったり、道場に通っていたりしたわけではないが、学生時代の1981年に一度だけ、中原誠・十六世名人の全盛期に、浜松で開催された王位戦(中原-大山戦)を観戦に行ったことがある。そのときに解説されていたのが板谷進氏であり、聴衆の一人としてではあるが、氏と一言二言交わしたことを覚えている。景品(画像)もいただいて帰った。東海将棋界とわずかながらご縁があったことになる。

愛知県やその周辺の出身であっても、多くの棋士が利便さを求めて首都圏や関西に移住してしまう。そんな中にあって、東海を拠点に活動する板谷→杉本一門は、とても貴重な存在である。藤井棋聖の活躍が追い風になり、杉本八段への入門を希望する親子が急増していると聞き、東海の将棋ファンの一人としてはたいへん嬉しい。

ただし、どんな業界でも地域レベルで盛り上げるためには、一人の活躍では限界があろう。名古屋将棋会館の建設まで期待する声があるようだが、そのためには東海から藤井棋聖に続く若手の棋士たちが輩出して、続々と棋戦に参入していくことが求められる。杉本一門を中心に、将来の棋界を担う若者たちが切磋琢磨しながら向上していく環境が整えば好いのだが。

また、藤井棋聖自身も、いまだ発展途上の人である。進行中の王位戦も木村一基王位(47)に二勝したとは言え、番勝負は全部が終わってみなければわからない。このところ大豪・渡辺二冠や強豪・永瀬拓矢二冠(27)に対しては相性が好いが、過去四戦して勝ったことがない第一人者の豊島将之竜王・名人(30)や、同期でプロ四段に昇格した苦手の大橋貴洸六段(27)などの壁も立ちはだかる。対局過密状態でありながら、さらに強みを増して、棋界制覇へ向け着実に歩みを進めていってほしいものだ。

「AI超え」と称される頭脳を持つ藤井棋聖が、いよいよ緻密さを増していく将棋ソフトとどう共存しながら、人間の叡智やひらめきの素晴らしさを証明していくかも、大きな課題になりそうだ。

世界の盤上遊戯の中で、日本独自の発展を遂げた将棋。藤井棋聖の快進撃に伴い、日本を代表する文化の一つとして、広く市民の間に普及することを望みたい。

2020年7月15日 (水)

巣ごもり時期のクッキング

私は調理が得意というほどではない。まあ全くの初心者ではないけれども、ベテランの主婦・主夫の方々からは、かなり水を空けられるレベルだ。

作る料理の多くは炒め物で、ときどき焼き物(蒸し焼きが多い)か煮物。もっぱら中華風や洋風なので、サラダや和風の料理はめったに作らない。細部の手順(調味料を入れるなど)を忘れないように、念のためレシピを参照しながらの作業がほとんどだ。一応できるのは三十品目程度。

他にあまり趣味も多くはない。歴史関連の調べ物をするにしても、新型コロナウイルスの影響で「不要不急の外出」を控えることになってしまったので、この半年ぐらいは、旅行も図書館での資料閲覧もしていない。G.ヴェルディやR.ワーグナーのBDやDVD鑑賞はしているが、これまたイベントが中止になっているので劇場まで行く機会もない。そのため、クッキングが一つの大きな楽しみになる。

とは言え、新たにチャレンジした品目はそれほど多くない。2月以降の「新作」は以下の三つぐらいだ。

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油淋鶏。地元の勉強会に参加したメンバーの間で、唐揚げが話題になっていたので、自分でも作ってみるかと思い、小さめの揚げ鍋を買ってきて試してみたもの。香味ソースにもう少し酢を多めに加えたほうが美味しかったかも知れない。

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麻婆茄子。食材のナスがやや大きめだったので、大味になったが、初回にしてはまずまずの出来で、豆板醤もちょうど好い加減であった。次回からは甘味噌+ごま油ではなく、甜麺醤を使うつもりだ。

