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2020年9月

2020年9月25日 (金)

「岐阜で大食いして、ゲフッ...」「美濃で、身のほどを知れ!」

【史料好きの倉庫(21)】

今回は「岐阜県(濃飛)の主要大名」の解説である。

幼少時、叔母の一家が住んでいた時期があったので、母に伴われてときどき行っていた。社会人になった後は何年かに一回、用事があれば出向く程度で、城下町は大垣、加納、郡上、また飛騨高山へは二回訪問。直近では2016年、FB友達の児童福祉施設長さんと会食するため岐阜市まで行っている。

美濃や飛騨の名族は中央政局との関係も深く、現在まで残る系図や同時代史料で調べられる。戦国期に台頭した諸豪族の多くは、古い時期の系譜が明瞭でないが、遠山家(苗木藩)など現地に残って存続した家もあり、概要は『寛政重修諸家譜』に所載されている。藩政時代の詳細は県立歴史資料館(未訪問。近世文書が多いが、中世の史料も所蔵されている)や各自治体の図書館等ならば考証を兼ねて調べられる。尾張藩の重臣となった竹腰家や石河家に関する史料は、名古屋市徳川園内の「蓬左文庫」に所蔵されている。

◆姉小路家
藤原北家小一条流の公家。小島・古川・向の三家に分かれ、15世紀には三家とも飛騨国司を称した(各人がそれぞれ正式に朝廷から補任されたかは不明)。小島家は衰微消滅し、古川家は三木家に家名を乗っ取られ、小鷹狩城の向家は戦国末期に消息が途絶えたが、子孫の向宣政(この人も実は三木一族だとの説もある)が常陸の佐竹義宣に仕え、主家とともに秋田へ移転して重臣・小鷹狩家となった。

◆斎藤家
美濃守護代として土岐家を支えた家であるが、利茂のとき庶流・長井家と紛争を起こす。油売りから長井家の家宰にのし上がった長井新左衛門尉の息子・利政はこれを好機として、1542年に利茂を事実上追放し、斎藤家の家督を乗っ取り(→斎藤道三)、美濃一国を支配した。竜興のとき織田信長に敗れて国を失う。

◆東(=遠藤)家
東(とう)家は千葉一族であり、代々郡上を領有していた。常縁(つねより)は大名としてよりも、飯尾宗祇に古今伝授を行った歌学者として知られている。戦国末期の盛数以降は遠藤を称したが、1692年に継嗣が断絶し、養子に入った胤親は近江三上へ転封となった。

◆遠山家
遠山一族は鎌倉~室町期にかけて動向が知られておらず、戦国期には岩村城の遠山家が嫡流であったが、織田・武田の両勢力の間にあって去就は変転し、1575年に滅亡した。関が原の戦後、苗木遠山家の友政が旧領に復帰、家は明治維新まで存続する。また同族の明知遠山家も交替寄合として旧領に復帰するが(一万石未満のため表は掲げず)、子孫の失態により通常の旗本に降格。演劇や時代劇ドラマで知られている江戸後期の町奉行・遠山景元は、明知遠山家の分家である。

◆三木家
飛騨益田郡の豪族。桜洞城に拠った直頼までの苗字は「三木(みつき)」であったが、嗣頼のとき上述の飛騨国司・姉小路(古川)高綱を攻殺、朝廷工作を行って姉小路家の一族と認められ、名跡を乗っ取った。頼綱のとき豊臣秀吉に派遣された金森長近に降伏して捕えられ、所領を喪失。子孫は三木に復称して旗本となった。

◆内ヶ島家
飛騨大野郡白川郷の領主。室町期の内ヶ島季氏(飛騨または信州の豪族?)から名が知られ、次の為氏が白川郷を領有、金鉱などの開発により地盤を築いた。曽孫・氏理(うじまさ)の代、1586年に至り、豊臣秀吉家臣・金森長近に拠点の帰雲城を攻略され、秀吉に降伏を申し出て所領を安堵された。ところがその祝宴の前夜、大地震で帰雲山が崩壊し、氏理はじめ一族の大部分が土石流に飲み込まれて覆滅した。地震が直接の原因となり消滅した大名豪族として、内ケ島家は私が知る唯一の例である。

