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2020年9月 9日 (水)

「石川行きは君の、意思かは...」「能登は、ノーと、言ったんです(-_-;」

【史料好きの倉庫(17)】

今回は「石川県(加能)の主要大名」の解説である。

学生時代から旅行や他の用事で、数回は来県した。いずれも金沢城下町または能登半島が中心。直近では2005年、亡き母に同伴して兼六園(画像)や武家屋敷を散策し、バスで輪島まで足を延ばしている。

加賀も能登も中央政局とのつながりが強かったため、戦国中期までの各氏族の系譜は、地元や中央(京都など)の同時代史料に散見する。前田家が入部した後の、地元・能登の豪族だった長家なども含めた、加賀藩の家臣団(人持組以上)の系図は、金沢市立図書館の「加越能文庫」に所蔵されており、ここで閲覧することができる。

Memorial_kenrokuen

◆冨樫家
加賀を代表する名族で、南北朝期から室町期に守護職を世襲。一般的には1488年、冨樫政親が本願寺門徒(「一向一揆」)に敗れて滅亡し、加賀は名実ともに「百姓の持ちたる国」となったかのように誤解する向きもあるが、実は門徒の勢力下にありながらも、冨樫家は形式的な守護として存続した。戦国末期、晴貞・泰俊兄弟が相次いで野々市城主になりながら、その地位を保てず滅亡に追い込まれ、終焉を迎えている。

◆長(ちょう)家
鎌倉期以来、能登の豪族として地元に根を張り、南北朝期以降は鳳至郡穴水城を拠点として勢力を張った。長綱連は上杉輝虎(=謙信)の攻撃を受け敗亡。生き残った連竜は織田信長を頼り、のち信長の後援を受けて家を再興、鹿島半郡を領知して田鶴浜に居所を置き、信長没後は前田利家に仕えてその重臣となった。1671年に連頼が没すると、藩主・前田綱紀は長家の鹿島半郡の一円支配を終了させ、後嗣の尚連には他の重臣と同様、加賀・能登・越中三国に所領を分散させた。加賀藩の八家年寄の一であり、高連以降も33,000石の高禄であったため、当主名と官位のみ掲載した。

◆遊佐家
もとは河内の出身。能登畠山家の守護代を継承する名族であったが、戦国末に上杉方に加担した続光・盛光までの系譜は、つながっているようで実は途中が詳らかではない。新たな史料の発見が期待される。

◆加賀藩=前田家
説明するまでもなく、前田利家を藩祖とする江戸期第一の大藩である。官位は御三家に次ぎ、家老のうち四人までが受領の官位を与えられる(ちなみに、尾張・紀伊徳川家は六人、水戸徳川家は五人)特典も有していた。幕府に近過ぎたことが影響し、幕末維新期には失速して重要な役割を果たせずに終わる。

◆七尾領→前田(土佐守)家
七尾前田家は、大名としては前田利政(利家二男)の一代であり、関が原の戦後に所領を没収されて終わった。子孫は加賀藩の八家年寄の一として一万石余の知行を保有したため、当主名と官位のみ掲載した。

◆加賀藩年寄・本多家
本多家は加賀前田家の重臣であって大名ではなく、藩内に陣屋や要害を置いて拠点にした履歴もないが、大名家の陪臣のうち最高である5万石を知行し、八家年寄の一として存続したため、当主名と官位のみ掲載した。
なお、加賀藩では地方に封臣の拠点を置かない分散知行制度を採用したため、一万石以上かつ最高家格の年寄であっても、横山・前田対馬守・村井・奥村・奥村支家の五家は、本表に掲載しなかった。

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