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巣ごもり卵。まさにこの時期の趣旨に合った(?)食べ物! コンソメ味仕立てで、ちょうど自分の味覚にマッチしている。一回目はキャベツとニンジンの切り方が大き過ぎたので、二回目はなるべく細切り、薄切りにした。

ま、こんな具合だ。一人暮らしなので自己満足かも知れないが、フツーに食べられればそれで善し、と感じている。今後は、従妹が編集した血糖コントロールや筋活レシピの本なども参照して、栄養分の配分にも気を付けながら調理したい。

今年の後半期には、時間があれば菓子作りにもチャレンジしてみようかな? とも思っている。

(追記:一品または二品料理を毎日作っているのではなく、平均して週に4回程度で、あとの日はレトルトや冷凍など出来合いの食べ物で済ませている(^^; 念のため)

2020年7月12日 (日)

寝ても覚めてもアベのことばかり?(@_@)

これは「珍現象」なのだろうか?

まっとうな方々は、決してこうならないと信じているが、世間には何年か前から、たいへんな脳内状態になっている人たちがいるようなのだ。

俗に「アベ脳」と呼ばれている現象である。

語源はおそらく「安倍NO!」であろう。「アベ」と聞いて多くの人が頭に浮かぶのは、2012年12月から連続して内閣総理大臣を務めている方の名字であるから。

もちろん、現政権を批判するのは大いに結構である。私自身は中道右派であり、外交や防衛では現政権を大枠で支持しているが、経済・産業・科学技術に関しては賛否相半ば、社会政策に関しては問題大ありだと思って批判を続けている。

したがって、左派政党などの政権反対側の政治団体を支持する人たちにとってみれば、ほとんどの分野で現政権は強い批判の対象であることは想像に難くない。防衛費の増大による憲法9条との乖離、特定の企業との癒着、格差の拡大と貧困の深化などに対して、一貫して現政権を批判している人たちが、野党の党勢拡大を強く訴え、「アベを降ろせ!」と叫び、政権交代こそが唯一の根本的解決法だと主張していることは理解できる(それに賛同するかどうかは別の話だが)。

しかし、脳内状態が一定の線を超えてしまった人たちの思考は「政権批判」の枠に収まらず、私たちの理解を超えることが起きているらしい。

たとえば豪雨に代表される自然災害や、新型コロナウイルスに代表される疫病など、政府と何の関係もないところで発生した事案についても、現政権が黒幕となって作り上げている人工的な事象だと断じて、よろず「これもアベが悪い!」となってしまうのだ。最近見聞きした例では「線条降水帯はアベが人工的に作り出した」の類である。

それがさらに進行すると、救い難い状況になる。「あべのハルカス」に名前が悪いとクレームをつける人、「Abema TV」をネットで攻撃する人、さらには疫病退散の妖怪「アマビエ(amabie)」まで I am Abe のアナグラムだと陰謀論を唱える人、...この「アベ脳」の人たちの脳内状態には、想像を絶するものがある。

かく言う私も、二年ほど前、Facebookでいわば歴史友達になっている人の公開エントリーに、平安朝時代の「安倍氏(前九年の役。1051-62)」についてのコメントを書き込んだところ、全く知らない人から「政権賛美やめろ!」との趣旨の横槍コメを入れられ、「何だよ?この人は」と驚いたことがある(もちろん無視したが...)。

また、数週間前、事務所の近くで「すべてアベが悪いのだ!」との趣旨を周囲の人に説きながら歩いている年輩の女性に遭遇した。駅前でよく見かけるまっとうな左派政党関係の活動家の人たちとは、明らかに異質な人物であった。

ここまで来ると、四六時中「アベ」から離れられなくなってしまっているのではないか。恋愛、特に強烈な片想いと同様、「寝ても覚めてもアベのことばかり」の脳内状態になっているものと推測される。逆説的に、現総理はこの人たちにとって「アイドル」なのかも知れない(-_-;)

