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2020年9月20日 (日)

「長野の土地は、名がのぉ...」「飯田とかこれで、いいだ...」

【史料好きの倉庫(20)】

今回は「長野県(信州)の主要大名」の解説である。

当県の隣県なので、過去いろいろ合わせれば十回程度は出掛けている。最近では1995年に日本社会福祉士会の全国大会でパネリストとして長野まで、96年に旧勤務先の職員旅行で奈良井・木曽福島まで(画像)、2004年にはプライベートな掲示板仲間のオフ会のため安曇野まで出掛けた。城下町の散策経験も、浜松と隣接する飯田をはじめ、高遠、松代、松本、諏訪、上田、小諸と数多い。いちばん短い滞在は確か90年代の終わりごろ、車で水窪町(いまは浜松市天竜区)と南信濃町(いまは飯田市)との境目まで行き、県境の兵越峠の辺りを数分間行ったり来たりしただけで、浜松へ引き返している。

室町~戦国期の大名・豪族は、大名や旗本として信州に残ったものや、徳川家や上杉家に随従して他地へ移転したものがあり、いずれも系譜は残されているが、中世までの記述には粉飾が少なくない。地元大名では「真田家文書(真田宝物館所蔵。未見)」や「諏訪史料叢書(国立国会図書館所蔵。未見)」等があるが、古い時期の内容は考証が必要になる。長野県立図書館や各基礎自治体の図書館へ出向いたことはないが、近世史料が大部分だと聞いている。

Kiso

◆小笠原家
信濃随一の名族であったが、鎌倉期には阿波の守護であり、南北朝期に本貫である信濃の守護になった。室町期に長基が没した後、府中(長秀→持長→清宗→長朝)・松尾(政康→光康→家長→定基)・鈴岡(宗康→政秀)の三系に分裂し、1493年に鈴岡の政秀が松尾の定基に滅ぼされると、府中小笠原と松尾小笠原との並立時代となった。のち前者は長棟のとき武田晴信(=信玄)に駆逐されて放浪し、後者は信貴のとき武田家に屈服して被官になったが、武田家滅亡後はいずれも徳川家康に従属、前者は豊前小倉藩主の家系、後者は越前勝山藩主の家系につながっている。

◆諏訪家
古代からの諏訪大社の大祝(おおはふり)家であり、平安朝後期の頼信が信濃権守に任じられたころから武士化した。戦国期の頼重が武田晴信(=信玄)に滅ぼされ、武田家滅亡後に伊豆守系の頼忠が家を再興、徳川家康に随従して一時関東へ転封されるが、関が原の戦後諏訪へ復帰し、以後は諏訪藩主を代々継承した。政教分離したことにより、
大祝家は諏訪一族の別系統が世襲した。

◆木曽家
古来、木曽義仲の子孫とされてきたが、実際には藤原氏であったと推測され、戦国期に入るころから義仲を先祖として仮託したものである。義康のとき武田晴信(=信玄)の被官となったが、義昌は武田勝頼に背反して織田家、のち徳川家康に随従、関東移封に伴って広大な山林資源を失い、義利は粗暴を理由に改易されて終焉を迎えた。

◆依田(芦田)家
佐久郡の豪族で、もとは依田を名字とし、戦国期に芦田を称した。信蕃が武田家に随従したころからもとの依田に戻し、康国は徳川家康の家臣となって松平の称を与えられ、康寛(康真)は私闘で人を殺して出奔したことから、松平を返上して加藤を称し、結城秀康(家康の二男)の庇護を受けた。このような経過により一代ごとに名乗りが変転したが、次代の吉賢が芦田の名字で福井松平家(秀康の子孫)の正式な重臣となり、ようやく家運が安定した。

◆真田家→松代藩
伝えられた系図類では、海野一族の庶流で、真田幸隆が海野棟隆・幸義父子の後を継承したとされているが、状況が定かではなく、簒奪の可能性も否定できない。昌幸のとき上田から上野沼田にかけての地域を領有、関が原の戦で昌幸が失脚すると、信之が沼田・上田を併せ領した。1616年に沼田が分邦となり(後代に断絶)、1622年に信之(本家側)は松代へ転封され、そのまま動かずにここで明治維新を迎えた。

◆川中島藩・高井野藩
藩名に混同が生じている部分があり、整理すると以下の通り。(a)1616年に松平忠昌が松代城へ入封し、川中島方面の大部分を領知。19年に越後高田へ転じ、代わって高田から酒井忠勝が松代に入封。22年に出羽庄内へ転封し、代わって上田から真田信之が入封。(b)1616年、失領していた岩城貞隆が川中島領高井郡内の一部を与えられ、大名に復帰。20年に岩城吉隆が相続し、22年に加増を受け、23年には出羽亀田へ転封。(c)1619年、広島城の無断修築を理由に安芸・備後両国を没収された福島正則が、川中島近傍の高井野に左遷され、24年に正利が相続するも微禄に減知され、37年に没して絶家。本表では、(a)(b)を川中島藩(厳密には(a)を松代藩に含めるべきかも知れないが、江戸初期は北信四郡を川中島と通称しており、また(b)岩城領との境界も明瞭でないことから、川中島藩とした)、(c)を高井野藩として記載した。

◆佐久郡内水野領
1725年、松本藩主・水野忠恒が「乱心」のため改易された後、叔父の忠穀は幕府から佐久郡内で7,000石を給せられ、家系を継ぐことを許され、68年、忠友のとき加増されて大名に復帰し、77年には駿河沼津へ転封された。大名でなかった忠穀は掲載する対象ではないが、この項目を設けておかないと、忠恒から二代後の忠友までがつながらないので、あえて掲載した。

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