◆石河家
はじめ石川家と称し、美濃鏡島の豪族だったが、石川光忠の実母(亀。はじめ竹腰正時妻、のち光忠の側室)が、父の没後に徳川家康の側室となって、尾張藩主・義直を生んだことから、義直に附属されて尾張藩の年寄となった。子孫は駒塚領主を世襲し、江戸時代前期から石河(いしこ)と改称した。

◆美濃国主/岐阜城主
織田家時代の城主を歴代表に掲載したが、「天下人」としての織田家については、「歴代武家政権#織田家」のページに掲載したので、参照されたい。

◆今尾藩
竹腰正信は美濃の武士であり(父祖は大垣城主と伝わるが未詳)、石川光忠と同様、実母(亀)の縁で異父弟の尾張藩主・徳川義直に附属され、今尾領主に封じられた。子孫は成瀬家と同等、石河家より格上の年寄家として重きをなし、明治に入り独立して今尾藩となった。

2020年9月20日 (日)

「長野の土地は、名がのぉ...」「飯田とかこれで、いいだ...」

【史料好きの倉庫(20)】

今回は「長野県(信州)の主要大名」の解説である。

当県の隣県なので、過去いろいろ合わせれば十回程度は出掛けている。最近では1995年に日本社会福祉士会の全国大会でパネリストとして長野まで、96年に旧勤務先の職員旅行で奈良井・木曽福島まで(画像)、2004年にはプライベートな掲示板仲間のオフ会のため安曇野まで出掛けた。城下町の散策経験も、浜松と隣接する飯田をはじめ、高遠、松代、松本、諏訪、上田、小諸と数多い。いちばん短い滞在は確か90年代の終わりごろ、車で水窪町(いまは浜松市天竜区)と南信濃町(いまは飯田市)との境目まで行き、県境の兵越峠の辺りを数分間行ったり来たりしただけで、浜松へ引き返している。

室町~戦国期の大名・豪族は、大名や旗本として信州に残ったものや、徳川家や上杉家に随従して他地へ移転したものがあり、いずれも系譜は残されているが、中世までの記述には粉飾が少なくない。地元大名では「真田家文書(真田宝物館所蔵。未見)」や「諏訪史料叢書(国立国会図書館所蔵。未見)」等があるが、古い時期の内容は考証が必要になる。長野県立図書館や各基礎自治体の図書館へ出向いたことはないが、近世史料が大部分だと聞いている。

Kiso

◆小笠原家
信濃随一の名族であったが、鎌倉期には阿波の守護であり、南北朝期に本貫である信濃の守護になった。室町期に長基が没した後、府中(長秀→持長→清宗→長朝)・松尾(政康→光康→家長→定基)・鈴岡(宗康→政秀)の三系に分裂し、1493年に鈴岡の政秀が松尾の定基に滅ぼされると、府中小笠原と松尾小笠原との並立時代となった。のち前者は長棟のとき武田晴信(=信玄)に駆逐されて放浪し、後者は信貴のとき武田家に屈服して被官になったが、武田家滅亡後はいずれも徳川家康に従属、前者は豊前小倉藩主の家系、後者は越前勝山藩主の家系につながっている。

◆諏訪家
古代からの諏訪大社の大祝(おおはふり)家であり、平安朝後期の頼信が信濃権守に任じられたころから武士化した。戦国期の頼重が武田晴信(=信玄)に滅ぼされ、武田家滅亡後に伊豆守系の頼忠が家を再興、徳川家康に随従して一時関東へ転封されるが、関が原の戦後諏訪へ復帰し、以後は諏訪藩主を代々継承した。政教分離したことにより、
大祝家は諏訪一族の別系統が世襲した。

◆木曽家
古来、木曽義仲の子孫とされてきたが、実際には藤原氏であったと推測され、戦国期に入るころから義仲を先祖として仮託したものである。義康のとき武田晴信(=信玄)の被官となったが、義昌は武田勝頼に背反して織田家、のち徳川家康に随従、関東移封に伴って広大な山林資源を失い、義利は粗暴を理由に改易されて終焉を迎えた。

◆依田(芦田)家
佐久郡の豪族で、もとは依田を名字とし、戦国期に芦田を称した。信蕃が武田家に随従したころからもとの依田に戻し、康国は徳川家康の家臣となって松平の称を与えられ、康寛(康真)は私闘で人を殺して出奔したことから、松平を返上して加藤を称し、結城秀康(家康の二男)の庇護を受けた。このような経過により一代ごとに名乗りが変転したが、次代の吉賢が芦田の名字で福井松平家(秀康の子孫)の正式な重臣となり、ようやく家運が安定した。