単なる思考能力や理解力の偏りが嵩じたものなのか、疾患の一種とまで言えるのか、正直「よくわからない」。アルコール、パチンコなどのよく知られている依存症(ドーパミンの分泌などに起因する)の一変型である可能性もあるだろうが、私自身は精神科の医師でも精神保健福祉士でもないので、何とも判断がつかない。

ホンモノの精神疾患を抱えている人たちの中には、苦悩して闘病しながら、社会生活に適応するため必死に努力している人たちも少なくない。その人たちにとって、単に政権担当者を叩いて鬱憤を晴らす、いわば言葉の暴力に伴う快感から始まっている、正体不明の依存症もどきと同一視されるのは、逆に迷惑この上ない話であろう。

あと一年余(予定)で現政権が退陣したあと、「アベ脳」の人たちがあっさり正常な状態に復して、「あれは何だったの?」ぐらいに終息してしまえば、それに越したことはない(^^;

しかし...この人たちの一部は、現政権の終了直後から標的を失ってしまい、深刻な「アベ‐ロス」に陥らないだろうか? そして、脳内の不具合な状態が修復されず、どこかで暴走してしまわないだろうか?

私は憂慮しているのである...

2020年7月 8日 (水)

新型コロナ(13)-政策はどうあるべきか?

前回より続く)

世論調査では現内閣の支持率が下がっている(調査の主体によってバラツキがあるので、数字は掲げない)。調査方法によって特定の結果が出やすい問題はあるものの、概して新型コロナ対策以前よりも、現在のほうがかなり低落していることは間違いない。

そして興味深いのは、政権与党(自由民主党・公明党)の支持率が下がっているのにもかかわらず、野党の多く(立憲民主党・国民民主党・共産党)は支持率があまり上がらず、むしろ時期的には結構下がっている政党もあることだ。このところ明確な支持率上昇を見せているのは一党(日本維新の会)ぐらいか。大阪府知事が目に見える活躍をしていることが影響していると思われるが。

内閣支持率や各政党の支持率は、新型コロナウイルス対策だけで決まるものではない。他にさまざまな要因が考えられる。とは言え、この2月以降の社会情勢を考えると、新型コロナウイルス対策への評価が大きな比重を占めるのは間違いないと言えよう。

さて、内閣や政権与党の支持率が下がったことは、その政策が大きく誤っていたことを意味するものではない。内閣や政党が「こうする」「こうしたい」ことと、市民が「いま、こうしてほしい」こととの乖離が大きければ、適切な政策であっても支持されないこともあるし、望ましくない政策であっても支持されることがある。野党が提案した政策の場合もまたしかり。

つまり、政策に対する評価は、前後の大きな流れを踏まえた長期的な視点でなされなければならないのだ。

その視点から眺めた場合、現政権の政策は、こと新型コロナに関する限り、大きな過ちがあったとは考えられない。確かに世界的な感染症のパンデミックは、過去にも例があったが、新型コロナは従来の感染症とはかなり性格を異にする未知のウイルスであるだけに、難しい対応を迫られた。最善かどうかは評価が分かれるところだが、少なくとも第一波の感染拡大を封じ込めることには成功し、医療崩壊や介護崩壊(地域的には見受けられたが)を最小限に食い止めることができた。

政策を批判する権利は、国民が当然持っている権利だ。しかし、非常事態に批判ばかりしていた人たちは、果たして建設的な行為をしたと言えるだろうか? 一部の野党系と見なされる個人や団体は、普段から「選挙で選ばれた人たちが責任を持つべき」と主張しているのにもかかわらず、これまでのエントリーでも触れた通り、「発注者」である「被選議員により選出された総理の内閣」でなく、「受注者(マスク製造企業、持続化給付金の取り扱い団体など)」を叩きに行っているのだ(押し掛ける、電話で詰問するなど)。その行為が作業を遅らせているとしたら、全く自己矛盾しているではないか。事態が落ち着いてから、事業のあり方を総括して批判するのが筋ではないか。

