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2020年9月 2日 (水)

「新潟の水は、に~がかった...」「越後のイチゴは、甘いぞ!(^^;」

【史料好きの倉庫(15)】

今回は「新潟県の主要大名」の解説である。

若いころから、一度は行きたいと思いながらも、あまりご縁のない土地であった。本格的な旅行をしたのは30代はじめ。数日かけて、春日山城跡(画像。右下の写真は直江兼続邸があった場所)から高田・長岡・新発田などの近世城下町、良寛ゆかりの出雲崎などを周遊している。他にはもう一回、南東北へ出向いたついでに県境を跨いだ程度。佐渡へ行ったことはない。

新潟県、特に越後では古くからの豪族が割拠しており、それを統一したのが戦国期の長尾家、のちに関東管領家の名跡を継いだ上杉家である。その上杉家は豊臣時代に会津、江戸期には米沢へ転封され、臣属していた諸豪族も多くは随伴して米沢へ移り、明治まで存続している。そのため、越後地方の大族の系譜には米沢の上杉文庫に収納されているものが多く、そちらで調べるのが便利である。戦国期までに没落した豪族や、佐渡の本間一族などの系譜は、それぞれ現地に残されている史料をたどることになるが、不明瞭な部分も少なくない。県立図書館を訪れたことはないが、古文書よりも活字史料としてまとめられたものが主体だと聞いている。各藩関係の系譜は新発田・長岡・上越など現地で調べるのが良い。

Kasugayama

◆本間家
もとは佐渡を代表する武士であり、鎌倉後期には北条一門・大仏(おさらぎ)家の守護代であった。室町期以降に数家に分岐して島内に分立し、河原田と羽茂の二家が有力で、両者を軸に本間諸家が離合集散を繰り返していた。1589年に上杉景勝の侵攻を招き、一族の大部分が滅亡した。

◆府内上杉家
山内上杉家(本拠は上野国)の庶流。越後守護を世襲したが、後年は守護代の長尾家に掣肘され、形式上の守護に甘んじた。1550年、定実の没後は後嗣がなく、越後の国主の座は長尾家に引き継がれる。

◆長尾家→春日山上杉家
府内上杉家に仕えた弟系の長尾家。代を重ねて主家を凌駕した。輝虎(=謙信)は上杉定実の没後、事実上の越後国主(会津領であった東蒲原郡を除く)となり、さらに上杉嫡流である憲政の譲りを受けて、上杉の名跡を継承した。景勝のとき会津、のち米沢へ転封。

◆毛利(北条・安田)家
長州藩主・毛利家と同祖であり、越後の国衆となったこちらの毛利家が嫡流(兄系)である。北条(きたじょう)と安田の二流に分かれ、北条家は上杉輝虎・景勝に背反して所領を失ったが、安田家は春日山上杉家の与党として家臣化、景勝に随伴して米沢へ移転し、明治まで存続している。

◆直江家
与板城主。長尾家の被官として戦国中期から歴史に登場。兼続が上杉景勝の補佐役として活躍し、会津→米沢へ移転したが、兼続の死後は後嗣がなく、妻の船(せん)が上杉定勝の養育係となり扶持を受けており、1637年に没して絶家となった。

◆椎谷藩=堀(奥田)家
初代・堀直之は5,500石の椎谷領主であったが、1633年に没した時点では、まだ「一万石以上が大名、未満が旗本」の明確な線引き(1635年)が行われておらず、苅谷→八幡(千葉県のページ参照)を経て10,000石となり、直宥のとき椎谷へ復帰しているため、直之から歴代表に掲載した。

◆糸魚川藩/清崎藩
松平(越前)家が糸魚川藩主になったのは1717年、直之以降であるが、直堅の代、1677年に幕府から蔵米10,000俵を与えられて大名格となっていたため、そこを起点として歴代表を記載した。

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