◆真田家→松代藩
伝えられた系図類では、海野一族の庶流で、真田幸隆が海野棟隆・幸義父子の後を継承したとされているが、状況が定かではなく、簒奪の可能性も否定できない。昌幸のとき上田から上野沼田にかけての地域を領有、関が原の戦で昌幸が失脚すると、信之が沼田・上田を併せ領した。1616年に沼田が分邦となり(後代に断絶)、1622年に信之(本家側)は松代へ転封され、そのまま動かずにここで明治維新を迎えた。

◆川中島藩・高井野藩
藩名に混同が生じている部分があり、整理すると以下の通り。(a)1616年に松平忠昌が松代城へ入封し、川中島方面の大部分を領知。19年に越後高田へ転じ、代わって高田から酒井忠勝が松代に入封。22年に出羽庄内へ転封し、代わって上田から真田信之が入封。(b)1616年、失領していた岩城貞隆が川中島領高井郡内の一部を与えられ、大名に復帰。20年に岩城吉隆が相続し、22年に加増を受け、23年には出羽亀田へ転封。(c)1619年、広島城の無断修築を理由に安芸・備後両国を没収された福島正則が、川中島近傍の高井野に左遷され、24年に正利が相続するも微禄に減知され、37年に没して絶家。本表では、(a)(b)を川中島藩(厳密には(a)を松代藩に含めるべきかも知れないが、江戸初期は北信四郡を川中島と通称しており、また(b)岩城領との境界も明瞭でないことから、川中島藩とした)、(c)を高井野藩として記載した。

◆佐久郡内水野領
1725年、松本藩主・水野忠恒が「乱心」のため改易された後、叔父の忠穀は幕府から佐久郡内で7,000石を給せられ、家系を継ぐことを許され、68年、忠友のとき加増されて大名に復帰し、77年には駿河沼津へ転封された。大名でなかった忠穀は掲載する対象ではないが、この項目を設けておかないと、忠恒から二代後の忠友までがつながらないので、あえて掲載した。

2020年9月16日 (水)

「山梨の人は、病(やまい)無し?」「甲府で厄払い、交付だ(^^)v」

【史料好きの倉庫(19)】

今回は「山梨県(甲斐)の主要大名」の解説である。

幼少時から学生時代まで、自然観光やレジャーで何度か赴いた。社会人になってからは研修で一度行っただけで、そのときに甲府を(城跡ではなく城下町を漠然と)回った記憶がある。近世には他に城が置かれなかったこともあり、古い町並みなどは隣県でありながら訪問したことがない。

甲斐の守護→戦国大名であった武田家をはじめ、大族であった小山田家や穴山家も、戦国末までに滅びてしまった。一部の豪族や武田家臣は徳川家に仕え、旗本として存続するが、多くは地元の同時代史料を軸に系譜をたどっていくしかない。県立博物館(未訪問)所蔵の甲州文庫は、近世史料が大部分であると聞いている。

◆武田家
鎌倉期から甲斐第一の大族として続き、室町期には守護として国中(くになか)地方を中心に国内一帯に勢力を広げ、戦国期の晴信(信玄)は信濃・駿河・上野にも勢力を拡大したが、勝頼に代替わりした後、1582年に至って織田信長に滅ぼされた。当主継承の時期は未詳だが、形式上、最後の当主は信勝であったと推察されるので、ここまでを歴代表に掲載した。

◆穴山家
南北朝期に分かれた武田家の庶流(実際には、恐らくすでに存在していた穴山家に養子入りするなどして、系譜を継いだと考えられる)で、河内(かわうち)地方に拠った。信君(梅雪)は武田勝頼から離反して徳川家康の与力大名になったが、本能寺の変の後に横死し、信治が家康の庇護のもとに武田を称して再興するものの、夭折して血統は断絶した。家康の五男・信吉が系図を継承したが、病弱であり、江戸初期に水戸領主となった後に夭折している。

◆小山田家
室町期から史料に見える氏族で、郡内に拠っていた。越中守信有のとき谷村城を築き、孫の信茂は武田家に所属して武名を上げたが、勝頼に背反したことを織田信長から断罪され、処刑されて滅亡した。前半期の系譜には親と子の実名や法名が混同されるなど、不明瞭な部分も多い。