私自身は政策について、細部の反省点はいろいろと存在するものの、大枠で妥当だったと考えている。

難しいのは今後の経済回復である。国民全体を覆っている生活水準の低下、失業の増大、投資の減退をどう建て直していくのか? 観光再建による「Go to キャンペーン」なども、しばらくは「焼け石に水」であろうし、新型コロナの第二波・第三波にも留意する必要がある。

多くの国民は、一気に経済を「V字」回復をさせたいと願っているであろう。しかし、今回の日本の場合には、傷付いた個体が無理をせずに、待ちの姿勢でじっと体力を涵養する、「レ型」の回復を図るほうが望ましい。その間に政府が国内各産業の建て直しと並行して、国民生活のセイフティネットとなり得る十分な福利厚生策を打ち出せるかが大きな課題になる。この機会に国の無駄遣いを徹底的に洗い出すことも大切であろう。

国際競争力を落とさないことも求められる。経済に限らず、外交や防衛にも力を割いて日本の存在感を高める必要がある。今回の新型コロナを奇貨として、中国や北朝鮮をはじめ、いくつかの国が軍事力拡大路線を進もうとしている。日本は米国やオーストラリア等の近隣国との適切な連携を保ちながら、国民の安全を確保していくことが必須である。

東京五輪が一年遅れで無事開催されるのかも、政策の成否を占う一つのポイントになろう。もちろん、そのためには新型コロナを封じ込めるための国際協調が絶対条件だ。米国がWHOから脱退するとなれば、新型コロナ「火元」の中国とは別の意味で、日本が果たすべき役割は重要さを増す。

現政権が低空飛行と言われながらも、持ち前の柔軟さで難局を乗り切っていくことに、また、各野党もそれぞれ旧弊から脱して、国の再建のため政権与党に必要な協力をしながら、積極的な対案を繰り出していくことに、期待したい。

2020年7月 5日 (日)

新型コロナ(12)-施策(これまでの)をどう評価するか?

前回より続く)

まず、新型コロナウイルスとは関係ありませんが、
このたびの熊本県周辺の豪雨で亡くなられた方々をお悼みするとともに、球磨川流域をはじめとする、被災された住民の方々に、心からお見舞いを申し上げます。
簡単な言葉で表せるものではないことは十分承知していますが、一日も早い生活の復旧を願わずにはいられません。

さて、本題に戻って。

いったん個人の問題から目を転じて、国の政策・施策について私見を述べてみたい。他国の例も引き合いに出す必要があるかも知れないが、私自身が各国の施策について深い知見を持っているものではなく、また、基本的に安易な国際比較には大きな意味がないと考えていることを、あらかじめお断りしておく。

政策全体を眺める前に、まずは新型コロナウイルスの感染が始まった後の、個別の施策について論じてみよう。

これまで大きな話題となったのは、大型クルーズ船「ダイヤモンド‐プリンセス」への対応、公立学校への一斉休校要請、布マスク配布、緊急事態宣言、国民生活への支援策などだ。

(1)「ダイヤモンド‐プリンセス」への対応
英国船籍、米国企業が経営している豪華客船。2月1日に感染者の乗船が判明し、3日に横浜港に帰港。そのまま船全体が長期的な検疫体制に突入し、乗客・乗員を合わせて3,700人余が船内にとどまることを余儀なくされた。706人の感染者、うち4人の死亡者が出ながらも、神奈川県等の医療機関の協力により、3月末までに事態は終息し、同船は3月25日に出航した。
この対応については米国や英国のメディアから批判が寄せられたが、ウイルス自体の感染メカニズムも十分に判明していない時期に、日本の厚生労働省が一手に担い対応したものである以上、批判の多くは失当であろう。当の米国や英国からはほとんど医療的な救援を受けなかった中で、日本の対応は試行錯誤しながらも、可能な範囲の対策を施したと評価することができる。何よりも、ここでの経験がこの後の国内感染予防対策に生かされたことは、一つの成果であったと言えよう。途中で一部の関係者による見解の齟齬が見られた場面はあったが、個人的に採点するならば90点。

