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2020年9月13日 (日)

「福井まで、腹囲測りに行くか」「嶺北でカ...レーを食...うほうが(^^;」

【史料好きの倉庫(18)】

今回は「福井県の主要大名」の解説である。

30代のはじめ、旧勤務先の職員旅行で福井・越前海岸・武生を訪れたのが最初。その後もう一度、他地へ行った帰路、丸岡城に立ち寄っている。残念ながら若狭へは行ったことがない。

中世の越前・若狭の各氏族は、そのほとんどが織田~豊臣政権期までに滅びてしまったが、系譜類は「朝倉始末記」等の史料に散見する。松平家時代の藩政史料は福井県文書館に寄託されており、おそらく本多家をはじめとする重臣の系譜が閲覧できる(訪問したことはない)。各藩関係についてはそれぞれの地元で調査可能だと思われる。

◆武田(若狭)家
もともと鎌倉期には安芸の分郡守護家(広島県のページ参照)であった。室町期になって武田信栄の没後、若狭守護職を継承した信賢・国信が拠点を移し、安芸の所領は弟の元綱に譲ったので、嫡流ながら信栄以降のみを若狭守護家として本ページに掲載した。元明は守護の地位を失い流転を余儀なくされ、1582年に羽柴(のち豊臣)秀吉の指示を受けた丹羽長秀に滅ぼされた。

◆朝倉家
但馬の朝倉家の一族であり、南北朝期から斯波家に随従して越前足羽郡に移転、比較的早い時期から一乗谷へ本拠を移している(誰が当主のときか不明)。古い事典類には、応仁の乱の最中、1471年に孝景(一世)が越前守護に補任されたかのように記載されているが、実は東幕府から守護と同等の権限を与えられたものである。その後も形式上の守護は斯波家のままであったが、貞景のとき斯波義寛による幕府への提訴に勝訴して、公式にも朝倉家が事実上の国主としての地位を確立した。孝景(二世)は1543年に室町幕府から事実上の守護の格式を与えられているが、1573年に義景が織田信長に滅ぼされるまでの間、ついに正式な守護には任命されなかった。

◆越前国主・北庄城主
柴田勝家から松平忠直まで、歴代の北庄城主一覧。堀家・青木家時代は越前一国の主ではなかったが、つなげて掲載した。

◆若狭国主・小浜藩
丹羽長秀以降、明治維新に至るまでの小浜城主を歴代表にした。木下利房のみは高浜城主であったが、小浜藩主であった兄・勝俊の分家の位置にあったので、勝俊と併せて掲げた。酒井家時代の小浜藩は譜代大名であるため「若狭国主」ではなかったが、実質的には若狭国全体を所領として一円統治していた。

◆福井藩=松平家
いわゆる「越前松平家」であるが、前述の通り松平忠直までは越前国主の項目に掲げ、ここでは松平忠昌以降の藩主歴代を掲載した。

◆越前府中領/武生藩=本多家
本多富正は結城秀康の家老であり、松平忠直が失脚した後には忠昌に附属され、江戸期を通じて国老を務めて越前府中城主を世襲し、御三家の家老に次ぐ家格であった。明治になり、廃藩置県の
後に騒動が起こり、「武生藩」として追認される。その経緯は以前のエントリーを参照。

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