「岐阜で大食いして、ゲフッ...」「美濃で、身のほどを知れ!」
【史料好きの倉庫(21)】
今回は「岐阜県(濃飛)の主要大名」の解説である。
幼少時、叔母の一家が住んでいた時期があったので、母に伴われてときどき行っていた。社会人になった後は何年かに一回、用事があれば出向く程度で、城下町は大垣、加納、郡上、また飛騨高山へは二回訪問。直近では2016年、FB友達の児童福祉施設長さんと会食するため岐阜市まで行っている。
美濃や飛騨の名族は中央政局との関係も深く、現在まで残る系図や同時代史料で調べられる。戦国期に台頭した諸豪族の多くは、古い時期の系譜が明瞭でないが、遠山家(苗木藩)など現地に残って存続した家もあり、概要は『寛政重修諸家譜』に所載されている。藩政時代の詳細は県立歴史資料館(未訪問。近世文書が多いが、中世の史料も所蔵されている)や各自治体の図書館等ならば考証を兼ねて調べられる。尾張藩の重臣となった竹腰家や石河家に関する史料は、名古屋市徳川園内の「蓬左文庫」に所蔵されている。
◆姉小路家
藤原北家小一条流の公家。小島・古川・向の三家に分かれ、15世紀には三家とも飛騨国司を称した(各人がそれぞれ正式に朝廷から補任されたかは不明)。小島家は衰微消滅し、古川家は三木家に家名を乗っ取られ、小鷹狩城の向家は戦国末期に消息が途絶えたが、子孫の向宣政(この人も実は三木一族だとの説もある)が常陸の佐竹義宣に仕え、主家とともに秋田へ移転して重臣・小鷹狩家となった。
◆斎藤家
美濃守護代として土岐家を支えた家であるが、利茂のとき庶流・長井家と紛争を起こす。油売りから長井家の家宰にのし上がった長井新左衛門尉の息子・利政はこれを好機として、1542年に利茂を事実上追放し、斎藤家の家督を乗っ取り(→斎藤道三)、美濃一国を支配した。竜興のとき織田信長に敗れて国を失う。
◆東(=遠藤)家
東(とう)家は千葉一族であり、代々郡上を領有していた。常縁(つねより)は大名としてよりも、飯尾宗祇に古今伝授を行った歌学者として知られている。戦国末期の盛数以降は遠藤を称したが、1692年に継嗣が断絶し、養子に入った胤親は近江三上へ転封となった。
◆遠山家
遠山一族は鎌倉~室町期にかけて動向が知られておらず、戦国期には岩村城の遠山家が嫡流であったが、織田・武田の両勢力の間にあって去就は変転し、1575年に滅亡した。関が原の戦後、苗木遠山家の友政が旧領に復帰、家は明治維新まで存続する。また同族の明知遠山家も交替寄合として旧領に復帰するが(一万石未満のため表は掲げず)、子孫の失態により通常の旗本に降格。演劇や時代劇ドラマで知られている江戸後期の町奉行・遠山景元は、明知遠山家の分家である。
◆三木家
飛騨益田郡の豪族。桜洞城に拠った直頼までの苗字は「三木(みつき)」であったが、嗣頼のとき上述の飛騨国司・姉小路(古川)高綱を攻殺、朝廷工作を行って姉小路家の一族と認められ、名跡を乗っ取った。頼綱のとき豊臣秀吉に派遣された金森長近に降伏して捕えられ、所領を喪失。子孫は三木に復称して旗本となった。
◆内ヶ島家
飛騨大野郡白川郷の領主。室町期の内ヶ島季氏(飛騨または信州の豪族?)から名が知られ、次の為氏が白川郷を領有、金鉱などの開発により地盤を築いた。曽孫・氏理(うじまさ)の代、1586年に至り、豊臣秀吉家臣・金森長近に拠点の帰雲城を攻略され、秀吉に降伏を申し出て所領を安堵された。ところがその祝宴の前夜、大地震で帰雲山が崩壊し、氏理はじめ一族の大部分が土石流に飲み込まれて覆滅した。地震が直接の原因となり消滅した大名豪族として、内ケ島家は私が知る唯一の例である。
◆石河家
はじめ石川家と称し、美濃鏡島の豪族だったが、石川光忠の実母(亀。はじめ竹腰正時妻、のち光忠の側室)が、父の没後に徳川家康の側室となって、尾張藩主・義直を生んだことから、義直に附属されて尾張藩の年寄となった。子孫は駒塚領主を世襲し、江戸時代前期から石河(いしこ)と改称した。
◆美濃国主/岐阜城主
織田家時代の城主を歴代表に掲載したが、「天下人」としての織田家については、「歴代武家政権#織田家」のページに掲載したので、参照されたい。
◆今尾藩
竹腰正信は美濃の武士であり(父祖は大垣城主と伝わるが未詳)、石川光忠と同様、実母(亀)の縁で異父弟の尾張藩主・徳川義直に附属され、今尾領主に封じられた。子孫は成瀬家と同等、石河家より格上の年寄家として重きをなし、明治に入り独立して今尾藩となった。
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