◆甲斐府中藩
関が原の戦後1601年、平岩親吉が甲府に入封したが、1603年からは徳川家康の九男・義直の城代となり国政を沙汰、07年には義直が名古屋へ転封されたので、親吉はそのまま附家老として犬山城主へ転出した。以後、甲府藩には断続的に徳川一門が封じられたが、1704年に徳川綱豊が家宣と改名して将軍綱吉の世子になると、綱吉の官房長官的な役割を果たした大老格側用人・柳沢吉保(武田一族)が甲府に封じられ、事実上「国持大名」に等しい扱いを受けた。後継の吉里は1724年、郡山(大和)へ転封となり、甲府は幕府直轄領として勤番支配となったため、これ以降、甲斐国には藩が置かれなかった。

2020年9月13日 (日)

「福井まで、腹囲測りに行くか」「嶺北でカ...レーを食...うほうが(^^;」

【史料好きの倉庫(18)】

今回は「福井県の主要大名」の解説である。

30代のはじめ、旧勤務先の職員旅行で福井・越前海岸・武生を訪れたのが最初。その後もう一度、他地へ行った帰路、丸岡城に立ち寄っている。残念ながら若狭へは行ったことがない。

中世の越前・若狭の各氏族は、そのほとんどが織田~豊臣政権期までに滅びてしまったが、系譜類は「朝倉始末記」等の史料に散見する。松平家時代の藩政史料は福井県文書館に寄託されており、おそらく本多家をはじめとする重臣の系譜が閲覧できる(訪問したことはない)。各藩関係についてはそれぞれの地元で調査可能だと思われる。

◆武田(若狭)家
もともと鎌倉期には安芸の分郡守護家(広島県のページ参照)であった。室町期になって武田信栄の没後、若狭守護職を継承した信賢・国信が拠点を移し、安芸の所領は弟の元綱に譲ったので、嫡流ながら信栄以降のみを若狭守護家として本ページに掲載した。元明は守護の地位を失い流転を余儀なくされ、1582年に羽柴(のち豊臣)秀吉の指示を受けた丹羽長秀に滅ぼされた。

◆朝倉家
但馬の朝倉家の一族であり、南北朝期から斯波家に随従して越前足羽郡に移転、比較的早い時期から一乗谷へ本拠を移している(誰が当主のときか不明)。古い事典類には、応仁の乱の最中、1471年に孝景(一世)が越前守護に補任されたかのように記載されているが、実は東幕府から守護と同等の権限を与えられたものである。その後も形式上の守護は斯波家のままであったが、貞景のとき斯波義寛による幕府への提訴に勝訴して、公式にも朝倉家が事実上の国主としての地位を確立した。孝景(二世)は1543年に室町幕府から事実上の守護の格式を与えられているが、1573年に義景が織田信長に滅ぼされるまでの間、ついに正式な守護には任命されなかった。

◆越前国主・北庄城主
柴田勝家から松平忠直まで、歴代の北庄城主一覧。堀家・青木家時代は越前一国の主ではなかったが、つなげて掲載した。

◆若狭国主・小浜藩
丹羽長秀以降、明治維新に至るまでの小浜城主を歴代表にした。木下利房のみは高浜城主であったが、小浜藩主であった兄・勝俊の分家の位置にあったので、勝俊と併せて掲げた。酒井家時代の小浜藩は譜代大名であるため「若狭国主」ではなかったが、実質的には若狭国全体を所領として一円統治していた。

◆福井藩=松平家
いわゆる「越前松平家」であるが、前述の通り松平忠直までは越前国主の項目に掲げ、ここでは松平忠昌以降の藩主歴代を掲載した。

◆越前府中領/武生藩=本多家
本多富正は結城秀康の家老であり、松平忠直が失脚した後には忠昌に附属され、江戸期を通じて国老を務めて越前府中城主を世襲し、御三家の家老に次ぐ家格であった。明治になり、廃藩置県の
後に騒動が起こり、「武生藩」として追認される。その経緯は以前のエントリーを参照。

2020年9月 9日 (水)

「石川行きは君の、意思かは...」「能登は、ノーと、言ったんです(-_-;」

【史料好きの倉庫(17)】

今回は「石川県(加能)の主要大名」の解説である。

学生時代から旅行や他の用事で、数回は来県した。いずれも金沢城下町または能登半島が中心。直近では2005年、亡き母に同伴して兼六園(画像)や武家屋敷を散策し、バスで輪島まで足を延ばしている。