(2)一斉休校要請
いまから振り返ると、「無用の策」だったと見る向きが強い。しかし、これは後出しジャンケンだと言わざるを得ない。2月末時点での最大の課題は、ドイツなどに比べて感染対応できる専用ベッド数が大幅に少ない日本で、いかに医療崩壊を最小限に食い止めるかであった。このとき、いまだ都道府県をまたいだ人の移動は一定程度行われており、生活様式も多くは蔓延以前の状態であった。そのため、大人に比べて多動であり、かつ感染症に関する理解に乏しい児童たちが、学校での勉学や活動のさなかにクラスターを発生させて感染爆発を起こし、それまで準備された医療体制では対応し切れなくなる恐れは、十分にあったのだ。ただし、そのための一斉休校であった趣旨が十分に浸透していなかったことは遺憾であるが。
その後、このウイルスの性質上、児童たちは(一型糖尿病などの基礎疾患や一部の難病などを抱える子を除き)総じて感染しても無症状または軽症に終わることが多いことが判明し、広く知られるようになった。いまの時点では適切な対策を採りながら、学校のスケジュールを平常通り動かすことが妥当であろう。当時の対応に限っては75点。

(3)布マスク配布
これは多くの人から「愚策」と評されている。私の見解は前々回のエントリーを参照されたい。いまなお介護現場に「第二弾」として布マスクを配布しようとしている見当違いまで含めると、私の評価は厳しいようだが35点としておく。

(4)緊急事態宣言
まず、2月28日の北海道を皮切りに、都道府県単位でいくつかの自治体が独自の緊急事態宣言等を発出した。これは感染拡大が続くことを憂慮して、域内の住民に不要不急の外出自粛や、一部業種の営業自粛を要請したものである。その後、4月7日には政府が8都道府県に緊急事態宣言を発令し、4月16日にはそれを全国に広げた。そして5月25日、感染の拡大に歯止めがかかった時点で、政府は宣言を解除し、6月19日にはこれまで制限を要請していた都道府県境を越える人の移動を緩和した。
これで感染拡大がいったん収まったことにより、私たちは停滞していた経済を「新しい生活様式」に沿ってどう回していくか、ある種の「塩梅(あんばい)」ないし「緩急」を身に着けることができたと考えられる。過度の自粛も望ましくなければ、全く旧式のままの社会生活再開も望ましくないことを、国民が体得できる期間となった。また、その間に新型コロナの正体、怖れなければならない面もあれば、一種の特殊なカゼ程度に受け止めて十分な面もあることが次第に判明し、首都圏等で医療崩壊を脱したことも相まって、余裕を持って対策を講じられるようになったことは大きい。
今後の予測については稿を改めて述べたいが、昨今になって東京や一部地域で再び多くの感染者が判明しているとは言え、その多くは若年層であり、重症者や死者が増えたものではない。将来はともかく、当面は再度緊急事態宣言を出す可能性は低い。これは4~6月に「時間稼ぎ」ができたことが大きいと見ている。一連の流れを採点すると、やや甘いが85点か。

(5)特別定額給付金・持続化給付金・家賃支援給付金などの支援策
私たち日々の生活を送る市民にとって、最大の関心ごとである。次回の政策総論でも分析してみたい。
総じて、各方面の利害調整に手間がかかり、政府の決定までに時間がかかり過ぎたことや、委託先の団体の性格に疑義があることが、批判の対象となっている。しかし、「あそこの国はもっと充実している」とされている他国の支援策を見ても、多くの国の場合、そのすべてが報じられている通り迅速に実施されているものでもなく、日本の支援策が劣悪だというものでもない。
とは言え、「のちの千金より、いまの一飯」がほしい人たちにとっては、後手後手感は免れない。また、さまざまな属性の人たちに対し、十分にカバーできていない面も課題として残る。反面、公的支援策ばかりに頼らない、個人や企業の自助努力も求められるであろう。60点としておく。
なお、本日現在の支援策については、首相官邸の該当ページを参照されたい。

そして、次には政策全体を振り返ってみよう。

次回へ続く)

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