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2020年9月 6日 (日)

「富山の旅は、どや?ま...んぞくか?」「魚津で、ウオッス!と乾杯(^^*」

【史料好きの倉庫(16)】

今回は「富山県(越中)の主要大名」の解説である。

旅行や研修などで計四回ほど訪れたことがある。富山や高岡の城址へ出向き、特に後者は尊敬する福者・ジュスト高山右近ゆかりの史跡を巡りながら、その遺徳を偲んだ。残念ながら松倉などの古城跡へは行かず、魚津には美味しい海産物を賞味しに行っただけであるが...

富山県の諸豪族は越中(本拠は河内)の畠山家の被官として成長し、後には越後から西進する長尾→上杉家に対して去就を迫られた。神保家や椎名家などに関する記録は各地の文献資料に登場するが、系譜の前後が明瞭でない箇所もあり、今後の研究が待たれる。県公文書館には戦国期の寺社関係の史料が収蔵されており、直接ではないが、大名豪族の系譜をたどる一助になると推察される(未訪問)。

◆神保家
富山(一時・増山)の神保家が主流であり、越中守護代として戦国期に一定の勢力を保ったが、上杉方の諸将に富山城を落とされて没落した。守山の神保家は別流であったが、豊臣時代には佐々成政に随従して肥後へ赴き、のち徳川家に仕官して旗本となったので、後世の伝記にはこちらが主流であったかのような作為がなされている。本表では両者を分別して記載した。

◆富山藩=前田家
江戸期の越中では唯一の大名。加賀前田家の分家であり、宗家からの統制・監視を受けながら明治まで存続した。厳密な意味での独立大名ではなかったが、売薬を藩の一大産業に成長させ栄えたことにより、全国的な知名度は高い。

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