加賀も能登も中央政局とのつながりが強かったため、戦国中期までの各氏族の系譜は、地元や中央(京都など)の同時代史料に散見する。前田家が入部した後の、地元・能登の豪族だった長家なども含めた、加賀藩の家臣団(人持組以上)の系図は、金沢市立図書館の「加越能文庫」に所蔵されており、ここで閲覧することができる。

Memorial_kenrokuen

◆冨樫家
加賀を代表する名族で、南北朝期から室町期に守護職を世襲。一般的には1488年、冨樫政親が本願寺門徒(「一向一揆」)に敗れて滅亡し、加賀は名実ともに「百姓の持ちたる国」となったかのように誤解する向きもあるが、実は門徒の勢力下にありながらも、冨樫家は形式的な守護として存続した。戦国末期、晴貞・泰俊兄弟が相次いで野々市城主になりながら、その地位を保てず滅亡に追い込まれ、終焉を迎えている。

◆長(ちょう)家
鎌倉期以来、能登の豪族として地元に根を張り、南北朝期以降は鳳至郡穴水城を拠点として勢力を張った。長綱連は上杉輝虎(=謙信)の攻撃を受け敗亡。生き残った連竜は織田信長を頼り、のち信長の後援を受けて家を再興、鹿島半郡を領知して田鶴浜に居所を置き、信長没後は前田利家に仕えてその重臣となった。1671年に連頼が没すると、藩主・前田綱紀は長家の鹿島半郡の一円支配を終了させ、後嗣の尚連には他の重臣と同様、加賀・能登・越中三国に所領を分散させた。加賀藩の八家年寄の一であり、高連以降も33,000石の高禄であったため、当主名と官位のみ掲載した。

◆遊佐家
もとは河内の出身。能登畠山家の守護代を継承する名族であったが、戦国末に上杉方に加担した続光・盛光までの系譜は、つながっているようで実は途中が詳らかではない。新たな史料の発見が期待される。

◆加賀藩=前田家
説明するまでもなく、前田利家を藩祖とする江戸期第一の大藩である。官位は御三家に次ぎ、家老のうち四人までが受領の官位を与えられる(ちなみに、尾張・紀伊徳川家は六人、水戸徳川家は五人)特典も有していた。幕府に近過ぎたことが影響し、幕末維新期には失速して重要な役割を果たせずに終わる。

◆七尾領→前田(土佐守)家
七尾前田家は、大名としては前田利政(利家二男)の一代であり、関が原の戦後に所領を没収されて終わった。子孫は加賀藩の八家年寄の一として一万石余の知行を保有したため、当主名と官位のみ掲載した。

◆加賀藩年寄・本多家
本多家は加賀前田家の重臣であって大名ではなく、藩内に陣屋や要害を置いて拠点にした履歴もないが、大名家の陪臣のうち最高である5万石を知行し、八家年寄の一として存続したため、当主名と官位のみ掲載した。
なお、加賀藩では地方に封臣の拠点を置かない分散知行制度を採用したため、一万石以上かつ最高家格の年寄であっても、横山・前田対馬守・村井・奥村・奥村支家の五家は、本表に掲載しなかった。

2020年9月 6日 (日)

「富山の旅は、どや?ま...んぞくか?」「魚津で、ウオッス!と乾杯(^^*」

【史料好きの倉庫(16)】

今回は「富山県(越中)の主要大名」の解説である。

旅行や研修などで計四回ほど訪れたことがある。富山や高岡の城址へ出向き、特に後者は尊敬する福者・ジュスト高山右近ゆかりの史跡を巡りながら、その遺徳を偲んだ。残念ながら松倉などの古城跡へは行かず、魚津には美味しい海産物を賞味しに行っただけであるが...

