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2020年9月16日 (水)

「山梨の人は、病(やまい)無し?」「甲府で厄払い、交付だ(^^)v」

【史料好きの倉庫(19)】

今回は「山梨県(甲斐)の主要大名」の解説である。

幼少時から学生時代まで、自然観光やレジャーで何度か赴いた。社会人になってからは研修で一度行っただけで、そのときに甲府を(城跡ではなく城下町を漠然と)回った記憶がある。近世には他に城が置かれなかったこともあり、古い町並みなどは隣県でありながら訪問したことがない。

甲斐の守護→戦国大名であった武田家をはじめ、大族であった小山田家や穴山家も、戦国末までに滅びてしまった。一部の豪族や武田家臣は徳川家に仕え、旗本として存続するが、多くは地元の同時代史料を軸に系譜をたどっていくしかない。県立博物館(未訪問)所蔵の甲州文庫は、近世史料が大部分であると聞いている。

◆武田家
鎌倉期から甲斐第一の大族として続き、室町期には守護として国中(くになか)地方を中心に国内一帯に勢力を広げ、戦国期の晴信(信玄)は信濃・駿河・上野にも勢力を拡大したが、勝頼に代替わりした後、1582年に至って織田信長に滅ぼされた。当主継承の時期は未詳だが、形式上、最後の当主は信勝であったと推察されるので、ここまでを歴代表に掲載した。

◆穴山家
南北朝期に分かれた武田家の庶流(実際には、恐らくすでに存在していた穴山家に養子入りするなどして、系譜を継いだと考えられる)で、河内(かわうち)地方に拠った。信君(梅雪)は武田勝頼から離反して徳川家康の与力大名になったが、本能寺の変の後に横死し、信治が家康の庇護のもとに武田を称して再興するものの、夭折して血統は断絶した。家康の五男・信吉が系図を継承したが、病弱であり、江戸初期に水戸領主となった後に夭折している。

◆小山田家
室町期から史料に見える氏族で、郡内に拠っていた。越中守信有のとき谷村城を築き、孫の信茂は武田家に所属して武名を上げたが、勝頼に背反したことを織田信長から断罪され、処刑されて滅亡した。前半期の系譜には親と子の実名や法名が混同されるなど、不明瞭な部分も多い。

◆甲斐府中藩
関が原の戦後1601年、平岩親吉が甲府に入封したが、1603年からは徳川家康の九男・義直の城代となり国政を沙汰、07年には義直が名古屋へ転封されたので、親吉はそのまま附家老として犬山城主へ転出した。以後、甲府藩には断続的に徳川一門が封じられたが、1704年に徳川綱豊が家宣と改名して将軍綱吉の世子になると、綱吉の官房長官的な役割を果たした大老格側用人・柳沢吉保(武田一族)が甲府に封じられ、事実上「国持大名」に等しい扱いを受けた。後継の吉里は1724年、郡山(大和)へ転封となり、甲府は幕府直轄領として勤番支配となったため、これ以降、甲斐国には藩が置かれなかった。

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