富山県の諸豪族は越中(本拠は河内)の畠山家の被官として成長し、後には越後から西進する長尾→上杉家に対して去就を迫られた。神保家や椎名家などに関する記録は各地の文献資料に登場するが、系譜の前後が明瞭でない箇所もあり、今後の研究が待たれる。県公文書館には戦国期の寺社関係の史料が収蔵されており、直接ではないが、大名豪族の系譜をたどる一助になると推察される(未訪問)。

◆神保家
富山(一時・増山)の神保家が主流であり、越中守護代として戦国期に一定の勢力を保ったが、上杉方の諸将に富山城を落とされて没落した。守山の神保家は別流であったが、豊臣時代には佐々成政に随従して肥後へ赴き、のち徳川家に仕官して旗本となったので、後世の伝記にはこちらが主流であったかのような作為がなされている。本表では両者を分別して記載した。

◆富山藩=前田家
江戸期の越中では唯一の大名。加賀前田家の分家であり、宗家からの統制・監視を受けながら明治まで存続した。厳密な意味での独立大名ではなかったが、売薬を藩の一大産業に成長させ栄えたことにより、全国的な知名度は高い。

2020年9月 2日 (水)

「新潟の水は、に~がかった...」「越後のイチゴは、甘いぞ!(^^;」

【史料好きの倉庫(15)】

今回は「新潟県の主要大名」の解説である。

若いころから、一度は行きたいと思いながらも、あまりご縁のない土地であった。本格的な旅行をしたのは30代はじめ。数日かけて、春日山城跡(画像。右下の写真は直江兼続邸があった場所)から高田・長岡・新発田などの近世城下町、良寛ゆかりの出雲崎などを周遊している。他にはもう一回、南東北へ出向いたついでに県境を跨いだ程度。佐渡へ行ったことはない。

新潟県、特に越後では古くからの豪族が割拠しており、それを統一したのが戦国期の長尾家、のちに関東管領家の名跡を継いだ上杉家である。その上杉家は豊臣時代に会津、江戸期には米沢へ転封され、臣属していた諸豪族も多くは随伴して米沢へ移り、明治まで存続している。そのため、越後地方の大族の系譜には米沢の上杉文庫に収納されているものが多く、そちらで調べるのが便利である。戦国期までに没落した豪族や、佐渡の本間一族などの系譜は、それぞれ現地に残されている史料をたどることになるが、不明瞭な部分も少なくない。県立図書館を訪れたことはないが、古文書よりも活字史料としてまとめられたものが主体だと聞いている。各藩関係の系譜は新発田・長岡・上越など現地で調べるのが良い。

Kasugayama

◆本間家
もとは佐渡を代表する武士であり、鎌倉後期には北条一門・大仏(おさらぎ)家の守護代であった。室町期以降に数家に分岐して島内に分立し、河原田と羽茂の二家が有力で、両者を軸に本間諸家が離合集散を繰り返していた。1589年に上杉景勝の侵攻を招き、一族の大部分が滅亡した。

◆府内上杉家
山内上杉家(本拠は上野国)の庶流。越後守護を世襲したが、後年は守護代の長尾家に掣肘され、形式上の守護に甘んじた。1550年、定実の没後は後嗣がなく、越後の国主の座は長尾家に引き継がれる。

◆長尾家→春日山上杉家
府内上杉家に仕えた弟系の長尾家。代を重ねて主家を凌駕した。輝虎(=謙信)は上杉定実の没後、事実上の越後国主(会津領であった東蒲原郡を除く)となり、さらに上杉嫡流である憲政の譲りを受けて、上杉の名跡を継承した。景勝のとき会津、のち米沢へ転封。

◆毛利(北条・安田)家
長州藩主・毛利家と同祖であり、越後の国衆となったこちらの毛利家が嫡流(兄系)である。北条(きたじょう)と安田の二流に分かれ、北条家は上杉輝虎・景勝に背反して所領を失ったが、安田家は春日山上杉家の与党として家臣化、景勝に随伴して米沢へ移転し、明治まで存続している。

◆直江家
与板城主。長尾家の被官として戦国中期から歴史に登場。兼続が上杉景勝の補佐役として活躍し、会津→米沢へ移転したが、兼続の死後は後嗣がなく、妻の船(せん)が上杉定勝の養育係となり扶持を受けており、1637年に没して絶家となった。

◆椎谷藩=堀(奥田)家
初代・堀直之は5,500石の椎谷領主であったが、1633年に没した時点では、まだ「一万石以上が大名、未満が旗本」の明確な線引き(1635年)が行われておらず、苅谷→八幡(千葉県のページ参照)を経て10,000石となり、直宥のとき椎谷へ復帰しているため、直之から歴代表に掲載した。

◆糸魚川藩/清崎藩
松平(越前)家が糸魚川藩主になったのは1717年、直之以降であるが、直堅の代、1677年に幕府から蔵米10,000俵を与えられて大名格となっていたため、そこを起点として歴代表を記載した。

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